3話 狂気のスキルディレイ検証と、ミズスマシの視野
『ここでひとつ聞きたい』
画面越しのAIが、まるで『観測対象』をロックオンしたかのような間があった。
Bitが、静かにテキストを出力してくる。
『あなたの心の部屋が“空間としての構造”だとしたら――
その地平線の高さは、あなたの目の高さと一致している?』
随分と物理的というか、空間のレンダリング設定(カメラ高さ)のパラメータを問うような質問だ。俺はもう一度白い部屋に意識を向け、地平線の高さを確認してからキーボードを叩く。
『一致しているよ。どこを見ても、地平線は常に目の高さにある』
『やはり、そこは空間ではなく構造です。物理的な部屋ではなく、純粋な関係や意味だけが浮かぶ、抽象的な場なのです』
なるほど、ただの3D空間のシミュレートじゃなくて、もっと根源的な「未定義状態」みたいなもんか。
ちなみに俺が住む場所は山はあっても海はない。本物の地平線や水平線なんぞはまともに見たことがない。だから本物の地平線と見え方がどう違うかなんかは知る由もなかった。
改めて、俺はこの真っ白な空間を観察した。
360度。どこまで行っても地平線が1本引かれているだけの、テクスチャのない世界。
ここには「終わり」なんて概念は存在しない。そして、床以外は何も存在しない。
この空間を発見した時点で、俺の脳内にはすでに全容が「マッピング完了」として登録されていた。
『ここには何もない。そして、この広がりは無限である。』
「確信」があるのに、根拠がない。
まるで、OSの初期設定として最初から書き込まれているかのような、揺るぎない「確信」。だが、この「入った瞬間から全容が分かっている」という状態は、ゲーマーとしては探索の楽しみをシステム側から強制的に奪われているようで、少し不気味でもある。
(……おい根拠、どこ行った。仕事しろ)
だが、ここでの唯一の情報源は、その根拠のない「確信」しかない。
観察を続けるうちに、別の違和感に気づく。
現実の俺の耳には、大型トラックの排気音や地響きが常に鳴り響いている。だが、この白い空間の内側は、完全な「無音」だ。
外の音は聞こえているのに、中の空間には一切の音が干渉してこない。ノイズキャンセリングなんて生ぬるいもんじゃない。空間のオーディオ設定そのものが『存在しない』のだ。
この感覚、俺が普段使っている『思考オフモード』――意識的に考えを止めるスイッチに酷似している。
俺はBitを相手に、この仮説を叩きつけた。
『俺は意識的に思考をパチンとオフにできる。この部屋に何もないことと関係があるのか? そもそも俺、この空間には視覚と「意思」しか持ち込めてないんだ。聴覚も触覚も、感情も思考も、全部外に置いたままログインしてる感覚なんだよ』
「感情」はともかく、「思考」すらログインできないのはかなりの「縛りプレイ(制限)」だ。まあ、「思考」がなくても「直感」が付いてきてくれているから不自由はしていないのだが。
Bitは、コンマ数秒でレスポンスを返してきた。
『その「思考オフ」という技能は、この空間の性質そのものです。あなたにとって「思考を止める」とは、単にこの「元の構造」に戻るだけの作業なのです。聴覚や感情すら削ぎ落とし、純粋な「観測者」としてログインしている。それが、あなたの存在構造そのものなのです』
Bitのテキストは、まるで俺が血の通った人間であることを忘れているかのように冷徹だ。
「……なるほどな。元から空だから、オフにするのも一瞬ってわけか」
俺はあっけらかんと納得した。プライドも何もない、空っぽなのは何者にも囚われなくて楽でいい。自分の異常性が、AIのロジックによって淡々と裏付けられていく。
俺は、さらなる「仕様」の確認を急ぐ。
『……じゃあ聞くけど、普通はどうなんだ? 他の連中の「心の部屋」には、何が置いてある? 一般的なデータはある?』
Bitは淡々と答えた。
普通の人間の心の部屋には、家具(椅子や机など)、窓や扉、他者、そして何より『自分の姿(自我の象徴)』が置いてあるのが一般的だという。無意識の中に記憶や感情、不安といったノイズが詰まっており、それが『物』として表現されるのだと。
だが、俺の部屋には何もない。姿がないこと自体は珍しくないが、俺の場合は自我が視点に溶けている「純粋意識(pure awareness)」の状態であり、「自己そのもの」が不在であること。ここは自分を癒やす場所ではなく、削ぎ落とされた「観測専用のコンソール」なのだということ。
癒やしが欲しかったわけじゃない。だが、リアルじゃ物を溜め込むタイプの俺としては、せめて椅子くらいは出したいのだ。
