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【完結】君がいなくなって、ようやく恋だと知った 〜幼馴染を失った彼の後悔〜  作者: 恋せよ恋


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第14話 ジャネットの攻勢

 ビビアンが学園から姿を消して、三週間。

 僕の世界は、色鮮やかな旋律を失ったかのように、単調で息苦しいものへと変わっていた。

 

 放課後の領地経営科の自習室。夕闇が忍び寄る室内で、僕はジャネットの隣に座り、彼女の領地で計画されている新しい水路の設計図を眺めていた。だが、文字が滑って一向に頭に入ってこない。


 僕がペンを止めていると、隣から衣擦れの音がして、甘い花の香りが鼻腔を突いた。


「ユリウス様……今日は、上の空でいらっしゃいますね」


 ジャネットが、僕の二の腕にそっと身体を寄せてきた。



 かつてはそのか弱さに、守ってあげなければという熱い衝動を感じたはずだった。けれど今、触れ合う肌の熱が、なぜかひどく重苦しく感じられる。



「……ああ、すまない。少し、考え事をしていてね」


「ドルーマン伯爵令嬢様のこと、でしょうか」


 彼女の問いに、僕は言葉を濁した。


 否定したところで、嘘になる。僕は毎日、朝起きてから眠りにつくまで、ビビアンが今どこで何をしているのか、なぜ一言も告げずに消えたのかを、問い詰めたい衝動に駆られている。



「彼女は、きっと大丈夫だよ。僕たちの理解を超えた、何か深い考えがあってのことだろう」


「そうでしょうか。私……ずっと心苦しかったのです。ユリウス様を独占してしまって、あの方に悲しい思いをさせてしまったのではないかと」


 ジャネットが瞳を潤ませ、僕を見つめる。


 その目は、一見すると自己犠牲的な慈しみに満ちているが、その奥には、確かな「期待」が揺らめいていた。



「でも、あの方はもう、ユリウス様には相応しくないのかもしれません。あんなに冷たく、何も言わずに貴方様を置いていくなんて……。本当に貴方様を愛しているのなら、そんな仕打ちができるはずありませんわ」


「ジャネット嬢、それは言い過ぎだ」


「いいえ! 私なら、どんなことがあってもユリウス様の隣を離れません。貴方様が私のためにしてくださったこと、シシリー家を救ってくださったこと……。私は生涯をかけて、そのご恩にお応えしたいのです」



 ジャネットの手が、僕の手を強く握った。


 彼女の指先がわずかに震えている。それは「か弱さ」ではなく、逃がさないという「意志」の現れのように思えた。



「ユリウス様……私たち、もう正式な婚約をしても良い頃合いではありませんか?」


 心臓が、どくんと嫌な音を立てた。

 


「……婚約、だって?」


「はい。学園でも、私たちの仲は誰もが知るところです。ユリウス様が私のためにここまで尽くしてくださったのです。私の両親も、ぜひリッチモンド伯爵家と縁を結びたいと申しております。……ユリウス様も、私のことを『守りたい』と言ってくださったではありませんか」



 彼女の言葉は、正論だった。


 貴族社会において、独身の男女がこれほど頻繁に会い、馬車を共にし、他家の領地経営にまで口を出す。それが意味するところは、一つしかない。


 

 僕は彼女を「助ける」ために行動した。

 だが、その行動は世間から見れば、ジャネット・シシリーを自分のものにするという「宣言」に他ならなかったのだ。

 


 だが、なぜだろう。



 ジャネットから「婚約」という言葉が出た瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、彼女の笑顔ではなく、壁際で一人、静かに微笑んでいたビビアンの姿だった。


 

 ビビアンは、僕に一度も「婚約してほしい」などと言ったことはなかった。


 ただ、当然のように僕の隣にいて、当然のように僕を支え、僕が他の女性に夢中になっても「あなたらしいわ」と微笑んで許してくれた。

 

 その「許し」を、僕は彼女の「強さ」だと思い込んでいた。


 

 けれど今、ジャネットという少女の剥き出しの欲望に触れて、僕は初めて気づいたのだ。


 ビビアンは、強かったのではない。

 僕が彼女を「踏みにじっている」ことに気づかないふりをして、僕との平穏を保つために、血を流しながら耐えていただけだったのではないか。


 

「……ジャネット嬢、すまない。今はまだ、そんなことは考えられない」


 僕は、彼女の手を振り払うようにして立ち上がった。



「どうしてですか!? あの方はもういないのに! あんなに冷酷な女性よりも、私の方がずっとユリウス様を想っています!」


 ジャネットの声が、静かな自習室に甲高く響く。



 その声を聞きながら、僕は自分の中にある「違和感」の正体を悟った。


 

 僕は、ジャネットに縋られることが誇らしかった。

 彼女を助けることで、自分が「立派なヒーロー」になったような気がしていた。


 だが、彼女が求めていたのは「ヒーロー」ではなく、自分の家を再建させ、地位を保証してくれる「伴侶」だったのだ。

 

 当然の帰結だ。彼女は自分の人生を戦っているのだから。


 

 だが、僕が「正義」の名のもとに切り捨ててしまったビビアンとの時間は、そんな取引や対価で成り立つものではなかった。


 ただそこにあることが自然で、呼吸をするように心地よかった、唯一無二の安らぎ。


 

「……僕は、ビビに謝らなければならないんだ。それを済ませるまでは、他の誰かと未来を語ることなんてできない」


「ユリウス様! 待ってください、ユリウス様!」


 ジャネットの呼びかけを背中で聞きながら、僕は自習室を飛び出した。


 

 夕暮れの廊下を、僕はがむしゃらに走った。

 行き先なんてわからなかった。ただ、この息苦しい「正義の結果」から逃げ出したかった。


 

 僕は、間違っていたのだ。

 

 困っている人を助ける。それは正しい。

 だが、その正しさを盾にして、一番大切にすべき人の心を土足で踏み荒らした僕は、ヒーローなどではなかった。



 恩恵を暴力で踏みにじる、最低の裏切り者だ。

 ビビアンが僕に捧げてくれた数えきれない慈しみと献身を、僕は無自覚という刃で、一点の容赦もなく切り刻み続けたのだ。


 

 立ち止まった僕の目に、淑女課の掲示板が映った。

 そこには、昨年度の成績優秀者と、今年度の「交換留学内定者」のリストが貼り出されていた。

 

 ふと、そのリストの最上段に目が止まる。

 

『ローゼンタール王国 交換留学内定 ビビアン・ドルーマン』

 

 心臓が止まるかと思った。

 

 留学?


 この国を離れ、海を渡り、僕の手の届かない場所へ行く。

 彼女は、僕がジャネットのために走り回っていたあの春休みに、一人でその準備を進めていたのだ。


 

 一度も、僕に相談することなく。

 一度も、僕に弱音を吐くことなく。

 


 膝から力が抜け、僕はその場に崩れ落ちた。


 

 ジャネットの「攻勢」が、皮肉にも僕に真実を突きつけた。

 

 僕は彼女を守っているつもりで、実際には、自分を最も愛してくれていた人を、永遠に失うための崖を全力で走っていたのだ。

 


 掲示板に刻まれた彼女の名前が、僕を嘲笑っているように見えた。


 夕陽が長く影を落とす誰もいない廊下で、僕は一人、声を上げることさえ忘れ、ただ激しい戦慄に身を任せていた。


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