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第36話 2月11日 北鎌倉駅

 ソーニャは慰霊碑から視線をそらし、今までの厳しい表情を和らげると、


「ベンチに腰掛けて少し休みましょう」


と言ってきた。

 おれはそれに同意して、ベンチまで二人は戻り、腰を下ろした。

 

 ――沈黙が、両者の間に生じた。ただそれは気まずい雰囲気の沈黙ではなかった。お互いが自分の心の中で考え事をしていたためのものだったから。


 沈黙を続けているソーニャは、きっと今、戦争体験の記憶を蘇らせているはずだ。

 ソーニャは前の戦争――独ソ戦でどんな体験をしたのだろう? まだ1941~45年の間では幼い子供だったはずだ。子供時代に味わった苛烈だったであろう経験――について尋ねてみたかったが、人の心の中に土足で踏み込むようで、おれは聞くに聞けなかった。

 

 一方おれは、おれが生まれるはるか数十年前に亡くなった祖父について考えていた。おそらく、太平洋のどこかの孤島か、中国大陸の戦線で戦死しただろう、おのが祖父について。おれをかわいがってくれたおばあちゃんも、うちの両親も、千紗姉ちゃんも、祖父の死について詳しいことはほとんど何も話してくれなかった事にいまさら気がついた。ちょうど今度おばあちゃんの十三回忌で田舎に帰るし、その際両親や集まった親戚に、名もない戦死者――いや違う、ソーニャの言うとおり世界でたった一人の固有の名前を持った戦死者である祖父、その人の最期について詳しく聞いてみようという気持ちが固まってきたのだった。


 二人の間の沈黙は数分で終わった。


「ソーニャ、次はどこに行きたい?」


 俺が聞くと、先程までの表情のこわばりがなくなったソーニャがいつもの優しげな光を瞳に浮かべながら、


「そうですね……北鎌倉なんてどうでしょう? いったん鶴岡八幡宮の方に戻って、バスに乗れば楽に行けますから」


 何度もくどい説明になるが、ソーニャはここ鎌倉の地理を完全暗記している。おれは、素直に彼女の言葉に従った。


 二人、横に並んで、来た道を引き返している途中、不意に道の角から大きな秋田犬――?  の首輪のリードを持った初老の女性が現れた。

 俺は、数日前に国税局の香川万里恵さんと会話した公園で、ソーニャがシェパードと遭遇した際、ひどいショックを受けて俺の腕の中に倒れ込んだ事を思い出した。ソーニャは犬が苦手ではないのか?


「ソーニャ、大丈夫?」


 おれはソーニャの一歩前に出て散歩中の秋田犬から彼女をかばうような位置を取った。


「え、何がですか?」


 素朴なソーニャの声。


「犬だよ、犬、ほら、大きな犬がこっちに来るだろ? ソーニャは犬恐怖症じゃないの?」


 二人のかたわらを、秋田犬と初老の女性が通り過ぎていった。


 ソーニャは横目で秋田犬を見ながら、


「私は犬は大好きですよ。小型犬でも大型犬でも。なんで恐怖症だと思ったのですか?」


と、素朴に首をかしげてくる。


「いや、犬が平気なら別にいいんだ。気にしないで」


 おれがそう答えると、きょとんとした表情を浮かべるソーニャ。

 あの公園でジャーマン・シェパードに出会った時は、真っ青な顔をしてほとんど気を失っていたのに……これも何か踏み込んではいけない、彼女の暗い過去の一つなのだろうか?


 そんなことを考えているうちに、北鎌倉行きのバス停までたどりつき、ちょうどバスがやってきたので二人でそれに乗り込んだ。

 バスの中は他に数人乗っているだけで、あとはガラガラだった。たぶん10分くらいで北鎌倉駅前に車両は着くだろう。

 おれとソーニャは一番後部座席の位置に座り、目的地まで着くのをまっていたのだが、今度は純粋に会話のネタがなくちょっと気まずい沈黙に支配されてしまった。

 なにか気が利いたことのひとつでもしゃべらないといけない、と、おれあせっているうちに、ソーニャの方が先に口を開いた。


「マモルさん、突然ですがここでクイズです」


 ニコニコしながらソーニャは言う。


「カマクラにはいくつも女子高校がありますが、そのほとんどがセーラー服でなく、なぜブレザーが伝統的に指定制服になっているのかその理由を知っていますか?」


 いきなりのソーニャの発言に驚いたおれは、あわててその理由――ブレザーの制服が多いのかを考えてみた。だが一分たっても答えは浮かばなかった。


「降参。わかんないよソーニャ。答えを教えて」


 ソーニャからのクイズがとけなかった。きっとおれは変な表情になっていたと思う。


「――それはですね、簡単な理由です……」


 ちょっともったいぶって答えるソーニャ。


「カマクラの女子高校生たちは、戦前は近くのヨコスカ鎮守府の帝国海軍将校たちのお嫁さん候補だったからです。将校の妻になるべき少女たちが、セーラー服――階級の低い水兵の服を着ていては将校と釣り合わないではないですか。その伝統が戦後の今も残り、ブレザーの制服が多いんですよ」


 ソーニャはクイズの答えを教えてくれると、どうです、まいりましたかというような、いたずらっぽい笑みを口の端に浮かべておれの瞳をのぞき込んできた。フフン、と、どこか勝ち誇ったように小さく鼻で笑ってきたが、嫌味な雰囲気は一切なかった。


「ソーニャ、そんな知識どこで覚えたの?」


 おれが素朴に尋ねると、


「それは軍事機密です」


と言い、再び可愛らしく鼻を鳴らした。



そんなこんなのうちに、バスは北鎌倉駅前に到着した。


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