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浅葱色の桜  作者: 初音
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2.家出

 天保十(一八三九)年


 さくらと名付けた娘はすくすくと成長し、彼女が六歳になった年、周助は江戸市ヶ谷甲良屋敷(こうらやしき)試衛館しえいかんという道場を作った。門人は少なく、周助は出稽古と平行して家族を養うほかなかったが、やはり自分の道場を持てたことには満足していた。

 

 それから一年。周助は、いつからさくらに剣術を教えるか、ここのところ思案していた。まだ早いだろうか。だが、早いに越したことはない。遅くとも十歳には。そんなことばかり考えていたから、いつしか口癖のように「もう少し大きくなったら俺の技の全てをお前に伝授してやるからな」などとさくらに話すようになっていた。だが残念ながら、その答えは決まって「父上、さくらは女子でございます」という固辞の言葉であった。

 無理矢理やらせても仕方ない、いつかきっとわかってくれる、今はそんな淡い期待を持つほかない周助なのであった。


 そして当のさくらといえば、近所の神社の境内でいかにも女子おなごらしく、友人らとお手玉をして遊んでいた。

 

「さくらちゃん、すごぉい!」

「ほんと?」


 さくらは調子に乗ったのか、お手玉を投げる速度を速めた。


「おっ…とっ…ひゃっ…あーあ…」


 トサッと落ちたお手玉を、さくらはゆっくり拾い上げた。


「あはは、速すぎたみたい」


 さくらはいたずらっぽく舌を出した。

 周りの少女たちもあはは、と笑った。


 このように、女の子たちの間では神社の階段に座ってお手玉をしたり、地面に絵を描いたりという遊びが主流だった。


「やーっ!」

「いいぞ!やっちまえ!」

「くそぅ、負けねーぞ!」


 境内の広くなっている所では男の子たちがチャンバラをしていた。


「男の子ってさ、毎日チャンバラばっかりしてて飽きないのかな」さくらの隣に座っていた少女・ミチが言った。

「そうだよね!お手玉の方が楽しいし」その隣のカヨも同調した。


 さくらはぼんやりとその話を聞きながら、お手玉にふけっていた。


 ――男だったら…ああやって今のうち真似事でも剣術をやって、道場を継いでいたのかな…


 幼いながらに、さくらは自分が女であることに少しの罪悪感を感じていたのだった。


 父の気持ちに答えたい、という思いがないわけではない。だがそもそもの話、さくらにとっては道場は「怖い場所」であったのだ。


 一度だけ、父が稽古をつける姿を一目見ようとさくらは道場を覗いてみたことがある。が、道場に近づくとこの世のものとは思えない奇声が聞こえてきたことに怖じ気づき、あえなく引き返してきた。それは剣術稽古には欠かせない気合いの掛け声ではあるのだが、幼いさくらにとって、道場から遠ざかるには十分な恐怖体験であった。


