9.檻の陰で
叫声。激音。振動。風圧。それらを一度にヴィカは感じた。
前髪を巻き上げるほどの風の勢いに細めた双眸の先で、見覚えのある羽根付きの巨猿がその腕を舞台床に叩き付けている。
魔術師の影から完全に姿を現した猿型の魔獣は、牙を剥き出しにしながらギィギィと鳴き続けていた。それは明らかな威嚇音で、自身のサイズに比べれば遙かにちっぽけな椅子を粉微塵に叩き潰しながら、巨猿は全くそちらを見ていない。
主である魔術師もまた同様で、主従の視線はそろってヴィカの方へと向けられていた。
いや、それは正確ではないと、ヴィカ自身わかっている。正しくは、彼女が座り込んでいる位置よりやや彼ら寄りの手前、かつ右方斜め上部。
つまりは、ヴィカが繋がれた檻の上。
ブワッと全身の汗腺から汗が噴き出すのをヴィカは自覚した。
いる。
いるいるいるいるいる!!
やっぱり、いる!
猿の剛腕が床をへし割る音に重なるようにして、傍らの金属檻が大きな音を立てたことにはむろん気づいていた。その意味にしても、同じくだ。あるいは無音であったとしても、ヴィカの知覚には何の影響も及ぼさなかっただろう。ひしひしと右斜め上から降り注ぐ異様な存在感にこそ、彼女は冷や汗をかいているのだから。
そして幸か不幸かヴィカの本能は、見ない恐怖よりも見る恐怖を選んだ。
――癖のない銀髪。白皙の幼貌。ひたりと彼女を見下ろす色違いの両眼。
「あ、死んだな」とヴィカは思った。これは死んだ。もう絶対死んだ。
逃げ道皆無の厳然たる予感の前に恐れも諦めも一周して、ほとんど無感情に達観したヴィカを見下ろしていた魔獣は、しかし彼女の予感を現実にする前に、その視界から姿を消した。
一拍後に、ごう、と激しい旋風が魔獣がいた場所を切り裂く。
魔術師が放った技だった。続けて、舞台上に降り立った魔獣に巨猿が唸り声をあげて飛びかかる。
二対一の攻防を目の前にして、初めてヴィカの身体が震え始めた。振り切れた感情の針がゆっくりと戻り始めていた。そして最初には思ったのは、「助かった」である。
魔術師は決してヴィカを助けたわけではない。何も事態は好転していないし、それどころかもしかしたら、ほんの少し結末が先延ばしになっただけかもしれない。しかし、あの託宣のような予感が、あの一瞬に果たされなかった事実に対して、ヴィカの感情は「助かった」以外になかった。
そしてまた、一度芽ばえた生の実感は萎えていた別の感情をも蘇らせた。すなわち、死にたくない、という意思を奮い立たせたのだ。
ともすればカチカチと音を立てそうになる奥歯をきつく噛み締めて、ヴィカは広い舞台上で繰り広げられる攻防を改めて見据えた。檻の陰に隠れつつ。
巨体に見合わぬ敏捷さで巨腕を振り回し、長い尾を鞭のように振るう巨猿と、その後方で短杖を手に術を繰り出す魔術師の男。派手ではないが男から放たれる鋭い雷光の閃きは、生け捕りを度外視した術であると見て取れた。
バチン、と断続的に響く電流音は巨猿が振るう尾からも発されているらしい。直撃せずとも感電する余地を持っているのだろうが、しかし、それをも含めて魔獣はよく回避していた。
魔獣の方は、完全に自分の爪牙と膂力だけを攻撃の術としているようだった。その一撃一撃は巨猿と同格か、あるいは壁を抉る爪撃の深さを見るに、それ以上に鋭いかもしれない。小さな体躯はそのまま敏捷さに繋がり、しばしば巨猿を出し抜いていたが致命傷を与える前に魔術師にはね飛ばされる。逆に魔術師を狙えば巨猿の重い拳が叩き付けられ、決定的に攻め込めずにいた。
もっともそれは魔術師たちの方も同じことで、力では負けているところを数と連携で押し返しているのだ。
正に一進一退と呼ぶべき攻防に、望みがないわけではないとヴィカは自分を慰めたが、彼らの足下でもはや単なる飾り模様でしかない魔方陣の残骸を見ると苦い気持ちがせり上がってくる。
拘束術とは、要は封印術の一種である。
魔獣は石から孵ってすぐ、まず三所を封じられた。目と声を奪うことでその魔力の行使を、手首を通してはその膂力を。
それはまず基本的な封印で、この場合の「基本的」とは限りなく「一時凌ぎ」と意味を同じくする。
魔術を扱う者としての能力が試されるのはむしろここからだ。なぜなら、封印術あるいは拘束術とは、もっとも汎用性の低い魔術のひとつだからである。
封印術の定義とは、こうだ。「規定された一定の範囲において、内外圧を完全に遮断する術式」――そして、封印自体が堅牢強固であるほど、すなわち対象が強大であるほど「規定された一定の範囲」を越えた時の術式の脆弱さは顕著になる。
だから、魔獣には何も与えてはならなかったのだ。
むろん、契約の儀式パフォーマンスを含めてまでの競りであるから、契約主の血を与えるところまでは魔術師も想定して術式を組んでいたはずだ。
問題はその後である。その段階で、あの56番の男に害をなせたこと自体問題視すべきだが、結局は、更にその後、下男のひとりを襲ったことが決定的に、致命的だったのだ。血も、肉も、魂を宿す器である。魂とはすなわち、全ての生き物が持つ、もっとも輝かしい力の塊だ。
あの瞬間、「想定された一定の範囲」を魔獣は越えてしまったのである。
――役立たず! 馬鹿! 責任持ってなんとかしろ!
応援か罵倒かと言われれば我ながら悩ましい怒声を、ヴィカは心の中にとどめた。言うまでもなく保身のためだ。ほんの僅かな意識の拡散が彼らの勝敗を決するとヴィカにもわかっている。魔獣の気をそらすならいいが、逆が起これば目も当てられない。
しかしもはや、呆然と事態の好転を祈り続けている場合でもない。意識を二対一に向けつつも、ヴィカは視線を傍らに動かす。
そこには、仰向けに横たわる下男の姿があった。魔獣に左手首を喰われた男だ。始めはもっと遠くにいたのだが、魔術師たちの戦いの余波で最終的にここまで吹き飛ばされてきたのだ。
薄く開いたまま二度と瞬かない両眼を、眉を深く顰めて僅かに見つめた後、ヴィカは視線を彼の腰元へと移動させた。ベルトに結わえられた大きな銅環には幾つかの鍵が通されている。その下男は舞台上でヴィカに首輪をかけ、鎖で繋いだ男だった。
ならばその鍵も、この男が持っているのではないか。
希望的観測ではあったが、今他にヴィカが試せることはなかった。