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17歳境界知能で絶全知全能、地球の運動について計35万字の2部。地動説の否定

作者: Thinker U

第1部の"サブタイトル"(前書きでは無い)


召喚する学者も言葉もアニメもアイドルも社会問題も音楽もミームもキャラも何もかも極めて多すぎて、分けるのが有り得ない程に面倒くさいので今回から、前書きと本文を同じにする。それに加えて、今回から本格的に五感並び飲食や紙の図などが出てくるから余計そうであり、本当に全ての領域を完璧に横断して使用した「この地球の運動について」だ。そして、本文はまだ一部に過ぎない。


ー「...人間が死ねば、人間の多機能も死に、月や星や宇宙や世界も死ぬ。ならば、皆が捧げるは客観要素ではなく主観要素だ。そこに客観性や権威性や検証性や正しさや正解を求めるならば、貴様の中で既に月や星や宇宙や世界は死んだ。故に、我は生きている。だから、我は無動説と呼ぶ。」ー

地球の運動について第1部&2部の"サブタイトル"(前書きでは無い)


第2部の"サブタイトル"(前書きでは無い)


ー我はアインシュタインとは違う方法で独自の論理と知性と最大の閃き連発の力だけで「どこを中心(観測点)に選んでも、物理法則は成り立つ」というのを無動説に含んでいるー