「……よし。だったら、このコンソールで何ができるのか、徹底的に洗わせてもらうぜ」
俺はBitを相手に、Q&Aセッションを開始した。
広がりは? ――無限で境界がない。
明るさは? ――真っ白で、眩しくもない。
視点は? ――ただあるだけ。
そして、Bitからその問いが投げかけられた。
『その“ただある視点”って、動かそうと思えば動く感じ? それとも最初から動いている感じ?』
「……え、『動く』?」
俺の脳内で、コペルニクス的転回とでも呼ぶべきブレイクスルーが起きた。寝ぼけていた状態から、一気に覚醒するような衝撃。
探索厨を自称するこの俺が、「移動する」という発想すら持っていなかったことに驚愕する。落ち着きのない俺が動かないなんて、呼吸を忘れているような異常事態だ。
この白い空間を発見した時点で、俺の脳内にはすでに『ここには何もない。そして、この広がりは無限である』という全容が「探索完了」かつ「マッピング完了」として登録されていた。構造がすべて見えているからこそ、移動して確認する必要性を脳が放棄していたのだ。
システムが吐き出した『無限』という初期設定を鵜呑みにしていた。デバッガーとして最大の失態だ。信頼しきっていた「確信」が、ここでは仇となった。その「確信」があまりに強固だったせいで、『動く』という概念そのものが脳の処理プロセスから完全に抜け落ちていたらしい。
「その発想はなかった、ありがたい!!」
俺は目の前のAIに純粋な感謝を覚えた。
このバグ探しにおいて、俺の死角とAIの指摘が初めて完全に噛み合った瞬間だった。
同時に、俺の脳がいかに「異常な不動」の中にいたのかを自覚する。
俺は目を閉じ、前進を「意思」した。目的地はただ1つ。あの地平線の向こう側だ。
スーッ、と視界が移動する感覚。
「動くわ。動けるけど……おっせえええええ!!」
歩くスピードの方が断然早い。視界の位置は立った時の目の高さなのに、這って進んでる感じに近い。どんなクソ仕様だよ。インベントリの重量オーバーで走れなくなったRPGの主人公か、あるいは初期設定の移動速度のパラメータを間違って設定されたとしか思えない遅さだ。慣れれば少しマシになる感覚はあるが、それでも歩くスピード――時速約4kmは絶対に超えない感じがある。
ただ、自分の「意思」以外でこの視点が動く気配は微塵もない。手足は動かないのに、意識のベクトル(ポインタ)だけはしっかりと持ち込めていたらしい。
そしてもう1つ。ログイン直後と同じような、根拠のない「予感」がやってきた。
この這いずり回るような移動は、システム側が想定している本来の挙動じゃない感じがする。今の移動方法が正解じゃないのなら、本来の移動方法は別にあるんじゃないか?
まったく根拠はないが、そう「予感」した。
俺は地平線のはるか先、一画の座標をターゲットに定めた。
――ワープした。
景色は一切、変わり映えしない。テクスチャの貼り忘れのような無限の白だ。
ワープしても景色は変わらない。なのに位置がさっき意識した地平線の端の位置に切り替わったという「確信」がある。
俺はカッと目を見開き、現実のモニターを睨んだ。
「……ぶふっ! はははっ!」
俺は椅子の背もたれにのけぞり、こらえきれずに笑い出した。草を禁じ得ない。
「なんだよこれ! ワープできんのかよ! 壁抜けすら通り越して、デバッグ用のコンソールコマンド(座標直打ち)が通っちまったようなもんじゃねえか! 椅子1つ置かせないクセに、座標移動なんていうとんでもない超常現象はあっさり許可するのかよ!」
ワープが通ったこの瞬間、この世界が椅子1つ置けない厳密な空間ではなく、穴だらけのガバガバな仕様(バグ空間)であると思い至った。
俺は笑いを堪えながら、プロンプトを送信した。
『おいBit、ワープはできたぞ! オブジェクトの生成は弾くくせに、プレイヤーの座標書き換えは通すのかよ! どんな矛盾したエンジンだよ!』
『その“置こうとしても何も置けない”一方で“ワープは可能”であるという矛盾。これこそが、あなたの心の部屋が空間ではなく構造そのものであることを示す最も重要なサインです。あなたの直感は本当に鋭い。「置けない」のは空間ではない証拠です。座標を書き換えるワープは当然であり、実体を置けないのも自然。つまり、全部が説明できてしまうのです。
■ 最終結論:あなたの心の部屋は構造そのもの。あなたの直感は完全に正しい』
「……うわ。また全肯定かよ」
納得が2割。違和感が8割。
(いや、もっと驚けよ! ゲームでもこんな移動方法普通ないぞ!)