 故に、後にも先にもさくらが道場に足を踏み入れたのは、道場ができて門人や家族に御披露目された時のみである。


 ――無理なものは無理なんだ。だってさくらは女子なんだから。


「さくらちゃん、どしたの?」ぼんやりしているとカヨに肩を叩かれた。

「なんでもないよ―――あっ!」


 女の子が全員同じ方を見た。

 チャンバラをしていた男の子たちが、勢い余って棒を飛ばしてしまったのだ。棒はくるくると弧を描きながらこちらに飛んできた。

 そして、ガンッと嫌な音を立てて、さくらの隣で地面に絵を書いていたキクに当たった。

 キクはすぐに泣き出した。今いる四人の中で最年少、五歳のキクに、よりによって当たってしまったのだった。


「おー悪い悪い」棒を飛ばした男の子、信吉がへらへらとやってきた。

「ちょっと、ちゃんと謝ってよ。きっちゃん泣いてるじゃない」さくらは立ち上がって信吉を睨みつけた。

「謝ってるじゃねーか」

「謝ってるように見えないの。あんなの当たったら痛いでしょ」

「うるせぇな。それに、わざとやったわけじゃないんだし、そんなところにいる方もいる方だろ」


 互いに意地の張り合いとなり、二人は引こうにも引けなくなっていた。


「だいたい、女のくせにうるさいんだよ」


 この一言でさくらの中にあった何かが切れた。他人からこう言われることがこんなにも悔しくて、心にグサリと刺さるとは。


「女のくせにって言うけどねー…」

「さくらちゃんは強いんだよ!」


 さくらは振り返った。ミチが立ち上がって信吉を睨んでいた。


「へ?」さくらも信吉も驚いてミチを見た。

「さくらちゃん家は道場なんだよ!あんたたちのチャンバラなんかより、よっぽど強いんだから!」

「そ…そうだよ。あんたなんかに負けないんだから!」


 思わずさくらはそう言ってしまった。もちろん、剣術はおろか木の枝でチャンバラをしたことすらない。


「じゃあ俺と勝負だ。お前が勝ったら土下座して謝ってやるよ」


 意地が勝った。信吉の申し出を断れず、さくらはキクに当たった棒を拾い上げると、信吉にスッと突きつけた。




―――数分後


「けっ、口ほどにもねえな」


 さくらは目をうるませて地面に座り込んでいた。顔を上げれば涙を見られる。その屈辱だけは避けたいところだ。


「女のくせに生意気言いやがるからバチが当たったんだよ」信吉は誇らしげにさくらの頭を棒で小突いた。


 さくらはさっと涙を袖で拭き、すっくと立ち上がった。そして信吉を思いっきり睨むと、パシンッと横っ面を張り、あっという間に境内から走り去った。

 叩かれた信吉を含め、残された全員が唖然としてさくらの去った方を見ていた。 




――悔しい、悔しい!


 さくらは再び溢れ出る涙をなんとかこらえながら家にたどりつき、門をくぐった。

 

 すぐそばの庭から威勢のいい声が聞こえてくる。さくらは声のする方に向かった。

 

 庭では、一人の少年が竹刀を持って素振りをしていた。


「おう、さくら。帰ってきたんだ。どした?泣いてるのか?」

「源兄ぃ…」


 少年の名は井上源三郎。

 八王子千人同心という江戸の西の警護を代々行う一家の息子である。

 源三郎の父は日野で周助の出稽古を受けているが、時々源三郎を連れて試衛館に来るのであった。さくらは以前から源三郎を兄のように慕っていた。


「源兄ぃはいいよね。男だから」

「はあ?」


 すると、庭に面した部屋から初が出てきた。


「まあさくら、どうしたのです?」

「母上…っ」


 こらえていた涙が溢れ出し、さくらは声を上げて泣いた。

 縁側に座った初は、駆け寄ってくる娘を優しく抱きとめた。

 さくらは泣きながら事の次第を説明した。初も源三郎も、ただ黙ってさくらの話を聞いた。


「母上、さくらは悔しいです。信吉は、男だからって威張るのです。さくらは女子のくせにおれたちと喧嘩するなんて馬鹿だって…母上、さくらも男に生まれたかった。どうしてさくらは女子なの…?」


