第39話 2月11日 エアメール
JR新宿駅から私鉄に乗り換えて、アパートへ戻った。
途中、私鉄のシートに座りながら、おれはソーニャにお願いした。
「ソーニャが、千紗姉ちゃんに対して、『今日からあなたは私の敵です』って言ったじゃん。あれ、千紗姉ちゃんが酔っ払ってからんだだけで、本当にソーニャを売り飛ばす気なんてないんだよ。冗談ーー質の悪い冗談なんだよ、だからあのことは忘れて、なるべく穏便に済ませてよ」
あのせまいアパ―トであと何週間も千紗姉ちゃんとソーニャの冷戦状態が続くかと思うと、胃に穴があく。おれは必死だった。
「わかってますよ」
ソーニャが微笑を浮かべる。
「チサさんは酔っ払って寂しくて、それで私にあんなふうにからんできたんだ、ということは重々承知してます。チサさんに対して怒りとか憎しみとかそんな負の感情はこれっぽっちも抱いていませんから安心してください」
それを聞いておれはほっとした。
「じゃあ、お願いだから、今までどおり接してくれる?」
「もちろんです」
という返答に、おれは大きな安堵の息を漏らした。
アパートのある町の駅に電車は着いた。
二人で家路を急ぐ。日は、もうだいぶ傾いてきた。路上の端にはまだ溶けていない雪が積もっている。天気予報はちかぢかまた大雪を警戒するようにと報道していたが、あんまり外出しないおれはその注意報を特に気にしていなかった。
並んで歩いているソーニャをみると、白い吐息を漏らしている。ロシア育ちといえども、寒いものは寒いんだな、と、おれはバカな考えを浮かべた。
おれに見られていることに気がついたソーニャが、「ん?」といった感じにこちらに目を合わせてきたのでおれは視線をすぐそらした。
そしてまた二人の間にいつものように沈黙。
どうも、根本的なところでおれにはコミュニケーション能力が不足していると、今回の小旅行で何度も痛感させられた。
特にこれといった会話もなく、二人はアパートに着いた。
いつもの習慣でおれは一階にある集合ポストの自分の部屋のポストを開けた。どうせくだらない広告のチラシしか入ってないだろうが。
だが、今日は違った。はがきが二枚入っていた。
はがきの表には、VIA AIRMAIL/PAR AVIONと青色と赤色で書かれていた。エアメールの意味はすぐわかったが、PAR AVIONとはなんだろうと見つめていたら、横かのぞき込んできたソーニャが、
「フランス語で、エアメールの意味です」
と、丁寧に教えてくれた。
ハガキには一見してわかるハデな外国の切手に、スタンプが押されており、それは「Fiji Islands」と表記されていた。達筆な英語でうちのアパートの住所が書かれている。
宛名は一枚は俺宛、もう一枚は千紗姉ちゃん宛になっていた。
その国際郵便のハガキを裏返すと、南太平洋の文字通り透き通るような青い海を背景にして、砂浜に二人の水着姿の男女が腕を組んで立っている姿がインクジェットプリンターで印刷されている。ナカナカのイケメンとすごい美女の二人。そしてサインペンでこう書いてあった。
ーー私達、結婚します!
へー、おめでたい話だけど、この二人は誰だと思ってかたわらのソーニャにわかるか聞いてみたら、
「男性は誰だかわかりませんが、女性はほら、例の国税局の・・・」
そこまで言われてはっと気がついた。眼鏡を外して裸眼にしているからわからなかったが、香川万里恵さんその人だった。眼鏡をかけてても美人だと思っていたが、コンタクト? にすると、はるかに美人なのに驚かされた。
今は日本は冬だけど、南太平洋は常夏なんだねえ、と、ソーニャとやりとりしてアパートの二階に上がり一番奥の部屋203号室のドアを開けると、
「おかえりなさ〜い」
と、いつもの千紗姉ちゃんの酔っ払った声が迎えてくれた。
おれとソーニャと二人で室内に入り、おれは「千紗姉ちゃん、香川万里恵さんという人からエアメールだよ」と自然にハガキを一枚手渡した。一応、おれと香川万里恵さんは面識がないように気をつけて振る舞って。
よいしょとこたつに腰を下ろして、両手をこたつの中に入れる。赤外線が暖かい。
ソーニャも腰を下ろした。
ハガキを受け取った千紗姉ちゃんが、ぼんやりとした眼で写真の二人を見ている。
「ねえ、守、ライター持ってる」
「え? おれタバコ吸わないの知ってるでしょ。ライターなんか持ってないよ」
「じゃあ、台所のチャッカマン持ってきて」
千紗姉ちゃんが小声で言う。なんでチャッカマンが必要なのかおれにはわからなかったが、とりあえず台所に取りに行って、千紗姉ちゃんに手渡す。
「守。守がもらったエアメールもちょうだい」
静かな声だった。おれは言われたとおりにハガキを千紗姉ちゃんに渡した。
すると。
次の瞬間。
千紗姉ちゃんはいきなりチャッカマンでハガキに火をつけてコタツの上で燃やし始めた。
「うわ、千紗姉ちゃんなにしてんの! 火事になっちゃうよ!」
二枚のハガキはすでに半分近くが燃え尽きていた。ソーニャが急いで消火用の水を取りに台所に向かう。
だが間に合わなかった。ソーニャが鍋に水を入れて戻ってきた時には、すでにエアメールは二枚とも灰になっていた。灰だけが、コタツの上に散らかっていた。
とうの千紗姉ちゃんはというと、なにかニヤニヤした表情をして、背中をコタツで丸めていた。
そしてつぶやいた。
「貸借対照表を眺めることだけが趣味の女だと思っていたけど、なかなかエグい事やってくれるじゃない。さすが私のただ一人の親友だけあるわ」
そうして、クククと肩を震わせて笑ったのだった。