第5話
天満の街というと、大阪天満宮の地元ということになるんだって。7月23日はギャルみこし、24日が宵宮で、25日が本宮ということで、街中が祭り一色で賑わうんだ。でも猫はお神輿の邪魔になってはいけない・・・・ってこともないんだけど、お神輿のコースでないところか、涼しい日陰でゆっくりお昼寝をするんだよ。
この話を書いているおばさんは、服部天神宮に御参りするらしい。服部天神宮はサッカーの神様だから・・・ということなんだけど、お参りする以前に毎日ウォーキングしたほうが、沢山ある体重が減っていいと思うんだけどね。こちらのほうは夏祭りは8月24・25日なんだって。
どっちが古いの??というと、服部天神宮のほうが古いといえば古いんだ。
帰化人集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられったって言っても日本史の教科書にも載っていないかもね。織部司ってお仕事は織物・染物をつかさどったんだそうだけど、言うたら国営企業・・・というわけでもないみたい。服部界隈を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりなんだって。この頃はまだ、小さな祠だったというんだけど確かに古いようなんだにゃぁ。
783年(延暦2年)というから相等昔の話だけど、藤原魚名ってエライ人は大宰府に左遷され筑紫国へ向かったものの、服部にたどり着いて死んでしまったんだ。祠の近くに葬られて、「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が今も服部天神宮境内に残っているんだって。残っているけど、天神宮の敷地内にある建物の中にあるので気がつかないかもね。
約100年後の延喜元年(901年)・・・ってかなり大雑把な100年だと思うんだけど。菅原道真公が魚名と同様、大宰権帥として左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなったんだって。そこで里人の勧めるまま、路傍の祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念したら、たちまち健康を取り戻し、任地である大宰府へ辿り着けた・・・と服部天神宮の由来には書いてあるんだ。
大阪天満宮はというと、645年の大化のを受けて、白雉元年(六五〇)に、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(中央区法円坂)に遷都された・・・。ちょうど阪神高速道路東大阪線の南側にナニワ飲み屋・・・じゃない難波宮があるけど、正式名称は難波長柄豊碕宮って長いんだねぇ。都への四方からの進入路上って東北・南東・南西・西北の4隅なんだけど、難波宮自体東西南北にぴったりではないにしても、四角い敷地ったから場所の特定はしやすかったかもね。
「八衢比古神・八衢比売神・久那斗神」の三神を饗応し(ってえらい難しい漢字だネェ)、「鬼魅」が都に入るのを防ぐ道饗祭が行われたんだって。西北の場所は特に大事に祭るように・・・ってことで、念入りに祭られた・・・って文字の記録が残るだけだけどね。難波宮から別の場所に遷都された後に、北の道饗祭の地には大将軍社が創祀された・・・これが天満の地に神社ができた謂れなんだって。
延喜元年(901年)に菅原道真公が大将軍社に参詣したのは確かだけど、903年に道真公がお亡くなりになってからは、いわゆる天神信仰がはじまって、945年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わったって書いているけど、まさか大きな松の木が突如生えたのかなぁ。梅の木は道真公を追っかけて大宰府まで飛んでいくからありえるかもね。当時の村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが大阪天満宮の始まり・・・・ってこれだけ書いたら次回作できるかなぁ。
ところで、東淀川区に“淡路”と“菅原”って地名があるけど、これも道真公に由来する名前って知っています??
大宰府への道中で船に乗って今の東淀川区淡路あたりが三角州になっていて、てっきり淡路島に着いたと思ったんだって。よくよく調べるとまだ大阪だったというオチなんだけどね。菅原はそのまんま苗字から由来というとこかな。
どうしてここまで書くのかって???、天神さまの紋は梅鉢だけど、猫の前足に似ているでしょ。みなこママは猫の足跡を梅鉢って言うんだって。道真公も本当は猫ちゃんが好きだったのかもね。