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[1]

 雲一つない青空。どこまでも続く、日焼けした地平線。

 影の内から眺めるその世界は、いつも陽気で、いつも冷淡で、彼女を憂鬱にさせる。…この季節は、いつもそうだ…。

 自分は、この星と言う大きな毬玉(まりだま)に押し込められている。そんな(らち)もない感覚は、不意打ちの様に訪れ、ブーツの中の足裏を(しび)れさせる。

 この季節は…向日葵(ひまわり)の花が枯れる季節は、彼女にとって…風見幽香(かざみゆうか)にとって、いつもそうなのだ。

 幽香が、差し掛けていた日傘を閉じた。

 朝旦(ちょうたん)の日差しを受けた若草色の髪が、(こうべ)を垂れる向日葵たちの畑に、瑞々(みずみず)しい花を添える。

 熱い風が正午へと吹き抜け、枯ればむ向日葵たちを、幽香の髪を揺らす。…風たちも知っていたのであろう。深紅の瞳を持つ彼女が、別れに手向(たむ)けられた花である事を…。

 そよ風をうなじに覚えた幽香は、シャツの襟首(えりくび)を指で引いて、悩ましげな吐息を漏らした。

 (盛りを過ぎれば、花は枯れ落ちる。それは、自然なこと。それに…それは、永遠の別れとは違う。枯れた花は種を落とし、また、この季節が訪れるのを…終わってしまった季節の訪れを、待っている。土の下で眠りに付いて、生命を謳歌するこの季節を…。何度でも花を咲かせ、何度でも枯ればむ為に…。)

 幽香はもう一度、切なげな溜息を一つ。

 「それは、素晴らし事なのでしょうね。だけど…日に焼かれ、枯れ朽ちていく貴方たちの姿を…私には、とても見て居られない。例えそれが、生き抜こう、命を繋ごうとする姿でも…立ち枯れた貴方たちは、二度と、花を咲かせる事はないのだもの。」

 項垂(うなだ)れた向日葵の一輪へ、そっと、白い手を寄り添わせる。愛おしげに頬を撫でる様な、その仕草は途方もなく優しく、慈しみ深い。しかし、そんな彼女の手でさえも、種子を育み、命尽きる花を救う事は出来ない。

 茶色く皺枯れた花弁が、白い手首を(かす)め、地面に零れ落ちた。

 「そこまでして、貴方たちは種を残す。ただ、花を咲かせ続ける事も出来たのに…貴方も、貴方の親も、そして、貴方の子供たちも…そこまでして、種を残すのでしょうね。ずっと貴方たちを見つめて来て、それでも…私にはその気持ち、解からないな。なんだか、雲を掴む様で…。」

 幽香は、高い、高い青空を見上げ、(まぶ)しそうに目を細める。寂しさも、胸のわだかまりも、透明な清々しさに成って、身体を抜け出していく。

 花弁を落とさぬ様に、ゆっくりと下ろした、その手。その手で、幽香は日傘を開き直して、

「それじゃあ、私はこれで行くね。見捨てる様で辛い気持ちもあるけれど…。私が居ると貴方たち、『頑張り過ぎて』しまうから…。」

 日傘の影に隠れ、日差しに温められたブーツのつま先を持ち上げ、とぼとぼと、幽香は歩み出した。

 「来年のこの季節に…。また、この場所で会いましょう。」

 去り難さと、裏腹な、逃げ出そうと歩を急かす思い。

 それらを混ぜこぜにしても、なお微かに残る罪悪感を覚えながら…。ひたすらに、幽香は歩き続ける。

 だが、何程も歩かぬ内に、彼女の歩みを止めるものが…物音が、幽香の耳に届いた。

 カランッ、カランッと、金物同士がぶつかり合う、気の抜けた音。この向日葵畑に、彼女以外、人も、妖怪すらも通わないこの場所に、規則正し物音。確かに、それだけで充分に奇異な出来事ではある。

 それだからと言って、珍しい音を聞いたから幽香は足を止めた…そんな訳もない…。

 彼女が足を止めたのは、その規則正しい物音が…カランッ、カランッと、一歩分の歩幅を進む毎、響く音が…こちらへと近付いて来る。自分ですら見捨てようとしているこの向日葵畑を、訪れようとしている者が居る…それに気付いたから…。

 開いた傘の中棒を肩に担ぎ、茶枯れた向日葵へ振り返る、幽香。下照る地面の上、ザッ、ザッと、土を踏み締める音が混じり始めた。

 見下ろす傘の影。その向こうに『アナタ』が現れたのは、太陽の真上に昇る、正午の事であった。

 肩からはみ出るほど、大きなリュックサック。その上に丸めた藁束(わらたば)を乗せている。

 いいや、よくよく見れば、それだけでは済まない様だ。リュックサックのあちらこちらには…鍋やら、ポットやら、まな板らしき物やら…所狭しと、ぶら下げられているではないか。

 『幽霊の正体見たり枯れ尾花』。さながら蓑虫(みのむし)の様な、その風体が金属音の正体だった訳だな。

 幽香もそれに気付いて、小さく鼻を鳴らして…。しかし、何となく背中を向ける事も、この場を去る歩みも起こせないで居る。

 今更ながら、この場を去りがたい思いに足を取られたか。それとも、野暮を背負(しょ)ってやって来るアナタが、ちゃんと、この場を通り過ぎるのを確認する為か。理由は色々と付けられるだが…。

 舌先で千切った重苦しさを唇から漏らして、幽香は味の濃い笑いを浮かべた。

 「あぁ…。どうも、こんにちは…。」

と、どうやら、その魅力的な笑顔が、自分に向けられたものと勘違いした様だな。やや大儀そうに腰を曲げて、アナタは彼女に頭を下げる。

 日傘を差している訳でもないのに、すっぽりと、大きな影に収まった姿。アナタのその姿へ、幽香は…無言で、睨み返した。

 「…すいません。頭の足りない人間のこと…どうか、見逃してやって下さい。」

 アナタの口にした言葉。そう、『人間』という言葉の影には…『自分とお前は違う』…そんな微妙な意味合いが見え隠れしていた。

 気が付いていたのだな。アナタの目の前に居る女性、その華麗な美貌が人のそれではないと…風見幽香が人外の存在である事に…。だが、それなのに…。

 (こいつ、私が人間でないのを知っていて…それなのに、逃げないのか。)

と、幽香が胸中で、半ば呆れた様に、半ば感心した様に、呟く。それも当然であろう。

 ドッカリッと肩の荷を地面に下ろし、深々と溜息。アナタのそんな姿は、『化け物、何するものぞ』などと言う、豪胆さからは程遠い。

 そうかと思えば、ぐるぐると肩を回し、柔軟運動をしてみたり…。化け物の目の前に居るはずが、馬鹿に(くつろ)いで見える。

 これは一体、どう言う事か。いいや、これはやっぱり、

(馬鹿なの、こいつは…。さもなければ、どうして、私の前に居られる。それに、どうして…。人間がこんな所を訪れるなんて…。)

 チクリッ、幽香の胸の奥で、鋭い(とげ)(うず)く。思い出してしまったのだ。上目遣いでこちらを見つめる向日葵たち…潮垂れ、抜け殻の様になった彼らを…自分は見捨てて行こうとして居た事に…。

 こんな苦々しい感情を思い起こさせたアナタへ、幽香はより厳しい一瞥を送る。それから、

(余計な相手に、余計な時間を食った所為ね。我ながら、こんな余計な気の回し方をするなんて…。あの男がここで何をするにしても、向日葵たちを見捨てて行く私に、それを咎め立てする権利は…。)

と、思い直し、キツイ眼差しを送っていた深紅の瞳を、傘の影に隠す。アナタも丁度、リュックサックの上の藁束に見えていた物…使い込まれボロボロに成った(むしろ)を、地面に広げ始めている。

 いいや、よくよく見れば、ボロボロなのは筵だけではない。

 どんな使い方をしていたのやら…。鍋、ポットは、底がデコボコに変形していた。

 リュックサックの皮革にしろ、ツルツルで、今にも擦り切れてしまいそうだし…そもそも…。そもそも、それらの持ち主であるアナタからして、くたびれた羽織と、ヨレヨレの夏袴(なつばかま)と言う格好。その上、髪もぼさぼさで、頬もこけている。

 つまりは、夏の終わりに、盛りを過ぎた向日葵畑を、やつれたアナタが訪れた。

 そして今は、筵を引き、ここに落ち着こうとしている。それは、衰え、弱った者たちが寄り添い合う様な、うら淋しく、切ない光景。

 もうこれ以上、そんな臨終の際に立ち会う事は出来ない。

 幽香は半ば逃げる様に、無礼なアナタへの怒りも忘れ、ロングスカートの脚を動かした。…アナタがリュックサックの中から取り出した、それが…やや()びの浮いた(なた)が、午後の日差しを反射するまでは…。

 それは分厚いは刃の、刃渡り30センチはあろうかという、大鉈(おおなた)。手斧の如き刀身、それに木製の柄の作り込みから見て、おそらく、枝打ち用の鉈なのだろう。

 唐突にアナタの取り出したそれに…その凶器を目撃して…幽香は思わず、立ち去りかけた足を止めた。

 (まさか、化け物と知っているはず…。その上で、この私を襲う積りなの。)

 彼女がそんな懸念を抱くのも、無理ない事であろう。鉈を手にしたアナタの瞳は、何と言うか…そう、()えているのだ。

 傘の柄を握る幽香の手に、力が籠る。身構えるまでもないのは彼女自身、解かっている。

 頭では解かっていて…彼女の膂力(りょりょく)ならば、相手が武器を持って居ようと関係なく、人間など一捻(ひとひね)りに出来るはず。しかも目の前に居るのは、人並みの腕力があるのかすら怪しい、痩せこけた男。身構えるなど、妖怪である彼女にとって、まったく馬鹿らしい事。滑稽な事。

 そんな風に、頭の中では自分の小心をせせら笑いながら…だが、やはり、無用と思っても、幽香には警戒を解く事が出来なかった。

 一体、アナタにそれ程の鬼気を与えたものとは…。何がアナタへ、その様に飢えた…鬼気迫る程の貪欲さを強いて居るのであろうか。

 背中を向けた途端、後ろから、アナタが鉈を振り下ろしてくる。恐ろしい訳ではない。不意打ちを食らったとして、幽香には蚊に刺された様なもの。そうだと承知しながら、それを微塵も疑って居ないで…なのに幽香は、アナタの一挙一動から、目が離せない。

