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15.誓約

 その時ヴィカが平静であったかと言えば、間違いなく否である。背中を冷たい汗で湿らせ、心臓が早鐘を打っている状態をしてそうとは呼ぶまい。ただ、短時間の間に二度も死を覚悟し、頻繁に精神的衝撃を味わい、かつてない乱高下を繰り返させられた精神は、平静ではなく疲弊によって、内側にごちゃまぜの混沌を抱え込みながらも、その表面を一見冷静な思考が可能なほどに落ち着かせた。

 つまり、言ってしまえばその時のヴィカの冷静とは、狂乱の一形態に過ぎなかったということだ。……そうとでも考えなければ、自分の過去の行動をヴィカは到底理解できない。


「――約束が守れたなら、契約をしてあげよう」


 よくもまあそんな偉そうな科白を、馬鹿馬鹿しい賭けを、魔獣相手に謀れたものだと過去の自分に感心すらする。気が狂っていたとしか思えない。




「やく、そく?」


 いっそ眠たげなほど緩慢な瞬きは、たぶん、きょとん、ぐらいの意味なのだろう。

 ヴィカは懸命に魔獣を正面から見据えながら浅く頷き、そして大丈夫と自分に言い聞かせる。大丈夫、声は震えていないはず。おびえも、ひるみもない態度に見えているはず。全身を冷やす汗も、息苦しいほどの鼓動も魔獣の目には映らないものの、はずだ。


「聞きなさい、獣よ。私は、望んでお前を喚んだわけではないわ。契約の獣など、今は望んでもいない」


 瞬間、不穏な気配が膨れあがった。胃と心臓がきゅっと縮こまるような心地がして、ヴィカは僅かに息を詰める。待て待て、やめろ、そんな目でこっちを見るな。


「そ、それでも! どうしても! 契約したいというのなら!」


 早口に言葉を重ねると、ふっと魔獣の空気が和らぐ。僅かの間だけこぼれ落ちそうなほどに見開かれていた双眸がまた元のようになり、続く言葉をじっと待っている。


「私に示しなさい、お前が、私の望むような契約の(しもべ)たり得るのかを」


 魔獣はまたゆっくりと瞬き、それからその桜色の唇を開いたが、「う゛ぃ」と最初の一音を発したところで「黙りなさい」と遮られた。


「以後、契約を成すまで、私の名前を呼ぶことは許さない」


 ぴしゃりとヴィカが言いのけると、魔獣はほんの微かに眉根を寄せたものの、素直に口を閉じた。不満ではあったがとりあえず黙った、といった風情である。

 綱渡りのような言葉選びだった。ほんの少し魔獣の不快を買いすぎれば、ヴィカの首が飛ぶのなど一瞬だ。背中に盛大な冷や汗をかいているヴィカはもちろんそれをわかっていて、敢えて尊大な言葉を選んでいる。魔獣の我慢水準を内心では恐々と窺いながら、表面では冷然と見下ろしている。

 そして現に、魔獣は今、多少の不快ならば我慢しているのだ。

 なぜなら、契約を望まれているのはヴィカの方である。恐らく他のあらゆる点で魔獣に劣る彼女は、しかしその一点においては魔獣より優位にあった。ただし無論そんなもの、魔獣が覆そうと思えば容易に覆る程度のものでしかない。

 だからこその、尊大な言葉遣いだった。魔獣の幼さにも賭けた。ヴィカの薄氷の優位性が、まるで揺るがぬ絶対であるかのように魔獣に思い込ませる空気を作るための、演技だった。

 長時間である必要はない。この会話の間だけで構わない。今この一時だけ、ヴィカの言うことを聞かなければ、と誤解してくれれば、それで彼女の狙いは果たされるはずだった。


「いい? よく聞きなさい。今から私は、お前を試験にかける」


 床に座り込む魔獣は、じっとヴィカの顔を見上げている。その一点の曇りも歪みもない真っ直ぐな視線に一瞬胸の片隅が痛みかけたが、同時に視界に入る惨状にすぐさま心は冷えた。危なかった、(ほだ)されたらお終いだ。

 ふ、と浅く息を吐き、瞼を伏せた短い時間の間に、告げるべき言葉を整える。


「――全てを守ると、誓いなさい」


 人間を殺してはならない。

 獣を殺してはならない。

 決して命を奪ってはならない。

 たとえ喰うためであっても。たとえ殺されそうになったとしても。

 そして。

 決して、私以外のものの血を口にしてはならない。


「私の血を、他の血で上塗りするということは、私と契約する気がないということでしょう?」


 魔獣が顔を顰める。しかし結局、否やの声はなかった。その代わり、「いつまで」と問う。


「私がいいと言うまで」

「それは、いつ」

「私がいいと判断した時」


 全てを守ってみせなさい、とヴィカは言う。


「その果てにこそ、私はお前を迎えに来てあげる」


 瞬間、魔獣の体が緊張した。

 ヴィカの言葉は、すなわち一度彼女と魔獣が別れることを意味している。床に両手をつき体を前のめりにした魔獣は首を強く横に振ったが、応えは冷たい一蹴である。


「主の見張りがなければ命も守れぬ僕など、不要だよ。言ったでしょう、これは試験だと」


 魔獣の床に置いた手指に力が籠もった。がりりと床材がたやすくも鋭く削られる音に、ヴィカが壁に背中を押し付ける力も増したが、魔獣が彼女に飛びかかってくるようなことはなかった。

 そこでヴィカは内心ではそろそろと、表向きは淡々と更に言葉を重ねていく。


「私は一度この都を離れる。けれど、お前はもちろん追ってきてはならないし、この土地を離れてもいけない。ここに、ひとが王都と呼ぶこの都に留まり続けなさい」


 そこで、意識して少しだけ声を和らげた。


「だって、お前まで動いてしまったら、私が迎えにいきにくいでしょう?」


 魔獣の全体を見る振りをして、実際にはその両手に釘付けだったヴィカの視線の先で、白い指先の力が緩む。


「お前が試験に合格した時、私はお前に会いに行くよ。そうしてその時にこそ、私の名を許し、お前に名をあげる」


 ――名前、欲しいのでしょう?


 ほのかに微笑むような唇が囁く。

 くう、と魔獣が喉で鳴いた。きらきらと宝石のようにまたたく双眸が揺れる。なにゆえとも知れぬ沈黙の後、やがて魔獣が口を開いた。


「ちかう」

「何を」

「すべてを。まもりつづける。まちつづける。ゆるしてもらえるまで、ずっと。

 ――――誓う」


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