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浅葱色の桜  作者: 初音
22/52

22.試衛館の新たな住人たち

 1862年 春


 勇の襲名披露から半年。さくら達を取り巻く試衛館の環境には少なからぬ変化が起きていた。


 まず、周斎・キチ夫婦は隠居して試衛館から歩いて20分程度の邸宅に引っ越していた。

その空いた場所をいいことに左之助、平助、新八の3人が住み込んでいた。新八は自分が務めるはずだった知人の道場の師範役を市川にあっさりと譲り、試衛館を選んだのだった。それは山南と同じく、改めて行った勇との試合を通しての選択だった。

 平助、新八、とさくらたちが下の名前で呼ぶ程には彼らはさくら達と馴染み、共に稽古をしていた。山南の事だけは、年長者であるからか、先生然とした雰囲気がそうさせるのか、皆「山南ヤマナミさん」もしくは「サンナンさん」と呼んでいた。


 そして、花嫁修行と奉公を兼ねて、佐藤彦五郎の姪・里江が住み込みで試衛館での家事を手伝っていた。

 ツネがお産で万全の体調ではなかったため、人手を寄越してもらえることは試衛館の面々にとってもありがたい話だった。


 そう、増えた住人として忘れてはいけないのが、勇とツネの間に生まれた1人娘・たまであった。


「さくらおばちゃんみたいに、強くなるんだぞぉ」勇はデレデレとした顔で娘を抱き、左右にゆったり揺らした。


「さくらおばちゃん…」さくらの眉間に皺が寄った。

「だってそうなるだろう。さくらはおれの姉さんなんだから」

「それはそうなのだが…」


 さくらは「おばちゃん」という響きをどうにも承伏しかねたが、たまの愛くるしい顔を見るとそんなことはどうでもよくなってしまった。


「たまちゃーん。さくらおばちゃんですよぉ」小さな頬をつつくと、たまはたちまち泣き出してしまった。

「さくらさんが触るといつも泣きますねぇ。ほら、貸してみて」平助が自分の腕を差し出すと、勇はたまを平助に託した。すると、たまはぴたりと泣き止んだ。

「なんか、悔しい」勇とさくらが言うと平助は得意げに笑った。

「僕の方がたまちゃんに歳が近いですから」

「お前…!」さくらは瞼をピクつかせた。


 平助は、野試合の日の礼儀正しさはどこへやら、今では堂々とさくらたちを「いじる」ようになっていた。歳の近い総司ともタメ口を利く間柄になり、この半年で随分試衛館での暮らしに馴染んでいた。それもまた、彼の竹を割ったような性格がさくら達に受け入れられたからでもあった。


「たまちゃんも、さくらさんみたいに剣術の稽古をさせるんですか?」隣に座っていた新八が言った。

「うん。いずれはな。どうも近藤家には女ばっかり生まれるみたいだし」勇はおかしそうに笑った。

「血が繋がってないとはいえ、目のあたりがさくらさんにそっくりですしな」新八がたまの頬に触れると、再びたまは大声で泣き始めた。


「殿方に囲まれてたまが怖がってるんですよ!奥様のところに行ってお乳を飲ませますから私に寄越してください!」


 ガラリと障子が開き、一同は声の主を見上げた。


「お里江、私まで一緒にするな」さくらは仁王立ちで立っている里江を見て冷静に突っ込みを入れた。

「あら、さくら様、失礼しました」感情の読み取れない声色で言うと、里江は平助からさっとたまを取り上げ、ツネのいる部屋に向かって行ってしまった。


「ほんと、気が強いよなぁ…」平助がつぶやいた。

「まあよく働いてくれてるんだからいいじゃないか」新八は平助と同じく、里江が去って行った方向を見た。

「お里江もきっと不安なのだろう。ここでの奉公が終わったら顔も知らない男のところへ嫁ぐのだから」


 言いながら、そう考えるとやっぱり自分は幸せ者なのだろうとさくらは思った。少なくとも、もうこの歳までくれば顔も知らない男どころか、そもそも結婚もさせられることはないのだから。


