ミリアーナへの報せ
日に日に大きくなる腹部を撫でながら私は新しく産まれてくるロンダークとの赤子の為のおくるみに刺繍を施していた。
柔らかな天鵞絨が張られた大人の男性が横になっても大丈夫なほど大きなソファーに座りながら、私の膝の上に置かれた父親そっくりのクライスの小さな銀糸のように髪を愛おしく感じ優しく起こさないように撫で続ける。
ドラグーン王国でクラインセルトと死に別れ、レイナス王国へ帰ってきたばかりの頃の事は正直言ってあまり覚えていない。
どのようにドラグーン王国を出国したのか、誰とレイナス王国へ帰ってきたのかも朧気で、ひとつだけわかるのは辛い時にいつもロンダークの硬く温かい手が私の頭を慰めるように撫で側にいた事。
クライスを産んだ事でだいぶ正気を取り戻し、兄であるアルトバール陛下の勧めもあり、私は自分の意志でロンダーク・ビオスの妻になった。
クライスも大きくなり、ビオス侯爵家の分家であるビオス伯爵家の跡取りとして家庭教師を招き学び始めている。
元々ロンダークはビオス侯爵家の次男であり、既に兄であるビオス侯爵に嫡子がいた事もあり一代限りの騎士爵しか持っていなかった。
私との縁談が決まり、これまでの王家への忠誠と働きへの褒章と仮にもドラグーン王国から出戻ってきたとは言え、一国の王女が騎士爵に嫁ぐわけにも行かず、領地を持たない宮廷貴族では話にならないため、伯爵の地位と持参金としてミリアーナの領地を与えられた。
今はまだお腹の子が産まれていない事もあり、宮廷医に経過を見てもらう都合もあいまって、王都にあるビオス侯爵家に仮住まいしている。
今回のレイス王国の立太子式への同行を最後に職務を辞した後、家族四人で領地へ赴き仲睦まじく暮らしていこうと約束し、ロンダークはレイス王国へ旅立っていった。
ふと閉め切っていた筈の居間に、涼やかな風が吹き込み、布から視線を上げると、バルコニーへ続くガラスの扉が開いており、レイス王国へ行っている筈のロンダークが私に両手を広げるようにして立っていた。
「おかえりなさい!」
持っていた布をサイドテーブルに置き、クライスを起こさないように気をつけて膝の上から頭を外すと、せり出て体幹の並行が取りにくくなった腹部を支えるように立ち上がる。
ロンダークに駆け寄りその身体に抱き着こうとした両腕が空を切る。
「えっ、なんで?」
ロンダークの姿は見えるのに抱きしめられない事に酷く動揺する。
何度も抱き着こうとしてみても両腕はロンダークの腹部をすり抜けてしまう。
「ロンダーク、どうして?」
ロンダークはパクパクと口を動かして居るようだけれど、決して音として聞こえない。
必死に口元の動きを凝視してなんとか言葉を拾い集める。
「あ……い……して……る?」
愛してる。
私の言葉は聞こえるのか微笑みながら私の頬へ手を伸ばししっかりと頷くロンダークに、私はすべてを悟ってしまった。
少しずつ、少しずつまるで陽炎のようにロンダークの姿が薄くなり、既に背後の風景が透けて見えている。
伸ばされた手を自分の頬に沿わせてみるけれどやはり触れることはできなかった。
もうロンダークと生きて再会することは無いのだろう。
涙が頬を伝い流れ続ける。
「私も愛しています」
そう告げるとロンダークは私の唇に触れるように感触の無いキスをして霧散した。
クラインセルトに続きロンダークまで私を置いて死んでしまった。
私が結婚した人は不幸になるのかも知れない。
「……うっ、ははうえ?」
背後から聞こえてきた声にゆっくり振り返ると、クライスがソファーから起き上がり、私の足元まで駆けてきた。
「泣かないで母上、夢で父上と銀色の髪のおじさんが、ボクに母上と妹を守れって言ってた」
懸命に言い募るクライスの言葉に、私はクライスの小さな身体を抱きしめた。
クライスの呼ぶ父上はロンダークの事だろう、なら銀色の髪のおじさんとはクラインセルトのことだろうか。
私譲りの蜂蜜色の瞳を見つめる。
「クライス、ありがとう……もう少しだけこのままで居てもいいかしら?」
「もちろんだよ」
クライスの体温が温かい。
私はもう壊れはしない……二人に貰った護るべき何ものにも変えることができない宝物があるから。