 彼女の熱視線に気付いてか、アナタはあっちの向日葵を窺い、そうかと思えば次の向日葵へ。

 随分とたどたどしい様子に見えるのだが…まさか、幽香の訝しんだ通り、本当に後ろめたい事を…それも、まさかのまさか、鉈で背後から、彼女の頭をかち割ろうとしているのではあるまいか。

 真紅の瞳から逃げ惑う様に、居並ぶ向日葵の間を行ったり来たり。アナタは、そうやってウロウロした末に、一際茎の太い、一際枯ればんだ、一本の向日葵の前で立ち止まった。

 項垂れた頭から覗く、今にも零れ落ちそうな向日葵の種。照り付ける光の元、その無数に身を寄せ合う姿が、グロテスクな影が落とす。

 貪欲な痩せた人間と、生々しい枯れ草の対峙を、息を飲み見つめる、幽香。

 午後の日差しの真下で、重なりある黒いシルエット。その一方が、もう一方の首筋に寄せた刃が、チカッと、強く(またた)いた。

 「待てっ。お前は、何を…その花をどうする積りだ。」

 アナタが向日葵の茎を切ろうとした、寸での所。幽香の声が、その凶行に待ったを掛ける。

 ピシャリッと、叩きつける様な彼女の声に、アナタは肝を冷やした事であろう。大きく震えた危なっかしい手元を、向日葵の傍から引っ込めた。

 「あぁ、ここの向日葵は、貴女のものでしたか…。」

 だらりと鉈を持った手をぶら下げて、アナタが愛想の良い笑顔を向けて来る。やはり、幽香へ対する敵意は無かったか。まずは一安心だな…主に、アナタの身の安全という意味合いで…。

 しかし、アナタの方から彼女に切り掛からずとも、未だ、危機はその矛先(ほこさき)を下ろしては居ない。それは、日傘の下の幽香の剣幕を見れば、明らかであろう。

 (あたか)も芯の入らないクラゲの様に、フニャラけたアナタの笑顔。そのヘラヘラした口が、座持ちの良さそうな言葉を吐こうとするのを…幽香は怒りに燃えた瞳で遮る。

 「私のものかどうか、そんな事はこの際、関係ない。お前が、その(あわ)れな花をどうしようというのか。私は、それを聞いている。」

 彼女の言葉の最後には、もう一言…激情のあまり、言葉に成らなかった文句が隠れている。

 曰く、『答えによっては、ただでは済まさない』という文句。それも…おそらくは、単なる脅しでは済まない文句が…。

 その怒りは幽香にとって、無理もない、当然の感情であった。

 彼女、風見幽香は、およそ妖怪には似つかわしない、一風変わった楽しみを…花を()でるという、(おもむき)ある日々の過ごし方を知っている。いいや、『楽しみ』などと言っては、彼女の不興を買うかも知れない。

 幽香は四季折々の花を求め、季節の移ろいと共に、身の置き所を変えてきた。

 彼女にとって草花は、最早、『趣味』と片付けられない、友であり、喜びであり、そして、『生きる糧』そのものなのであろう。

 それ故、彼女には見過ごせようはずもない。枯ればみ、静かに息を引き取ろうとしている向日葵。その喉元に凶刃を突き付ける、アナタの蛮行を…。

 彼女の瞳にはきっと、アナタの姿が死者に鞭打つ行為と映ったのだ。否、そんな、生易しいものではなかったであろう。

 アナタにだって、そんな彼女の憤懣は伝わっている。…はずなのだがな。

 幽香の怒りに接したアナタは、怖がるでも、困惑する訳でもない。

 日に焼けた頬を、ペタリッと撫で下ろす。それからアナタは、残念そうな笑みを浮かべながら、大息を吐いた。…まるで、自分のしくじりをせせら笑う様に…まるで、『人様の怒りや、失望には、飽き飽きだ』そう愚痴を零す様に…。

 妖怪である彼女を前にして、怖れを知らぬその態度。殺されない自信でもあるのか、それとも、死んでも構わないと思っているのか。アナタの奇妙な捨て鉢さに、脅しを掛けた側の幽香の方が、困惑している始末。

 彼女の怪訝(けげん)そうな目付きに気付いて、また、アナタは自嘲的に笑う。そうして、赤錆(あかさ)びの浮く鉈へ目を移すと、

「『どうするか』。それはこの鉈で…。」

 喋り掛けてすぐ、アナタは言葉を中断した。…彼女が聞いているのは、その鉈を使って『どうするか』…そう言う事でないことは、明らかだからな。

 分厚い刀身の重みが、肘の辺りで疲労に変わり始めた。

 アナタは、片刃の(みね)の部分で鉈を担ぐと、同じ様な格好の幽香へ笑い掛ける。

 「食べるんです。」

「…食べる。」

 「そう。種と、花と、それに、茎は…酢漬けにして…。」

「食べる…。」

 「そう、食べるんです。」

 革靴のつま先が、焼け付いた様に熱い。

 日向(ひなた)から足を引いた拍子に、グラリッと揺れる身体、肩から離れていく傘の影。

 結局のところ、日傘の先端と、幽香の気持ちの矛先は、アナタの上を掠め、地面へと倒れるのだった。

[2]

 手頃な大きさの石ころを見繕(みつくろ)い、コの字型で地面に並べる。その内側へ、枯れ落ちた向日葵(ひまわり)の葉やら、そこら辺の小枝やらを敷けば…あっぱれ、即席の石釜戸の出来上がり。燃焼効率は、かなり悪そうだがな。

 降り注ぐ日差しは、いよいよ、本領を発揮。容赦なく、目の前の景色を白んだ光に沈めていった。…それに…それより、何より…暑くて、暑くて、敵わない…。

 地面にしゃがみ込んだ幽香(ゆうか)は、またぞろ蒸し暑さに耐えかねて、首筋とシャツの襟の間に指を突っ込んだ。

 一体、彼女は何をやっているのだろうか。そんな事とは、誰に尋ねられずとも、幽香自信が一番…解かって居ない。誰よりも不思議なのは、彼女自身なのであった。

 こうして、陽炎(かげろう)立ち昇る地面に(うずくま)っている事。それだけではない。

 (何故…私は何の積りで、あんな事を…あいつを見逃したのだろう。)

 シャツの隙間から入り込む薫風(くんぷう)。幽香は心地良さそうな、そして、悩ましげな吐息を漏らす。

 幽香は、向日葵を『収穫』しようというアナタを、見逃した。…それは、遂今しがたの事である。

 普段の彼女であれば、許そうはずがない。花へ刃を向けるなど、見過ごす訳もないのに…。だが、(むしろ)の上に横たわっている一輪に関しては、そうしなかった。

 切れ味の悪い(なた)を振るうアナタが、手折るに任せたのだ。

 (私は…何で…。気持ちはあって…心は痛むのに…何で、止める事が出来なかったのか。…ううん。)

 疑問は心底からのもの。しかし幽香には、自分の薄情さの察しが付いている。そう、彼女には自覚があるのだ。

 錆び付いた鉈では太い茎を一太刀に出来ず、アナタは向日葵を引き千切った。…その粗野な行いよりも…ここに居並ぶ向日葵を見捨てた、自分の方が…自分の方が罪深いのではないか。

盛りを過ぎた草花の臨終に、『食べる』という形で向かい合う。そんなアナタの態度の方が、目を逸らした自分よりも、むしろ、何倍も誠実なのではないか。

 一度(ひとたび)迷いに取り()かれてしまっては、もう、いけない。そうしてとうとう、幽香はアナタを見逃してしまったのだ。

 肩に乗せた傘布から、じわじわと、午後の暑さが伝わってくる。

 現実に引き戻された幽香は、瞳だけ動かして、辺りの様子を(うかが)う。

 所々に虫食状の穴が開いている、使い古された(むしろ)。その上には、向日葵の亡骸(なきがら)の他に、(ざる)が一つ置かれていた。

 竹を編んで作られた笊の中には、皮のむかれた向日葵の種。おそらく…いや、幽香が皮むきなどする訳もないのだから…確実に、アナタがチマチマとやったに違いない。今更ながら、本当の、本当に、アナタは向日葵を食べようと言うのだな。

 ところで先程から、肝心のアナタの姿が、彼女の視界の内に見当たらない。食材と息を切らせ担いできたリュックサックを残し、一体、どこで油を売って居るのやら…。

 向日葵の足元に咲いた、薄緑色の日傘。陽光がその布の上に、しゃがんだ丸い影を透かす。

 そうして、昼時を少し行き過ぎ、空の真上から日が傾き始めた頃合いに…噂をすれば、もう一つの影…傘に映る幽香の影を、大きな人影が覆う。

 「はい、はい、ちょっとすいませんよっと。」

 そう言いながら、人影は…アナタは、日傘の周りを迂回し、石釜戸の方へ。

 アナタが横を通り抜ける瞬間、チャプンッ、チャプンッと、幽香の耳に届く水音。しかしながら、彼女が微動だにする事はなかた。…頭の上の備えは、万全だからな。

 早足で石釜戸へ近づいたアナタは、並べた石ころの上に、ドカッと、両手で抱えていたものを置く。

 ガタガタと、石の形を無視し、ねじ込む様に置かれたのは飯釜。しかも、如何にも重そうだったアナタの様子からして、米研ぎまでは終わって居るらしい。それにしても…なるほどな、アナタの持ち物がことごとく凸凹だった理由…よく解かった。

 腰をトントンッと叩いてから、大息を吐く。それからアナタは、筵の上の向日葵から花弁を引き抜くと、ガムでも(くわ)える様に口へ運ぶ。

 「助かりました。教えてもらった通りの場所に、沢があって…。」

 人好きのする笑顔を向ける、アナタ。だが、妖怪である彼女に、その様なお愛想は通用しない。

 幽香はきつい睨み目を、アナタへ返す。

 「私が、嘘を教えたとでも思っていたの。」

「そう言う訳じゃ…ただ、ありがとうございますと…まったく、そんな(ひね)くれた事、言わないで下さいよ。」

 …『まったく』は、こちらの台詞だ。妖怪である彼女を相手に、怖いもの知らずと言うか、お調子者と言うか、まったく…。

 馴れ馴れしくされ、不愉快なはずの幽香でさえ…ほら、呆れて、怒る気も失せてしまっている。

 アナタは可笑しそうに、向日葵の花弁をもう一枚、口に含む。それからお次に、笊を取り上げ、向日葵の種を飯釜の中に移す。

 ザァッと小気味の良い音を立て笊が空になれば、続いて擦り減った木べらで、味噌、醤油、みりんを適当に加える。最後に飯釜を蓋で閉じれば、準備万端。

 つまるところ彼は、炊き込みご飯を作ろうとしているのだ…向日葵の種で…。

 「手持ちの米が、そろそろ、心もとなかったんですけどね。こうやってかさ増しすれば、あと二週間は持つかな。…あぁ、ところで、そんな所でしゃがんでないで、こっちに来て腰を下ろしませんか。」

