「おねだり」が口癖の妹に、今度は婚約者をおねだりされました。ありがとう。
「セフィーナ、少し出掛けてくる。帰るまでに領民に配る書類を整理しておけ」
カシウス様は、それだけを言い残して部屋を出ていった。
婚約者に向ける言葉としては、ずいぶんと味気ないものだと思う。
けれど私は、もう慣れていた。
「……承知しました」
返事をしたところで、カシウス様は振り返らない。
扉が閉まる。
私は机の上に積み上げられた書類を見つめ、それから小さく息を吐いた。
今日も、これで一日が始まる。
カシウス・グランベルゼ侯爵。
整った顔立ちに、恵まれた家柄。裕福な領地を持ち、社交の場では誰に対しても愛想がいい。
女性たちからの人気も高かった。
私の婚約者なのだと告げれば、羨ましそうな視線を向けられることも少なくない。
けれど、それは外での姿だ。
私の前にいるカシウス様は違う。
「まだ終わっていないのか」
「申し訳ありません。昨日いただいた分が多くて……」
「言い訳はいい」
そんな会話は、日常だった。
仕事を押しつけられる。
終わらなければ責められる。
少しでも意見を言えば怒鳴られる。
それでも、婚約を結んでしまった以上、私にはどうすることもできなかった。
私の実家であるヴァルディエール家は、グランベルゼ家より格下の子爵家。
この婚姻は、家同士の利益のために決められたものだ。
だから私は、我慢するしかなかった。
カシウス様が他の女性たちに高価な宝石を贈っても。
私には一言も相談せずに大金を使っても。
それについて尋ねただけで、怒鳴られても。
私は黙って耐えた。
それが私の役目なのだと思っていた。
そんな生活が、何年も続いていた。
だからこそ。
「お姉様、ずるいですわ」
久しぶりに実家へ戻った時のアンジェリカの言葉に、私は首を傾げた。
「……何が?」
「お姉様の婚約者はあのカシウス様でしょう?」
「ええ」
「私の婚約者はローデリック様ですわ」
アンジェリカは不満そうに唇を尖らせる。
「お父様に聞きました。ローデリック様は伯爵家の方ですけれど、あまり見栄えがよろしくないそうですし、お父様が言うには、領地経営ばかりしていて社交にもほとんど出ていないとか」
「……そう」
「いいですわね。お姉様の婚約者は素敵なお方で」
私は何も言わなかった。
アンジェリカは続ける。
「カシウス様はお顔も綺麗で、侯爵家の方で、お金もたくさんお持ちなのでしょう?」
「……そうね」
「羨ましいですわね、本当」
「……」
「ねえ、お姉様。私の婚約者と交換しましょうよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「交換?」
「ええ。どちらも家同士のための婚姻なのですから、なんの問題ありませんわ」
「アンジェリカ」
「だって私、ずっと我慢してきたんですもの」
アンジェリカの声に、少しずつ熱がこもる。
「小さい頃から、お姉様のお下がりばかり。お姉様はお姉様だからって何でも先にお決めになり、私はいつも我慢させられてきました」
私は思わず苦笑しそうになった。
それは、私が聞かされてきた言葉とよく似ていたから。
そう……。
私の髪飾りを『ちょうだい!』と奪ったとき。
私の習い事を『私も!』と横取りしたとき。
私の友人を『私のほうが相応しいですわ』と引き剥がしたとき。
この子が、欲しいと言うとき。
行きたいと言うとき。親に泣きつくとき。
いつも決まって。
『あなたは姉なのだから、妹に譲りなさい』
それが当たり前だった。
「お父様」
アンジェリカが父へ振り向く。
「私、お姉様の婚約者と交換したいですわ」
父は少し考えたあと、あっさりと頷いた。
「両家の了承が得られるなら、それも構わないだろう」
私は父を見た。
それからアンジェリカを見る。
誰も、私の気持ちを尋ねない。
いつものことだった。
「……分かりました」
私は頷いた。
「本当に?」
アンジェリカの顔が明るくなる。
「ただし、一つだけ約束して」
「何ですの?」
「これっきりです」
私はアンジェリカを見つめた。
「何があっても私は、もうあなたの『おねだり』はお断りします」
「ええ、構いません!」
アンジェリカは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、私は胸の奥で静かに思った。
これで、終わる。
ようやく私は、この家から離れられる。
それだけでよかった。
カシウス様のもとから離れられるなら、相手が誰であっても構わなかった。
翌日。
アンジェリカはローデリック様へ手紙を書いた。
婚約を望まないこと。
別の方との婚姻を選んだこと。
その相手が、私の婚約者であるカシウス様であること。
