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10.戦慄の名前

 指先の感覚だけで首輪を(とざ)す鍵穴の位置を探る。

 鍵穴を押さえる指の脇に押し付けるようにして、鍵先を添える。

 指と一緒に鍵を横にずらしていって、鍵先を正確に鍵穴にあてがう。

 多少位置や角度を変えながら二度三度鍵穴に押し込み、間違いなく刺さらないことを確認する。……1本目、ハズレ。


 たったこれだけの作業に、ヴィカはもう鍵束を床に叩き付けたい衝動にかられた。

 1本目で正解に辿り着く可能性の方が低いのだ。焦って、正しい鍵を見過ごすことこそ避けねばならないのだ。わかっている、その通りだ――と、自分に対する説得と肯定を繰り返さなければ、本当にそうしてしまいそうだった。叫びながら鍵を投げ捨て、首輪の巾着錠をがむしゃらに引っ張り、檻の鎖を素手で引きちぎろうとする。狂乱の誘惑だ。

 恐怖と化学反応を起こしそうな焦燥を押し殺し、丁寧な迅速さに必要な冷静を自分に強いる。まだたった1本しか鍵を試していないのに、もう半時間は同じ作業を繰り返しているような気持ちになっていた。焦りと緊張が()い交ぜになって体感時間を引き延ばしているのだ。


 そう、現実の密度と実際の時間の経過は必ずしも比例しない。

 震える指で鍵を握るヴィカの現状もそうだし、今夜この場で起きた出来事そのものがそうだと言えた。

 魔獣を競り落とした男が死に、魔獣を取り押さえていた下男が死に、会場が狂惑に満たされ、魔術が破れて、魔術師が使い魔を召喚し、魔獣と交戦中。

 盛り沢山な展開は、しかし実際の時間経過に当てはめれば目まぐるしいまでに凝縮されている。魔術師たちと魔獣の戦闘とて、彼らの体感がどうであるにせよ、実際にはまだ数分と経っていないはずなのだ。


 だから――、と後からならいくらでも言葉を重ねられただろう。

 例えば、数分も経っていなかったから、とか。

 魔術師や魔獣のことで頭がいっぱいだったから、とか。

 自分が助かろうとすることで手いっぱいだったから、とか。


 しかし言い訳を重ねるゆとりもない現実では、ただ、ヴィカは俯けていた視線を頭ごと跳ね上げた。


 周囲には音が満ちている。

 魔術師が放つ術の炸裂音。巨猿のすさまじい唸り声。壁材が抉られる音に、床材の破砕音。それから、惑乱する人々の叫喚。

 意識さえすれば、叫声は雑多な背景音から意味を持った言葉の連なりに昇格する。

 死にたくない。助けて。早く開けろ。出して。早く。なんで。どうして。


「どうして開かないんだ!」


 誰かの悲鳴が、ヴィカの身体の芯で今日何度目かも知れない(おのの)きに変わった。



 良識を持たぬ賭博場や、法規を逸した奴隷の競り市は、大抵地下や、あるいは窓のまるでない場所で行われることが多い。それはそこに巣くうのが穴蔵好きの(むじな)どもだから、というのは当然皮肉に過ぎず、実際はもっと単純で現実的な理由だ。出入り口は少ない方が、逃亡も、侵入も、防ぎやすい。

 そうした意識の延長として、例えば「闇」や「地下」を標榜し、室内で行われるオークション会場の扉は、その競り全てが終了するまでしばしば文字通り鎖される。重厚な錠前が用いられることもあれば、――魔術によって封じられることもある。


 ――逃げようと扉に殺到したはずの人々の叫び声の量が、()()()()()()()()()

 ヴィカが気づいたのは、それだった。


「勘弁してくれ……」


 空気がこぼれるような掠れた声がヴィカの唇を割る。


 単に鍵がかけられた、(かんぬき)を下ろされたというのなら、例えば斧でも何でも持ってきて、鍵かあるいは扉そのものを打ち破ってしまえばいい。

 だが、魔術で保護された扉は斧では壊せない。


 拘束術を扱うのだ。単純に扉の開閉を抑える封印術など初歩の一手だろう。室外に通じる唯一の大扉の上部に、ほの青く浮かぶ魔方陣の施主など改めて考えるまでもなかった。

 当然、術を(ほど)けるのもたったひとりしかいない。施主を上回る術士がいれば話は別だが、もしいるならばとうに扉は開かれているはずだ。


 ――いよいよ、魔術師に勝ってもらわねば、後がない。


 もう一生分ゾッとしつくした心地で、ヴィカは背筋を舐める悪寒に耐えた。封印術の類は、施主の生死が影響しない。解くか破るかの二択しかないのだ。とは言え、今の状況の魔術師に扉を開けろなどとは口が裂けても言えなかった。


 だが、どうすればいい。この首の鍵が外れたら、自分には一体何ができる。

 せめてあと二日後ろだったらと思わずにはいられない。そうすればヴィカは魔女としての力を完全に取り戻し、あんな扉の術などたやすく打ち払ってみせるのに。しかし、いや、そもそも、力を取り戻していたら人買いになど捕らわれるはずもなかったわけで。だいたい、……思考が逃避を始めている。

 下唇をきつく噛んだ。「違う、考えろ」と自分に囁く。手を動かしながら、考えろ。――3本目も、ハズレ。


 幸いと言っていいのか、魔術師は扉に群がる人々の更なる混乱にまで意識を向ける余裕はないようだった。先程までのヴィカと同じように、人々の叫びは外界の雑音でしかないのだろう。

 だが、それはそれでいいのだ。むしろ、そうでなくてはならない、というのがヴィカの感想だ。些細な要素で決する戦闘をこそ、一進一退の戦いと言うのだから。

 仮にヴィカの身が自由になったとしても、自分の命を守りながらあの戦闘に介入する方法がどう考えても浮かばない以上、魔術師たちには自力で魔獣に勝ってもらう他ない。

 ヴィカの見たところ、一進一退とは言え、決して戦況は悪いものではなかった。生まれたての本能に積み重ねられた智略が徐々に勝ろうとしているとでも言えばいいのだろうか。


 だから、そのまま押し切ってくれ。

 扉など後で構わない。何より重要なのは、その魔獣をどうにかすることなのだから。

 あと、もう一息――。


「――ルボシュ・ペテラ!」


 ヴィカには、それは意味不明な音の連なりでしかなかった。

 だが、魔術師の男にはそうではなかった。筋肉が不随意な跳ね上がりを見せ、視線が横に流れる。


「何をしている! 先に儂らを逃がさんか! 扉を開けよ!」


 誰にとっても唯一の、特別な、決して雑音にはなり得ない、一語。

 それが名前だと気がついた瞬間、比喩ではなくヴィカの息が一瞬止まる。ほぼ同時に鍵穴の奥まで4本目の鍵が突き刺さった。反射的に指先を捻ると、ガチリと確かな手応えが返ってくる、のを。


 肉と骨が致命的に損傷する異音と共に床に叩き付けられる魔術師の姿を見ながら、ヴィカは知覚した。



 歓喜と恐怖が同時に全身を駆け巡る、という経験は、生まれて初めてのことだった。

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