と、ボロボロの筵を、(はた)く、アナタ。その申し出に幽香は、初めて、ニッコリと微笑む。

 「遠慮します。誰がそんな、小汚いものになんか。」

 それにはアナタも、楽しそうに笑い返して、

「そいつは…尤もな話ですね。」

 (めく)れた上がった筵の端を引き裂き、ポケットから取り出したマッチで、切れ端に火を付けた。

 ブスブスと焦げ臭い匂いを伴い、快晴の空へと延びる黒煙。炎天下に、ボロ切れから火種と成ったものを見つめて…流石の幽香も、小さく息を飲む。

 彼女の表情がお気に召したのか、また嬉しそうに笑って、アナタは釜戸に火を放った。

[3]

 『始めチョロチョロ、中パッパッ、赤子泣いても蓋とるな』の教えにもある通り、飯釜を火にかける時はまず、弱火からと相場が決まっている。だが…。

 「おっ、好い音が聞こえてきた。」

 燃料のほとんどが、枯葉、枯れ草なこの釜戸。火加減の微妙な調節など、望むべくもなく…。火にかけて10分たらずで、もう、吹きこぼれ始めている。

 火は一向に弱まる気配を見せず、その有り様を眺める幽香の瞳も…何となく不満そうに、不安そうに…潜められていく。

 それでもアナタは、木蓋をずらし、わずかに隙間を作っただけで、その他はお構いなし。完全に吹きこぼれるに任せていた。

 「お前は…いいえ、アナタは、どうしてこんな…向日葵を食べようだなんて思ったの。」

 そう尋ねる声に続けて、大きな溜息が、幽香の唇から零れた。…それは、『食事』を用意するアナタに呆れた…のは勿論の事。それでも、問わずにはいられない…彼女自身に向けられた、溜息。

 吐息に見え隠れする彼女の苦悩を、アナタはどう思ったのであろう。フケだらけの頭を揺らし、ニッコリッ、笑みを浮かべて、

「あれっ、知らないんですか。向日葵は食べられる花なんですよ。」

と、続けて、何やら講釈を垂れようとするのを、

「それくらい、知っている。」

 幽香の冷え切った言葉が、余韻も残さず、アナタの語り口をぶった切る。それはもう、錆びた(なた)とは比べ物に成らない程、鋭く。

 これには、アナタも少し面喰った顔を見せる。しかし、その表情も一時、またすぐに笑顔が戻った。

 「怒らないの。」

「何がですか。」

 「怒れば良いのに…。それとも、そうやってのらりくらりとしていれば、格好いいとでも思っているの。」

 彼女の声が、言葉が、素っ気なくも辛辣(しんらつ)に、辺りへ広がって行く。そして…。

 そこで初めて、へらへらと笑うアナタの口元に、味の濃い、苦味が加わる。

 「久しぶりの話し相手、逃げられては詰まらないからな。」

 小さく呟かれた言葉に、幽香は瞳をこじ開けた。

 ぼんやりとしていた視野が広がり、見えてくる…。目の前で胡坐(あぐら)を掻いた男は、空腹感に苛まれ…そして、それだけではない。

 自分が思ったよりも、ずっと多くのものに対して、アナタは(かつ)えている。幽香にはそれが、はっきりと解かった。

 吹きこぼれた煮汁が直火に触れ、モワッと、熱い蒸気が広がる。

 アナタは大慌てで、飯釜に近付き…が、素手で掴むのは無謀だと気付くや、リュックサックに取って返して、雑巾の様なものを引っ張り出した。

 その頃には、粗方、蒸気も青空に溶け、飯釜も静かな音を残すだけ。

 飯釜を地面の上に退けたアナタは、消えかけた焚火へ、土を蹴り掛ける。リュックサックの生地と擦れた背中を、幽香はじっと見つめていた。

 「あ、あとは、こうして、少し()らして置くだけ…。おっと、食器を出すのを忘れていたな。」

 額の汗を手の甲で拭いながら、アナタは筵の上に座り込む。笑い声に荒い息が混じっているのか、はたまた、息つく間も惜しんで笑っているのか。どちらにしろ、今度のハプニングはなかなかに、アナタを動揺させていたらしい。

 火の元から離れた身体に、そよ風が通りかかる。着物をじっとり湿らす脂汗も、風の衣に(ぬぐ)われ、清々しさへと変わっていく。

 不意に訪れた涼しさを、嬉しそうに満喫する、アナタ。その背中へ、更に意外な冷や水が…幽香の呟きが浴びせかけられる。

 「向日葵が食べられる事は、私も知っている…。」

 おそらく、食器を出そうとしていたのであろう。リュックサックに伸びたアナタの手が、動きを止めた。

 幽香は変わらず、汗に濡れた背中を見つめながら、言葉を続ける。

 「でも、この土地の人間が持たない習慣でしょ。もしかして、アナタ、遠い…異国から来た人なの。」

 アナタは、前屈みに成ってリュックサックを引き寄せてから、

「いいえ。ここから二十里ほど行った山奥にある、小さな、小さな村の人間ですよ。…今は、追ん出された身の上で…とても、帰れそうにもありませんけど…。」

 言い終えてすぐに、『詮ない事を口にした』と、アナタは皮肉な笑気を漏らす。それから、話し相手の沈黙を取り成す様に、

「とにかく、向日葵を食べようなんて(やから)は、俺の村にも居ませんでしたね。」

 話の語尾は、リュックサックの中を探る物音に紛れていた。

 (これ以上、話を聞いたとしても…。私の望む様な答えが、こいつの口から出てくるとは限らない。だけど…答えは得られないかも知れないけど…私が何を望んで、こいつの話を聞こうと思ったのか。一体、私の望みは何なのか。それだけは、解かるかも知れない。)

 後ろ向きに傾いた日傘を引き寄せ、幽香は小さく頷いた。…いや、傘の柄を引いた拍子に、布が頭に被さって、そんな風に見えただけかも…。

 しかし、その仕草の真相はどうあれ、彼女はアナタへと問い掛ける。

 「それなら何故、アナタは向日葵を食べるの。」

「あれっ、ぼやいていませんでしたか、俺。米の手持ちが怪しいって…。だから、腹持ちの良さそうなのは、大歓迎で…。あとは、まっ、どんな味がするのか、好奇心を抑えられなかったんでしょうね。」

 「私の聞いて居るのは、見え透いた嘘じゃない。本当の事を教えて。」

 幽香は、笑いを挟む隙も与えず、アナタの答えが偽りだと断じた。…偽りだと見抜いた。

 その凛として、有無を言わせぬ声。アナタは結局…彼女の努力もむなしく…楽しげに笑う。

 「見え透いていましたか。」

「好奇心から向日葵を食べるにしては、料理の仕方が、あんまりなものだったでしょ。あれを見て居れば、誰だって可笑しいと思う。それに、お腹に溜まる物なら、他に幾らだってあるじゃないの。でも、アナタは、あえて向日葵を選んだ。どうしてなの。」

 「それこそ、俺のこの(なり)を見てれば、解かりそうなものじゃないですか。有る所には、それは、幾らでも食い物があるんでしょう。だけど、こっちにはないんです。その食い物を買う為の、銭がね。…ったく、空っ腹の男に、酷な事を言わせるもんじゃありませんよ。」

 アナタは笑いに笑い、そして、リュックサックから茶碗と箸を取り出す。

 持ち物のほぼ全てがくたびれている中、その素焼きの茶碗と、黒檀(こくたん)の丸箸だけ、使い込まれているはいるが、擦り切れ、擦り減っていなかった。

 丁寧に、茶碗の上に箸を置く。切なげなアナタの横顔に、容赦ない、幽香の声が突き付けられる。

 「魚は…。」

「えっ、魚。」

 「私が教えた沢には、川魚がたくさん居たでしょ。その内の一匹でも掴まえたなら、良いオカズに成りそうなものを…アナタは掴まえて来なかった。先に言っておくけど、『道具が無かった』なんて言い訳は、通じないから。」

 彼女の問いに、お調子者なアナタの顔色も曇る。

 自分の方へ身体ごと向き直った困り顔に、幽香は無愛想に念を押す。

 「アナタは、今にも尽きようとしていた命を…その向日葵の命を奪った。それだけじゃない。その向日葵の命を奪ったと同時に、あとに続く、何百、何千という花を枯らしている。芽吹くはずの種を食い物にして、咲くはずだった花の未来を奪った。…いいえ、奪おうとしている。」

 やや俯き加減で、彼女の言葉に聞き入っていた、アナタ。陽気だった顔も陰りに沈み…だが、そんな事も一瞬。終いにはまた、ニヤリッと笑い、そして…しっかりと頷いて見せた。

 「責めているんじゃない。私だって、生き物の命を奪って生きているし…。」

と、幽香は、誰にともなく許しを請うかの様に、自分でも頷いて見せてから、

「だけど、アナタには果たすべき義務があるのじゃない。アナタの糧となる向日葵に対して…。飢えを満たす事の他に、アナタに含むところがあるのなら…それを話す以外、その花を(とむら)う方法はない。違わないでしょ。」

 今度の問い掛けには、頷かず、目まで逸らした、アナタ。

 あと一歩という場面。肩透かしを食らった幽香は、焦れて、焦れて、紅い瞳を凝らす。

 「話して、その花への感謝の気持ちがあるのなら…。アナタの気持ちを手向(たむ)ける為に…。命を削り、種を結んだ事は無駄じゃない。立派に誰かの糧として命を全うした。そう、向日葵たちへ伝える為に…。」