そして、その日のうちにカシウス様とアンジェリカはグランベルゼ家へ向かった。
カシウス様は、アンジェリカの前では別人のようだった。
「君がアンジェリカ嬢か」
「はい」
「セフィーナから話は聞いているよ。とても可愛らしい妹君だと」
私は何も言わなかった。
カシウス様は笑っている。
いつもの、人当たりのいい笑顔だった。
けれど私は知っている。
その笑顔が、私には一度も向けられなかったことを。
馬車が去っていく。
私はその姿を見送りながら、自分でも驚くほど何も感じていないことに気づいた。
悲しくもない。
寂しくもない。
嬉しくもない。
ただ、肩の荷が下りた。それだけ。
そして翌日。
私はローデリック様のもとを訪れた。
正直に言えば、不安だった。
婚約者を突然取り替えられたのだ。怒っていて当然だろう。
私との婚姻など望まないと言われても、何も言えない。
そう思っていた。
「セフィーナ嬢、こちらへ」
通された部屋には、温かな紅茶と菓子が用意されていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は椅子に腰を下ろした。
向かいに座ったローデリック様は、私が想像していたよりずっと穏やかな方だった。
確かに、外見だけを見れば、華やかな男性とは言えない。
けれど、その瞳には不思議な落ち着きがあった。
「こちらがアンジェリカ嬢から届いた手紙です」
差し出された手紙を、私は見つめた。
「……申し訳ありません」
「どうして謝るのです?」
「妹が、一方的に婚約を断るような手紙を送ってしまって……」
「ええ」
ローデリック様は苦笑した。
「ですが、僕は婚約そのものを取り消すつもりはありません」
「……え?」
「この婚姻は、ハルマイン家とヴァルディエール家の双方にとって意味があります。アンジェリカ嬢が僕との婚姻を望まないのであれば、別の方と婚姻すること自体は構わない」
私は少しだけ息を呑んだ。
「ですから、妹と交代するというのであれば、僕は歓迎します」
「歓迎……?」
「はい」
ローデリック様はまっすぐ私を見る。
「あなたは、僕と結婚することを望みますか?」
私は、答えに迷った。
今まで自分の望みなど考えたことがなかったから。
「……ローデリック様が、お許しくださるのであれば」
精一杯を、口にした。
「あなたのお側にいさせていただきたいです……」
ローデリック様はしばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねる。
「何があったのです?」
「……」
「あなたは、先ほどから一度もご自分のことを話していません」
私は指先を握った。
そして、少しずつ話した。
昔から妹を優先することが当然だったこと。
何かを欲しいと言われれば譲ってきたこと。
カシウス様との婚約後は、グランベルゼ家の仕事を任されていたこと。
外では優しい方なのに、家の中では私を使用人のように扱っていたこと。
それでも婚約を破棄することなどできず、耐えるしかないと思っていたこと。
全部話し終えたとき、部屋は静まり返っていた。
やがて。
「……君は」
ローデリック様が、低い声で言った。
「自分のことを大切にしなさすぎる」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……私には……」
「違う。君にも、選ぶ権利がある」
ローデリック様の声は優しかった。
「誰かのために、生きる必要はない」
「……」
「君自身が幸せになっても、誰も君を責めることなどできない。君の幸せは、君自身のものだ」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜだか、涙がこぼれた。
「……申し訳、ありません」
「謝らなくていい」
「私……」
涙を拭う。
「幸せになっても、よかったのでしょうか」
ローデリック様は、少しだけ目を細めた。
「もちろんだ」
その言葉を、私は何度も胸の中で繰り返した。
幸せになってもいい。
自分で選んでもいい。
確認するように。噛みしめるように。
何度も、胸の中で繰り返した。
◇
その頃。
アンジェリカは、自分が夢見ていた生活を送っていた。
美しい婚約者。
裕福な侯爵家。
高価なドレス。そして宝石。
誰もが羨むような暮らしを。
「このドレスはどうです?」
「ああ、とてもよく似合っているよ」
最初のうちは、何も問題がなかった。
カシウス様は優しかった。
少なくとも、アンジェリカに対しては。
けれど、時間が経つにつれて、少しずつ変化が現れた。
「アンジェリカ、今日はこれを頼む」
「何ですの?」
「グランベルゼ領の書類だ」
「私には分かりませんわ」
