エクレール
ふと気が付くとそこは、黒に統一されたシックな部屋の中であった。
俺の部屋を四つ合わせても足りぬほど広々とした部屋の中に、金で縁どられた黒塗りの家具が揃えられている。この広さ。この色合い。どこの高級ホテルかとツッコミを入れたくなるこの感じ。間違えようもない。この世界に降り立った時に来た部屋じゃないか。
おかしいな。俺は何故またこの部屋に来てしまったんだ。
この部屋はいわゆるチュートリアル用の部屋じゃなかったのか。
ファベルさんの家に行って、そのあと……えぇと、寝てしまったのだろうか。
「……」
柔らかく大きなベッドから身を起こし、やれやれと肩を落とす。
参ったな。少し気を抜いた途端にこの有様だ。ミゥともはぐれてしまったらしいし、前回のようにラビからのメッセージも飛んでこないし、こんな広い部屋の中で何をしろというのか。メニューを開こうにも、俺の指は乾いた音を鳴らすばかりである。
ひとまず部屋の外に出てみるかと身を起こした俺は、はっと違和感に気づいた。
ラビからのメッセージが、ない?
そんな馬鹿な。あいつは確かここに……
ベッドの枕元に目を向けると、そこにはタキシードを着込んだ茶色の兎がちょこんと腰掛けていた。ラビじゃない。こいつは、誰だ。ナイフが刺さったシルクハットを被った茶色の兎は、黒い目でただじっと俺を見つめている。数秒ほど視線を交わすも、話しかけてくることはない。
さらによく見てみると、チュートリアルのそれと全く同じに見えた部屋の中も微妙にレイアウトが違っているではないか。確かに配置されている家具は同じものだが、その位置が入れ替わっていたり、見覚えのない窓が増えていたりとあちこちにちょっとした変化が伺える。
俺もレイアウトを完璧に記憶しているわけではないが、この部屋はチュートリアルの部屋とは違う別のどこかなのだろうか。だとしたらここは何処で、俺は何故ここにいるんだ。いや、たとえチュートリアルの部屋だったとしても後者の疑問は残る。何か妙なフラグを立てた覚えはないし、もう一度チュートリアルを初めからやり直せというわけでもなさそうだ。
どちらにせよ、まずはこの部屋から出てみようか。
チュートリアルでも寝室の外に出る前にキャラメイクに入ってしまったし、この寝室の外がどうなっているのか少し興味もある。長い廊下に出るのだろうか、それとも部屋がいくつも連なっているのか、知識に乏しい俺はあの扉の先がどうなっているかなど想像もできない。恐らくはここも広い洋館のような作りになっているとは思うが……
「ん……?」
ふと、高級そうな机の上に置かれたそれに目が止まる。
机の上には、左のレンズが割れた黒縁メガネがぽつんと置かれていた。
見覚えのある四角いフレームが、俺に何かを訴える。
このメガネは、もしかして……
「!」
メガネを手に取ろうとした瞬間、扉の向こうから音が聞こえてきた。
何かを動かすような音ではない。何者かの足音だ。
しかし妙である。足音であることは恐らく間違いないのだが、しかしその音は、少なくとも人間の歩く音とはかけ離れていた。その足音は鋼鉄を打ち付けるかのように重く、何やら金属質なものをガラガラと引きずりながら近寄ってきているような音であった。
得体の知れないものが近づいてきていると察した俺は無意識に逃げ場を探すが、部屋の出入り口はあの扉のみである。窓はハメ殺しになっていて開かず、脱出することは出来ない。目を向けた窓の外には、どす黒く濁った赤い空が広がっていた。
(嫌な予感がする……とりあえず、隠れないと)
やましいことはないはずなのに、何故か俺は身を隠すことだけを考えていた。
慌てて部屋の中を見渡すが、軽く見た限りでは俺が身を隠せるような場所はない。クローゼットの中にはこれまた高そうな衣類が詰め込まれていて入ることなど出来ず、ベッドの下は流石に狭すぎる。机の下は言うまでもなく丸見えだし、身を包めるほどのカーテンや毛布の類もない。万事休す。もはやここまでか。
(くそッ!! もう、どうにでもなれ……ッ!)