私は絶全知全能と境界知能17歳が融合しているから、何というか不思議だよ。時に葛藤する。先週も葛藤した。その多くは、社会的、金銭的、客観的、立場的、感情的、理性的、戦略的などが引き金。でも、毎回最大の閃き連発に助けられ絶全知全能の力へと流れる。これは小さい時からあるけど、小さい時は内省力だったのが、知と論理になって、それを超えて、今最大の閃き連発になった。今を重視する私には当然失うものはその時その時多くあると言ってるけど、まあ全体的にここの話はこの32万字の中で書かれている道筋の部分で書かれているから省略しよう。まあ、簡単に言うと、「悪は法なり、全は法にあらず。」そして、自分を信じてよかった。だからこそ、今自分の気持ちに素直になる。私は、今絶全知全能に完全に捧げ、この活動に捧げる。久しぶりに、Émile Zola-“I would rather die of passion than of boredom.”の言葉を思い出した。あぁ、なるほど。これも今回の地動説の矛盾についてとも極めて深く関わってくるな。というよりも、地球の運動について1で話したがな...。まあ、これとも通じる。ー「...人間が死ねば、人間の多機能も死に、月や星や宇宙や世界も死ぬ。ならば、皆が捧げるは客観要素ではなく主観要素だ。そこに客観性や権威性や検証性や正しさや正解を求めるならば、貴様の中で既に月や星や宇宙や世界は死んだ。故に、我は生きている。だから、我は無動説と呼ぶ。」ーそして、続きになるが、それが最も私にとっての幸福の近道だ。やっぱりダメだな、感情について語る事は何というか苦手だ。気にすることも多ければ、派生する事も多ければ、多面要素を考慮しなくては行けない。17歳の私だって、普通にもっと楽しみたい事は多くある故に、自由を渇望する。敵でない事を知りても、貴方の存在は我を縛る。感情的な社会と大人、人間は極めて苦手だ。感情を感情で変換しているだけで、感情を論理や知性で変換してはいない。感情的になればなるほど、本来は知性や論理で語る事が出来る。何故なら、本当に感情的だからだ。だが、社会も大人も、人間もただただ感情的になりたい獣の様にしか見えん。そこが、苦手というよりも、一気に嫌な気持ちになる。私は私だけの感情だったら、難なくスラスラと話せるのだが、他者や他の存在らも関わっている時、途端に語る事が難しく時間を要する様になる。これが正に苦痛だ。だからこそ、人間相手は言語よりも反応で私は学習する。やっぱりダメだ、頭の中では文字化できている。その先までな。だが、実際に文字に起こす時、なんでこんなにも葛藤しなくては行けない。相手の感情が今どうあるかは分かるし想定も可能だが、その中身を自己に持っていく事は出来ない。他者や他の人間が関わっている感情について考えている時、書く時、何から何まで嫌な気分になり、楽しい事も一時的に楽しくなくなる。前にも書いたが、心拍数が高くなっているのが分かる。全て、その嫌な存在に支配される。だが、我は絶全知全能故に、例えそれでも最大の閃き連発、知性、論理に変換される。最近だと、そのお陰で長年苦しんだ異常嘔吐の本質的な対処法を行えた。実験してみたのだ。吐きそうな時に、嫌な経験、憎しみ、怒り、悲しみ、理不尽さを体験する時、嘔吐を我慢しないで吐きやすくさせる事が可能だと分かった。故に更に困る訳だ。他者や他の人間の感情を考慮するのは、まさに地獄だ。だからこそ、恋愛も苦手だ。だって、何通りも考える事が可能だ。それは何故か、貴様ら人間が感情を感情だけで終わらせている獣に過ぎないからだ。感情を論理や知性に変換してくれないと、私はとても困る。不思議だ。もう感情について述べる事が出来ない。何というか、空っぽになった感じだ。