「セフィーナはやっていたが?」
その名前を聞いて、アンジェリカの顔が曇る。
「お姉様と私は違いますもの」
「……そうか」
カシウス様の表情から笑顔が消えた。
「なら、覚えろ」
「え?」
「ここで暮らすなら、それくらいできて当然だ」
それからだった。
カシウス様の要求は、日に日に増えていったのは。
仕事をしろ。
これを整理しろ。あれを確認しろ。
その服は派手すぎる。
その髪型は気に入らない。
「君は、どうしてそんなこともできない?」
アンジェリカは、次第に疲弊していった。
そして。
「お姉様、交換を撤回しに参りましたわ!」
ついに、私のもとへ戻ってきた。
「ローデリック様を返してください!」
私はローデリック様とともに、アンジェリカを見つめた。
「……」
すぐには、言葉が出てこなかった。
ローデリック様は黙って隣に立っている。
「返してください! ローデリック様は元々は私の婚約者なのです!」
繰り返すその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
断らなければ。
もう、断ると決めたのだから。
頭では分かっている。
なのに、口を開こうとするたびに、いつもの考えが頭の中を奔走する。
私が譲ればいい。
アンジェリカが望んでいるのだから。
これまでだって、そうしてきた。
だって私は、姉なのだから。
「ちょっとお姉様、聞いているの?」
アンジェリカに呼ばれ、息を呑んだ。
違う。
もう、同じことを繰り返したくない。
あの日、ローデリック様に言われたのだ。
『君にも、選ぶ権利がある』
私は自分の手を握った。
顔を上げると、ローデリック様と目が合う。
彼は何も言わなかった。
ただ、私を見ている。
もう一度ゆっくりと目を閉じて、息を吐く。
ありがとうございます、ローデリック様。
「……嫌です」
「え? なんですって?」
小さな声だったかもしれない。
けれど、自分の意思で出した確かな言葉だった。
「もう、あなたのおねだりは聞きません」
「な、なぜですの?」
「……これっきりです。あのとき、そう言いました」
「妹が困っているのに?」
「私も困っていました」
「私が疲弊しているのに?」
「私も疲弊していました」
「でも! お姉様は姉でしょう!?」
「だから何です?」
アンジェリカが言葉を失った。
私は、自分でも驚くほど冷静だった。
「私も、あなたが一方的に断りを入れたローデリック様も、あなたの"物"ではありません」
「そんな……」
「お帰りなさい」
「お、お父様に言いつけますから!」
「構いません」
「お姉様ばかり! 私は、いつも我慢させられて……!」
その言葉に、私は目を伏せた。
「これまで、何度聞いたでしょうね」
アンジェリカは何も言えなかった。
そのときだった。
「アンジェリカ嬢」
これまで黙っていたローデリック様が口を開いた。
「あなたとの婚約は、僕から解消します」
「え……?」
「あなた自身が、僕との婚姻を望まないと一方的に告げたのです。その意思を、尊重しましょう」
ローデリック様は淡々と告げた。
けれど、その言葉の奥には、確かな意思があるように感じた。
「僕は、もう君との婚姻を続けるつもりはありません」
アンジェリカは顔を赤くして、私たちを睨みつける。
「……覚えていなさいませ!」
そう言い残して、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は、しばらくその扉を見つめていた。
「……ありがとうございました」
「礼を言う必要はありません」
「え」
「君自身が選んだことだ」
その言葉に、私はローデリック様を見る。
「……はい」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
この人は、私の代わりに選んでくれるのではない。
私が自分で選ぶことを、待ってくれる。
それが、嬉しかった。
そして私は、このとき初めて気づいた。
私は、ローデリック様のことをもっと知りたいと思っている。
この人のそばにいると、なぜだか心が落ち着く。
その気持ちが何なのかは、まだ分からなかった。
◇
それからしばらくして。
王宮では、グランベルゼ家についての調査が進んでいた。
「陛下、やはり数字が合いません」
宰相が書類を差し出す。
「カシウス・グランベルゼ侯爵の領地では、ここ数年で税収が異常に増えています。もちろん、それだけなら豊作という可能性もあるのですが、領民の生活状況は明らかに悪化しています」
国王アウグスト・エルヴァディア陛下は、眉を寄せた。
「一年ほど前から調査していた件、だな」
「はい」
調査が進むほど、異常な事実が浮かび上がっていた。