「そうそう、本題なんですけど」平助が懐から書状を取り出した。

「僕が前に入っていた伊東道場の知り合いからもらったんです。講武所の剣術師範を募集するって話で。今月末に考査があるんです。よかったら、近藤さんどうかなって」


 講武所というのは、幕府が作った旗本向けの道場であったが、その指南役は実力ある者であれば採用されるという話であった。つまり、講武所の師範になることは、勇にとって唯一にして最短の武士になれる道なのである。


「願ってもない話だが、どうかな、ってそんな簡単に名乗りを上げられるものなのか?」勇が書状を受け取り、広げて読み始めた。

「江戸にある道場の主またはそれに準ずる位のある者を広く募集し、考査の末に剣術師範、柔術師範、砲術師範を決定する…」

「お!道場主に準ずる!ならば私も応募できるのか!? 」さくらはぱっと顔を輝かせた。

「いやぁ…さくらさんは…どうですかねぇ…」平助が言いづらそうに言った。

「ふん、私が女子だからとでも言うんだろう。でもここには男でないといけないとは書いてないではないか」さくらは勇の持っている書状を指差した。

「いや、それはまさか女子が来るとは思ってないからだと思いますけど…」平助はなおも言いづらそうな調子で続けた。

「でしょうな。さくらさん、ここにいる誰もが、さくらさんを対等な剣客だと認めています。ですが、外の人間となれば話は別だ。門前払いを食らう可能性もあるでしょう」新八も続けた。


 さくらはぐぬぬ、と唇を噛んだ。新八の言うことはもっともであった。

 しばらく考え込む様子のさくらを、勇たち3人は若干ハラハラしながら見守った。


「いや、行くだけ行こう!勇、私が門前払いを食らったら骨は拾ってくれ」

「…うん、それでこそさくらだな!」勇は満足そうに笑った。







「はい、手を休めないで!あと少しですよ!98、99、100!」


 道場には総司の声が響いていた。

 100回の素振りを終えた門人達は大きな音を立てて木刀を床に落とし、はああ、と大きくため息をついた。


「少し休んだらもう100回行きますからねー」門人達の様子を見ても表情1つ変えず、総司は朗らかに言った。

「沖田先生、もう無理です…」門人の1人がぜいぜいと息を切らしながら言った。入門して日の浅い門人だと、この素振り100本でだいたいへばってしまう。

「山南さんを見習ってくださいよ」総司は門人達と一緒に稽古をしていた山南を見た。山南は涼しい顔をして「いえいえ」と会釈した。

「サンナンさんよぉ、北辰一刀流修めたんだろ?今更素振りなんてしなくたっていいじゃねえか」一緒に素振りをしていた歳三が言った。歳三は山南ほどではなかったが、他の門人達よりは平気そうな顔をしていた。

「そうは言っても天然理心流では私などまだまだ若輩者ですからね。この太い木刀での素振りは天然理心流ならでは。しっかり稽古する必要があると思っています」山南がさらりと言ってのけた。他の門人達はそれもそうか、と仕方なさそうに木刀を持ち体を起こした。

「なんだ、皆さん山南さんの言うことなら聞くんですか」総司は少し不服そうだったが、とにかく門人達の士気が戻ったようなので稽古を再開しようとした。


 その時、ガランと大きな音がしたので、全員が音のする方を見た。

 雨戸を開け放した道場の外の庭で里江が空になった2つの水桶を前に立ち尽くしていた。中の水をぶちまけたようで、あたりは水浸しになっている。


「歳三さん、ちょっとあとよろしくお願いします!」庭を見て総司はそう言うと、縁側の方に行き下駄を履いた。

「よろしくって、おい」

「数数えるだけですから。100本ですよ!」





 総司は里江の元に駆け寄った。


「大丈夫?2つ同時に運ぼうとするからー。ほら、手伝うから一緒に行こ」


 総司は空になった手桶を2つ持つと井戸へ向かった。


「すみません、沖田様。ありがとうございます」里江はか細い声でそう言うと、少し俯いて総司についていった。


 結局、総司が2つの水桶を軽々と台所へ運んだ。


「本当にありがとうございました。奉公している身でこのような、手伝ってもらうだなんて…」里江は恐縮しきりで頭を下げた。先ほど勇たちを相手に吠えた時とは別人のようである。