隠れることを諦めた俺は敢えて堂々とベッドに四肢を放り出す。
そもそも隠れる必要などないのだ。俺は気がついたらこの部屋に居ただけであって、故意に不法侵入を試みたわけではない。何も後ろめたいことはないのだから、堂々としていれば良いのだ。
金属質な足音は扉の前で止まり、軽く扉をノックする音が聞こえてきた。
「――マスター? お戻りなられタ、ですか?」
電子的な音が幾重にも重なるような声が、扉の向こうから流れ込んでくる。
その声を聞くと同時に、俺は身の内に渦巻く不安が抜けていくのを感じた。
「マスター? 入ってモ、よろシいですか? マスター」
部屋の中に向かって入室の許可を求めている。ということはつまり、扉の外に居る何者かは三号がベースであろうメイドタイプのドールか。恐らくは、許可なく寝室に入るなとでも言われているのだろう。とはいえ、彼女の言う『ご主人様』とは元々この部屋にいるはずの人形師のことであり、少なくとも俺のことではない。
しかし今現在、この部屋にいるのは俺一人だ。
さて、どう言葉を返すべきだろうか。挨拶か、生返事か、いや、流石にそれはまずいか。かといって黙っているわけにも……
「……マスター?」
――ガシャ。
俺が必死に返す言葉を探っていると、扉の向こうから妙な音が聞こえてきた。
今の音は何だ。まるで何かを装填したかのような、軽く変形させたような、機械的な何かを動かすような音が聞こえたぞ。途端に吹き出す冷や汗がたらりと頬を伝う。まさか、扉を吹き飛ばそうとかそういうつもりじゃないだろうな。強行突入するつもりじゃないだろうな。だとしたらこの状況は流石にやばい。不法侵入とかそういうレベルじゃない。これじゃあ言い訳のしようがな――――
「――ッ!!」
そんな俺の予想は、物の見事に的中してしまった。
俺の視界から色が消え、刹那の合間に音も消え、世界は静止し、捻じ曲がる。
コマ送りのように映り込むその動きは、とても目で追えるものではなかった。
閃光と共に大きな扉が爆散し、轟音が俺の鼓膜をつんざくその瞬間に舞い込んだ蒼銀の輝きが殺意となりて、俺の眉間に牙を剥く。突き付けられた鋼の殺意はそのまま俺の頭蓋を貫くかに思われた。
……しかし、俺の意識が状況を理解してもなお、俺の眉間に風穴が開くことは無かった。
突き付けられた鋼の銃口が火を吹くことはなく、赤い光を宿した無機質な瞳はじっと俺を見据え、舞い上がった蒼銀の髪がさらりと重力に従って揺れ動く。外部ユニットらしきものを身に纏うその身体はしなやかであり、冷たい輝きを放つ銀の装甲はただ純粋に美しい。
「……ぁ」
レンズのような瞳の奥に光る赤い輝きが緑へと変わり、どこか冷徹な執行者を思わせるその表情がふにゃっと崩れる。展開されていた無数の銃器は豪快な音を立てて即座に格納され、次の瞬間には床に土下座する女性の姿がそこにはあった。
俺はどうすることも出来ず、ただ呆然とその様子を眺めることしか出来ない。
「し、失礼致しまシタ……お帰りなさいませ。です。マスター」
コンパクトになった外部ユニットを背負ったまま床に伏す女性の声は、電子的でありながらも震えていた。床にさらりと流れる銀糸のように煌く長い髪。恐ろしい程に整った肢体を覆っているのは機械的なボディスーツ。アンドロイドじみた無機質な美しさを秘めたその姿に、俺は思わず面食らってしまう。
「あ、あの……」
「はい。マスター。エクレールは、どのようナ処罰でモ喜んでお受けシますです」
「いえ、あの。人違いです」
おずおずと顔を上げたその瞳の奥に輝く光が、かちりと音を立てて黄色に変わる。
頭の上に疑問詞が浮かぶような、俺の言葉をまるで理解していないかのような、気の抜けるような表情を浮かべたまま硬直した女性はただじっと俺を見つめてくる。エクレールというらしいこの人は、俺のことを自らの主たる人形師だと勘違いしているのだろう。ひょっとしたら、この人の主は俺とよく似ていたのかもしれない。