領民に対する過剰な徴税。
使途不明の金。
そして、その金がカシウス様個人の贅沢のために使われていた形跡。
「呼び出せ」
「承知しました」
カシウス様は、何も知らないまま王宮へ呼ばれた。
「これは何だ」
「……税収の……報告書でございます」
「違う」
国王陛下の声が響く。
「領民から不当に徴収した金について聞いている」
カシウス様の顔から血の気が引いた。
最初は言い逃れをしようとした。
だが、証拠は揃っていた。
やがて彼は、自分が行ったことを認めるしかなくなった。
陛下は厳しい処分を下した。
カシウス様を侯爵から伯爵へ降格し、問題の領地を王家が接収する。
ただし、王家だけで領地を運営するには人員が足りない。
「適任者がおります」
宰相が言った。
「ハルマイン家のローデリック伯爵です」
ローデリック様が、その領地を任されることになった。
◇
「まずは、領民の話を聞きましょう」
ローデリック様は、領主館に入るなりそう言った。
帳簿だけを見て判断するのではない。
自分の足で町を歩き、その目で状況を見定めて、じかに領民の声を聞いて回る。
何に困っているのか。
どこに無駄があるのか。
どの税が重すぎるのか。
一つずつ確かめていった。
やがて不当な税は廃止された。
生活を圧迫していた制度も見直された。
最初は怯えていた領民たちも、少しずつ顔を上げるようになった。
「新しい領主様は、ちゃんと話を聞いてくださる」
そんな声が広がっていった。
そして領地は少しずつ立ち直っていった。
ローデリック様は領地へ赴くことが増えた。
そのたびに、私は帰りを待った。
以前なら、誰かの帰りを待つことに、こんな感情を抱いたことはなかった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
その言葉を交わすだけで、嬉しくなる。
「今日はどうでした?」
「少しずつだけれど、領民の表情が変わってきたよ」
そう話すローデリック様の顔を見るのが、私は好きだった。
「今度、私も領地へ行ってみたいです」
「もちろん。ぜひ一緒に行こう」
そんな何気ない約束さえ、待ち遠しく思うほどに。
そして、領地は見違えるほど立ち直った。
その功績を認められ、ローデリック様は伯爵から侯爵へと昇爵することになった。
◇
その知らせを聞いた日。
私はローデリック様と二人で、ささやかな祝いの席を設けた。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
グラスを合わせる。
華やかな祝宴ではない。
けれど私は、二人のこの時間だけで幸せだった。
「最初に領地へ行ったときは、どうなることかと思いました」
「僕もだよ。領民の数より問題の数のほうが多いのではないかと思ったほどだ」
思わず笑ってしまう。
ローデリック様も笑った。
その顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
もっと、この人と話していたい。
もっと、この人の笑顔を見ていたい。
そう思う。
「セフィーナ?」
「……い、いえ、何でもありません」
「そう?」
ローデリック様が首を傾げる。
私は少しだけ目を逸らした。
自分でも分かっていた。
以前とは違う。
ローデリック様の帰りを待つのが嬉しい。
話をするのが嬉しい。
笑っている姿を見るのが嬉しい。
そして。
この人の隣にいることを、私は心地よいと思っている。
「ローデリック様」
言葉にするのは少し恥ずかしかったけれど。
それでも。
「私、あなたと一緒にいる時間が好きです」
ローデリック様は一瞬だけ目を見開いた。
そして、柔らかく笑った。
「僕も、君と一緒にいる時間が好きだよ」
その言葉は、私の胸の中で大きな喜びとなってとび跳ねた。
「もちろん時間だけではなく、あなたのことも……」
「ああ。僕も愛している、セフィーナ」
自分でこの人を好きになった。
そう思えたことが、そこに気付けたことが、何より嬉しかった。
◇
一方、父から聞いたところによると、この頃のカシウス様は以前のように金を使うことができなくなっていた。
爵位も、財産も、以前とは違う。
酒に頼るようになり、苛立ちを周囲へぶつけることも増えていった。
その矛先は、アンジェリカにも向けられるようになる。
「……少しお控えになったほうがよろしいのでは?」
「黙れ! 俺に指図するつもりか!」
カシウス様は、焦っていたのだろうと思う。
今まで築き上げてきた地位。
使い込んでもなくならない財産。
物を贈ったときに向けられる眼差に、優越感。
それらが今、音を立てて崩れようとしているのだから。
(このままで終われるか! 終われるはずがない!!)