「それに、貴女の好奇心を満たす為に…ですか。」

 怖れを知らぬ奴なのは解かっていたが、これは極め付けだった。…一切の言い訳も聞かない、明らかな挑発であった。

 思いがけぬ彼の返答に、幽香は言葉を詰まらせる。だがそれでも、真紅の瞳を三角にしたくなるのを(こら)え、穏やかに笑う。そうだ。先程と同じく、ニッコリッと、柔らかく口角を上げた、例の笑顔だ。

 さて今度は、どんな底意地悪い答えが返って来るのやら…。何を考えてか、不思議そうな顔をしているアナタを前に…幽香の顔を、彼女の白い手が…グッと、撫で下ろすのだった。

 「そう…かもね。そうでもなければ、アナタの食事に付き合う理由、私にはないもの。だから、否定する気も起きない。ううん、そもそも私は、どう言う積りでここに居るんだか…。」

 胸に溜め込んでいた嫌な思いが、一気に溢れ出す。それも、こうなると際限の付け様がない。

 いっその事、この場で今、目の前の男を引き裂いてしまおうか。そうすれば、一応は、筵の上に転がった向日葵の仇を打つ事に成る。そうなれば、底の抜けた様なこの気持ちにも…少しは、折り合いがつくかも知れない。

 幽香の瞳の紅に、そんな不穏な色味が加わり始めた頃。ようやく、自分の置かれている状況の危うさを悟ったか。アナタはうろたえながら、ペコペコと、頭を下げる。

 「すいません。もしかして、怒っていますか。」

 もしかしても何も、怒って居られるに決まっている。いやいや、むしろ、怒らせる気であんな…『貴女の好奇心を満たす為』などと、クソ度胸な事を言ってのけたのでは…なかったのか。

 憤りで見開いた目を細く絞り、疑惑の眼差しへと転換した、幽香。しかし、アナタの様子を見る限りは、どうにも…、

(あの顔色…。嘘を吐いているとは思えない。…と言うより、そんな体力が残っている様には、見えないもの。)

と、腹を決められずにいる彼女の沈黙を、アナタは嵐の前の静けさと受け取った様だな。…まぁ、(おおむ)ね、間違ってはいないのだが…。

 更に深々と頭を下げつつ、切実な声で、アナタは謝罪を繰り返す。

 「すいません。すいません。やっと飯に有り付けると思ったら、その事で頭が一杯で…。俺はまた、貴女にも、失礼なことを抜かしたんですよね。すいません。今度こそはって、期待するばっかりに…。」

 腹の底から響く、弱弱しくも、芯の強い思い。そして哀切の(こも)った言葉に続くのは…ぐぅーっと、悲しげに鳴く腹の虫であった。

 きっと、空っ腹に力が入っての事だろう。幽香は、笑うでも、怒るでもなく、小さな溜息を一つ。日傘を、影を傾けると、鮮やかな瞳に日差しの柔らかさを吸い込んだ。

 (考えるまでもないか。もしも死ぬ積りがあるのなら、食事を用意したりはしない。少なくとも、末後の午餐(ごさん)には、向日葵と米の取り合わせ以外を選ぶはず…。)

と、瞳を閉じ、静かに吐息を漏らして、

(だとしたら…見抜かれていたんだ。後ろ暗い思いの下にある、私の心。それを言い当てられたからって、人間相手に感情を剥き出しで…みっともない。)

 羞恥か、動揺か、耳の奥で高鳴る鼓動。幽香はそれを鎮めようと、胸一杯に空気を吸い込み、息を止めた。

 息も、心音も、気持ちも…。乱れたもの全てが背景に消えた後、彼女の耳に聞こえる声。

 「どうか、悪く思わないで…。あともう少しだけ…。せめて、米が蒸らし終わる、10分、20分の間だけでも、俺の話に付き合って下さい。その…そこの向日葵を、弔う為にも…。」

 それは、やっと落ち着きを取り戻した幽香の、怒りを蒸し返しかねない言い回しだった。

 しかしながら、それだけ必死なのだと、それだけアナタは話し相手を欲しているのだと、伝わって来るのだ。その危うい言葉の端から、ひしひしと…。

 昔の誰かが、偉そうに言っていたことがある。『人はパンのみにて生きるにあらず』。

 その文句を頭の片隅に思い出しながら、幽香が微笑む。

 「お預けをくらった犬は、私も同じか。」

「えっ、今、何て…。」

と、彼女の表情の穏やかさに、一瞬、アナタは身構える。幽香はそれすらも可笑しいと、穏やかで、皮肉な笑いを浮かべ、

「ううん、何も。とにかく、私、怒ってはいないから…。アナタの話し良いペースで、聞かせて。」

 突然、魅力的な表情を向けてきた、幽香。その変貌ぶりが、この際、アナタには不気味ではあったが…彼女が怒っていないと言うのだ。真意がどうあれ、それを否定するだけ、藪蛇であろうからな。

 ぐぅーっと、鳴き止まぬ腹の虫にも促され、よれた着物の腹を(さす)る。それから、グイッと下っ腹を押さえつけ、アナタは話し始める。

 「えぇっと…。何を、話せば良いんでしたっけ。」

「どうして、向日葵を食べようと思ったか。」

 「そうでした、そうでした。でも、それは…。」

「言って置くけれど、『向日葵が食べられる花だから』って答えは、もう聞いて居る。」

 「そうでしたね。勿論、覚えています。」

 手荒に胴回りを撫でつつ、ニコニコと、上機嫌に笑う。そんなアナタの口にする話が、あんなにもドス黒く、その暗さに相応しい、汚れたものだとは…。

 幽香は夢にも思って居ない。その真っ暗な話の重なる先に、自分の気持ちに落ちた影があるのを…。

 顔から笑みが消えたのが先か、腹を摩る手が止まったのが先だったか。アナタはやや沈んだ声で、言葉を継ぐ。

 「でも、その『食べられる』って事が、俺には得難いんですよ。…さて、どこから話せそうか。」

 茶碗の上の丸箸が、風に吹かれて転がり落ちる。アナタは見もせずに、筵へ落ちる寸前の箸を掴まえて、

「そうだな…じゃあ、始めからお話ししましょうか。どうせ、二言、三言で終わる話だ。」

 箸を掴んだ手を胡坐(あぐら)の膝へ。ポカポカと暖かい空を見上げる目線は、遠く、高く。不意に平衡感覚を失い、身動ぎした幽香の肩で日傘が揺れた。

 その傘の廻りを追う様に、アナタの声が枯れ草の間を響く。

 「俺は生まれ付き、酷い偏食もちでして…その、肉が…牛も、豚も、鶏も、それから魚も、喉を通らないんです。いいや、『喉を通らない』は違うな。噛んで、呑み込むまではいけるんだ。しかし、そこから先がいけない。どうしてか…どうしても、食った肉を戻しちまうんですよね。困ったことに…。」

 握った指の隙間から覗く箸が、カチッ、カチッとぶつかり、音を立てた。

 アナタは、知らず知らず力んでいた手を膝から離して、

「すいませんね、出だしから汚い話で…。」

と、愛想良く笑いながら、箸を茶碗の上に帰した。

 「病気なんでしょうね。胃の()(やまい)か、気の病かは、俺にも解かりませんが…。俺は、大事なものを壊したまんま…壊れたそれを捨てる事さえ出来ず、生まれ付いてしまったんです。まぁ、捨てられないのは、今だって変わっていなくて…その所為で、俺は…。」

 そこでアナタは、思い直した様に首を左右に振って、

「そう言う訳で、俺が食えるものと言えば、穀物と、青菜に限られている。あぁ、そう言えば…。」

と、首を明後日の方へ向けたまま、鼻先を通り過ぎる蝶を目で追う。

 「虫は食った事がなかったけど、多分、駄目でしょう。そそもそも、食ったところで、腹の足しにもならないか。」

 畑向こうへ飛んでいく蝶を、アナタは眩しそうな目で見つめていた。

 ビロードの如き黄色地に黒い模様の映えた姿。それを木の陰に隠れるまで見送っていたが、満ち足りた笑顔からは、物欲しそうな気配は感じられなかった。…あの蝶は、運よく命拾いしたようだ。

 アナタは見渡す向日葵の列に目を戻す。しかし結局は、クラクラと定まらぬ視界に、(まぶた)を被せた。

 「ちゃんと食える物があるんだから、それだけ食っていればよかったんです。…でもね。喉までは通り抜ける…これが結構、曲者でして…。だって、腹に収まってくれなくても、あの何とも食いでのある歯応えを、あの得も言われぬ油の甘みを、それに、野菜では味わえない充足感を、俺の舌は知っている。知っているばかりに、諦められないで…色々な肉を食べました。獣も、魚も、鳥も、思い付くだけの生き物は口にしています。変わり種では、昔は最上の鶏肉と珍重されていた、鶴。血眼で探し回った甲斐あって、あれは美味かった。骨まで(かじ)りましたよ。」

と、アナタはまた、荒っぽく腹を撫でた。

 顔色を見れば、一目瞭然に解かる。アナタがそうして腹を摩り続けるのは、空腹を(こら)えての事ではない。何か、もっと別の何かに耐える様な…疲れ果て、目も開けて居られない…そんな、苦悶の表情であった。

 額の脂汗を拭い、皺の寄った眉間を擦り、それでもアナタは喋り出せそうにない。幽香は見かねて…あるいはまだ、先程の『焦れ』が(くすぶ)っていたのか…おもむろに、尋ね掛ける。

 「本当に食べたいのは、動物の肉で…。だけど、アナタが昼食に選んだのは向日葵の種。これは、何でなの。」

「ですから、幾ら肉を食べても吐き戻してしまう。食べたら、食べただけ…。気が進まなくても、栄養をつけるには草を食うしかない。…いや、貴女の聞いているのは、そんなんじゃなかったんでしたね。」

 一入(ひとしお)に苦しげな笑みを浮かべる、アナタ。撫でていた下っ腹を、グイッと、掴み、抑えて、

「特に食べたい訳でもないのは、野菜も、向日葵も同じ。…なら何で、向日葵の方を選んだか。そう言う事を聞かれているんですよね、俺は…。まぁ、理由の半分は、さっきした情けない話の通りで、銭がないからです。もう半分は…。」

