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浅葱色の桜  作者: 初音
24/52

24.お里江の恋路

 講武所での試験から数日後。


 いつもの通り朝食をとっていた試衛館の面々であったが、さくらと勇だけは落ち着かない様子で納豆をかき混ぜていた。


「姉先生、そんなに混ぜたら納豆がなくなっちゃいますよ」


 総司に言われ、さくらははっとして器を見ると、確かに納豆が今にも粉々になるところだった。


「無理もない。5と10の付く日に飛脚が来るんだろう。今日は15日だからな」新八が総司に言った。


 そう、さくらと勇は講武所からの手紙、つまり正式な剣術師範採用の知らせと、今後の予定などについて書かれた知らせを待っていたのだった。


 その時、門の方から「近藤さーん!お手紙でーす!」と声が聞こえた。


「来た!」さくらと勇はガバッと立ち上がると、我先にと飛び出していった。


「今、飛脚の声?聞こえた?」平助が総司に尋ねた。門から今いる部屋までは本来そう簡単に声が聞こえる程の距離ではない。

「いや、聞こえなかった…」総司は唖然とさくらたちが走っていった方角を見た。

「きっと近藤先生達はかなり耳をすませていたんですねぇ」山南が微笑ましそうにに言った。


 残された面々はしばらく黙々と食事を続けていたが、やがて物音がしてさくらたちが戻ってきたとわかると、全員ビクッとしてそちらを見やった。


「な、なんだ、手紙来たんじゃないのか?」源三郎が聞いた。さくらと勇の表情が揃って曇っていたからだ。

「何かあったんですか…?」総司もおそるおそる聞いた。


「来なかった」さくらが言った。全員が「は?」と首を傾げた。


「お里江」さくらは台所の方で作業をしていた里江を呼んだ。

「お前にだ」


 里江は土間から上がってきて部屋に入ると、さくらから手紙を受け取って中を読み始めた。


「なんだ、何が書いてあるんだ?」歳三が尋ねた。

「私の、祝言の日取りが決まったと。支度の都合もあり、来月には日野へ戻るようにと」里江の声は少し震えているようだった。


 ほんの少しの沈黙を、総司が破った。


「おめでとう!決まってよかったね!それで、祝言はいつになるの?」


 さくら以外の全員が、光の速さで総司の方に顔を向けた。お前がそれを言うか、と全員が思っているのに、気づいていないのは総司本人とさくらだけだった。


 多少は恋愛経験・女性経験があった男連中と違い、さくらは馬鹿がつく程真面目に剣術の稽古しかしていなかったものだから、こういうことに関しては一回り年下の里江よりもウブで鈍感であった。


 ただ、親が決めた顔も知らない相手に嫁ぐ不安はなんとなく想像がついていたから、総司ほど呑気におめでとうとは言えなかった。結果的には他の者と同様かける言葉が見つからず、さくらも沈黙した。


 里江は今にも泣きそうな顔で「秋口になりそうという話です」と総司の質問に答えた。


 朝ご飯を食べ終えると、各自稽古に向かったり散歩に繰り出したりと三々五々食事をしていた板の間を出ていった。今日もいつも通りの1日が始まる。





「沖田様」


 道場に向かう途中の沖田を里江は呼び止めた。


「あの、お話が…」

「話?」


 里江は少し押し黙った。


「よろしければ、洗濯を手伝ってはいただけませんか?」

「洗濯?…いいけど。珍しいね、お里江ちゃんが手伝って欲しいなんて」

「昨日の雨で、洗濯物が溜まっているのです。奥様も風邪気味でいらっしゃいますから、水仕事は…」

 里江は言い訳がましくもっともらしい理由を並べ立てた。

「そっか。あ、でも午前の稽古が終わってからでもいいかな?」

「はい、よろしくお願いします!」


 もちろん、洗濯を手伝って欲しいというのは里江が苦し紛れに考えた単なる口実であった。本当は洗濯は朝のうちにするに越したことはないのに、里江はそんなことに構っている場合ではなかった。





 そして午後になり、近藤家の庭先で里江と総司は洗濯をしていた。


「洗濯物なんて久しぶりだなぁ。最近は稽古ばっかりだったから」総司が何の気なしに言った。

「沖田様も、洗濯物などなさるのですか?」里江は自然な会話を心がけるように発言した。

「そうだよ。もともと私は下働き兼門人ということでここに来たんだから。昔は奥様に、あ、おキチさんの方ね、動きがとろいってよく怒られてたんだから」総司は懐かしそうに笑った。