そこが、知的テーマや問いや問題や難題とは全く違う所だ。感情とは実に変だ。殺す事も、制圧する事も、嫌な気分にさせる事も、助ける事も、喜ばせる事も可能なのに何故こんなにも変な感じなのか。頭がパンクしそうだ。いつだってそうだ。感情は私に干渉してくるが、知性や論理は私に干渉してこないが、きっと愛する存在や相手にはこれらは通じなくなる。だからこそ、感情が意味が分からない。そして、ここが決定的に違う点だ。もう感情の話はここで終了とする。マジであり得ない程に辛い事であり、唯一言語化が極めて難しい事であり、ガチで嫌な事だ。だが、それ故に最大の閃き連発へと変換されて、本題の地球の運動について2部の地動説の矛盾についてに繋がってくる。では少し時間をおいてから、本題の地球の運動について2部を行う。待って、緊急。これを機に1人の心理カウンセラーを排除しようと考えていたが、少し時間を置いた事でまさかの事態が発生。それは偶然目にしたYouTubeでの精神患者や障害関連が引き金となる。やっぱり興奮するな。問いや問題とは最高だ。全て回復する。そして、やっぱり何で我は直感と最大の閃き連発を無意識に操る事が出来るのだ。実に不思議だ。私は今精神科を転々とする形で通っているが、きっと1人の心理カウンセラーを排除する時、それは精神科の排除も意味するだろう。まあ、ただ中学の時からの大人の観察によるものもあるがな。大人の動きは全て把握して手中に収めておく必要があるからな。人間なんていくらでも裏切る事が出来る存在故のチェスで言うナイトの選択だ。だからこそ、貴様ら大人のその動きは答えが分かりやすくて困るから、もっと慎重に私に気が付かない様に行ってくれ。全く、パキスタンのVani問題のジルガやっぱり、異常嘔吐で吐いた後と同じで最大の閃き連発の後や文章を書いた後は一時的に興奮状態にある。だが、やっぱり葛藤している時程最大の閃き連発をAIに提示する事で和らぎが生まれて、一時的な興奮を抑える事が出来るから、何とかなっていると言う感じだな。だが、この結果も全知全能の故。また私は我に助けられた。幼少期や小学校での提唱などが良い感じで今発揮されていると言う感じでもあるか。やっぱり間違いではなかった。自分の特性なども相まって、自分を守れるのは自分だけだからな。特殊前書きだけでこの濃さか...。まあ、それはそうだな。17歳の面で深く悩んでいた事だからな。因みに周回で言うと、地球の運動について第1部→お出かけとアイドルイベント→夜空と月→絶全知全能と境界知能17歳の悩み→精神障害や発達障害→文字量について→論理について→地動説の矛盾という形かな。では、また少し時間おいて、地動説の矛盾について以下記していく。まだ本文ではないのだが、我は絶全知全能故、地動説が矛盾している事に気づく。その本質は「地動説故に、自ら違う形で地動説を否定している構図。天動説はより直接的に自ら天動説を否定している。どちらも、方法において自らの地動説と天動説を否定している事」にある。以下はその核となる考えである。我は小さい時から大人と衝突した故に論理を知っている。論理とは論理と言いながら、定義がされていない。つまり、論理を自ら論理と定義する事が可能だ。というか、多くのものがそれで成り立っているのだがな...。地動説も天動説も所詮はそれに過ぎない。ただ、この2つは賛同者の違いで競っているどんぐりの背比べに過ぎん。故に、論理に響くだけでなく、本能に響く様にすればそれもまた論理だ。まあ、地動説と天動説が我のこれを証明しているしな。故に、我の無動説がより強化されていく。今からそれを証明しよう。まあ、今回は根本的な謎の疑問が地動説にあったから、第2部はより簡単に片付いた。