 アナタは腹から手を退けると、肩を上下させ深呼吸。草木の香に、そして、炊きあがった飯の良い匂いに鼻をヒクつかせつつ、目を開ける。

 「止めたんです。肉を食うの…。何しろ一欠片ら呑み込んだだけでも、その後には、胃袋が裏返る様な苦しみが待っている。こんな痩せこけた身体で、今更、健康を心配する気も起きないけど…辛くて…。ただただ、食べた物を吐き出すのが辛くて…。だから、肉を食うのは止めたんですよ。」

「『諦め切れない』って…。アナタ、そう言っていなかった。」

 「そうでしたっけ。それは、俺の話し方が悪かったですね。でも、今はもう、諦めはついているんです。お陰さまで最近は、食事を苦痛に感じる事もない。しかしですねぇ。」

と、何やら楽しげに笑いつつ、アナタは幽香へ目配せした。

 「どうやっても、この食い意地の悪さだけは改まらなかった。そんなこんなで、肉に代わって俺を満足させてくれそうな食材を求め、こうして方々を歩いて回っている訳ですよ。」

 言葉の後に続く笑い声。空っ腹を刺激しない様にか、その笑い声は酷く寂しいものだった。

 耳触りの悪い笑いを聞いて、ブルッと、幽香は身震いする。

 (…なんだ、そんな理由での事…。別に、期待もしては居なかったけれど…。)

 胸中での冷めた呟きとは裏腹に、漏れ聞こえた溜息は、アナタの笑い声の隙間に沈んでいく。

 アナタの向日葵を食べる理由は、彼女の期待したものではなかった。…いいや、幽香自身も未だ、漠然とした期待の正体を知らない…知る事が叶わなかった。

 (もう、ここに居る意味も、こいつの食事に付き合う意味もないか。少なくとも、こいつは私にとって…。)

 不意に、彼女の脳裏を(よぎ)った奇妙な感覚。奇妙で、甘酸っぱい痛み。幽香は膝に手を突いて、違和感を追い払う様に立ち上がった。

 音もなく揺らめいた傘の影に、物問いたげな瞳を向ける、アナタ。その心細そうな顔を見下ろし、幽香が呟く。

 「ご飯…。もう、蒸らし終わっているのじゃない。」

 さらさらと、砂の様に無味乾燥な声。彼女のその声付きにアナタも、歓談会の終りを悟ったのであろう。

 頼りなげな表情を、フッと、吹き飛ばす様に笑顔へと変えて、

「おっと、すっかり忘れていました。すいませんね、飯の番のみたいな真似をさせちゃって。」

 皮肉な言葉は、おそらく、幽香に気を遣わせまいとしての事。『いつでも、この場を後にしてくれ』と、嬉しそうに飯釜を引き寄せる背中が、言っているようだ。

 幽香にしてみれば、別段、それに甘えた訳でもない。元より、気が向いたからここに留まっているだけ。気が済んだならここを立ち去る。それを、誰に憚る必要もないのだから…。

 「そうそう…。アナタにばかり話させて、私の事は…私の食事については、何も話して居なかった。どう、私が食べる物の事、知りたくはない。」

 …彼女がこの場を立ち去るのを、アナタに憚る()われもないのだ。

 それなのに…いいや、それだから…。幽香が自分からこんな事を言い出したのは、腹立ち紛れだったのであろう。

 妖怪の自分が、仮初にも人間の生き方に学ぼうとした事への…。そして、一向に自分を怯えた目で見ないアナタへの…。

 まるで彼女の欲するところ知っているかの様に、アナタは飯釜へ向けた瞳を大きくする。

 「知りたいですね。やっぱり、俺達とは、食習慣からして違うんですか。」

 木肌を擦りながら丸蓋を開ければ、むわっと一呼吸、釜底から掻き出された湯気の塊が飛び出す。

 その向こう側を(まばた)きしながら見つめて、

「あーあっ。こっちもやっぱりだ。完全にお(かゆ)になってら…。まっ、焦げだらけの飯よりは、随分と良いけどさ。」

と、白い蒸気を挟んで、ものの数秒もしない内に、話がすり替わってしまった様だな。

 言うまでもない話だが、幽香にとってアナタはどうでも良い存在である。それは、間違いない。

 …であれば、当然、アナタが飢え死にしようが、草を食べ続け生きようが…自分の事に興味を(いだ)こうが、抱くまいが…どうでも良い…。どうでも良い…。

 しかしだ。そう、しかしなのである。幾らどうでも良い相手とは言え、そうまで味も素っ気もない反応を返されては、女として釈然としない。少なくとも、自分がアナタに向けた好奇心の分は、返されてしかるべきだろう。それと…人間に軽んじられては、妖怪の沽券(こけん)に関わる…と言うのも、あるにはあるし…。

 アナタは平然と、『既に尋ね終えた顔』をしている。幽香からすれば、十二分に、憎たらしい表情だった。

 かんかん照りの太陽の下。傘の影を滑る(すだれ)の様な日差し。その全てに縁取られた彼女の加虐心が、白い歯を見せ、笑みを浮かべる。

 「食習慣の違いはある。丸っきり違うとも言えそうなくらい。何故って、妖怪は一日三食とる必要がないし、それに…食欲の起きる理由も、人間とは異なるのだもの。」

「へぇ…。人間が腹を空かすのは、死なない様、身体を動かして置くためだろ。妖怪だって、そうじゃないんですかね。」

 「そうじゃないの。私たちは何も食べなかったとして、死ぬ様な事にはならない。だから、人間とは全く違う理由から、空腹を感じる。」

 「ほぉっ、『食べなくても死なない』んですか。そいつは羨ましい。三度三度の煮炊きに、追い回されなくても良いてのは…。」

 相変わらず幽香には目もくれず、アナタは飯釜と差し向かい。

 お粥になってしまった炊き込みご飯は、実際、木べらで(すく)い取るのは難しかろう。…とは言え、アナタが(わずら)わしい思いをしているかどうかは…彼女には関係のない話だ。

 「ううん。追い回されているのは、妖怪も同じなの。」

 幽香の声に現れた溢れんばかりの潤み。いよいよ、彼女の策略の要所に辿り着く様だな。

 それに対してアナタは…彼女の声の潤みよりは、お粥の水気の方が気に成るらしい。ポタポタッと、ふやけた米が木べらから垂れ落ちる。顔を(しか)めて、その様子を見つめながら、

「食べなくても、死にはしないんでしょう。だったら、何者に追われる事もないはず…。それでも追い回されるとしたら、例えば…時間…とか…。」

 アナタの返事を、『待っていました』と一笑に伏す。そして幽香は、自分の顔がアナタによく見える様、日傘を下ろした。

 「時間に追われるのは、アナタたち人間だけ。妖怪を含めたその他の生き物は、時間に寄り添って生きている。…まっ、そんな事よりも…私を追いかけ回し、食事を取れと迫る者の話をね…。その私たち妖怪の大好物たちが、チョロチョロと目の前を動き回るものだから、私だって我慢できなくなって、仕方なしにそいつを食べる事になるの。ねぇ、私の大好物が何か、アナタには解かっている。」

「さぁ…。ネズミですか、チョロチョロ動くって言うと…。」

 「何でそうなるの。私の話を聞いていれば、解かるはずでしょ。私の大好物はね、人間。人間の肉なの。」

 「あぁ、人間の肉でしたか。」

 今一つ、よろしくないアナタの反応。しかし、もう、細かい事に構う必要はない。ここからは、言葉では無く、妖怪の持ち味で脅してやればいいのだ。それで、彼女の溜飲も下がって、全てが丸く収まる。

 幽香もそう信じて疑わずに、威嚇する様な笑顔を浮かべた。

 アナタは…それを横目にも見ずに、木べらを(むしろ)の上に転がす。そして、茶碗を直に飯釜に突っ込んで、どろりとした粥を掬い上げる…。

 「人間の肉か…そいつは不幸ですね。」

「なっ。」

 (さげす)まれたと、幽香はそう思ったのであろう。悪戯心を孕んだ瞳の紅が、殺意の…血の色へ変わって行く。

 日傘を投げ出し、その手でアナタの首根っこ引き千切る…。彼女が、本気でそうしようとした矢先。愛想のなかった顔に笑みを浮かべて、もう一言。アナタがもう一言、呟く。

 「あれはぁ…美味くないですからね。」

「なっ。」

 今さっきと同じ声を漏らし、幽香は二の句を継げなくなった。

 言葉もなく自分を凝視する彼女を前に、アナタは、胡坐をかいた足の前へ茶碗を置き、祈る様に手を合わせる。この際、合わせた手の間に挟まる丸箸は、不敬と取れなくもないが…。顔付きは、一切の(てら)いなく、真剣そのものに見えた。

 …と、一心に祈って居たはずのアナタ…の片目が、薄らと開く。

 その目で、チラリッと、幽香の姿を窺って、

「あ、あれっ…。」

 素っ頓狂(とんきょう)な声を吐き出し、祈りを捧げていた両手を下ろす、アナタ。もう片方の目も開け、わざわざ食前の祈りを中断してまで、どうして彼女の方を見たのであろう。腹が減ってしかたのないはずだろうに…。

 「また俺は、失礼な事を言いましたっけ。あぁ、そうか、人間の肉の…すいません。そうりゃそうだ。怒られるのも仕方ない。何を美味いと思うのかは、人それぞれ…どころか、生き物それぞれですよね。」

「ねぇ、ちょっと…アナタは…もしかして…。」

 「だいたい、俺の食ったのは、死んでから二、三日後の…って、馬鹿か俺は…。自分で自分の飯を不味くして、どうすんだよ。本当、すいません。」

 そう言うとアナタは、再び手を合わせ、瞳を閉じた。

 幽香はその横顔に、どこか鬼気迫る祈りの姿に、問う。

 「同族を…人間の肉を食べたの、アナタは…。どうして、そこまで…。」

 アナタは、腰を丸め、頭を垂れながら祈り続ける。

 「『どうして』。さぁ、今にして思えば、自分でも『どうして、そこまで』と言うしかありません。あの日の俺は、飢えていた訳でもなければ、追い詰められていた訳でもないのに…どうしてだか。二晩前に死んだ、村長の娘の墓を暴いたんです。」

 ガクリッと下がる肩。合わさった指先に額がぶつかり、皮肉に緩んだ口元から吐息が漏れる。…呪詛(じゅそ)の声の如き、吐息が漏れる…。

 「お嬢さんの遺骸を(はずかし)めた事は、すぐに明るみ成りました。悪事を隠そうという頭がなくて、脚の肉を少しもらった後は、掘り返した墓土も、棺も、全部そのまんまでしたから…。まぁ、そう言った訳で、即日、俺は村を追放されたと…意外でしたね。」

