13.理解しえぬ
術を失った、今や文字が書き込まれただけの布を手に、ヴィカはそっと身を引く。
「……、……、…………ぁ゛」
ぴくんっ、と魔獣の小さな肩が動いた。丸まった双眸がぱちんぱちんと二度瞬く。それはヴィカが初めて見た、魔獣の感情的な反応だった。
震える喉に両手を這わせていた魔獣は、やがてぐっと顎先を高く突き上げ喉を真っ直ぐに伸ばし、そして、吠えた。
それは咆哮と言うには、あまりに細かった。ヴィカの聴覚からすれば、なんとも醜い、眉を顰めるような、声とも呼べない濁った喘鳴でしかなかった。それでも生まれ出た瞬間に喉を封じられた魔獣にとっては、これこそが、産声だ。
肺を空にするような細くとも長い長い吠え声を、その姿を、ヴィカは微動だにせず聞いていたし、見てもいた。僅かな哀れを感じていたのかもしれないが、自覚する前に、吠えきった魔獣が振り子人形のような勢いで首を戻してヴィカを見据えたので、緊張以外の全てが霧散する。
知らず息を呑むヴィカの顔を色違いの目でじっと見つめながら、やがて魔獣は彼女に向けて、口を開いた。
語りかけてくる。
「――う゛ぁえっ」
「……」
困ったことに、まったくわかる気がしなかった。
「う゛ぁー……、ぇ?」
幸いにして、というのもおかしいかもしれないが、魔獣は獣の言語で喋っていたわけではなく、ただ単純にまだうまく言葉を操れないだけだということはすぐにわかった。
どうとも表情を作れないでいるヴィカの顔を見て、魔獣は小さく頭を斜めにした。それからもう一度同じように鳴いたのだが、そこに至ってごくごく僅かに眉を顰めたのである。
「ぁ゛ーえ」
小さな掌が自身の喉を数度叩く。うぅ゛という低い唸りは、たとえほとんど表情に変化がなくとも不満を表すものだということは容易に知れた。
再びじぃっとヴィカの顔に注がれる視線が、物言いたげな、もっと言えば何かを期待するようなものであることも、残念ながら伝わってきた。
しかし期待されてもわからないものはわからない。ヴィカが首を横に振ると、魔獣はまた低く唸り、彼女から顔を背けた。
そこからしばらくは待機の時間となった。別の言い方をすれば、ひとり鳴き騒ぐ魔獣の発音練習の時間であった。
その間ヴィカは完全に無視され、放置された。油断を狙うというならこれほどの好機もなかったが、しかし彼女は何もしなかった。結果を伴うほど隙を突けるとは考えられなかったし、どうせ同じ死ぬのなら、そうまでして魔獣が話したいことが何なのかを知りたかったのだ。
「――なー、ァ゛え!」
「え?」
ヴィカよりも、彼女の声に対する魔獣の反応の方が過敏だった。瞬間、背筋すら伸ばしてヴィカを振り返る顔、その瞳には、やはり訴えかけるような期待がある。
「ン゛ぁ、まえ」
「……なまえ?」
「まえ゛!」
わかったところで、わからない。
というのがヴィカの偽らざる気持ちだった。頭の中で「名前」と変換された三音は、しかしだからと言って何も解決しない。同音の異語があっただろうかと意識を巡らせたところで、魔獣に焦れたように吠えられた。まだ幾分痰が絡んだように濁る声は聞きづらく、発音も覚束なかったが、繰り返される吠え声は、魔獣の反応からしてもやはり「なまえ」で合っているようにしか聞こえない。
急き立てる視線が険を帯び始めて、ヴィカは焦った。他の「なまえ」はどうしても浮かばない。ならば問題は、何のあるいは誰の「名前」かということだ。しかしそれについてもまた、今この場では他の答えを彼女は持たなかった。
だから、叫ぶように答える。
「ヴィカ!」
ぴたりと魔獣が鳴き止んだ。だが、その後の魔獣の反応は完全にヴィカの予想の外だった。
魔獣は、あれほどなまえなまえと騒いでいた魔獣は、まったくもって「きょとん」としか表現しようのない顔で彼女を見たのである。
ヴィカの顔が、一瞬で赤熱した。なぜなら魔獣の顔は、どう見ても、どう考えても、予測できないほど的外れな答えを返された者の顔だ。そうとしか思えない。ひどい辱めを受けた気持ちで、ヴィカは魔獣を恨みさえした。お前の発音が悪いせいじゃないかと。
「う゛ぃ、ィカ? なン、まェ?」
「私の名前っていうのなら、そうだよ! 違うなら違うだろうけどね!」
落ち着いて考えれば、そんなに恥じ入ることでもないはずだ。しかし一度でも恥と認識してしまえば、顔の熱はなかなか引いてくれそうにもなかった。熱い顔に左手を当て、その陰でヴィカは「クソ」と毒づく。意図して魔獣の姿を視界から外す。
「う゛ぃ、カ。ヴィカ……?」
「わかったよ、違うって言いたいんでしょう」
あてつけみたいに繰り返さなくていい。首を傾げるような動きさえ、嫌味のように思える。
感情の高ぶりは思わぬほど行動を大胆にさせて、ヴィカは右手を犬でも追いうように振るった。その、手を。
魔獣が捕らえた。
「っ?」
咄嗟に引っ張ったが、びくともしない。魔獣の気分ひとつに左右される命だと言うのに愚かなことをしたと思ったところで今更だ。まだ顔は熱かったが、体の芯は瞬く間に冷えた。
掌を上にする形でヴィカの右手は掴まれていた。魔獣の小さな両手は力が入っているようにも見えないのに、獣の膂力を潜ませている。するすると掌を撫でる指先の意図がわからず、心身の強張りだけが増した。
「ッ、つ」
奥歯で悲鳴をすり潰したヴィカは、魔獣の鋭い爪先が自分の掌を真一文字に切り裂くのを見た。
腕を引き戻そうとする反射の動きは、やはりたやすくねじ伏せられる。続けざまに振るった左手は、恐らくは魔獣の手を引き剥がすか、その顔を叩くための、これもまた反射だったのだろう。しかし現実には、ヴィカの手はそのどちらも果たすことなく、中空でギクリと動きを止めた。
血の噴き出す傷口を、魔獣が舐り上げていた。
一度、二度と、生温い舌が丁寧に裂けた肉の上を這った。犬が水を舐めるような音と仕草に、痛みでも怒りでもない震えがヴィカの背中を伝う。
視線を伏せていた魔獣が顔をあげた。左手をもたげたまま、声もなく目を見開くヴィカを見る。
「う゛ぃか。もういちど。なまえ」
開いた唇からのぞいた舌は元よりも赤かった。ような気がした。




