第35話 2月11日 無名戦士の墓
その小さな神社は銭洗弁財天から坂を登って数分のところにあった。古びて今にも崩れ落ちそうな鳥居があり、木々でかこまれた敷地内にはこれまた少し壊れかけの感じの社殿があった。神社の広さは幼稚園のグラウンドぐらいのせまさで、この前降った雪がまだ溶けず地面を覆っていた。人気はまったくない。ソーニャとおれの二人きりの空間だった。
少々この神社に奇異を感じたのは、参拝客などまったく来てる気配がないのに、境内のすみに一台の飲み物の自動販売機があり、ちゃんとそれは動いているらしく、販売ボタンに電気の明かりがついていることだった。
自動販売機の横には、ベンチが一つあった。坂道で疲れたおれは、すぐにベンチに腰を下ろした。ソーニャはというと、立ったまま、その古ぼけた造りの社殿をしげしげと眺めていた。やはり古風な感じの建物が彼女は好きなようだった。
『ソーニャ、ジュースか缶コーヒーでも飲む? ソーニャの好きなの買うけど?」
おれが声をかけると、彼女は丁寧な口調で「結構です、お気づかいなく」と答えてきた。
ソーニャは社殿のすぐ前、賽銭箱の前に立ち、じっと目の前にある木造建築を眺めていた。
すると不意に、彼女は目線を神社の脇に向け、しばらくしてからそちらの方に歩き出した。
彼女が何か見つけたのかと思って、おれはベンチから立ち上がり、ソーニャの背中を追った。
ソーニャが立ち止まる。彼女の目の前には、石造りの板が立っていた。高さはソーニャの身長とちょうど同じぐらいだった。
「慰霊碑ですね・・・」
石碑の表面に書いてある漢字を読み上げつぶやくソーニャ。
それから彼女は慰霊碑の後ろに回った。俺も興味本位であとに続く。
「先の大戦で この地より出征し 異郷で戦死した兵士たちの御霊を祀り 永遠の平和を祈念して ここに慰霊碑を建立する 昭和二十八年 地元有志の会」
抑揚のない声でソーニャが石碑に書かれていた縦の一文を読み上げる。
その文章の左側には、何十名もの名前が刻まれていた。おそらく、鎌倉のこの辺りの土地から太平洋戦争に行って亡くなった人々の慰霊のために建てられたものなのだろう。
ソーニャは真剣な眼差しでその刻まれた名前の羅列を見つめていた。そしてそっと指先をのばし、彼女にとって見知らぬ異国の戦死者の名前の一つを優しくなぞりながら言葉を発した。
「マモルさん。ソヴィエトの結婚式では新婚の若い二人が、街の公園や広場にある『無名戦士の墓』に献花する風習があります。今の平和があるのは、祖国を守るために殉じた兵士たちの存在があることを皆ちゃんと理解しているからです」
そして、しばしの沈黙。
「無名戦士の墓――でも、この世に無名の戦士など一人もいないのです。みなそれぞれちゃんと自分の名前を持った存在だったのですから。無名のまま永遠に葬られることなどあってはならないのです」
彼女の横顔に、どこかしら憂いのようなものが見えるのは俺の錯覚だろうか?
「ええそうです。無名の戦死者などいてはならないのです。必ず、戦死者には名前が、過去が、家族や友人に囲まれた、失われた固有の人生があったのですから」
慰霊碑の裏側に立ちつくしたまま、彼女はつぶやき続けた。
「マモルさんが前の戦争を――アジアへの侵略か、それとも解放戦争だったと考えているのか、どちらか知りませんが――あの戦争で死んだ日本兵たちが犬死だったという考えは絶対違います。それは私が職業軍人の娘だからでしょうか・・・。祖国のために戦争におもむき身を犠牲にする、それは立派な行為です。どのような戦争であれ、勇敢に戦い死んだ兵士のことを後世の者は忘れてはいけない、そうではないでしょうか? 日本軍国主義の指導者達に罪があるのであって、一般の兵士達には責任はありません。ーーこの国の人たちは、21世紀の今でも戦死した兵士たちへの哀悼の気持ちを保っているのでしょうか?」
やがて、俺とは目を合わさず、ぽつりと、
「すみません、長々としゃべりすぎました・・・」
と言った。
「それは・・・ソーニャの祖国に攻め込んだドイツ軍の兵士たちも一緒?」
俺は、静かな声でたずねた。
「ええ、彼ら下級兵士自身もまたヒトラーの、ナチズムの犠牲者に他なりません。わたしはニェーメツにはまったく恨みは持っていません。ーーもっとも」
そこで彼女は言葉を区切った。
「自分からすすんでSSーー武装親衛隊に入ったような連中は別ですが。あいつらは、同情の余地はありません」
『あいつら』と、忌々しそうに吐き捨てるようにソーニャは言った。冷たく、厳しい横顔をして。