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浅葱色の桜  作者: 初音
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5.別れ。決意。

 弘化元(一八四五)年 初夏


 源三郎が元服した。元服とはこの時代の成人式のようなもので、髪型や名前を変えて大人になったことを祝う。しかし、農民や下級武士の家柄ではよくあることだったが、源三郎は名前を変えなかった。

 近藤家の三人は近所の門人に留守番を任せて、日野の井上家で開かれた祝いの宴に駆けつけていた。

 ピシッとした羽織り袴を着て、頭を月代さかやきに剃った源三郎の姿に、さくらは違和感を覚えた。


「なんか、源兄ぃ、別人みたい…」


 そんなさくらの戸惑いをよそに、酒が注がれ周助が音頭を取る。


弥栄いやさか!おめでとう、源三郎!」


 カチャンカチャンと陶器がぶつかる音がする。さくらは杯を傾けると、初めて飲む酒の味にむせ込んだ。


「さくら、無理をしてはいけませんよ」初が咳き込むさくらの背中をさすった。さくらは落ち着くと、杯を置いた。

「はは、さくらはガキだな。源三郎を見習え」すでに顔を赤らめている周助がゲラゲラと笑った。

「源三郎、お前も大人になったんだ!飲め飲め!」


 周助に酌をされ、源三郎ははにかむように笑って受けた。

 だが、次第に大人たちは誰が主役なのかを忘れてしまったかのように、酔いに身を任せ大声で笑ったり踊り出したりする始末となった。


 源三郎はそんな大人たちに気づかれないようさくらを手招きすると、庭へと連れだした。 


「酒くさいんだよな、あの部屋」そう言うと、源三郎は納屋からはしごを持ってきて、屋根にかけた。


 さくらはそれをよじ登り、源三郎もあとからついてきた。二人は屋根の上に着くと、ごろんと寝ころんだ。


「さくらとこんな風にのんびり話すの、久しぶりだな」

「うん、源兄ぃずっと試衛館来てなかったもんね」


 源三郎は、まあな、と笑いながら空を見上げた。橙色の空が徐々に暗くなっていく。

 さくらはその笑顔を見て、ああ、いつもの源兄ぃだ、と思った。


「さくら…もう剣術の稽古は全然してないのか?」源三郎がおもむろに言った。

「うん、さくらにはあんなキツい稽古ムリだよ」


 源三郎はそっか、と呟くと、むくっと体を起こした。


「さくら、私は天然理心流に入門したい。でも、父上が今病気で、もう長くはないみたいなんだ。だから、いろいろ大変なんだよな。私は三男坊だけど、やっぱり家のためにも兄上たちを助けていかないといけないだろうし…」


 さくらは目を丸くして源三郎を見た。


「なんだよ。父上の病気のこと、前にも言っただろ」

「そうじゃなくて、源兄ぃ、今自分のこと…」


 源三郎はニッと笑顔を見せた。


「俺も元服したんだ。こっちの方が、大人っぽいだろ?さくらだって、いつまでも自分のこと『さくら』なんて言ってちゃダメだぜ」

「ええ~?源兄ぃ、なんかヘンだよ。それに、さくらのことは大きなお世話っ」


 源三郎はおかしそうに笑うと、起き上がって空を見上げた。


「俺が天然理心流に入りたいって言ったことは誰にも言うな」

「じゃあ、なんでさくらには言うの?」


 源三郎は顔だけをさくらに向けて微笑んだ。


「こんな子供のわがままみたいなこと、兄上には言えないだろ」


 さくらは黙って源三郎を見つめた。やはりまだ慣れていないのか、源三郎はいつの間にかまた自分を「俺」と呼んでいた。


「だからさ、お前は恵まれてるんだから、気が向いたら剣術やってみろよ。俺の分もと思ってさ」


 さくらは「嫌」と、頭ごなしに即答するのをためらった。しかし、すぐにぷいっと顔を背けた。


「やだ。あんな疲れるのやんないもん」


 源三郎は少し呆れたように「はいはい」と言って笑った。


「さくらー?どこにいるのですー?」


 下から声が聞こえてきた。


「母上だ」さくらは慌てて身を起こした。

「源兄ぃも、そんなきれいな着物着てるのにこんなとこいたら怒られるよ」

「そうだな」 


 二人はゆっくりとはしごを降りた。


「母上ーっ!さくらはここにおりまーす!」


 * * *


 季節が変わった。

 源三郎はやはり試衛館には来ていなかった。日野で家の用事に追われているらしい。さくらは相変わらず遊びまわったり、近所の寺子屋で読み書きを習ったりする日々を送っていた。

 