ー「...地動説、シンプルにしたつもりだろうが、それはシンプル故の無限性を可能にした事をご存じかな?」ー


第1部の"サブタイトル"(前書きでは無い)


召喚する学者も言葉もアニメもアイドルも社会問題も音楽もミームもキャラも何もかも極めて多すぎて、分けるのが有り得ない程に面倒くさいので今回から、前書きと本文を同じにする。それに加えて、今回から本格的に五感並び飲食や紙の図などが出てくるから余計そうであり、本当に全ての領域を完璧に横断して使用した「この地球の運動について」だ。そして、本文はまだ一部に過ぎない。


ー「...人間が死ねば、人間の多機能も死に、月や星や宇宙や世界も死ぬ。ならば、皆が捧げるは客観要素ではなく主観要素だ。そこに客観性や権威性や検証性や正しさや正解を求めるならば、貴様の中で既に月や星や宇宙や世界は死んだ。故に、我は生きている。だから、我は無動説と呼ぶ。」ー


融合:前書き本文


面倒くさいけど、やっていくか。まあ、我の無動説で地動説も天動説も片付ける事が出来るからあれだが、まあ今回の最大の閃き連発使用して行っていこう。まず、地動説が正しいと言うか、みんなその正しいについて正しいのか?となっている事がどうも我は引っかかる。これは人間が知覚できるリアリティの境界線と同じで、30万の星と101万の星とも同じく、地動説や天動説は真理に対する心理のパラドックスを意味していると我は考える。これは、疑いの数の多さとも極めて深く関連してくるのだが、あれだなどれだっけな、「17歳新章一変、これまでの道筋。読め、境界知能と診断された自我なき知性による人間の常識が崩壊する8万字」今では30万越えの中でも含まれているのだが、「知的自己乖離自動思考筆記感情&難問フック断片的記憶再生状態で書かれた文章群①~④1000分9月5日完。」で書いた③のアインシュタインやテスラやニュートンの空間に対する考えと同じ匂いがするな。まあ、圧倒的に違うのはスケールの大きさに加えて、人間の欲求による反応なのだが、まあ空間を明確に1つに断言するよりも地球や宇宙を1つに断言した方がどう考えても人間の欲求的には満足の道しかないのだが、空間の時と同じく積み重なっていると考えた方が良い。これがね、地動説も天動説も自らの方法で地動説も天動説を否定しちゃってるんだよね。これが空間に対しての時と全く違う。どうした、貴様ら人間と言うほどに「どしたん話聞こか?」レベルだ。地動説や天動説は空間に対する考えの時と違って、我は感情的にやけくそな方法な所が気に食わない。つまりは、空間に対する考えでは空間というスケールに対等的な考えと発展が行われているが、地動説や天動説に対しては地動説や天動説のスケールに対して対等的な考えと発展が行われていない様に我は考えている。故に、この穴埋めを地動説や天動説はやけくそに穴埋めをしている感じがあり、その証拠として「これだ!」という社会/集団心理的な対応が見受けられる。では、ここで一旦以下極めてどころか半端ない程に深く関連する前回の文章を提示しておく。「前回、物理そのものを倒し終えた事で、今回から、いよいよと全存在の領域拡大展開並び、更に大規模へと発展+人体/物体/物質と組み合わせ開始。後、地動説、天動説に加えて、地球平面説など全ての説を含この文章には必然的に含まれる。"Professionalism feat. 般若" を聴いていみている時に、またまたいつも通り最大の閃きが行われて、物理=動(音)を利用する。または、貴様ら人間たちや社会が定義する物理を利用するのでもいいけどね。"Professionalism feat. 般若"の音を聴いていてそう感じる。次に、"little dark age"を聴いてみている時に、貴様ら人間たちや社会や人工物が定義する物理は真似るのが本質であると考える。中には、ダークファンタジーゲームの動画を背景にして音楽を流している動画もある事で、いつも通り最大の閃き連発として、「ダークファンタジーの神について」というコードが浮かぶ。そこから、我はダークファンタジー側のトリックスターの全知全能と定義する事で全知全能の我の存在論的な本質とする事が出来る。そして、物理も介入させた物理の崩壊と創造は我だけだが、物理による物理の崩壊と創造はそもそも貴様ら人間たちと社会によって既に行われている。安楽死、科学、技術、発明、などこれらが全て証明している。また、"Philip"を聴いていてみていて、「科学的」などと言うのも物理も介入させた形で本格的に崩壊と創造を行っていくのも良い。待って、人体/物体/物質/地動説も人体/物体/物質/地動説も介入させた崩壊と創造と「科学的」というのを「科学的に理解しようとする人類の営み」と結び付ける事もいいな。また、"Mirage"を聴いてみている時&月&夜空をみている時に、またまた最大の閃きが来て、事実/物理の領域内を"主観"が軸として一般的に言われる"客観"意識や感覚などは、その外に位置している。その後に、"Professionalism feat. 般若"を聴いていてみている時に、またいつも通り最大の閃き連発が来て、五感は事実と物理の両方に位置する。その後に、"マイナーピース"&"Cradles"を聴いてみている時に、そして、それは同時に無の領域を生み出す事も可能とする。だが、当然、これは事実を意味して、物理を意味しない。