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8.末期の余興

人死を伴う流血・傷害描写があります。なお、同種の警告は繰り返しませんのでご注意下さい。

 魔術師の男の手によって魔獣の稚くも整った容貌が露わになると、失血の痛みに顔を強張らせていた56番の男の頬に血の気が戻った。

 魔獣の容姿に感嘆の声を漏らし改めて落札主を羨む会場のざわめきもまた、彼の高揚を煽る一助となったのだろう。

 むずがるような身動ぎを魔獣は見せたが、角度まで固定された頭は揺るがない。その双眸にはしっかりと彼の主となるべき男の姿が映っているはずだった。


 余興も、終わりか。


 あとはたった一言、あの興奮を噛み締めた顔で佇む男が魔獣の名と定めた一語を口にすれば儀式は結実する。

 ヴィカを含めた誰もが一時(ひととき)後に訪れるであろう終わりについて予想し、その「一時」を待ち、しかし思わぬ「空白」の長さに誰もが肩すかしを喰らったように――感じるよりも、ほんの、一瞬、早く。


 けたたましい絶叫が、大気をつんざいた。



「――ッ!?」


 ヴィカの視線の先で、やりどころがわからないように彷徨(さまよ)う手指で中空を掴む56番の男がよろめいていた。ぴったりと閉じられた、そして膨らみを失った瞼の下からだくだくと溢れる血涙で頬には太い筋が刻まれている。顎を外さんばかりに開いた口からただ一音のみを声としながらよろよろと後ずさり、やがて片足が宙を踏んで、男はそのままホールへと転落した。硬いものを打つ音がして、絶叫が途切れる。

 時間にすれば短い。ヴィカが事態を理解する数瞬の間のことである。だがその間、彼女が一声をあげるまで誰もが一歩も動けずにいた。

 致命的なことに。


「馬鹿が! 何時までそこに突っ立っている! 早く離れろ!」


 ――“臆病と背中合わせの用心深さ”が聞いて呆れる!


 心内では自らを罵りながらのヴィカの叫びは、直接には魔獣を抑えていた下男たちに向けられていた。しかし彼女の声を契機として、男が転落した辺りからまず最初に悲鳴があがり、不穏なざわめきが波状に広がる。それでも大半の動きが鈍いのは、なおも現状を正確に理解できていないがためだ。どうしたの、事故か、そんな声がヴィカの耳にも届く。

 当然と言えば当然のこととして、ヴィカの次に事態を正しく判断したのは魔術師の男であった。陣の外に飛び退きながら口早に呪を刻む。魔方陣と術布と金属枷と、それぞれに刻まれた呪字が鋭い光を帯びた。声なき苦鳴と共に魔獣が鎖を鳴らす。

 魔獣を拘束していた下男たちは主人の魔法に巻き込まれた形だが、人ならざる身以外には効力を発揮せぬ類の術である。2人はただ主人にならい魔方陣の外に出ればよかったのだが、そこで明暗が分かれた。

 同じようにヴィカの怒声を浴びた2人の下男は共にビクリと身を震わせ、しかしその後が異なっていた。魔獣を挟んで向かい合っていた2人の内、1人は混乱の目を相方に向け、1人は相方の背中越しに此方に向けて叫ぶ必死の形相をした娘を見た。そして確かに先の科白は自分たちに向けられたものである、という自覚の速度の差がそのまま行動の速度に現れた。

 1人が魔獣の頭部から手を離し、(もつ)れる足で飛びずさる。それを見届けてから、もう1人もようやくはっとした顔をした。腰が最初に引け、体が魔獣から距離を取ろうとする。だが、先に首から上の自由を得た魔獣がぐるりと首を巡らせる方が早かった。


 そしてまた、絶叫。


 会場中の視線を集める舞台の中央で、人間の子どもそっくりの形をした魔獣が白い頬をわずかに膨らませ、唇を閉じたままで顎の上下運動を繰り返している。ぐちぐちという弾力に満ちた咀嚼音が、あるいは近くにいた者の耳には届いていたかもしれない。例えば、鋭い悲鳴を途切らせた後も嗚咽のような喘鳴を繰り返していた下男などには。

 やがて魔獣のまだ喉骨も目立たない幼い喉がごくりと蠢き、膨らんだ頬が元に戻った。と同時に、病的に震えながら魔獣を見ていた下男の腰が砕ける。べしゃりと自らが作っていた血だまりの上に座り込むと、その勢いでほとんど皮だけで繋がっていた左の手首が血に落ちた。



 ――恐慌が、爆発した。


 椅子を蹴りのけ、他人を突き飛ばし、転倒する者を踏み越えて、窓の存在しない部屋で唯一の出入り口である大扉に人々が殺到を始める。

 ヴィカは、自分が直感したのと同じ戦慄を魔術師の顔に見て取った。

 扉に殺到する人々の合間から、死にたくない、と声が聞こえる。殺される、と泣き声があがる。

 彼等と同じ恐れが、ヴィカの心にもあった。だが同質の感情を抱きながらも、響き渡る声に共感しながらも、それが()()()()()()恐怖なのかという点において、ヴィカ()()の思考は彼等と完全には一致しない。


 「あの男たちのように死ぬかもしれない」、「殺されるかもしれない」――そうではなく。

 「自分たちはなぜ()()()()()()()()魔獣に殺されるのか」――その理解をもって、魔女と魔術師は戦慄したのである。


「あ、だめ」


 ほとんど吐息と変わらない弱さで魔女が呟く。

 雑多な喧噪の中で、しかし、魔術の仕組みを知る男女は薄氷を踏み砕くような音を確かに聞いた。


 拘束術式が破砕したのだ。

 彼女たちの恐れた通り。

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