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11.五感で知る未来

 ――嗚呼(ああ)


 荒い息を繰り返しながら、ヴィカは心の内だけで言葉を作った。雑多な小道具が積まれた棚と棚の間、空っぽの檻の陰で小さく身をかがめ両手を重ねた拳を口元に押し付けながら、ヴィカは大きく見開いた目で床を睨みつける。

 目に入るのは塗料の剝げた木張りの床と、薄暗い部屋の中に差し込む光を反射して白く舞う埃の粒。

 耳に入るのはしゃくりあげるような自分自身の荒く短い呼吸音と、それから、……それから、ああ。



 それは反射と言って、さしつかえなかった。あるいは、本能と。

 魔術師の身体が床に沈み、巨猿がひときわ大きな咆哮をあげる。その激声を耳に、解錠された首輪をむしり取ったヴィカは即座に床を蹴った。何を考えることもなく、彼らに対して背を向ける。飛び込んだ先は、舞台袖に備えられた小部屋だ。

 何のあてがあったわけでもない。逃げようという意思の自覚すら間に合わなかった。動物的な衝動一色に塗り潰された頭の中に、ようやく理性とも呼ぶべき思考が戻ってきたのは、薄汚い物陰に震える身を縮めてからのことだ。

 扉のない小部屋は外から思うよりかは広かった。と言っても、ヴィカが飛び込んできた入り口から中全てを見通せないほどではない。棚には鞭や首輪、壁には鉄鎖や種々の錠。床には木箱や小型の檻が並ぶとくれば、ようは小道具の保管場所なのだろう。当然のこととして、窓も、他の出入り口も、存在しない。完全な袋小路だった。

 それでも、ヴィカの足は根が生えたようにもうそこから一歩も動けそうになかった。なぜなら逃げ道はあの光差す出入り口の向こうにしかない。しかしてその“向こう”すら、また袋小路であることに変わりはないのだ。

 一度死を覚悟し、そこから再び奮い立った心は、しかし今度こそ挫かれていた。もはや今のヴィカに残されているのは、消極的な延命の手段でしかない。すなわち、ただ物陰に潜み、必ずやってくる袋小路の結末を少しでも先延ばしにしようとしている。

 胸を打ち破りそうな鼓動と同じくらい荒い呼吸も、皮膚を掻き破りそうなほどに爪を肌に食い込ませる指先も、自分ではどうしようもできない。できないほどに、怖い。怖かった。自分の結末が見えるから。……いや、聞こえるから。


 ――ああ。

 ――未来の音が、聞こえる。


 光差す向こう側から。

 もうひとつの袋小路から。



 無間(むけん)の、叫喚が。




 恐ろしさゆえにこそ、目を閉じることも耳を塞ぐこともできなかった。

 床に伸びる一際明るい光の帯に影が差して、咄嗟にヴィカは口を両手で押さえる。より一層浅くなる呼吸を必死に押し隠す。

 小さな影の頭部が揺れているように見えるのは、首を巡らせているからだろうか。ヴィカの位置をその鼻で探っているからだろうか。小さな足音はゆっくりと、そして(あやま)たずヴィカの方へと向かってくる。

 やがて、床を移動する人影だけを見つめていたヴィカの視界を、実物が遮った。

 まるで貴族子弟のような小綺麗な衣装は、ところどころが焼け焦げ破れていた。そしておびただしい血に(まみ)れていた。丈の短い衣服から伸びる幼い四肢もまた同様で、とりわけ両手はもはや肌の色さえわからない。

 その癖なぜか、僅かな飛び散りしか見えない銀色の髪の毛と白皙の(かんばせ)を乗せた首をコクリと傾げて、ヴィカを見下ろす魔獣の、その、顔。

 無垢と無感情のどちらがふさわしいかを躊躇うようなその表情を見た途端、もう動かないと思っていたヴィカの膝のバネが弾けた。小さな身体を押しのけ、腰が落ち床に這いそうになる自分の身体を必死に押し上げて、ヴィカは部屋から逃げ出す。たとえそれが無様な一瞬の延命行為だとしても、その本能の衝動に逆らう理性を彼女は持たなかった。


 もつれる足でつんのめるように部屋を飛び出す。視線は自然と、唯一の出口である大扉に向かった。――瞬間、腰から下の力が完全に抜けてヴィカはその場に転倒する。前方に投げ出された身体をしたたか床に打ち付けた。床部が先の戦闘の余波を帯びぬ無傷の場所だったお陰で怪我はなく、ただ骨にまで響くような衝撃が全身を走る。だがそれを幸いとも不幸とも思う余地なく、両の肘から先を床について僅かに身を浮かせたヴィカは次の瞬間には嘔吐していた。

 宿屋で軽い朝食を取って以降何も口にしていなかったため、少量の胃液以外吐くものはない。舌を痺れさせる苦みが、喉の奥から鼻腔までを()えた臭気となって突き上げる。しかしそれよりもなお酷い悪臭が、嘔吐(えず)きを治めることをヴィカに許さなかった。

 臭いの正体も、その発生源も明らかだった。全て、彼女の目の前に広がっていた。言葉にすることはできない。ただ、もう、ヴィカ以外誰も残っていないことだけは確かなようだった。

 血肉の(なまぐさ)さと、内臓の内容物が発する酸っぱいような苦いような異臭が混じり合った凄まじい悪臭は目の粘膜すら刺激して、嘔吐の苦しみと一緒に涙になる。涎と涙を同じように床に滴らせながら、けれども、わかっていたことじゃないかという声を、ヴィカは自分の頭の中に聞いた。

 だから隠れていたのだろうと。これを恐れていたのだろうと。


 望み通り、一番最後までは生き延びたじゃないか、と。


 俯けた顔の近くに影が差し、ヴィカはゆるゆると頭を上げる。

 背景に自らが引き起こした惨劇を背負って、しゃがみ込んだ魔獣がじっと彼女の顔を覗いていた。


 ああ、死んだな。


 ヴィカは、本日二度目となる予感を得た。

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