「いいんだ。だって、お里江ちゃんにはご飯作ってもらったりいつも世話になってるから」総司はにっこりと微笑んだ。


 それじゃあ私は稽古に戻るから、と総司は台所を後にした。残された里江はその背中をじっと見ていた。







「あれ、姉先生、歳三さんは?」


 道場に戻った総司は、皆の前で素振りの回数を数えているのがさくらであったことに驚いた。


「通りかかったら、歳三に頼まれた。あいつ、ろくに稽古もしないで何をやってるんだ」


 さくらはやれやれといったようなため息をつき、師範役を総司と交代した。そして、ついでだからと自分も木刀を手に取り素振りの集団に加わった。


「さくらさんも、この太い木刀で素振りをされるのですね」隣に立っていた山南が言った。

「ええ。男に負けない腕力をつけるためにはこれが一番」さくらはにこっと笑った。さくらはパッと見は華奢であったが、長年この素振りで鍛えただけあって、腕は木刀と同じように太くなっていた。


 さくらの言葉を聞いて、山南は「さすがです」と微笑んだ。さくらは、一瞬だけ心臓のあたりをかきむしられるような気持ちがした。


「はい、半分ですよ!52、53、54…」


 総司の掛け声が響く中、さくらは何気なしに山南の横顔を見た。

 真剣に木刀を振る姿を見て、さくらは再び胸がざわざわとするような、不思議な気持ちに駆られていた。


 ―――私、体調でも悪いのか…?


 この”症状”の正体が判然としないまま、さくらは稽古を続けた。


 その頃、里江がせっせと台所で夕飯の用意をしていると、後ろから声をかけられ振り返った。


「歳三兄様…」


 関係性は少し遠いが、一応親戚にあたる歳三のことを、里江はそう呼んでいた。


「里江、総司はやめとけ」歳三は土間の框に腰かけ、それだけ言った。腕を組んでふてぶてしい顔で里江を見ている。

「どういう意味ですか」里江は作業の手を止めて歳三を見た。

「俺だってな、里江をよろしくって義兄上に頼まれてるんだ。お前はもうじき嫁に行くんだろ。総司に惚れたら別れがつらくなる」

「わ、私は惚れてなど…!」


 里江は顔を赤らめて慌てて否定した。その態度が、言葉と裏腹に肯定を示すことは歳三には容易にわかった。


「ならいいが」歳三は含みのある笑顔を見せた。

「ったく、義兄上もよりによってなんでここを奉公先にしたんだか。こんな男所帯に年頃の娘1人放り込んだらこうなるのは目に見えてる」

「ですから、私は…!」

「さくらが10何年も男所帯で何事もなく暮らしてるからって、みんな感覚が鈍ってやがるんだ」


 歳三の発言を受け、今度は里江が口角を上げた。


「歳三兄様ともあろうお方がお気づきではないのですか?さくら様だって、この男所帯の中に好いたお人がいるはずです」


 歳三は「なっ」と言葉を詰まらせた。


「もちろん、確証はございませんけど。でも、私の女の勘は結構当たるんです」里江はふふっと笑うと、作業を再開した。


 見事に話題をそらされ、しかもそれが自分の「予感」に賛同するものであったから、歳三は二の句を告げずに里江の背中を見つめるしかなかった。包丁で漬物を切る小気味のいい音だけがその場に響いていた。




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