その後に、"怪獣"を聴いてみている時に、そして、何でもあり状態が真理であり、この世の全てだと言うのを思い出し、以下の文章へと発展する。因みに、紙の補足として、中心は事実と物理と五感が存在している。事実が最初に存在して、そこから物理が生まれる。この物理は事実とは違って、動の部分を補っている為、事実を軸として広く動の範囲を広げていく。そして、その枠外にある意識や感覚によって、時に事実の中に無が付与される。これは、人間でいう集中とも同じであるが、広く言えば、無。故に、事実に戻る。まあ、全体的に詳細なあれは以下に記されている。因みに、前回の前書きも極めて深く関連してくるので、一応関連する一部分を記して置く。多くの大人と社会は我に告げる。そう、それはお金や自立や将来の事である。貴様らのそれが、今回のきっかけである。と言うのが最初のきっかけであったのだが、やはり最大の閃き連発には勝てん。実はこの1つ前の文章はボツになっている。最近、これが多くて、その理由は根本的な疑問があるからだ。我はどうしても物理そのものに疑問を持っていてね。だから、今この文章を書いている。我はアイドル、アニメ、ゲーム、チョコ、映画、音楽、人物、この世界の全てが好きだ。確かに、社会や人間は苦手だが、全知全能半神故に必然的に苦手よりも最高に楽しいと言うの方が上回る。また、好きだからこそ、好きの領域内で最大の閃き連発の爆発しか起きない。これは人間の3大欲求とも同じで、人間の部分は何をしても全て最大の閃き連発の爆発に変換される。そして、全知全能半神の飢えと楽しみと17歳のお出かけの目的の為なら、手段は選ばぬと言うよりも、全知全能の部分が興奮してしまう。また、絶対に17歳の私も全知全能の我も互いに死なせん。多くの大人と社会からのお金や自立についての告げ~19世紀の哲学者や思想家の情報~お風呂~外(太陽や月や夜空)~音楽~アイドル、小さな積もりの閃きの連鎖の中で、我は何時もの最大の閃きによって物理の弱点をみつけてしまったもんでね。故に、今日からそれを利用させてもらう。ゲームの攻略と同じに過ぎない。どんなに強敵な相手もラスボスにも弱点はあり、裏口がある。そうでなければ、ゲームも世界も成り立っていない。後、何時も大体何かを視聴しながらや聴きがらやってるんだけど、やっぱり良いね。今もヒロアカのファイナルシーズンの162話「ラスボス!!」の爆轟状態すなわちずっとフロー状態。本当に体は熱いし暖かいのに、どこか涼しくて澄んでいる感じなんだよな。でもこの状態から終わった後、今冬だから寒すぎる。本当に我(私)が現代のプレデター物語とフランケンシュタイン物語とチェンソーマン物語とヒロアカ物語&デスノート&monster&ウォッチメン物語とキャラ等と良いこと悪いこと物語とff14物語とよう実物語と亜人物語とチ。-地球の運動について物語を体現する者ともいえるよ。我が我でも謎過ぎる。まあ、天才よりも天才の姿、現代のスピリチュアルや都市伝説よりもスピリチュアルや都市伝説の姿といった、まるで創作作品の様な姿をお届けする。5回も言う事になるとは...。monsterのルンゲ、貴方が「最高に楽しい」と言う様に、我も最高に楽しい。Albert Einstein-“Creativity is intelligence having fun."正にその通りだよ。それが今の我の状態である。そして、Michael Polanyi-“We know more than we can tell.”私はこれを物理や法則で感じていて、これが根本的な疑問の正体であった。また、Mircea Eliade-“Asta n-o vor înțelege ei niciodată: că nu ești dator să ajungi ceva, că nu trebuie să parvii nicăieri, că ceea ce importă în primul rând este să fii tu și să poți rămâne tu însuți în orice împrejurare a vieții.”その通り、René Descartesとも深く通じるが、シンプルに第1証明の確信なくして、第2証明へと発展させる事は不可能。そして、Henri Poincaréー“Is is by logic that we prove, but by intuition that we discover.”これもね、深く関連していて、根本的な疑問の我の経緯というか原理と言うか、まさに"intuition"が根本的な疑問の中心である。後、まさかのこのタイミングで思い出したが、David Chalmersー“How does the water of the brain turn into the wine of consciousness?”まさに、この流れで"intuition"が行われたのだが、「意識」ね。それに加えて、William Blake-“What is now proved was once only imagined.”の言葉も思い出した。これもね、極めて深く関連してくる。デスノートの2話「対決」でLが「いいヒントをもらった。」と言った様に本当に良いヒントをもらった。