「いけしゃあしゃあと、よく言うわ。アナタたち人間にとっても、同族の遺体を傷づけるのは、もっての他の事なんでしょ。それを…。」

 「いやいや、そんな事じゃなく…。村の連中は俺をなぶり殺しにしなかった。それが意外だったんですよ。どうやら、人の肉を食った俺を殺すと妖怪に化けるんじゃないか、村に祟りを成すんじゃないかって、怖がられていた。いや、殺すのも汚らわしいと思われていたのかな。…あっ。」

と、アナタは何やら思い付いた様に、目を(つむ)ったままだが、顔を上げる。

 「でも、勘違いしないで下さい。汚らわしいのは、あくまで、俺で…。人の身で人間の肉を食べた俺が汚らわしいんであって、貴女みたいな美人の妖怪が汚らわしいとか…それは、絶対にないですからね。むしろ、そこらの人間の小娘よりずっと…。」

 早口で捲し立てるアナタの耳に、ビュンッと、何かが空を切る音が届く。

 それが日傘を担ぎなおした音だと気付いて、アナタは会話の端緒を幽香へと譲った。

 「変な気遣いは要らない。欲しくもないし…。私の事より、アナタの話は終わったの。続きは。」

「あれっ、元々これは、貴女の好物が人間の肉だって話じゃありませんでしたっけ。…冗談ですよ。」

と、楽しそうに揚げ足を取って置いて、

「そうさなぁ。続きと言われたら、俺が村を出る事に成って…大人しく出て行くなら、俺の一族の者たちが村八分にされるのは、勘弁してやると言われて…でも…。きっと、肩身の狭い思いをしているだろうな…俺が人喰いなんてやらかした為に…。」

 溜息が零れた。

 アナタが何に溜息を零したのか、そして、自分が何に溜息を零したのか。幽香自身、その理由は解からなかい。解からないまま、疑問から目をそう向ける様に、日傘の影に隠れた。

 「それから後は、こうして当て所もなく歩き回りながら…食べられそうな物が目に付けては、そこに居座る。その繰り返しです。本当に、食い意地の悪さだけで生き長らえている様なもの。我ながら、情けなくて、情けなくて…っと、腹も膨れてないのに、余計な事を考えていてもしょうがない。第一、飯を食っちまった後で、寝るまでにやる事が無くなっちまう。…では、そろそろ、お見苦しところをお目に掛けますけど、失礼しまして…。」

 ぼそぼそと呟きを吐き切り、アナタは大きく息を吸い込んだ。

 「いただきます。」

 そう言うとアナタは、茶碗を取り上げ、向日葵の混じったお粥を食べ始めた。

 黙々と食べ続ける。茶碗が空になれば、飯釜から掬い出し…また、黙々と食べ続ける。

 『お見苦しいものを…』と言っていた割には、ガッつく事も、食い散らかす事もない。それは(あたか)も、無駄な動作を、雑念を追い払うかの様にすら見える。

 そう、それが、見たままの…。アナタを見つめる幽香の抱いた、率直な思いであった。

 息継ぎする間も惜しむ様に、茶碗の飯を掻き込み、果ては飯釜を片手に、最後の一粒まで口に含む。

 その最後の一粒が…最後の向日葵の種が、ゴリッ、ゴリッと噛み砕かれ、呑み込まれ…。そうして、アナタの食事は終わりを迎える。

 「ごちそうさまでした。」

 もう一度、足元に並んだ茶碗と、飯釜へ、合掌。アナタは大息を吐いて、丸箸を投げ出す。

 「あぁ、食った、食った。」

 そう言った口振りは、とても満ち足りている様には聞こえなかった。

 アナタは更に、自分へ言い聞かせるかの如く、

「これで人心地ついた。」

 会心の呟きではあったが、やはり、宙には舞い上がらず、地面へと落ちていく。それにアナタの身体も、ぐらりっ、ぐらりっと揺れ動き、後ろへ倒れた。

 筵の上で寝っ転がり、真っ正面に見る青空。まるで、どこまでも落ちて行く様な…。まるで、わだかまりも吸い上げられていく様で…。アナタは静かに目を閉じた。

 「そう、それは良かった。ところで、お腹の具合は、どう。次に食事をするのは、何時頃になる。」

と、一眠りしようとした途端、振ってきた声。

 アナタは愚図った子供の様な声を漏らしてから、日差しで瞳を傷めぬよう、ゆっくりと目を開く。しかし…。

 「答えてくれなきゃ、ここを動けないんだけどな。」

 目の前には予期せぬ日陰。いや、幽香の声の近さを考えれば、自ずと答えは出ているのだ。

 視界を埋めた日傘の影の中、美貌の妖怪へとアナタは呼び掛けた。

 「あの、あの…。そうだな。晩飯は適当に、向日葵の種でも齧れば良い。…から、食事らしい食事は、明日の朝飯になるかと…はい。」

 何はともあれ、質問に応えておく事にしたらしい。寝入り端に居るにしては、賢明と言えよう。

 幽香はそれに、微かに笑い返すと、

「そっか、それは良かった。…じゃあ早速、出発しよう。」

 「えっ、出発って…。」

 (いぶか)しげな声を上げた、アナタ。その瞳を強い日差しが襲う。

 慌てて顔を伏せ、固く閉じた(まぶた)の上を擦る。それでも、目の前の問題は拭えるはずなく…。

 アナタは目を(しばた)かせつつ、彼女に尋ねる。

 「出発って、どこへ。それに、俺が…俺も…。」

 ぼやけた視線の先、踊る様に動く薄緑色の日傘と、頷いた幽香の笑顔。

 やおら身を起こしたアナタへ、涼風が彼女の声を運ぶ。

 「当然。だって、アナタが行かなければ始まらないもの。どこへ向かうかは…まぁ、歩き出してから考えれば良い。さぁ、立って。急げばきっと、他の…夏に咲く花たちに間に合うはず…ううん、間に合わせる。絶対に…。」

「そう言われても、何をしに…じゃなくて、悪いけど俺、しばらくはここを動かない積りですよ。ここには食べられる向日葵も、これだけ咲いているし…。それに今日はもう、疲れて動けそうにもない。」

 ゴロンッと、寝っ転がった体勢に戻る。アナタのその様子だけで、頭から話の枕を潰しているのが良く解かる。

 そんな思い掛けない強情さに、幽香は思い掛けない根気の良さでもって、呼び掛けていく。

 「そうして、向日葵を食べ尽くすまで、ここを動かない気なの。そこまでは、私も見逃せない。アナタに食べ尽くされてしまったら、また来年に、ここを訪れる楽しみがなく成ってしまう。だから…こちらこそ悪いのだけれど、あと一本。今日の晩ご飯用の花を一本だけ取ったら、もう、ここの向日葵を食べないで欲しいの。」

「いやぁ、それは…。最初から俺の方にも、ここの向日葵を食い尽くそうなんて気、ありませんよ。それ程、でかい胃袋している訳じゃないんで…。ですけど…いんや、だから…ここを食い潰そうなんて積りは、さらさらないんで…二、三日くらい、ここに居座らせてもらえませんかね。向日葵も、決して無茶な食べ方はしません。お約束しますよ。だから、どうか、勘弁を…ここまで歩いて来ただけで、くたくたでしょうがない。」

 心底くたびれはてた声。相変わらずなアナタの言動に、疑う気を起こすのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 しかしながら、そんな野郎だと承知で、彼女はアナタを誘った。…それは確かな事。

 寝転んだアナタの目の端、つま先を高く上げて、革靴が闊歩(かっぽ)する。幽香はその足で、アナタの足元を通り越し、並んで寝かされた向日葵の傍へ、歩み寄った。

 「この子も連れて行かないと…。アナタが丁寧に()るから、種は残っていないけど…花弁も、茎も、食べるって言っていたよね。」

 枯ればんだ身体を()まれた、向日葵。その亡骸(なきがら)を拾い上げる彼女に、アナタは苦り切った声で、

「俺の話、聞いてくれてなかったんですか。それ以前に、何の目的あってここを離れるのかも、俺はまだ聞いてなんですけどね。」

 ジロリッと、不愉快そうなアナタの視線が、日傘の影に纏わりつく。

 幽香は澄まし顔で傘を閉じると、不躾(ぶしつけ)な視線もなんのその、筵の上に腰を下ろす。

 「一々説明するまでもなく、それ位は解かっているんでしょ。ここ以外にも夏の花が咲いている場所があるから、案内して上げる。そう言っているの。」

 アナタは、髪の毛の二、三本を筵の編み目に引き抜かれつつ、グリンッと、頭だけ彼女の方へ向ける。

 「それは、察しは付きましたよ。ありがたい申し出だなぁ…とも、心から思っています。しかし、『今すぐに』って言うのは、あまりにも御無体でしょう。そうじゃないですか。まぁ、人間ではない貴女には、そうではないのかも知れませんけど…。それが駄目でも、せめて、今すぐに出発すべき理由を聞かせ下さいよ。それを聞かない内は、俺だって腰を上げられませんからね。」

 筵に押し付けた耳に響く、乾いた藁の潰れる音。アナタはその音色に片耳を塞ぎながら、スカートの膝を抱いた幽香を見上げた。

 彼女は無残に(つい)ばまれた向日葵を、そっと、撫でってやりながら…、

「幽香。」

 その呟きにアナタは、何を思ったのか、慌てて破顔すると、

「いやいや、そう言わずに…。意地悪しないで、教えて下さいよ。別に、減るものじゃないでしょう。」 …意思の疎通に失敗したとき特有の、あの、何とも気づまりな空気が流れる。原因は解からないまでも、アナタはそれを鋭敏に感じ取った様だな。とりあえず、頭を青空の方へと戻した。

 さて、もう一方の幽香の方だが…。当然、アナタの生命に関わる事ゆえ、こちらの理解の方が遥かに重要である。まぁ、それを重々承知しているからこそ、変なご機嫌うかがいに走らず、アナタも顔を背けた訳だ。

 視界の外側で一体、彼女はどんな表情をしているのか。

 (解かった時には手遅れって事もあるよな。…えぇい、ままよ。)