「あ、これもちろん内緒だからね」総司は口元に人差し指を当てた。


 その屈託のない笑顔を見て、里江が心臓を高鳴らせていることに総司が気づくはずはなく。


 やがて、2人が他愛もない会話をしているうちにすべての洗濯物が終わってしまった。


「ありがとうございました」里江がか細い声で言った。

「いいのいいの。2人でやった方が早いでしょ?」総司が笑いかけた。

「そしたら洗濯桶片付けてくるから」


 その場を離れようとした総司に、里江は「あの」と声をかけた。


「ん?」総司が里江を見た。

「沖田様」

 里江は震える声で、しかしはっきりと総司の名を呼んだ。


「私を、妻にしてはいただけないでしょうか」


 一瞬の沈黙。


「えっ…え?」


 総司は面食らい、里江をじっと見た。その視線に耐えきれず、里江は顔を赤らめて俯いた。


 再びの沈黙の後、里江は意を決したように顔を上げた。


「沖田様のことを、お慕い申し上げておりました」今にも泣きそうな顔で、しかし真っ直ぐに総司の目を見つめながら里江は言葉を紡いだ。


「えっ、で、でも、お嫁に行くって…」

「はい。ですから、いろいろな無理を承知で申し上げました。ですが、もし、もしも沖田様が里江をお嫁にもらっていただけるのなら、必ずや父と母のことは説得してみせます!」


 総司は少し考えるように口をきゅっと結び、やがて口を開いた。


「…できないよ。説得っていうけど、お里江ちゃんはもう嫁ぎ先が決まっているわけで…そんな簡単にご両親が許すとは…」

「…沖田様のお気持ちは?もし、嫁ぎ先が決まっていなかったら…」


 里江はすがるように総司を見た。


「ごめん。それでも、できないよ。私はまだ修行中の身だから。嫁をもらうとか、そういうのは考えられないんだ」


 里江は右目、左目と、着物の袖を押し付けてこぼれそうになる涙をせき止めた。それから、パッと笑顔に切り替えた。


「わかりました。私の戯れ言をお聞き頂いて、ありがとうございます。困らせてしまって申し訳ありませんでした」

「戯れ言なんて。お里江ちゃんの気持ちは嬉しいよ。ありがとう。あとひと月だけど、これからもよろしくね」総司もふわりと笑った。


「洗濯桶は私が片付けておきますから、沖田様はもう行ってください」

「え?でも」

「私はたった今振られたのですよ?少し1人になりたいのです」里江は笑顔でそう言うと、総司が視界からいなくなるまでその場を動かなかった。





「よかった。最期に見られたのが、沖田様の笑顔で」里江の独り言がぽつりと漏れた。






 さくらは、飛脚が手紙を届け忘れたのではないかと淡い期待を抱き、飛脚問屋に行ってみた。

 しかし、今日配達すべき分はすべて出払い、もしかしたら間違ってどこかに届けられたものが戻ってくるかもしれないが、それがわかるのも早くて明日だと言われ、さくらはがっかりして帰路についた。


 もう5日待ってみるか、とため息をついて試衛館の門をくぐると、庭先に何か黒い物が転がっているのが見えた。不審に思い、さくらは庭の方へ足を運んだ。


「お、お里江!?」


 さくらは急いで里江に駆け寄った。黒い物体は倒れた里江の頭だった。


「おい、どうしたんだ、お里江!」


 里江を仰向けに転がすと、首筋から血を流し、意識を失っているのがわかった。手には短刀を握っている。


「誰か!誰か来てくれ!!」さくらは叫びながら、咄嗟に干してあった洗濯物の手ぬぐいを取り、里江の首に当てた。白い手ぬぐいがあっという間に赤くなった。


「どしたんですか、さくらさん!?」最初に現れたのは平助だった。

「お、お里江ちゃん!?」

「平助、すぐに医者を呼んできてくれ!お里江はまだ生きてる!」

「わ、わかりました!」平助は踵を返して走っていった。


「里江…?」


 次に現れた歳三が、息を飲んだ。


「さくら、どういうことだ」

「わからない。出かけて帰ってきたらお里江が倒れてて…とにかく、まだ息はある。平助が今医者を呼びに行ってる」さくらは手ぬぐいで里江の傷を抑えながら、動揺の色を隠さず言った。


