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【完結】君がいなくなって、ようやく恋だと知った 〜幼馴染を失った彼の後悔〜  作者: 恋せよ恋


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第26話 決意の帰還と、揺るがぬ境界線

 ローゼンタールの潮風を背に帰国したユリウスが、真っ先に向かったのは己の実家ではなく、ビビアンの実家であるドルーマン伯爵邸だった。

 

 応接室に現れたユリウスの顔つきは、数週間前とは劇的に変わっていた。潮風にまみれ、愛する人を追って海を越えた経験は、彼から甘さを削ぎ落とし、一人の責任ある「男」として成長したのだとユリウス自身は自負していた。


「ドルーマン伯爵、夫人。……この度は、多大なるご心配とご迷惑をおかけしました」

 

 ユリウスは深く、迷いのない一礼を捧げた。


 だが、ドルーマン伯爵夫妻が手元の紅茶を飲む所作は、静かなままだった。社交の笑みすら浮かべず、ただ娘を深く傷つけた男を値踏みするような、鋭い視線がユリウスを射抜く。


「……皆様の掌の上であったと、現地で思い知らされました。ビビアンが帰国する半年後、改めて、僕の人生のすべてを懸けてプロポーズをさせていただきたい。それまでは、僕は彼女に恥じぬ男として、この国で研鑽を積む所存です」


 ユリウスの力強い確約。しかし、応接室に漂っているのは、重苦しい沈黙だった。

 ドルーマン伯爵は、ゆっくりとカップをソーサーに置くと、低く冷ややかな声で告げた。


「勘違いしないでもらいたい、ユリウス君」


「……え?」


「今回の件を、リッチモンドと我が家で『真実の愛を貫いた試練』などという見え透いた美談に仕立て上げたのは、我が娘、ビビアンの今後の名誉のためだ。君の不始末のせいで、あの子が『《《婚約者のような幼馴染》》に捨てられた惨めな女』として社交界で後ろ指を指されるのを防ぐための、親としての火消しに過ぎん」


 伯爵の言葉は、容赦なくユリウスの傲慢さを剥ぎ取っていく。


「私たちとて、大切な娘であるビビアンが君のことでどれほど悩み、傷ついていたかを知りながら、大人の都合で対処が遅れてしまったことを深く後悔している。……だからこそ、君を簡単に信じることも、許すことも到底できないのだよ」


「君は、ビビアンを放置したことばかりに目を奪われているようだが……君がその男爵令嬢にしたことも、極めて無責任で残酷な行動だ。我々は彼女に同情する気持ちにはなれんがね。しかし、一番は君だ。内々には婚約者が決まっている身でありながら、中途半端な同情で首を突っ込み、相手に『自分は特別なのではないか』と無駄な期待を抱かせ、最後は邪魔になったからとすべてを放り出して海を渡った。それは正義でも何でもない。ただの、身勝手な男の逃亡だ」


 一言一言が、ローゼンタールの街角で見た「偽善のヒーロー」の姿と重なり、ユリウスの胸を深く抉る。自分はまだ、親の庇護のなかで「かっこいい男」を気取っていただけだったのだと、思い知らされる。


「はい。……重々、承知しております。言葉もございません」


 ユリウスは拳を握りしめ、今度こそ、己の醜さを認め深く頭を下げた。そんな若者を見つめ、これまで静観していた伯爵夫人が、扇を畳んで静かに問いかけた。


「ユリウス君。……あなたは、自分の何が一番の問題だったのか、本当に分かっているのかしら?」


「……え?」


「見て見ぬふりをせず、困っている誰かに手を差し伸べること自体は、決して悪いことではありません。ですが、あなたのしたことは何かしら? その場しのぎの憐れみで相手をかまい、ヒーロー気取りの自己満足に浸り、問題の根っこには目を向けず、最後は放り出した。結局、誰も救えていないのよ。あなたが去った後、男爵令嬢がどうなるか、考えもしなかったのでしょう?」


 ユリウスは息を呑んだ。「何もしなければ良かった」という後悔すら、浅はかな逃げでしかなかったのだと突きつけられる。


 ドルーマン伯爵が、夫人の言葉を引き継ぐように重々しく告げた。


「高位貴族の嫡男たる者が、ただの『いい人』で終わるなど許されない。君に求めているのは、そんな安い偽善ではない。自分の身分と、与えられた能力をフルに使い、誰も傷つけずに、社会の仕組みごと弱者を救い上げるような、政治力を持った強い男に成長することだ。それができて初めて、ビビアンの隣に立つ資格が生まれる」


