14.魔獣の望みと魔女の望み
全身の毛が逆立つ。それは痛みゆえでも怒りゆえでも、しかし恐れがためでも、またなかった。
似たものを探すなら、紙で指を切った時の感覚に近い。自分の内側を異物が擦りあげていく、ひどい不快を伴った猛烈な異物感。
掌を裂かれて左手を振り上げたのが反射ならば、傷口を舐られその手が止まったのもまた反射だった。――そうしてまた、背中を壁にぶつけるまでの一連の動作もやはり、反射であったと言う他ない。
先の拘束が嘘のようにたやすく取り戻せた右手を胸元に抱いて、ヴィカは壁を背にして立っていた。萎えていたはずの腰と足は、力強くとは言えないまでも、確かに彼女の体を支えている。それが時間の経過による回復なのか、それとも一種のショック療法による結果だったのかはわからない。胸元におしつけた拳をどんどんと突き上げる鼓動は、彼女にそんな思考を許さなかった。
「―――っ、ハ」
ヴィカの唇を呼気が割った。肺がひきつったように震える。それ以上は後ろに下がれない代わり、壁に身をすりつけるように体重を預け、血でぬめる拳を固く握って、
「は、ッはは!」
ヴィカは笑った。
何もおかしくなどない。おもしろくもない。ただ、何かをどうしても口にしたくて、それなのに表すべき感情すら何一つ思い浮かばず、けれど衝動だけが溢れた時、ひとは笑うのだな、と、遠いところで心が思う。
元の場所にしゃがんだまま動かずにいた魔獣は、自分の掌を顔に寄せて、スンと鼻を鳴らした。ヴィカが手を振り払った時に移った、真新しい血の雫を鼻で追う。そうしてからおもむろに、かぱりと顎を落とすように口を開いたかと思うと、頭ごと動かしてベロリと自らの手についたヴィカの血を舐め上げた。
……現実と記憶が二重写しになる。あの時、孵ったばかりの魔獣も、今と同じような仕草をしていなかったか。あの時も、同じように魔獣の手は血で汚れていなかったか。そしてそれは、一体誰の血だったか。
震えるような直感があった。しかし同時に、だから何だとうち捨てた。ただ単純に弱った心を震わせるだけの事実確認は、何一つ現状を解明してはくれないからだ。
ぐっと、ヴィカは握り込んだ拳に再度力を込めた。
問題は、魔獣がヴィカの血を口にしたことではない。ぞわぞわとした不快な異物感は、比喩の話ではない。
ヴィカを血を摂った魔獣がたどたどしく彼女の名を呼んだ時、ヴィカは確かに指を切り裂く紙のような、瞬間的で、けれど猛烈な不快の余韻を残す干渉を、魂に受けたのだ。
血は魂の欠片である。名は魂に繋がる扉のようなものだ。だからこそ多くの場面において、血と名は常に重要視される。しかし無論その力は無条件に、あるいは無作為に発揮されるものではない。干渉するにせよ、干渉させるにせよ、そこには力ある者の意思が存在する。
ヴィカの不快は、彼女自身は望まぬにもかかわらず、魔獣のみの意思によって、血と名により干渉が行われたためだ。つながろうと、されたのだ。
意味するところはひとつしかない。
「……お前、私と」
血を欲する。名を欲する。それを以て、つながろうとする。
「契約しようって、言うの?」
それこそを、契約と言うのである。
契約、その一言に、感情の薄い魔獣の双眸にかすかな彩が灯った。負の色ではない。しいて名前を探すならば、恐らく期待辺りがもっとも近い。
それを、ヴィカはなおも信じられない思いで見ていた。
血や名の受け渡しが、互いの関係をどう規定するかは、その契約の種類による。しかし今夜、この生まれたばかりの“名無し”の魔獣との間に人々が結ぼうとしていたのは、紛うことなき主従の契約だ。主の名と血が鎖付きの首輪の代わりとなり、魂の形すらねじ曲げる、そんな契約である。
そんなものを自ら求める話など、聞いたことがなかった。
――いや、あるいは。と、また考える。
魔獣とは言え、生まれて一日も経たぬ存在だ。幼い無知故の誤謬がそこには潜んでいるのかもしれなかった。思わず尋ねてみようとして、慌てて言葉を飲み込む。仮にそうだとして、指摘する利点がない。むしろ、不愉快で屈辱的な契約の実情を理解した結果、激怒を買わないとも限らない。
そう、実際のところ、今ヴィカの目の前にあるのは、大変においしい、稀にみる魅力的な機会であった。
滅多にお目にかかれない輝核石の獣の、それもまた更に珍しい人型の、おまけに末恐ろしいほどに美しく、その力の強大さと残虐さは言うまでもない。そんな素晴らしい存在が、貴方の永遠の従僕になる契約を結びます、と言って宝石のような双眸を瞬かせているのだ。
ごくりと、ヴィカは息を呑んだ。
――そんなもの。
「なまえ」
たどたどしいが濁りが払われた声は、目を瞑って聞けばきっと愛らしい。
その声で、また「う゛ぃか」と呼ばれる。ざわざわと顔を顰めるような怖気は、しかし確かに魔獣がヴィカを求めている証でもあった。
魂への干渉の気配に眉を顰めていたヴィカは、一度ぎゅっと目を閉じた後、覚悟を決めて魔獣を見た。
「……名前、欲しい?」
覚悟を決めたわりには、最初の声は囁くようで力に乏しかったが、魔獣の目は輝いた。
名前を与えられる意味を、本当にわかっているのだろうかと再度思う。自らを魂ごと差し出そうとする無邪気は、果たして意図なのか、無知なのかを。
目の前にあるのは、誰もが喉から手がでるほど欲しがる獣。
――ああ、そんなもの。
何の嘘偽りもなく、本当に心の底から、振り絞るように、思う。
――絶ッ対に、いるものか……!