「まさか…!」


 歳三はそう言うと先程の平助とは反対方向に向かって大きな足音を立てながら行ってしまった。







「総司!」


 道場で素振りをしていた総司を、歳三は語気を荒げて呼んだ。


「お前、里江に何かしたか」


 顔と顔がくっつくのではないかというくらい歳三は総司に詰め寄った。


「何って…?」

「里江が庭で首から血ぃ流して倒れてる。小刀を持ってたから、たぶん自分でやったんだ」

「えっ…!」






「お里江ちゃん!」


 総司が里江とさくらの部屋に駆け込んだ。

 里江はすでに新八と左之助の手伝いもあり、ここに運び込まれていたのだった。幸い、急所は外していたようで、すでに血は止まっていたが、意識は戻っていなかった。


「どうして…」総司は里江の横にへたりと座り込んだ。

「総司、何かあったのか?」さくらが尋ねた。


「お里江ちゃんに、言われたんです。妻にしてくれって」

「えっ!!」これには部屋にいた全員ーさくら、新八、左之助、総司と一緒に部屋に来ていた歳三ーが声を上げた。

「そ、それで、お前は何て…?」新八がおそるおそる尋ねた。

「お里江ちゃんは嫁ぎ先が決まっているし、私はまだ修行中の身だから、無理だよって」


 新八と左之助は、あちゃー、と言わんばかりに頭を抱えた。


「まあ、総司は悪くねえけどよ、やっぱりそれで思いつめたんだろうなぁ」左之助が言った。


 それを聞いて、総司はバッと立ち上がると部屋を飛び出していった。

「総司!」さくらが続けて真っ先に立ち上がり、総司を追いかけて部屋を出た。


「俺、なんかまずいこと言っちゃった?」左之助が言った。新八も歳三も何も言わなかった。








「総司」


 さくらは総司の名を呼んだ。


 総司は庭に面した縁側に座っていた。死んだような目で里江が倒れていた場所を見つめている。


「姉先生」


 さくらは総司の隣に腰掛けた。


「まさか、お里江がな」さくらはかける言葉が見つからず、場を繋ぐ程度にそう言葉を発した。

「姉先生は、知ってたんですか?お里江ちゃんが、その、私のことをそういう風に思ってたって」総司はさくらの方を見ずに言った。

「いや。だが、新八に聞いたが、気づいてないのは私とお前だけだったらしい」さくらは、ハハッと乾いた声で笑ってみせたが、総司は何も反応しなかった。

「姉先生、女子とは、そういうものなのですか?」

「そういうものとは」

夫婦めおとになりたいと申し出て断られたら、自害するような生き物なのですか」

「わからぬなぁ。ほら、私は普通の女子とはだいぶ違うから。お里江のように誰かの妻になりたいと願ったこともないし」

「姉先生に聞いた私がばかでした」

「なんだと…!」


 総司は体育座りの格好になり、自分の膝に顔をうずめた。


「私にはわからない…お里江ちゃんの気持ちが…女子のことが…私がお里江ちゃんをあんな目に…」


 総司の声は震えていた。

 さくらは総司の肩を抱き締めた。


「大丈夫。総司のせいではない」

「うっ…姉先生…」


 総司が声を上げて泣くのを見るのは何年ぶりであったろうか。

 さくらは左手で総司を抱き、右手でその頭をただ黙って撫でた。






 その後意識を取り戻した里江は、予定より早く、すぐにでも日野に戻ることになった。


 里江にとって試衛館での最後の夜、布団を並べて眠りにつこうとしていたさくらに里江が話しかけた。


「さくら様、私は、なんてことをしてしまったんでしょうね」さくらに背を向け横になっていた里江はポツリとそう言った。さくらはうーんと曖昧な相槌を打った。


「ただでさえ沖田様を困らせたのに、さらにあんな顔をさせてしまった。もう、合わせる顔がありません」

「ま、待て、早まるな」さくらは里江が再び自害を図るのではないかと思い、がばっと飛び起きた。

「ご安心を。私は明日、日野に帰ります。祝言までには傷跡も治って、何事もなかったようにお嫁に行くのです」


 里江は自分の首に手を当てた。まだ包帯が痛々しく巻かれている。


「でも、本当に、沖田様の側にいられないなら、死んでも構わないと思ったのです。私はさくら様みたいに殿方と対等の立場になってお慕いする方の側にいることはできないから。沖田様の側にいるためには妻にしてもらうしかない。もちろん、沖田様にとって剣術が何よりも大切なのもわかっていました。だから、賭をしたんです」


 さくらは単純に、すごい、と思った。そこまで総司のことを想っているなんて。さくらは誰かに対してそんな風に思ったことはなかった。


「さくら様が羨ましいです。ずっと沖田様の側にいられて。好いたお人の側にいられて」

「いや、総司は私にしてみれば弟みたいなもので好いたお人などでは…」さくらは里江の発言を文字通り受け取り、文字通り返した。

「もちろんわかっております。私が申したの、単純に沖田様のお側にいられて羨ましいということと、さくら様が、さくら様のお慕いしているお方と、側近く日々を過ごせることが、です」

「私は別に、”お慕いしているお方”などおらぬが…」さくらはやはり意味がわからなかった。

「それならば、さくら様は今が一番幸せでございますね。気づいてしまえば、胸が苦しくなってしまいますから」


 一回りも年下の娘にそんな物言いをされるのはいささか面白くない気もしたが、「恋」を知っているか知らないかという意味では里江が先輩であることに間違いはなく、さくらは「そういうものかね」と呟いた。


 一瞬だけ、さくらの脳裏に思い浮かんだ記憶があった。その記憶を、いや、まさかな、とさくらは打ち消した。


「まだ体が万全ではないのだから、もう寝た方がいい」さくらは優しく声をかけた。

「はい、おやすみなさい」






 次の日、歳三と源三郎に付き添われ、里江は試衛館を後にした。さくら達は門前でその姿を見送ったが、総司だけはついに顔を見せなかった。

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