と、アナタは意を決して、頭を横に倒し、幽香の顔を見た。

 彼女には表情が…ない。無表情だ。

 見なかった方が良かったかも…それは、アナタがそんな事を思い掛けた時の事だった。

 「ぷっ。」

 目の錯覚ではない。確かに吹き出したのだ。そう、幽香がだ。

 そして次の瞬間には、幽香は大声をあげて笑っていた。

 風に揺れる向日葵たちは、(にじ)んだ油絵具の様に背景へと吸い込まれていく。やっぱり、目の錯覚ではない。目の錯覚などであるはずがない。

 舞い散る黄金色(こがねいろ)の花弁を日差しに溶かして、幽香は満面の笑みを(ほころ)ばせている。(まぶ)しい、眩しい、目も(くら)むばかりの笑顔を…。

 固く軋む首筋を震わせながら、アナタはその光景から目を離せずに居る。

 幽香は一頻(ひとしき)り笑い終えた後で、笑いを噛み切り、噛み切り、何とか喋り始める。

 「違うの。そうじゃないの。『ゆうか』って、それ、『言わない、答えない』って意味じゃなくて…『風見幽香(かざみゆうか)』が、私の名前なの。」

「へっ、えっ。」

 アナタへ彼女の言葉の意味が通じるまで、更に、数秒の時間を要した。…その間、幽香の笑いが再燃した事は…言うまでもないかな。

 屈託なく笑う彼女と、抱き寄せられ、小刻みに揺れる向日葵。その様子にアナタは、とても笑い返す事が出来ず、ただ不思議そうに問い掛ける。

 「何で、俺なんかに…。妖怪ってのはもっと、気位の高いものだと思っていました。」

 締めの一言がこれだったのには、遠慮なく笑い者にされた事への、多少の不快感も混じっていたのかも知れない。

 そんな底意を知ってか知らず、幽香は口元を結んで、やや気取った笑み浮かべて見せた。

 「そう言うのは、群れて暮らす妖怪が考えること。私は、一人気ままに生きる妖怪だから…人間嫌いで有名な。」

「その人間嫌いな妖怪が、何故、俺なんかに自分の名前を教えたんです。もしかして…獲物には、名前を教えてから引導を渡すとか。」

 「馬鹿言わないで。私、そんな悪趣味じゃない。第一、アナタみたいに美味しくなさそうで、食べるところもなさそうな痩せっぽち、誰が食事に選びますか。」

「まぁ、返す言葉もないですよ。でも、さもなきゃどうして、俺なんかに…お話ししたじゃないですか、俺の事を…人間の中でも最低の部類だって…。」

 言葉ではそう言いつつも、アナタの声はどこか気安い。

 風が止むのと同時に、一斉に項垂(うあなだ)れた向日葵たち。幽香もそれに習う様に俯き、息を吸い込むと、真紅の瞳でアナタを睨みつけた。

 「『人間の中でどうだろうと、妖怪の私には関係ない。』…とでも言えば、アナタは満足…。」

 これにはアナタも、えらく驚いた顔をしていた。

 だが、悪びれた様子が後に続くでもなく、軽い笑気を吐き出し、空を仰ぐ。

 「はいはい、解かりましたよ。人間の癖に、ちょっとでも好意的な何かを期待した俺が、浅はかに御座候(ござそうろう)でありんした。」

と、幇間(たいこもち)みたいに、滑稽な丁寧語で返してから、

「正直、お名前の事はどうでも良いんです。それに、何の積りで、俺を連れて歩こうとしているのかも。…あっ、いや、風見幽香。良いお名前ですよ。貴女の様な美人に…美人な妖怪に、とてもお似合いで…。」

 この時、アナタが何を見たかは問うまい。日差しの加減という事もあるからな。

 とにかく、白けかけた気持ちを、アナタは愛想笑いで染め直す。幽香の(てのひら)の上の、あの枯れ落ちた向日葵の花弁の様に…鮮やかで、力強い色へと、染め直していく。

 「まぁ、どうでも良いって言うのは、違うか。…いいや、違わない。そう、俺にとっては同じなんでしょうね。」

「アナタが何を言っているのか、私にはさっぱりなんだけど…。」

 「すいません、勝手に独り合点で満足しちまって、はい。えっと、だから、名前を教えてもらうのも、花の咲いている場所へ連れて行ってもらうのも、俺にとっては同じ事なんです。何かをもらうって意味では…それと、もらいっ放しで、何も返せないだろう事もね。」

「私が、何かを返してもらおうと、期待しているって思う。」

 「思いません。そうは思えないから…。」

「あぁ、そう言う…何のかんの言って、本当は、そう言う理由で腰を上げられなかったんだ。…はぁ。」

 彼女の聞えよがしの溜息に、アナタは照れくさそうで、満足そうに、腹を(さす)る。

 「もらいっ放しって訳にはいきませんよ。俺だって、腐っても男なもんですから…。」

 相手は遂さっき、名前を知ったばかりの妖怪。だがしかし、幽香が紛れもない美女である以上、アナタにしてみれば意固地に成る理由は充分であろう。

 そして…幽香にそれが解かろうはずないのも、充分に、納得のいく事。もう一度、掌の花弁の飛ばぬ程度の、大きな溜息が吹き抜ける。

 「何かをしてもらうかどうかなんて、アナタの考え一つでしょ。私は、アナタが居ようと、居まいと、ここを離れると決めていたし…やっぱり、アナタが付いて来ようと、そうでなかろうと、どこか別の花園を目指して歩いていた。」

 掌の上、微かに浮き上がった花弁がくすぐる。幽香は白い歯を零し、小さく笑って、

「そうだね。私も正直を言えば…どうあろうと、ここを離れていたのは本当。でも、アナタが現れなかったら…もっと早く、この場を立ち去っていたと思う。アナタを知らなければ、あえて、これから盛りを終える花の所へなんて…。」

 幽香は言葉を詰まらせて、花弁を握り締めた。

 「アナタには、こんな気持ちにして『もらった』のだもの。もらいっ放しが嫌だと言っていたけど、先にもらっているは、私。変な気を遣わないで、アナタは、私に連れて行って『もらえ』ば良い。」

 雲間から顔を出した太陽が、(むしろ)の上の、汗ばんだ身体を温め直す。

 アナタは黙ったまま、ちょっと顔を(しか)める様にして、お天道様を眺めていた。…確かに、彼女の方にはまだ、話がある。

 「それから、名前…。何で、私の名前を教えたのか…だったっけ。うーんっ、()かれてみると、何でなのかな。私にも、よく解からない。多分だけれど、こういう事なんじゃないかって、思う。」

と、握って居た手を少しだけ開き、未だ影の中に居る花弁へ語り掛ける。そんな風に、幽香は話し続けた。

 「この子たちは皆…皆で向日葵だから…この子だけの名前はないでしょ。アナタはいつか、ここで向日葵を食べた事を思い出すかも知れない。でも、その時にはきっと、この子だけを特別に思いはしないのじゃないかって…そう考えると、何でかな。せめて私の名前を覚えておいてもらえば、アナタに食べられた一輪の事を、覚えていて『もらえる』…そんな気がしたの。」

 膝に抱いた向日葵と、掌の花弁を見つめ、彼女ははにかんだ様に笑う。

 目の端、青空の傍らにその笑顔を映しながら、アナタが(つぶや)く。

 「大方、俺には高尚すぎるんでしょうね。貴女…幽香さんの言っている事の意味、よく解かりません。…けど、伝わりました。一刻も早く…まだ咲いている内に…自分を待っている花の元へって、気持ちは…。」

 そう言いながらも、アナタは身体を起こそうとはしない。まだまだ未練たっぷりに、(ほう)けた顔で真っ青な空を見つめて、

「それと、本当は…。幽香さんの本音は…俺なんかに花を食べて欲しくない…と、思っているのもね。俺だって人の事は言えませんけど…難儀な事だ。」

 アナタの呟きは、笑うでも、不愉快がるでもなく、地面にへばり付いた頭の裏と、青空の間に広がっていった。

 二つ並んだ真紅の瞳を斜めに落とし、幽香はアナタを見つめる。

 「気持ちだけじゃ、アナタの脚は動かせないって事か。」

「まぁ、今は、生憎(あいにく)と腹が膨れていますからね。でも、引き()って行くと言うなら、抵抗する積りはありませんよ。今日は、好い日和ですし…。」

 「アナタが自発的に動き出すのを待っていたら、日が暮れてしまいそう。いいえ、人間って毎晩、眠らないといけないのだっけ。だとしたら…このままだと、出発は明日の朝になるかな。それとも、ここで朝食を取ってしまったらまた、動けなくなる。」

「どうでしょうかね。とりあえず、手持ちの米がなくなったら、ここを動かざるを得ないでしょうけど…おっと、駄目ですよ。」

 真紅の瞳が、自分の方からリュックサックへと向きを変える。それを見るやアナタは、即座に機先を制した。

 「何を考えているのかは知りませんけど、とにかく、駄目ですよ。何たって米粒も、植物には違いないですからね。他の花の為だと、無駄にしていいものじゃない。」

 幽香は瞳をアナタへと…戻す気には成らなかったらしい。真っ正面を見据えたまま、ちょっとだけ、いたたまれなさそうな声で、

「言われてみれば、そうかもね。ごめん。それにしても…。」

と、悩ましげな溜息を吐き出し、

(怖れを知らない奴だよね、またっく…。)

