17.
獣はしばらく画面の外で「待て」の時間。
カレルの村にある曳き車の動力と言えば、人間か、牛か、年老いた馬くらいしかなく、走る馬車などというものに生まれて初めて乗った妹は、始めから目を輝かせて風と共に流れていく景色に夢中だった。
カレルがちゃんと座っていろと言ってもどうにも落ち着かず、時々こちらがひやっとするほど車台から外に身を乗り出そうとするのを、何度となく服の端を掴んで引き戻す。それでも好奇心に負けては体が前のめりになる妹に再び手を伸ばそうとしたちょうどその時、車体が跳ねるように上下に揺れた。胸がすっとするような冷たい浮遊感。車輪が大きな石を踏み越えでもしたのだろう。
そしてその時、車外に半ば身を乗り出していた妹の体もすっと浮いて、――
「危ない。いい加減にお兄さんの言うことを聞かないと、怪我じゃすまないよ」
強い力で掴んだ腕を引き、呆けた顔の妹を抱き留めた女の人はそう言って怖い顔をした。
「あしたのお天気、わかる?」
「そういうのは苦手かな」
「ハナの村のバァはね、すっごく得意だったよ!」
妹のハナを助けてくれたのは、同じ馬車に乗り合わせていた乗客のひとりだった。事態を理解して青ざめていくハナを、静かな、けれども険しい声で叱ってくれて、それ以降妹は大人しく車台に座ったままだ。
しかしその時は確かに真っ青な顔で涙ぐんでいたはずなのに、今はもう涙の欠片もなくニコニコしているのは流石脳天気な我が妹と言うしかない。数分前に叱られたばかりの相手に、もう懐いている。
「おねえちゃん、バァといっしょ?」
最初にそう話しかけた側からしてハナだったのだから、彼女の辞書には「反省」という言葉はあっても、「萎縮」という言葉はないのだろう。
カレルは人見知りしなさすぎる妹を「やめろ」という意味でこづいたが、それで伝わるなら苦労はない。「ね、そうだよね?」と逆に同意を求められる始末で言葉につまっていると、ふっと笑うような息を女の人が吐いた。
顔を向けると、笑うような、という感想を裏切らない眼差しがあり、彼女が「“バァ”?」と優しく聞き返したところから、二人の会話はずっと続いている。
ハナは、自分達の村にいた老婆以外に初めて出会った魔術師に興味津々だ。無理もない。元々好奇心は強すぎるくらいだし、何より彼女にとって魔術師とは自分の将来の姿なのだ。
「バァもね、おねえちゃんと一緒で、きれいな石をいっぱいつけてたのよ。ハナもまじゅつしになったら、いっぱいキラキラつけられるのかなぁ」
「さあ、どうかな。つける人とつけない人がいるからね。ハナは、魔術師になりたいの?」
丁寧に触るという約束で、小さな掌の上に首飾りの装飾をひとつ外して乗せてやりながら魔術師の女の人は少し眉を下げた笑顔を見せる。
「うんそうだよぉ。ハナはすごーいまじゅつしになるの!」
「そう。……ハナとお兄さんは、いくつ?」
「はち! カレルにいちゃんは12よ」
瞬きひとつ分ほどの間があった。女の人は馬車内に目線を一巡りさせ、カレルとハナが二人だけで乗車していることを改めて確認したようだった。最後にカレルの顔の上で、彼女の視線がとまる。
僅かに細められたその目が何らかの疑いを含んでいるような気がして、カレルは少し慌てて口を開いた。自分達は家出したのでも、ましてや人売りに出されたのでもない。
「親戚の家に行くところなんです。ハナは魔力が強いから、これなら学院に入学できるかもって、試験を受けられるようにしてくれて」
ただ単に“学院”と言えば、この国では国立の魔術師の育成機関のことを指す。ようは魔術師になるための勉強もする学校だ。ただし、学費は一切かからない。卒業後の就職が安定しているのはもちろんのこと、高学年の実習授業は“仕事”という扱いにされ在学中から給料が支払われるのだという。
カレルの家はごく普通の農家だ。一家の働き手として子どもが多く、そこそこの質を持つ土壌で、そこそこの広さの畑を耕し、天候に大きく左右されながらそこそこの作物を収穫販売して生計を立てる、ごくごくありふれている程度に貧しい家だ。学校と呼ばれるものになんて兄弟の誰も通ったことがないし、そもそも村にそんなもの存在しない。
だから、“学院”のことを知識としては知っていても、ハナが強い魔力持ちであることはわかっていても、家族の誰も学院と彼女を結びつけて考えたことがなかった。大体国境に程近い小さな村からすれば、国の中央にある都の存在からして夢の国のようなものだ。