 そうして、年の瀬も近づいたある日のことである。


「母上、お買い物ですか?」


 初が何やら外出の用意をしているので、さくらは駆け寄って尋ねた。


「ええ、もう年の市が始まっていますからね。しめ飾りを頼みに行かないと」初はにこりと微笑んだ。

「年の市!さくらもついていきます!」

「ふふっ、それじゃあ、さくらの羽子板も選びましょうね。綿入れを持ってきなさい」


 さくらが綿入れを取りに行く間、初は外に出てぼんやりと灰色の空を眺めた。雪でも降りそうな空模様だ。


「お、買い物か?」通りがかった周助が言った。

「ええ。年の市に行ってきます。さくらも連れていきますね」


 周助は初をじっと見ると、少し表情を曇らせた。


「気をつけろよ。先月出た辻斬り、まだ捕まってないだろ。こういう年の瀬のどさくさに紛れて出てきかねねえからな」

「ええ。用事だけさっと済ませて帰ってきますから」


 初はそう言ってふわりと微笑んだ。


 年の市というのは神社の境内に屋台が並び、しめ飾りや、凧、羽子板といった正月用品が売られる期間限定の市場だ。江戸っ子にとっては冬の風物詩である。

 息が白くなるような寒さにもかかわらず、町は人で賑わっていた。神社に近づくにつれそれは顕著になっていき、到着するとそこは活気あふれる江戸の民でごった返していた。 

 

 まず、初はさくらを連れてしめ飾りを扱う店に立ち寄った。大きな物だと手持ちで帰ることはできないので、正月に間に合うように届けてもらうように注文する。今年はさほど門人が増えなかったが、来年こそは増えますように、との願いをこめて前年より大きなものを初は選んだ。


 必要なものの買い出しもそこそこに、初とさくらは羽子板屋を見に行った。飾って置いておくためのごてごてとした装飾が施されているものから、実際に羽根つきをして遊べるように絵が描いてあるだけのものまで、豊富な種類が取り揃えられていた。


 さくらは目移りしながらも、実用重視で羽子板を選んだ。羽根つきで遊べるように二枚買ってもらい、嬉しそうに胸に抱えた。


「母上、お正月になったら、これで一緒に羽つきしてくださいね!さくらが勝ちますから」


 得意げに言うさくらを、初は微笑ましそうに見つめた。

 

 一番賑やかな場所を抜けると、親子は参道を歩いて家路につこうとした。


 さくらがふと空を見上げると、白い粒がわずかにはらり、はらりと舞っていた。


「母上、雪が降ってきましたよ!」さくらは興奮して言った。

「あら、本当。積もる前に帰りましょう」


 その時だった。


「おーい、みんな、逃げろーっっ!!」


 どこからか男の声が聞こえた。

 初とさくらはぴたりと止まって、後ろを振り返った。

 さくらはその光景が信じられず、目をみはった。

 浪人風の男が、刀を振り回して走ってくる。狂ったように叫びながら走る男は、さくらたちの方にまっすぐ向かってくる。


「さくら!こっちへ!」初はさくらの手を引いて身を隠そうとした。しかし、さくらの足はすっかりすくんでしまってその場を動けない。


 あっという間に、刀を振り回している男はさくらの目の前に来ていた。 


「どけぇ、クソガキ!」


 恐怖がすでにさくらを支配し、さくらはただその男を見つめることしかできなかった。男は刀を振り上げた。


「さくら!」初の叫び声が響いた。 


 そして、ほんの一瞬の間に、状況は一変した。

 さくらには何が起こったのかわからなかった。

 ただ、気が付くと、初がさくらをぎゅっと抱きしめていた。


「はは…うえ…?」さくらはやっと出た声で、小さくそう言うと、やっと動き出した手で初の背中に手を回した。


 その手についた、嫌な感触。

 初は、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。


「はは…うえ…?」さくらはぺたんと座りこみ、もう一度つぶやいた。

「さ…くら…」初は蚊の鳴くような声で言い、さくらの頬に手を伸ばした。さくらはその手を掴み、母を見つめた。


 初はふわり、と微笑むとスッと目を閉じた。さくらが掴んでいた手は突然重くなった。

 目の前の光景が信じられなかった。さくらは声も出さず、動かず、初を見つめた。一筋の涙が、すー、と頬を伝っていくのがわかった。


「どけっつってんだよ、ガキが!」怒声にハッとし、見上げると、この世のものとは思えない形相をした男が、刀を振り上げていた。


 次の瞬間、その男はばたりと倒れた。目と口を虚ろに開け、横たわる男のさらに向こう側に、もう一人男が立っていた。


「ケガはねぇか」男はさくらを見てそう言った。さくらはぼんやりと頷いた。

「仇はとった」男は刀を収めた。


 男はすっとしゃがみ込むと、初をまじまじと見た。


「もう少し早く来ていれば…すまない」男はそう言うと、さくらの顔を見た。


 さくらも男の顔を見た。左頬に大きな刀傷のある男だった。まだハタチにもならないような若い男だ。


「じゃあ、俺は先を急ぐ」男はさっと立ち上がると、さくらの横を素通りして行ってしまった。


 残されたさくらは、まだ暖かい母を抱き、その場で固まっていた。







「さくらちゃん、もう三日もあんな調子ですね」


 一人の門人が、ぼんやりと縁側に座るさくらを見て言った。

 事情を聞きつけた試衛館周辺に住む門人たちが、すぐさま駆けつけ事後の雑事を手伝ってくれていた。門人たちも初の死を悼み、肩を落としていたが、誰よりも落ち込んでいるのは無論、さくらであった。