自分なら、まだ取り戻せる。
そう考えたのだと思う。
領地は没収されたが、経営管理している土地はあそこだけではない。
他の領地から、没収された分の税収を上乗せして吸い上げればいいだけのこと、と。
失った地位を取り戻すために。
自分の輝かしさを再び取り戻すために。
「そうだ、俺なら!!」
行ける。確信したようにカシウス様は立ち上がった。
「カシウス・グランベルゼ」
再び王宮へ呼び出されたカシウス様の顔は、おそらく困惑しきっていたことでしょう。
「先日の処分で終わったと思っていたのだがな」
こちらの台詞を先に言われたような感覚だった。
処分は終わり、莫大な税も取られ、もう十分、罪は償った。もう、終わったと。
「新たな問題が見つかってな」
宰相が書類を広げる。
「見ろ」
そこには、カシウス様が統治する複数の領地についての記録が並んでいた。
「やはり、今回の件だけではなかったようだな」
カシウス様の顔から血の気が引く。
「過去に管理していた領地でも、同様の不正が行われていた」
「それは……」
「一度このようなことが明るみになったのだ。貴公が管理している他の領地についても調べるというのは当然だろう」
言い逃れは、もうできなかった。
一つ。
また一つ。
隠されていた事実が明らかになっていく。
そして。
「此度の爵位降格を撤回し、貴公に廃爵処分を科す」
カシウス様は、国王陛下の宣言通り爵位を失った。
侯爵でもなく。
貴族ですらなく。
ただの一人の平民として、これからを生きることに。
当然、カシウスとアンジェリカの婚約も破談となった。
◇
季節がいくつか巡った。
私は、以前よりずっと穏やかに暮らしていた。
領民たちは私にも気軽に声をかけてくれる。
困ったことがあれば相談してくれる。
だから私も、できることを少しずつ手伝うようになった。
以前なら、誰かに命じられた仕事しかしていなかった。
今は違う。
自分で選んでいる。
それが、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。
「セフィーナ」
「はい?」
「この書類についてなんだけど」
午後の執務室。
ローデリック様と並んで仕事をしていると、ふと目が合った。
「……何でしょう?」
「いや」
ローデリック様は笑う。
「君が笑っているなと思って」
「え?」
私は自分の頬に触れた。
いつからだろう。
こんなふうに笑うようになったのは。
以前の私なら、笑うことさえ誰かの顔色を窺っていた気がする。
けれど今は違う。
私は、自分の意思で笑っている。
「セフィーナ」
「はい」
「僕を選んでくれて、ありがとう」
私は目を瞬いた。
「……私も、今ちょうど同じことを言おうと思っていました」
「そう?」
「はい」
私はローデリック様を見つめた。
あの日。
私はただ逃げたかった。
誰でもいいと思っていた。
けれど今は。
この人と一緒にいたい。
この人と生きていきたい。
自分でそう思える。
「ローデリック様」
「うん?」
私は笑った。
「私、とても幸せです」
ローデリック様も笑った。
「僕もだよ」
窓から差し込む午後の日差しが、部屋を柔らかく照らしていた。
私はその光を眺めながら思う。
誰かに譲るためではなく。
誰かに決めてもらうためでもなく。
自分で選んだ人生を歩めること。
そして、その隣に大切な人がいること。
それが、こんなにも幸せなことだったのだと。
私はもう、知っている。