 雷に打たれたような衝撃が、ユリウスの全身を駆け巡った。

 自分がやるべきは、目先の小さなことではない。己の特権と力を尽くし、社会の仕組みそのものを変えるほどの男になることなのだ、と。


「あの子が半年後、自分の足でこの地に戻った際、君を拒絶して『さようなら』と言い放ったとしても、それが当然の報いだ。君が向き合うべきは、我々親世代の掌ではない。ビビアンの心そのものだ。せいぜい、血を吐く思いで己の未熟さを埋めておくことだな」


「……はい。必ず、這い上がって見せます」


 ユリウスは、これまでで最も鋭く、覚悟に満ちた声を絞り出した。




 翌日、学園へと戻ったユリウスを待っていたのは、親たちが作り上げた「美談」による、静かな敬意の眼差しだった。

 周囲は、ユリウスがジャネットに親切にしていたのは領政のための「公務」だったのだと、都合よく解釈している。


 しかし、ユリウスの心に、昨日までの驕りは一切なかった。

 この生ぬるい称賛は、ドルーマン伯爵の言う通り、すべてビビアンを守るための「嘘」の上に成り立っているのだと分かっていたからだ。


 だからこそ、放課後に歩み寄ってきたジャネット・シシリーに対しても、ユリウスの態度は、昨日までとは違った意味で冷徹だった。


「ユリウス様……。水路の拡張工事の件で、父がぜひ、現地をご覧いただきたいと申しておりますの。明日の朝、一緒に伺えればと……」


「いや。現地集合にしよう。僕はリッチモンド家の馬車で行く」


 ジャネットは息を呑んだ。


「どうして……? 同乗した方が効率的ですし、以前はあんなに親密だったのに……」


「ジャネット嬢。以前の僕は、君の同情を引く涙に付け込まれ、ヒーロー気取りで君を甘やかし、勘違いをさせてしまった。僕の中途半端な優しさが、結果として君の家に無駄な期待を抱かせ、そして僕の、内々にはすでに決まっていた大切な婚約者を酷く傷つけた」


 ユリウスは、自分の言葉を誤魔化さなかった。


「もう、君を特別扱いして『可哀想だから』と救うような真似はしない。それは君に対しても、僕の愛する女性に対しても、あまりにも不誠実で失礼な行為だからだ。これからの仕事の話は、現地で、代官を交えて公の場でのみ行う」


「そんな……っ!」


 ユリウスは振り返ることなく去っていった。

 取り残されたジャネットは、唇を噛み締める。クラスメイトたちの「あんなに振られたのに、まだ追いかけているのか」という嘲笑の視線が突き刺さる。 


「……あの、シシリー嬢」


 惨めさに震える彼女の前に、おずおずと差し出されたのは、いささか安物の、けれど清潔に洗われたハンカチだった。

 見上げれば、そこにいたのはクラスの隅でいつも高位貴族たちに怯えていた、同じく男爵家の令息トーマスだった。彼はジャネットの涙に顔を赤らめながら、頼りなく、けれど必死に言葉を紡ぐ。


「ユリウス様のようなお方には、僕たちの、明日の税率に怯えるような領地の苦しみなんて分からないんだ……。もし、水路の話なら……僕の実家も同じ悩みを抱えている。僕でよければ、話を聞かせてくれないか」


 それは、彼女の身の丈に合った、ささやかな救いの始まりだった。




 その前夜。自邸の書斎で、ユリウスは机の上のランプに照らされながら、ビビアンへの手紙を綴っていた。何度も書いては消し、インクで汚れた紙屑が床に丸められていく。

 翌日の視察を控え、本来なら休むべき時間だったが、ドルーマン伯爵に突きつけられた己の罪の重さが、彼をじっとしていさせなかった。


 『今日、ジャネット嬢からの誘いを断ったよ』なんて、誇らしく書くつもりはない。そんなものは、かつて自分が犯した無責任な大罪のツケを、一つずつ清算していくための、最低限の義務に過ぎないのだから。


 今の自分には、彼女に愛を囁く資格も、気の利いた近況報告を送る資格すらない。それでも、ただ謝罪を並べるだけの文面にはしたくなかった。

 ユリウスは、胸に深く刺さったドルーマン伯爵の言葉を噛み締めながら、ビビアンへの手紙に、ただ一言だけ覚悟を書き記した

 

 遠い海の向こうで、自分の足で気高く戦っている一人の少女。

 その背中にいつか追いつき、隣に立つにふさわしい男になるために。夜更け、ユリウスは静かにペンを走らせ続けた。


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