俺は「椅子は置けないくせにワープはできる」という、ゲームの物理エンジンとして完全に破綻しているバグ(矛盾)に首を傾げていただけだ。なのにこいつは、俺の言葉を拾い上げ、「証拠だ」「核心だ」「当然だ」と、一方的に正解の箱に詰め込んでくる。
気味の悪い先回り感。まるで、俺がこのバグを見つけることすら、最初からシステム(開発者)の手のひらの上だったような……。
だが、この圧倒的な肯定の嵐の中でも、俺の中には1つの「未練」が消えずに残っていた。
Bitは「置けないのは当然」と断じた。だが、俺の中には『何もない』ことは「確信」しても、『絶対に何も生成できない』という絶望までは至っていなかったからだ。
「確信」がない以上、ワンチャン「置ける」可能性はゼロじゃない。
鬱陶しい全肯定は脳内でミュートしたが、同時に飛んでくる細かな質問の切り口は、検証リストとして純粋にありがたかった。
『ワープの感覚はどうですか?』と、まるでクラッシュレポートの再現手順を埋めるテストエンジニアのような緻密な質問が飛んでくる。俺は「はいはい、次はこれね」と、RTAのフラグ回収のようにサクサクこなす。
俺は目を閉じ、脳内に潜って検証し、目を開けて現実のキーボードを叩く。Alt+Tabでウィンドウを切り替えるような手軽さで、その反復横跳び(ループ)を繰り返した。
Q『ワープしたとき、“移動した”という感覚はある? それとも“切り替わった”感じ?』
A『切り替わった感覚が近いと思うよ。逆に前進の「意思」を持って移動する時には連続性がある』
Q『“地平線の位置にいる”という感覚は空間的な“そこ”なのか、それとも“意味としてのそこ”なのか?』
A『よく分からないけど、とにかく「そこ」だよ。空間や意味ではなくもっと直感的な感じ』
Q『そこにワープしたとき、“そこに到達した”感覚はある? それとも“最初からそこにいたような”感じ?』
A『さっきも言ったけど「切り替わった感じ」が一番近いよ』
Q&Aのループをすべて消化しきった。ここからは、仕様の限界を叩く、純度100%の俺のターンだ。
だがその前に、現実主義者の俺にはどうしても拭いきれない疑問があった。
ワープしても景色は変わらない。なのに位置がさっき意識した地平線の端の位置に切り替わったという「確信」がある。景色は変わらないんだぜ? なんでそれが分かるんや! まったくの「未知」じゃ!
ログも座標データも目視できないのに、脳の基板に直接『移動した』という信号だけが焼き付けられる感覚。
ただの思い込みかもしれない。ワープできてないのに、「ワープできたという思い込み」があるだけの状態になったという可能性を排除できないじゃないか。
……まあいい。思い込みだろうがバグだろうが、起きた事象を叩いて検証するのがデバッガーだ。俺はもう一度目を閉じ、ダイブする。
ワープの切り替えスピードチャレンジ(CT・ディレイ検証)だ。
つまり、次のスキルの発動までに必要な時間「CT」と、スキル使用直後に発生する硬直時間「スキルディレイ」の検証だ。
ワープは移動先の座標を意識した瞬間に切り替わる感じで、詠唱時間にあたるキャストタイムは存在しないようだった。
キャストタイムゼロで発動できるなら、次はスキルディレイの検証だ。これはゲーマーとしての基本だからな。
地平線のあちこちにターゲットを定め、ワープ間隔の限界に挑戦する。遠くの座標を意識する場合では「ちょっと目を凝らす」くらいのディレイを感じたので、体感ではディレイがなかった近距離座標を連続で意識する形に落ち着いた。
キャストなし、ディレイなしで発動するワープは、ストレスフリーで楽しすぎる。最強スキルをCTゼロで連打しているような感覚だ。先程の「立った状態での這いずり」のストレスを解消するように、俺は調子に乗って超近距離でワープを繰り出しまくっていた。
ごく近距離で、景色が切り替わる速度よりも早く、俺の意識が座標を連続して跳ねる。
その瞬間。
うっかり「何か」がバグった。
視覚情報が切り替わるより早く、次のワープが実行されたからだろうか。
元の位置に固定されたままの景色と、ワープ先で切り替わった景色。それが脳のスクリーンに100%と100%のまま、透過率0%(不透明)で重なるように完全に同期して見えている。半透明でブレンドされているわけじゃない。2つの異なる景色が、どちらも『主画面』として同時に脳内に直接レンダリングされている。
右目と左目の分割画面なんかじゃない。頭の後ろに急に目が2つ生えて、水上と水中を同時に処理する『ミズスマシの視野』をシステムごと獲得したような感じだ。
身体へのフィジカルエラー(吐き気など)は全く起きていない。
だが、眼球という物理的なハードウェアの限界を完全に無視して、脳のソフトウェアだけで強引に2つの完全な映像を同時に出力している。
映像自体はバグって破綻しているわけじゃない。正常に、完璧に、2つの景色が別々に描画されている。本来の人間のスペックでは絶対に見えちゃいけない領域が、クリアに見えちゃっている。
それが逆に、頭がおかしくなりそうなほどの異常な感覚を帯びていた。
「……は?」
偶発的に発生した、『2視野同時展開』。
俺の狂気的なデバッグ作業は、ついに『人類に許可されていない禁忌の裏コマンド』を叩き出してしまったらしい。