「…目の前で母親を斬られたんだ。傷はそう簡単には癒えねぇだろう」周助は静かに言った。

「しかし、あれじゃさくらちゃんの方が餓死してしまいますよ」門人は心配そうに言った。

「そうだな…」


 周助は放心状態の娘をじっと見つめた。周助自身、まだ気持ちの整理がついていない、というよりは、初の死を信じられなかった。

 いち早く事態を知った門人が試衛館に飛び込んできた時、周助は自分の耳を疑った。現場に駆けつけてみると、初の亡骸を抱いて、静かに涙を流すさくらの姿があった。

 葬儀も終わったばかり。周助は、まだ初がひょっこり買い物から帰ってくるような気がしてならなかった。


 ――だが、確かにこれじゃさくらが危ねぇな。


 周助は父親として、しっかりせねばとばかりに深呼吸し、さくらに近づいた。隣に腰を下ろすと、さくらが何を言っているのかわかった。


「さくらのせいだ…さくらの…」


 周助は力なく笑みを浮かべると、さくらの肩をぎゅっと抱き寄せた。


「そんなこと言うんじゃねぇ。お前はなんっにも悪くねぇんだ」


 さくらはぼんやりと周助の顔を見上げた。


「うっ…くっ…わぁぁーーん!!」


 この三日で初めて、さくらは声を上げて泣いた。

 一生分の涙を使い果たさんばかりに、さくらは泣いた。

 初はもう、二度と帰ってこない。

 その事実を、さくらは痛感したのだった。




 その後、さくらは半日ただ黙って縁側に座っていた。門人が出してくれたお粥がかろうじて喉を通った。まるで生まれて初めて食べ物というものを口に入れるような感覚だった。

 そしてその夜、周助とさくらは二つ並んだ布団の中で、眠れずに天井を見ていた。つい三日前まで、さくらの反対隣には初がいて、親子で川の字を作って寝ていたのだが。


「父上」さくらはぼんやりと、しかししっかりと、父を呼んだ。

「なんだ」周助はさくらの方に向き直った。

「さくらが剣術をやっていたら…もしさくらが強かったら…母上は死なずに済んだのでしょうか」


 周助は、さくらの思わぬ発言に目を見張った。


「お前、それを気にしてるのか?」


 さくらは黙っていた。周助はじっとさくらを見つめた。


「お前のせいじゃねえって、昼間も言っただろ?どっちにしても丸腰だったんだ。お前が心配する必要はなんにもねえんだ」

「父上」さくらはもう一度そう言い、むくっと起き上がった。背後から微かに差し込む月明かりで、さくらの輪郭はぼんやり光っていた。


 さくらは周助の方に向き直ると、手をつき、深く頭を下げた。


「私に、天然理心流を教えて下さい。…私は、強くなりたい」


 周助は驚き、ガバッと起き上がった。七歳の時とは違う真剣なその目に、周助はぽかんとしてさくらを見つめた。


「本気か?」

「本気です」


 周助は少し間を置いてから、微かに笑みを漏らした。


「初が死んだのはお前のせいじゃねえんだぞ?」

「いいえ。私が弱かったせいです。たとえ丸腰でも、心身ともに強ければ、あの時足がすくんだりしなかったかもしれません。そしたら、母上も私をかばって死ぬことなんかなかった…」

「さくら…」

「父上と母上がさくらと言う名に込めて下さった思いに、私は答えることができていませんでした。もう遅いかもしれないけど、これからは武士の心を持った、強い女になれるよう精進致します。それが、母上の望みでもあると思うから…」


 さくらはぎゅっと歯を食いしばった。

 周助は、急に大人びた雰囲気を纏った娘を、驚きの眼差しで見つめた。その目には強い決意が宿っているのが見て取れた。同時に、さくらが剣術を志すきっかけはいつも皮肉なものであることに心中で嘆いた。


「今度こそ本気なんだな」娘の視線に応えるように、周助はゆっくりと言った。さくらは頷いた。

「よし。さくら、お前に俺の天然理心流を叩き込んでやる。厳しいぞ。覚悟しろ」


 さくらは再び深々と頭を下げた。


「はい、よろしくお願いします」



 この日から、さくらの剣客としての人生が幕を開けるのであった。

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