000 エピローグ
跳ぶ。
走る。
跳ぶ。
夜の街を自由気ままに駆け抜ける。
道なんて関係ない。この街の全ては道であり、果てない地平でもある。
いつから走り出していたかは分からない。
今はただスピードに乗って、風を切り、ビルの屋上から隣のビルの屋上へと跳ねる。
高所から飛び降りる瞬間、体がふわりと一瞬無重力になり、その直後に重力に捕まり降りていく。
いや落ちていく。
ぞくりと肌が粟立ち、みるみる近付いて来るコンクリートの地面への衝動に備える。
ダン!とスニーカーの底が音を立て、次の瞬間にはもう前方への一歩を踏み出す。
落下の慣性をそのまま前進する力に利用し、加速し続け、コントロールが効かないほどの勢いに心はどうしても恐怖するが、それすら気持ちいい。
生きているという感じがする。
危うければ危ういほど楽しいのかも知れない。
眼下の道を行くどの車よりも早く走り、跳び続け、どれくらいの時間が経っただろうか。
ビルの屋上から、眼下に見えた街灯へ飛び移る。
足場は狭く、片足しか乗らない程だがうまくいった。
そのまま片膝で衝撃を逃し、軽やかに歩道へ降り立った。
ようやく一息つく。
もう何度もこのパルクールとも言えない気分任せの派手な暴走をしていた。
この世界で自分は自由だった。
車より早く走れるし、どんなに高いビルからでも飛び降りることができる。
建物のわずかな凹凸に指を引っ掛け登ることもできる。
前後左右上下どこにでも行ける万能感。
空は飛べないけれど、自由を感じるには十分な、自分だけの時間だった。
だったのだ。
「君、ちょっといい?すごい動きするんだね」
背後から肩に手を置かれ声をかけられた。男の低い声だ。
数えきれないほどの暴走行為をしてきたが、こんなことは初めてだった。
いくら派手に動き回っても、街の住人達はいつも無関心なのが常であった。どんなに高いビルから降りても、異常な速度で横を駆け抜けても、それが日常であるかのように目もくれないのが普通だったのだ。
だと言うのに、自分の肩に手を置いた男は言ったのだ。
「すごい動きするんだね」と。
寒気がする。一瞬で心臓が飛び跳ねる。
自分の家に、他人が当たり前のように入ってきているかのような異物感。
「なんのことですか?」
振り返らずに、男の声に答えてみる。
動揺を悟られぬように、すぐに答えたつもりだが、背後の男から見てどうだったろうか。
様々な感情と、考えが浮かんでは消えていく。
確実なことは、自分が混乱しているということだけだろう。
混乱が声に出ていたような気もするが、確かめる術はない。
構うことなく、低い声の男は話を続ける。
「いやなに、すごいスピードで走ってくる君を見てすごいなと思いましてね。最後はあんな高いビルから飛び降りたのに全然平気そうなんだもの、驚愕しましたよ。それで思わず話しかけたんです」
男の低く響く声は言葉こそ丁寧だが、それは全くと言って良いほど、安心できる材料にはならない。
それどころか警戒レベルを引き上げ、いつでも駆け出せるよう重心を移動させておく。
後ろは振り向かない。
男の正体は気になるが、それ以上に自分の正体を明かすことに恐怖を感じた。
「何がすごいんですか?別に普通のことですけど?」
自分と男の横を通り過ぎて行く他の住人同様に、自分への関心が無くなることを祈り、言葉を選ぶ。
頼むからお前も有象無象の住人の1人に戻ってくれ。
「おいおいおい、それは無理ですよ。他の奴らはいざ知らず、僕は君の動きに驚いたって言ったじゃないですか。もちろん気付いているんですよ、君が普通ではないことに。ねぇー」
心を見透かしたような返答を最後まで聞かずに、一気に駆け出す。
続きを聞く必要は無い。
警戒はとうにMAXレベルだ。
このままでは自分の、自分だけの時間が終わる予感がする。
全力で一歩目を踏み出したーーーはずだった。
「痛ぅっ!?」
背中と後頭部に衝撃。
目は開いているつもりだが、目の前は暗闇。
先程まで背中ごしに聞こえてきた声が、今度は上から聞こえてくる。
低い声の男は肩に置いた片手の力だけで、車ほどの速さで走る男の一歩目をその場に留め、更には力任せに地面に叩きつけたのだ。
「逃げないでくださいよ。話は終わっていませんよ。こんな乱暴したくないですから僕は」
頭は混乱しているが、自分が今アスファルトに仰向けになっていることは分かった。
頭も背中も痛いし、呼吸もうまくいかない。しかしそれ以上に、焦りが全身を支配して何もできない。
「か、はっ、な、に・・・」
「君はここがどういう場所か気付いているんですよね?」
低く冷たく言い放たれた言葉に、予想通りの最悪の事態が起きたことを感じたが何もできない。
「君は何なんですか?」
質問の意図がわからない。
声が出ない。何を聞かれているかは分からないこと。抵抗の意思は無いこと。とにかく助かりたいと祈りを込めて顔を横に振る。
「何も知らないということですか?あれだけの動きをしていてそんなことあります?」
本当に何の話をしたいんだこの男は。無茶苦茶だ。
とにかく何か弁明しなければ。でも何に?思考は相変わらずまとまらず、下手に何かを言えば、逆鱗に触れるかも知れない。
自分の言葉を待っているのか、低い声の男は何も言わない。
そうこうしているうちにようやく視界が戻り始めた。
しかし、頭上に白い街灯を背にした男の輪郭はまだぼやけている。
視界を確かなものにしようと瞼を閉じ、改めて開こうとした瞬間、メキッという音を聞き意識は途切れた