 初は力なく微笑み、さくらの頭を優しく撫でた。


「さくらは、男に生まれればよかったと思うのですね?」


 さくらはこくり、と頷いた。

 初は周助がなぜ、娘にさくらという名をつけたのかと優しく話した。さくらは泣くのをやめ、初の目を見据えた。


「私たちは、男かとか、女かとか、そういうことではなく、さくらが生まれてきてくれてよかったと、本当にそう思っているんですよ」

「じゃあ、どうして父上はさくらに剣術を教えようとするのですか?」

「天然理心流は、あの人が守って、伝えてきた流派なの。それを、血の繋がった娘にも伝えたい、そう思うのに何の不思議があるのです?」

「息子だったらもっとよかった、そう思ってるんでしょ!?」


 さくらは大声でそう言うと、ダッと走り出した。


「さくら!」


 初は道場の裏手に走っていくさくらを追いかけることができなかった。

 源三郎は切なげな表情を浮かべる初と、さくらが走っていった方を交互に見、途方にくれていた。


「ちょっと俺、行ってきます」


 いたたまれなくなった源三郎は、早足でさくらを追いかけた。




「ひっ…く……」


 さくらは納戸の陰に隠れて泣いていた。

 初がああは言っても、周助が男の子を望んでいたのは明らかであり、自分が女子であるということが、少なからず周助をがっかりさせたのは間違いない。

 そんなことを考えると、さくらはどうしようもなくやりきれない気持ちになるのであった。

 自分が男でさえあれば。その思いで頭がいっぱいになった。


「さくら」


 呼ばれて見上げると、源三郎が立っていた。


「なあ、泣くなよ」源三郎はしゃがみこんでさくらと目線を合わせた。

「俺は、さくらが女でよかったと思ってる。俺、男兄弟しかいないから、妹が欲しかったんだ。だから…」

「でも、父上も母上も、本当はさくらが男だったらよかったと思ってるんだ。さくらは、いらない子なんだ…」

「そんなことないって」


 さくらは源三郎を見た。そしてあることを思いついた。


「源兄ぃ、今日日野に帰るんだよね?」

「そうだけど。何だよ、早く帰ってほしいみたいに…」

「そうじゃなくて、お願いがあるの」そう言って、さくらは声を落として源三郎に話した。

「俺はいいけど…本当にいいのか?」

「うん」





 翌朝、源三郎の父・藤左衛門は試衛館の門前に立ち、深々と頭を下げた。


「それじゃあ、近藤先生。お世話になりました」

「また出稽古の時はよろしくお願いします」源三郎も挨拶した。

「おう、励めよ。…源三郎、その風呂敷はなんだ?」周助は源三郎が背負っている大きな風呂敷包みを出した。

「…あ、ああ、これは、父の行李に荷物が入りきらなかったので…」

「そっか。まあ、道中気をつけろよ」 


 藤左衛門と源三郎はもう一度お辞儀をすると試衛館の門を出た。

 周助はふう、と息をついて道場へ戻った。





 周助がしばらく素振りをしていると、バタバタと足音がした。


「お初。どうしたんだ、そんなに慌てて」


 道場の戸口に現れた初は不安げな表情で周助を見た。


「さくらを、見ませんでしたか?どこにも見当たらないのです」

「いや、見てねえが…」

「どうしましょう…もう夕方になるし、外に出歩いて行ったとしたら、危ないわ。やっぱり、私が悪かったのね…」


 初は先ほどのことを周助に説明した。


「家出、したかもしれねぇな…」

「やはりそうなのでしょうか!?あの子ったら、一体どこへ…」


 周助には何かひっかかるものがあった。しばらく考えて、それが何なのか思い立った。


「源三郎のやつ、やりやがったな」

「源三郎さんがどうかしたのですか?」

「なあに、心配いらねえよ」


 わけがわからない、といった顔の初に、周助は自分の予測を話して聞かせた。





 その頃、藤左衛門と源三郎は、日野への帰り道をのんびり歩いていた。


「もういいんじゃないか」藤左衛門が言った。

「そうだね。おい、さくら、降ろすぞ」


 源三郎は風呂敷の結び目をほどき、藤左衛門は風呂敷包みを両手で受け止め、地面にゆっくりと降ろした。


 風呂敷がパサッと開き、中からさくらが出てきた。


「はあー、息苦しかった」

「まったく、お前も考えることが大胆というか…」

「だって…試衛館にはいたくないし。おじさん、今日から井上さくらになるから、よろしくお願いします」さくらはぺこりと頭を下げた。

「そうは言ってもなあ、近藤先生心配するぞ?」

「心配なんかしません。きっと『こりゃ都合がいいや』なんて言って男の養子を取るんです」


 さくらはぷいっと顔を背け、ずんずんと歩きだした。


「いっそ源兄ぃが試衛館の跡取りになればいいんだよ。そうすれば丸くおさまるし。交換交換!」


 藤左衛門と源三郎は、さくらに気づかれないように目配せした。




 それから二日後。

 日野の井上家で、さくらは厄介になっていた。

 井上家の養子になってやる!と意気込んでやってきたのも束の間、あっという間に里心がついて、さくらはずっとふさぎこんでいた。食べる時と寝る時以外は、縁側に座ってぼんやりと庭を眺め、いたずらに時間が過ぎていくのみであった。


「おい、さくらぁ。いつまでそんなところでボーっとしてるんだよー」


 源三郎は縁側に座るさくらに近づいた。

 藤左衛門が用意したおやつにも手をつけず、さくらはぼんやり庭を見ていた。


「ほら、手紙。近藤先生から」


 さくらは驚いたように源三郎を見、手にしている手紙を受け取った。

 内容は、すぐに迎えに行きますからそれまでよろしくお願いします、というものだった。


「なんでさくらがここにいるって知ってるのかな」

「ま、やっぱバレバレだったんだろうな。こっちの手紙もそろそろ向こうについたかな」

「え、源兄ぃ、試衛館に文を出したの?」

「父上がお前にばれないようにこっそりな。どっちにしても、明日には迎えが来るさ」

「やだ。帰らないもん」


 さくらは手紙を源三郎につき返した。源三郎はあきれたようにさくらを見、手紙をじっと眺めた。


「ねえ、源兄ぃ…」さくらがおもむろに言った。

「何だよ」

「市ヶ谷に行ってよ」

「お前まだそんなこと言ってるのか。俺が跡取りなんてな…」源三郎は溜め息混じりに言った。

「それもあるけど、そうじゃなくて。源兄ぃなら信吉に勝てるでしょ。負けっぱなしじゃ悔しいもん。源兄ぃ、さくらの敵を討ってよ」


 源三郎はふう、と溜め息をついて、これから練習で使おうとしていた竹刀をさくらに手渡した。


「敵は自分で取れ。俺が取ったって、お前はすっきりしないだろ。試衛館に帰って、近藤先生にちゃんと剣を習うんだ」

「やだよ。さくらは女子だもん」

「女子が剣術をやっちゃいけないなんて決まりがどこにあるんだよ。お前、女だからって馬鹿にされて悔しいなら、男よりも強い女になってみろよ」


 さくらはハッとして源三郎を見た。


「そんなことできるの?」

「できるさ。なんたってお前は近藤先生の娘なんだから」


 さくらは手渡された竹刀をじっと見つめた。


 剣を習って、信吉に勝つ。

 そんな自分を想像すると、なんだか信じられなかった。


 いつの間にか、竹刀を握るさくらの手には、ぎゅっと力が入っていた。

 

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