悩まなかったわけではない。
もちろん入学試験自体に合格しないこともありうる。しかしもし合格した場合、学院は全寮制だ。面会は自由だと言うが、交通にかかる時間的にも金銭的にも、現実には一度入学してしまえば18歳での卒業まで二度と会うことはないだろう。
それでも結局は今、カレルはハナを連れて馬車に乗っている。
どうしたって、金銭の問題だった。
費用のかかる施設に通わせてやるような余裕は、逆立ちしてもでてこない。
今はなんとか暮らせているが、それはつまり、何かがあればすぐに行き詰まる生活だということだ。
望んでも与えられるはずのなかった教育の好機は、家族の将来を支える可能性をも併せ持っていた。
妹は無邪気に学校に通えるのを楽しみにし、すごい魔術師になって皆を助けるのだと意気込んでいるが、カレルには兄として情けない気持ちもある。
「あなたも試験を受けるの?」
「いいえ、俺は。そんなに魔力、強くないから……」
そう、カレルだって魔力持ちなのだ。家族の中で魔力持ちとして生まれたのはカレルとハナだけで、それなのにカレルはハナの代わりになってあげられない。赤ん坊の頃は泣き喚くだけで食器が浮き上がっていたハナと違って、カレルは市販の魔法石をちょっと上手に扱えるくらいのことしかできない。
カレルは三つ隣の村にある件の親戚の家までハナを送り届ける役回りだ。その家から、ハナは王都に向かうことになっている。妹の見送りがすんだ後は、カレルはそのままその家で住み込みで働かせてもらえる約束になっていた。
住み込みの話もカレルが魔力持ちだったからこそ決まった話ではあったが、これから10年も家族と会えなくなる妹のことを思うと、家族の役に立っているという気持ちよりも情けなさが勝ってくる。
カレルの視線は自然と床に向かった。
「ちょっともう、カレルにいちゃん暗い!」
「いった!」
そのまま視線のみならず顔ごと床に近づきかけて、片手を床につく。容赦ないハナの平手が頭のてっぺんに落ちたのだ。
「ぜったい性格的にもにいちゃんより、ハナの方がまじゅつし向いてるよね。だってにいちゃん暗いもん!」
「おッまえ……。暗くねえし、暗さ関係ねえし、俺はお前の大ざっぱすぎる綿菓子脳の方が心配だよ。わかってんの? 魔術ってのは、集中力とか、細かさとか、丁寧さとか」
「ハナは、フィーリングとイマジネーションでどっかんどっかんいけるまじゅつしになるから大丈夫!」
「マジで心配なんだけど……」
ふっ、と噴き出す気配に目を向けると、魔術師の女の人が軽く口許を押さえていた。情けないより今度は少し恥ずかしくなってカレルはハナを睨んだが、妹はケロリとしたものだ。この綿菓子脳め。
「あの、お聞きしたいんですけど……。こいつ、試験受かると思いますか? てか、受かったとして、やってけると思います? 見ての通りの考えなしなんですけど」
カレルからすれば真実でしかない悪口に頭から湯気を立てるハナを見て、それからカレルの方も見て、女の人は「うーん」と半分笑う顔で首を傾げる。
「安易なことは言えないけれど。私は試験官じゃあないしね。ただ、魔術を扱う人達で成功するのは、大抵魔力の特性と本人の性質が一致している場合かな」
「特性と性質?」
「そう。だから私が思うに、ハナもだけれど、あなたも――」
女の人が不自然に言葉を途切れさせたのと、激しい馬のいななきと、後方に思いっきり体が引っ張られたのは、全部同じ瞬間だった。
カレルは咄嗟に右手で車台の木枠を掴んで体を支えようとしたが、胸に思い切りハナがぶつかってくる。倒れることを覚悟したが、ハナの背中に回した腕を女の人が掴んで引っ張った。彼女もまた左手では木枠を掴んでいて、前のめりの体をカレル達と一緒に引き戻す。
「なっ、なに?」
兄の体の脇から顔を覗かせたハナが馬車の進行方向を見た。カレルも首を巡らせて後ろを見る。他の乗客も皆それぞれの格好で、同じ方向を見ていた。
馬車は左右を疎らな樹木に挟まれた山道を走っていた。馬車が急停止したのは、それが丁度一端途切れる、そのすぐ手前の場所だ。
激しく馬がいなないている。馬車を曳いている馬は二頭で、けれどもいななく馬の数はそれより多い。
恫喝染みたお決まりの科白で、馬車の行く手を塞いだ男達はカレル達を脅した。
「今すぐ殺されたくなけりゃあ、馬車から降りな」
山賊だ。




