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第32話 2月11日 『月と不死』

 鶴岡八幡宮の西側の出口、これまた急勾配の階段をおりるまでソーニャはおれの手を握って放そうとしなかった。

 さながら、王宮を舞台にした歌劇とかで、王子様が、かかとの高い靴を履き長いふわふわのスカートを身につけたお姫様のエスコートをして手を握り階段を降りて来るシーンのように。


「ソ、ソーニャ、もういいから手を放してよ」


 おれはあわて気味に言った。するとソーニャも自分のしていた行為に気がついたらしく、顔を急に赤らめるとぱっと手を放し、


「あっ・・・すみません、でした・・・」


と一言だけ口にしてそっと目をそらした。


 しばしの気まずい沈黙。


「まあ、その、とりあえずガイドマップによれば銭洗弁財天まで徒歩で30分ぐらいあるらしいから、てくてく歩いていこうよ」


 おれは建設的な意見を発した。


「ええ、そうしましょう」


 普段通りの落ち着いたソーニャの声。だが、彼女は相変わらずおれから目をそらしたままでいた。


 ーーまいったなあ、妙に意識しちゃうよ・・・


 心のなかで軽くおれはため息を付いた。




 銭洗弁財天までの細い道は閑静な住宅街の中を通っていた。

 鎌倉というから、古風な感じの民家ばかりかとおれは勝手に想像していたが、実際は違った。かなり新築の家が多く、そしてそれらの家のデザインは前衛的なものが多かった。たぶん、鎌倉という土地に芸術性を感じ住みたがり引っ越してきた人たちの趣味なんだろうな、と、またも勝手な想像をおれはめぐらした。

 横に並んで歩いているソーニャはというと、両腕を後ろに回し軽く指先を組んだ姿でゆっくり歩いている。そして彼女は新築の家の前は無視して通り、時おり古い昭和風の民家を見つけると、ちょっと立ち止まり、その家の造りと庭の草木にしばらくの間視線を向けるのだった。


「やっぱりソーニャは、奇抜なデザインの家なんかより、こういう戦前から建ってそうな和風の木造家屋の方が興味あるの?」


 おれはたずねてみた。


「いえ、その・・・。ーーまあ、確かに、本音を言えば、私がソヴィエトにいた時に想像していた日本のイメージと合致する、古風な家の方が興味をそそられますね」


と、いささかの恥じらい混じりの微笑を彼女は浮かべる、


 今立ち止まって彼女が眺めている家は、小さな木造の一階建ての家屋(かおく)で、あまり広くない庭にたくさんの盆栽が並び、その庭には一本の梅の木が生えていた。梅の木の枝々は低い板作りの垣根の上をこえて、そのうち一本は薄紅色の小さな花を三分咲(さんぶざ)きにさせて、ソーニャの目の前にまで伸びていた。


「これは・・・サクラではなく、ウメの花ですね・・・。植物図鑑で見たことはありますが、本物は想像以上に可憐で美しいですね・・・」


 ソーニャはそうつぶやくと、梅の花弁にその整った自身の鼻をそっと近づけた。


Вот(ボート) это(エータ)・・・これがウメの香り。なんて素敵な香りなんでしょう・・・」


 そうして少しうっとりとした表情を横顔に浮かべた。


 おれは思わず、梅の花の美しさよりも、梅の花に鼻先を寄せ香りを嗅いでいるロシア人の少女の姿の美しさの方に気を取られて、その光景に見入って何も返事ができなかった。


 やがてぱっとソーニャは梅の花から顔を離すと、くるりとおれの方を振り向き、こうはっきりと言った。


「ウメの花の素晴らしさは堪能できましたが、残念ですがサクラの花を眺めることは私はできません。なぜなら、サクラが咲く前に私は任務を果たし、祖国ソヴィエトへと帰還しているでしょうから」


 その言葉におれはハッとした。そうだった、ソーニャは3月5日にスターリンの密書をおれが開封して内容を読むのを見届けたら、ソ連へ帰ってしまうのだという事実を忘れていて、彼女がずっと日本にいるかのような錯覚に陥っていたのだという事におれは今さらながら気がついた。


「マモルさん、今日は本当にありがとうございます。太平洋を見られたし、古い日本の神社や民家を訪れ、そしてこうしてウメの素晴らしい香りを堪能できました。・・・そのお礼といってはなんですが、一つ、私の秘密を教えてあげます。なぜ私がヴォロシーロフ名称大学付属・外国語専門学校に入学した際、フランス語でもなくスペイン語でもなく、日本語学科を専攻に選んだのかを。・・・というより、なぜ私が日本という国とそこに住む日本人の方たちに強い関心をもつようになったのかを・・・」


 おれはただ黙って、ソーニャの形の良い唇が動くのを見つめることしかできず、言葉を発することはできなかった。


「私が日本を好きになった理由・・・それはですね・・・」


 にっこりと、彼女は満面の笑みを浮かべて正確に次のように述べた。


「日本では、夜の月でウサギが(もち)をついているからなんです」


 そうつぶやくソーニャの顔には、多分彼女と生活を共にし始めてから見た中で一番最高の笑みが浮かんでいた。


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