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第4話 2月5日 開封指定日

 それにしても、千紗姉ちゃんの、今夜の突然の訪問の理由がわからなかった。


 おれは、嫌あな予感にとらわれながら、当の本人の様子をそっとうかがった。だが、千紗姉ちゃんは、こたつに足をつっこみ、虚空の一点を見つめるかのように視線をどこかあらぬ方向にむけぼーっとして、身体をじっとさせたままでいる。ひどく酔っぱらって意識がぼんやりしているらしかった。おれとソフィアがすぐそばにいるというのに、二人の存在はまったく無視されていた。


 こんなに酔っぱらっている千紗姉ちゃんの姿を見たのは、初めてだった。千紗姉ちゃんは、確か酒にはかなり強い方だったとおれは記憶している。それがここまで酔っているということは、アパートに来るまでに相当の酒量を重ねてきたのだろう……。


 ロシア人少女・ソフィアと二人きりという状況が、千紗姉ちゃんという珍客の来訪により打開されたのは喜ばしいことだったが、当の千紗姉ちゃんの様子が普段とまったく違うことにおれは困惑した。


 ――あのプライドが高く、おれの前では常に高圧的な態度を崩さなかった千紗姉ちゃんが、今は無防備に酔った赤ら顔をさらして座り込んでいる……。


 三人の間には、沈黙が広がっていた。


「ええっと、あの」


 おれはとりあえず何か口にしなければという思いにかられながら、ソフィアと千紗姉ちゃんの顔を見比べた。


「ソフィアさん、この人は、おれのいとこの千紗(ちさ)姉ちゃん――本田千紗です」


 とりあえず、おれはソフィアに千紗姉ちゃんを紹介した。


「あ、はじめまして。私はソフィア・ウラジーミラヴナ・リピンスカヤと申します」


 ソフィアは微笑みながら千紗姉ちゃんの方を向き、自分の名前を述べた。

 それに対し、千紗姉ちゃんは、無言のまま何も反応しなかった。どうやら相手の言葉が耳に入っていないらしい。


 ――これは、ちょっと酔っているどころか、かなりの『泥酔(でいすい)』じゃないのか?


 おれは不安になって、かたわらのいとこの真っ赤な顔を注視した。


「寝る」


 突然、千紗姉ちゃんは口を開いた。


「もう寝る」


 そう言うと、彼女はころりと畳の上にあお向けになり、こたつで眠る姿勢になった。スーツ姿のまま寝転がり両目を右腕で覆いながら、


「寝るから……」


と、ひとこと発したが、それに続く言葉はもうなかった。

 そうして横になったまま、微動だにしない千紗姉ちゃん。


「彼女、相当酔っているみたいで」


 おれは歪んだ苦笑を浮かべながらソフィアの方に姿勢を向け直した。

 ソフィアは千紗姉ちゃんという初対面の人間の酔っぱらった姿を、特に気にしていないようだった。相変わらず穏やかな表情をその顔にたたえていた。


 何の話をしてたんだっけ……。

 そうだった。

 ソ連だ。

 彼女は、自称、ソ連から来たスターリンの密使だったということを、おれは思い出した。

 思い出して、ため息をついた。

 千紗姉ちゃんがやって来たからといって、おれの置かれた状況は何も変わっていなかった。

 座って向かい合う、『ソ連』の少女とおれの間に、酔っ払いのいとこが一人増えてひっくり返っているというだけの構図。千紗姉ちゃんの出現はおれを全然救ってくれなった。


「同志ホンダ」


 小声でソフィアがおれにささやきかけてきた。


「さきほどのお話の続きですが」


 ひそひそ声のソフィア。ちらりと、視線を寝ている千紗姉ちゃんの方に向ける。


「この密書は、同志ホンダ、あなただけに開封してもらいたいのです」


 どうやら、ソフィアは千紗姉ちゃんにおれとの話を聞かれたくないらしい。上半身を、こたつごしにおれの方へそっと近づけてくる。


「密書ですので、その内容を第三者の目に触れさせるわけにはいかないのです」


 真剣なソフィアのまなざし。その声もいつしか硬いものになっていた。


「今は、このいとこの方が見えられているので――彼女がいなくなられてから、さらに詳しいお話を致します」


 そうしてソフィアは口をつぐんだ。沈黙が生じた。そこに、すーすーという、千紗姉ちゃんの軽い寝息が聞こえてくる。


「あのう……」


 今度はおれの方から口を開いた。


「正直言って、あなたの言うことが信じられません」


 まっすぐに、ソフィアの青い瞳を見つめてしゃべる。


「初めて会った見知らぬ外国の人から、『ソ連から来ました、スターリンの密書を持って』と言われても、普通、すぐに信じられるわけないでしょう?」


 おれはしごく真っ当な返答をした。


 彼女が現われた最初からいろいろな意味で圧倒され続けて、まともに言い返すことができなかったおれだが、ようやく、自分の言いたいことをはっきりと言えたと思った。

 すると、ソフィアは、表情をはっきりとこわばらせばがら、


「では、どうすれば信じていただけるのですか」


と低い声でささやき返してきた。


「そんなこと言われても……。証拠とかがあれば、別ですけど……」


「証拠ですか? 証拠は、この密書そのものです」


 手元に隠していた例の密書とやらを、再びソフィアは取り出してこたつの上に置いた。


「じゃあ、中を開けて見てもいいですか?」


 おれは少々いらだっていた。いつまでも、この外国人の少女と押し問答を続けていてもらちがあかない。彼女の話に、はやく白黒つけたくなっていた。


「ニェット」


 小さな声、しかし確固とした口調で言いながら、ソフィアは目の前の封筒を自分の右手で押さえた。


「先ほども申しましたが、こちらの方がいなくなってからです」


「じゃあ、千紗姉ちゃんがいなくなったら、すぐに開けますよ?」


「実は……それについてなのですが……」


 ソフィアは横になっている千紗姉ちゃんの方に再びちらりと視線を走らせた。そうして彼女はさらに小声になって言った。


「この密書の開封は、来月の、3月5日まで待って欲しいのです」


「えっ? すぐに開けては駄目なんですか」


「はい、ダメです」


「なぜ?」


「それは……我らが党の上部機関からの命令なのです」


「命令って?」


「命令……。ええ、私がモスクワで受けた命令の内容はこうです。 ――『最高指導者・同志スターリンが直々にしたためた書簡を、ニホン、トウキョウに住む同志ホンダ・マモルのもとへ秘密裏に届けよ。尚、その開封は3月5日を指定日とする。この指定日はかならずや厳守のこと』――以上です」

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