だが、勘違いであることに変わりはない。俺の相棒はミゥだけなのだ。俺はどうやら脳内処理に手間取っているらしい彼女に、疑問を投げかけてみることにした。
「ここは、何処なんですか? そして、貴方は……?」
「ここは……貴方のお部屋、です。エクレールは、貴方の……」
「俺は、いえ僕は、貴方のマスターじゃありません。何かの手違いでここに来てしまって……」
正直、リスクの高い選択であった。
彼女が俺のことを主だと勘違いしているならば、そのように振舞ってさりげなく情報を聞き出すことも出来た。けれどそれは、彼女を騙すことになる。俺が主でないと知ったとき、ひどく混乱してしまうのは目に見えている。ならば最初から素直に打ち明けるべきだろう。
ゲーム内のバグに巻き込まれて別のデータに入り込んでしまったという可能性もある。そうでなくとも、俺がここに飛ばされたのには何か理由があるはずだ。
俺がここにいるということは、必然的にミゥは一人ぼっちになってしまっているだろう。さらにあの子は寂しがり屋である。ひょっとしたら、突然消えた俺を探してあちこち彷徨っているかも知れない。一刻も早く、あの小さな家に戻らなくては。
「……ここは俺の居場所じゃない。俺は、帰らないといけないんです」
きょとんとした様子の女性は無機質な瞳を瞬かせ、ぱっと微笑む。
「あぁ、お出かけですネ。分かりまシタ。すぐに用意を」
紡がれたその言葉に、俺は言葉を詰まらせる。
同時に銀色のユニットが白煙を吹き出し、巨大なアームとなってガチンと爪を噛み合わせた。すっと立ち上がった女性は一歩後ずさり、にこにこ微笑みながら機械のユニットをその身に纏ってゆく。目の前で駆動音と共に形を変えてゆくその様子を、俺はただ眺めるばかりである。
やがて、銀の装甲を纏うアームは俺の体を掴み上げた。
「……っ」
巨大なアームによって虚空へと持ち上げられた俺の身体に細いアームが絡み、服の乱れやシワ等を丁寧に整えてゆく。伸ばされたその腕は無機質ながらも、その手つきはどこか暖かくすら思えた。さてどうするべきかと考えつつも身を任せることしか出来ない俺の頬に、やがてしなやかな手が添えられる。
滑らかな手袋に覆われたその手は、ひやりと冷たい。俺は生唾を飲んだ。
「あ、コレ、お忘れですよ。マスター」
女性は無機質な瞳に純粋な光を宿したまま微笑み、ロクに動くことすら出来ない俺の手に何かを握らせる。手のひらに感じる感触は紙のように薄くて固い、カードのようなもの。これは何だ。俺は今、何を握らされたのだろう。
「マーチラビット様。開けてください」
『了承、了解、承知。扉、入口、穴開ける』
ベッドの枕元に座る兎の頭上に、ぽんとメッセージが浮かび上がる。
それと同時に、広々とした床が激しいノイズに歪む。歪んだ床には亀裂が走り、不協和音を吐き散らしながら奈落へ続く大口を開いた。無数の瞳が蠢き、ノイズが渦巻くその奥は、明らかに人が踏み入るべき場所ではない。まさか、ここに叩き落とされるわけじゃないだろうな。いや、絶対行きたくないぞ。明らかに地獄への入口じゃないか。
(おい、嘘だろ……)
脳裏に渦巻く嫌な予感はどうやら当たってしまったらしく、アームに掴まれた俺の体はその穴の上に向かってゆく。もうダメだ。詰みだ。俺はこのまま訳のわからない場所に放り込まれて死ぬんだ。一瞬でそんな感情に染まった俺は、離してくれと声を上げる気にもならなかった。
「それでは、お気をつけて。いってらっしゃいませ」
あぁ、終わった。
アームから解き放たれた俺の体は、底知れぬ奈落へと落ちてゆく。
どこまでも深く、暗く、どこか重苦しい。暗闇の底へと。
「――――まだ、来ちゃダメ」
そんな声が、聞こえた気がした。