 一層濃く成る土の匂い。固い筵の感触の上では、二人の会話も、蜃気楼(しんきろう)の様に遠退き、(かす)む。

 「南に向かおう。」

 その幽香の呟きは、尻の思いアナタに対して一計を案じたもの…どうやら、そう言う訳でもない様だ。彼女自身、呟きを漏らしたまま、ぼんやりと空を見つめていた。

 首筋から汗を垂らしていたアナタも、同じ様に、空を見上げて応える。

 「南か…好いですね。夏を追いかけて、行ける所まで行ってみるのも悪くない。道すがら木苺はさんざん食ってきたし、そろそろ、桃の恋しくなる頃合いだからな。」

 胸一杯に広がる甘酸っぱさを噛み締め、アナタは目を閉じる。今度は顔を向けて、その様子を見下ろす、幽香。

 風に揺られて(まぶた)を撫でる前髪を、そっと、優しい指先が払う。

 「聞くのを忘れていたけれど…向日葵って美味しいの。」

 ガバッと、身体を起こして、アナタは幽香の方を見る。しかし彼女は相変わらずで、向日葵を抱いて、掌の上の花弁を見つめている。

 アナタは、化かされたみたいな表情で前髪に触れて、

「あれっ、今、何か。」

 ゴクリッと生唾を飲み込む音。それを隣で聞いていた幽香が、笑気を漏らす。

 「もう食欲が戻ったみたいじゃない。そんなにも、向日葵って美味しかったんだ。」

「いや、これは、そう言うのじゃなくて…。」

 「なに、向日葵は美味しくなかったの。それじゃあアナタは、美味しいと思ってない癖に、二日も、三日も、ここの向日葵たちを食べ続けようとしていたの。」

「いやいや、そうでもなくて…。だから、その…。」

 こう、何とも極まりが悪そうに(うな)ってから、アナタは二本の脚で、大地に立った。

 「行きましょうか、南へ。」

「やっと、その気に成ったの。でも、ここを片付けて、もう一本だけ向日葵に命を分けてもらったら…丁度、日が暮れ始める頃。歩き出すには、もってこいか。」

と、そう言う彼女の目の端には、早くも、飯釜をリュックサックに押し込んでいるアナタの姿。まだ、洗っても居ないと言うのに…。

 結局、使う事のなかったポットや鍋をガラガラ鳴らして、ものの数分で片付けは終わってしまった。流石に、手成れたものだな。

 あとは、幽香の尻に敷いて居る(むしろ)を残すのみ。アナタは、細身の身体で彼女に影を落とした。

 「さぁ、善は急げって事で、行きましょうか。」

 リュックサックに埋もれていたり、寝転んでいたりで気付かなかったが、見上げてみればアナタの背丈は大きい。幽香はその影の中で、(まぶ)しそうな…もとい、(いぶか)しげな瞳を、アナタへ向ける。

 「ありがたい事だけど、何、その心変わりは…。それに、良いの。まだ、やり残している事があるでしょ。」

 そう言うと幽香は、少し面倒そうにリュックサックへ目を移す。…こういう時、女性は非常に、そして非情に目敏いものなのだ。

 アナタはボロ靴のつま先で小突いて、石窯の内部に火が燻っていないかを、再チェック。その後はまた、用心に地面の土を蹴り掛ける。

 「これで良しと…。んっ、やり残しって…あぁ、飯釜なら大丈夫ですよ。手ぬぐいで(ぬぐ)いを掛けて置きましたからね。どうせ、飯を炊く時には、水場を見付けなければならないんだ。水洗いは、その時にしますよ。」

 事も無げに言って、アナタはリュックサックの口を絞る。ところで、汚れた手ぬぐいはどうしたのか。…まっ、これ以上は追及しない事にしよう。

 無論、幽香にしても、本心より気に成っている事は別にある。

 「向日葵は…。(なた)までしまったら、もう、向日葵を採れないんじゃないの。」

 急かしていたはずの彼女の方が、今は、腰を上げられず居る。

 そんな幽香の前に、どっこいしょと、アナタは腰を屈めて、

「大丈夫ですよ。その一本あれば、明日の朝…いいや、明日の昼くらいまでは持つでしょうからね。」

 自分の胸元を指し示すアナタの指先から、抱き寄せた向日葵に視線を落とす、幽香。俯いたまま、アナタへと尋ね続ける。

 「もしかしたら、私は…無茶を言って、義務感をアナタに負わせてしまったのかな。だとしたら…もしも、食指が動いた訳でもないのに、嫌々、私に付いて来ようとしているのなら…そんな事は私も望んでいない。それじゃあきっと、私の自己満足意外には、何の意味もない。何も変わりはしないだろうから…。」

 震えるほど強く握った手。その中にあるはずの花弁も、(ゆが)み、元の形では居られない。

 幽香が閉ざした手を筵の上に落とそうとした。…その時。アナタの(ごわ)ついた手が、彼女の手首を掴み止める。

 「待って。」

 驚き顔を上げた幽香の目の前に、地面に(ひざまず)くアナタの姿が映った。

 妖怪との交流に一家言おありの読者諸賢ならば、お分かりの事と思う。物理的にしろ、心理的にしろ、妖怪相手に距離を詰める際は、油断は禁物。特に、それが人間嫌いの妖怪の場合は…例えば、風見幽香の如き妖怪の場合は尚の事。

 毛筋ほどの不興を買おうものなら(たちま)ち、八つ裂きにされ、そこいらで雑草の肥料にされるのが目に見えている。

 さて、彼女の脅威を心得た上で、アナタのやり口を考察してみよう。…はっきり言って、下の下である。

 相手の虚を突いて近付き、その手を掴む。あまつさえ、『待って』などと心の中を見透かす様な発言までしてしまった。どう贔屓(ひいき)目に見ても、『人間風情が、よくも私の肌に触れたな』で、一回。更に、『利いた風な口をきくな』で、もう一回。最低でも二回は死んでいる。

 今回は、幽香がアナタを必要としている為、奇跡的に命を繋いでは居る。しかしながら、かつそれだけに、この後に続く口の利き方が踏ん張り所となろう。

 千の言葉で問い掛ける様な真紅の瞳に、アナタはまず笑顔を返した。

 「えっと、その、何と言って良いやら…。だいたい、自分でも、何を『待って』欲しいのか…よく解かってはいないんですけど…。でも、とにかく、待って。」

 ここが正念場というところで…アナタときたら早々に、死活問題を放棄しやがった。…失礼。放棄してしまった。

 そんなアナタの様子には、幽香も呆れた様にじと目を向け、掴まれた手もされるがまま。事の顛末(てんまつ)だけは見届け、その後に、始末を付ける積りなのであろうな。

 絶対絶命の状況を解かって居るのか、居ないのか。アナタは…生き死にを踏み越え掴んだ彼女の手を、そっと、引き寄せる。

 「どんな理由があるのか、貴女に…幽香さんにとって、俺を連れて行く事に何の『意味』があるのかも、俺は理解していないんですよ。そんな奴が義務感なんて、持ち合わせている訳もない。その点は確実です。食指だって勿論、動いていますよ。もう、幽香さんがどんな所へ連れて行ってくれるのか、楽しみで、楽しみで…。」

と、調子よく応えていた口振りが止まり、ポツリッと、

「いや、まぁ、そうでもないです。本音は…。」

 その活発さを失った声に、ジロリッ睨んでいた真紅の瞳も、少女の様に胸中の不安を映し出した。

 アナタが、どこか困った様に、そして、どこか照れた様に…言葉を継ぐ。

 「向日葵の種は案外と美味かったですし、それを知っていて、わざわざ動くのは気乗りしません。どこへ連れて行かれるのかは知りませんが、ここの向日葵より美味い花に出会えるとも考え難い。」

「だったら…。」

 弱弱しく呟き、手首からアナタの手を引き剥がそうとする、幽香。

 白くしなやかな指が手に掛かる寸前に、アナタは首を横に振って応える。

 「いいえ、駄目だ。俺はもう、幽香さんに付いて行くしかない。これ以上は、どうしたって…ここの向日葵に手を付けらないでしょうからね。」

「別に…心配しなくても、私の目の届かないところでアナタが何を食べていたって、それを(とが)めようとは思わない。だから、そこまで変に怖がる事は…。」

 「そう言う事じゃない。…聞いちまったからですよ。」

「『聞いちまった』って、何を。」

 またどことなく照れくさそうに、アナタは幽香の手首を放した。

 「だから…ほらっ、風見幽香って、貴女の名前。それを知っちまったらどうにも…これ以上は…幽香さんの抱いているその花より他に、食べようって気がしなくてね。要するに今や、腰を上げてもらえないで弱るのは、俺の方。何せここに居ても、食うに困って、腹の虫の夜鳴きに悩まされるのは目に見えている。」

 誘い文句とは言え、我ながら軽口が過ぎた…。アナタはそんな事を思ったのか、いよいよ、照れ隠しに彼女から顔を背ける。

 うなじに見える高揚感へ追い(すが)るかの様に…人喰い妖怪とは思えない、甘ったれているとすら聞こえる声で…幽香が(ささや)く。

 「何で、そこまでしてくれるの…。私みたいな、妖怪なんかにさ…。」

「んっ、今、呼びましたか。それともまだ、話し足りない…とかね。」

 幽香は首を、後ろに大きく半回転。そうして瞳に掛かる前髪を払いのけてから、清々しい笑みを浮かべた。

 「馬鹿なこと言わないで。…ただ聞いただけ。もう一本も向日葵を摘まない事に、アナタの腹の虫は文句を言わないのかって…。」

「まっ、今の腹具合なら、そうそう出しゃばった真似もしないでしょう。いざとなったら、幽香さんの(かか)えている一本がありますし、それに…。」

アナタは、幽香の手を両手で包み込む。それから、赤く染まった頬の下、彼女の手から黄色い花弁を受け取り、口に含んだ。

 「これで、良し。それじゃあ、美味い花を求めて、歩き出すとしましょうか。」

 そうアナタに促されて、ぼんやりと掌を見つめていた幽香が…再び、今日の青空の様な笑顔を浮かべた。…彼女だってそうだ。彼女だって初めてだったのだ。こんなにも強く、強く、手を引かれた事は…。

 筵から立ち上がり、スカートに付く、(ほつ)れた(わら)を両手で払い落す。ちょっと不満げな口元すら、どんな感情でも皮肉と一緒に笑い飛ばせる…そんな自信で溢れて見えた。

 手を止めた幽香へ、透かさず差し出される日傘、そして、向日葵。

 幽香は日傘を受け取って、コクリッ、向日葵を受け取って、また、コクリッと頷く。それが何の合図だったのか。彼女は、アナタが筵を丸め終わるのも待たずに、歩き出した。

 ゆっくりと、ゆっくりと…。太陽へ向かい首を(かし)げる向日葵の様に、何度も後ろを振り返りながら、幽香は歩いて行く。

 その背中へ、アナタがリュックサックを担ぐ音。アナタがここを訪れた時と同じ、カランッ、カランッと、間の抜けた音が届いた。

 音は、振り返ろうか躊躇(ちゅうちょ)している間に、カラカラッ、カランッと、彼女の方へ駆け寄って来る様だ。それでもやっぱり、振り返ろうか、振り返るまいか決めあぐねて…。

 幽香は足を止めると、アナタへ向けて傘の花を咲かせた。

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