第34話 2月11日 「働かざるもの食うべからず」
それからの銭洗弁財天までの歩き道、鈍感なおれにでもわかるくらい、ソーニャは不自然に明るく振る舞い、独り言のようにおれに向かってしゃべりかけてきた。
それは他愛のない話題だった。マモルさん、知っていますか、ロシア人は今日のように寒い冬でもアイスクリーム(マロージナエ)を食べるのが大好きなんですよ、とか、レニングラードで生まれた子供は言葉を話せるように成長する前に、家の近くの池や湖でスケートシューズをはいて遊び回り、大人になるとそのへんの西側諸国のプロスケート選手よりはるかにスケートが上手くなってるんですよ、などなど。
よっぽど彼女は、ニコライ・ネフスキーという東洋学者が自分の愛する祖国ソ連の体制によって、虐殺されたという現実を、忘れたがっているように見えた。
おれは彼女の一方的な話題に適当にあいずちを打ちながら、ぼんやりと考えていた。ソーニャがソ連、自分の母国を、そしてスターリンを何よりも愛しているのは明白だったが、その母国の秘密警察によって尊敬していた学者が殺されたという厳然たる事実を、どう受け止め、自分の中で整理しているのだろうかと。
おれの「スターリン」に関する知識は高校の世界史で学んだ程度のもので、それは残忍で懐疑心が強く大勢の人々を粛清した独裁者、それぐらいのイメージしかないが、ソーニャはスターリンの残酷で非情な姿を本当に知らないのか、それとも事実は知っていても、絶対それを信じたくなくて、むりやり、自分の心の中にスターリンという指導者に対する疑問がわきあがるのを抑えているのか、果たして、どちらなのだろうか、と。
そんなこんなのうちに、銭洗弁財天へと二人は歩き着いた。銭洗弁財天は急な坂の上にあって、運動不足気味のおれにはその坂を登るのは少々息が切れたが、もちろんソーニャは息一つ乱していなかった。
「ソーニャ、着いたよ」
おれは彼女に向かってつぶやいた。銭洗弁財天は岩の崖をくり抜いた洞窟の向こうにあって、その洞窟の外には白い小さな鳥居が立っていた。
「マモルさん、この神社はコインを湧き出る清水で洗って、お金持ちになることを祈る神社ですよね?」
ソーニャが素朴な瞳でおれに問いかけてきた。
「まあぶっちゃけ、そういうのが目的の神社だけど・・・」
ソーニャはにっこりと自然なほほ笑みを浮かべ、次のように述べた。
「真の共産主義社会への過渡期である現在、私は貨幣経済そのものを否定するつもりはありません。しかし、お金を増やすための神社なんて・・・本来人々の心を死の恐怖から救済するために作られた宗教がそのような俗っぽいことを神事として行っているのは、納得できません。もしお金を増やしたいとその人が思うなら、宗教になどすがらず、人の何倍も働けばいいだけのことです。つまりは、『働かざるもの食うべからず』です」
と言って、微苦笑をその端正な顔に浮かべた。
「へー。『働かざるもの食うべからず』って、お釈迦様の言葉だっけ?」
おれはソーニャがこの神社をお参りする気がなくなったことに気がついて、せっかく案内したのにと、ちょっとがっかりしながら言った。
するとソーニャはくすっと笑って(嫌味のない、純粋な可愛らしい笑い方だった)、
「ブッダの言葉ではなく、我がソヴィエトの革命の父にして建国の祖である同志レーニンのことばですよ、それは」
と言い、もう一度くすっと笑った。
はてさて、銭洗弁財天のお参りも中止となった今、どうしようかと悩んでいると、ソーニャが一つの提案をしてきた。
「マモルさんも少し歩き疲れているようですし、どこかで腰を下ろして休憩しませんか?」
実際、今日のおれはソーニャと二人きりでの鎌倉観光は楽しかったが、肉体的にも精神的にも、結構疲れていたので、彼女の提案にのることにした。・・・たぶん、ソーニャがアパートのおれの部屋を訪れたあの日まで、こたつの中に引きこもってゴロゴロしていたせいで、心身ともに脆弱になっていたのも影響があったと思う。
「この神社の前の坂道をもう少し登ると、小さな神社がもう一つ丘の上にあります。そこに行って休みましょう」
完全に鎌倉一体の地図を頭のなかに叩き込んでいるソーニャの言葉におれはおとなしく従うことにした。
そして、二人並んでまた坂道を更に上へと歩み始めた。
「あのさあ、ソーニャ、英語の「レッツゴー」って、ロシア語で何ていうの?」
おれは体力不足で重くなった足をやっとの思いで動かしながら、不意に、聞いてみた。
するとソーニャは「ん?」という顔になって、目線を横に、おれの方にじっとむけながら、明るい声でこう言った。
「それはですね・・・『パイジョーム・タヴァリシチ!』になりますね。・・・直訳すれば、『同志、さあ行こう!』という意味です」
おれはふーんとつぶやいた。たぶん、なんとなく教えてもらった言葉だから、三日後には忘れているとおれは思う。
「マモルさん、ロシア語を知りたかったら、どんどん私に質問してください。大事な大事な同志であるマモルさんが、私の国の言葉に興味を持ってくれるととても嬉しいです!」
そうして、寒さの中、白い吐息をそのうっすらとした唇から漏らしながら、ソーニャはにっこりと笑いかけてくる。
ーーなぜこの優しげで綺麗な少女は、心の底からスターリンなんかを崇拝しているのだろうか・・・?
今のおれには、ただそれだけが気がかりだった。