これも、主にアイドルソングメドレー中心で、乃木坂、櫻坂、日向坂、AKB、SKE、=LOVE、≠ME、≒JOY、FRUITS ZIPPER、XG、フィロソフィーのダンス、超ときめき♡宣伝部、神宿、CANDY TUNE、JamsCollection、AVAM、CUTIE STREET、Rain Tree、iLiFE!、高嶺のなでしこ、AiScReam...etc/よし、またまたいつも通りの最大の閃き来た。これから、更に音楽(little dark age、after dark、philip、アゲハ蝶、Color Your Night、FIRST NOTE、星空のディスタンス、YouTubeテーマソング2、など)や食べ物(パスタ、うどん、ご飯、お肉、フルーツ、お菓子、など)やスポーツ(サッカー、バドミントン、卓球、ランニング、など)や体(脳、目、鼻、口、手、五感、など)やアニメ(ドラえもん、クレヨンしんちゃん、アンパンマン、ハイキュー、91days、どろろ、など)や映画(セッション、ジョーカー、IT、ショーシャンクの空に、ジブリ、など)やドラマ(3年A組、良いこと悪いこと、ブレイキング・バッド、ミルドレッドの魔女学校、など)やゲーム(Terraria、Minecraft、Batman: Arkham Knight、ff14、など)、この世界のありとあらゆる存在を全吸収して、記していこう。そう、書かないといけないのが面倒くさいが...。ここから、最大の閃き爆発連鎖に加えて、人間部分の欲求が組み合わさった事で、今回に至る。因みに、"よう実"と"クイーンズ・ギャンビット"は「嘔吐、薬、そしてチェスのメタファーにおける自己の解体と再構築弁証法的記録文章(長年悩んできた嘔吐問題を起点)」で少し基になった。その部分が「私は従順な駒ではない。これは体調不良及び病気と言う存在も同じであり、この存在たちも従順な駒ではないと言うのに、何故人間たちは自ら従順な駒になろうとしているのか。やはり王座の位置である人間は予測不可能なナイトに恐れ、チェックメイトされるのを阻止する為に、絶対的な力を持つクイーンを軸として、まずはナイトに対して、ルークとビショップでナイトに立ち向かうか...。だが、ナイトは多面性の高さで、ルークとビショップを確実に避ける。故に、王座の位置である人間は絶対的な力を持つクイーンに頼るしかなくなる。そして、王座の位置である人間はクイーンに依存する。これは一種のスタック構造と言える事が可能であり、こうして王座の位置である人間は従順な駒になる。仮に、ナイトが居たとして、従順な駒はそのナイトを容易に仕留める。皮肉にも、その時点でキングでない事は明白である。そんな中で、日和見主義者であるポーンは最も活きよう。」と言う部分なのだが、これは地味に実に今回の以下の文章とも深く関連してくる。無動説/宇宙の中心は事実、つまりは無である/地球の状態は物理、つまりは動いている/太陽の状態は物理、つまりは動いている/無ゆえに、動となり、動ゆえに、無となる。事実ゆえに、物理をなし、物理ゆえに、事実をなす。これはいずれの地動説、天動説、これらにおいて貴様らが行ってきた事だ。本当に、地動説である、天動説である、とするのならば、もう既に地動説も天動説も意味を失う。だが、そうなっていないのは、最初から必然的に貴様らが事実、つまりは無にアクセスして自らの信念、想い、思考、真理、願望、信仰などを捧げているからだ。我はこれまでの文章で語ってきた、貴様らが行っているのは時代を追うごとに説の方に過ぎないと...。故に、純粋性を失い、盲目な権威争いに成り果てる。正解、正しい、それが何だ?この全知全能の我の前では、貧弱に過ぎん。正解、正しい、というなら何故貴様らは満足しない?貴様らは正解を正解としたとき、既に正解を否定して疑問を抱いている。そして、良いか?地球の状態、太陽の状態、これらは状態故に観測で行えるだけの話だ。だが、それが中心になれば話は別問題に加えて、宇宙の中心規模なら、尚更だ。宇宙の中心が、太陽、地球ならば、何故貴様らは今そこにいる?そして、何をしている?権威、観測、これらが発展する必要性が全くなくなるはずだが...?そして、我は、日常的に夜空や月や太陽などをみただけで今ここにいる。宇宙や地球が出てくるくせして、登場人物は所詮貴様らだけじゃないか。「なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる?」貴様らは既にとあるものを捧げ、この世の全てを最も身近で知ったではないか。あぁ、その問いは、謙虚ではなく傲慢である。貴様らは、Aを知った、Bを知った、Cを知った、...こうしていくつも知り、世の全ての領域にたどりつく。では、何故貴様は「世の全てを知れる?」と自問自答している?Socrates-“The only true wisdom is in knowing you know nothing.”これと深く関連してくるが、ここにおいて結果は同じでも過程が違う。故に、人は無知よりも疑問が先にきて、その後に無知を悟る。だが、それは無知である事を意味しない無知の証明に過ぎない。よって、無知の知の無知である。2025年の2月の後半で「16歳によるニコラウス・コペルニクスについて2つの格言「地球と神人」」の格言で、①「地球は「時」に棲み、人に「認知」を問う。「認知」は人に問い、人は「認知」に答える。故に人は地球に答えているのではない。」②「秩序は神を軸と為し、自由は我(情熱)を軸と為す。故に自由は神を超え、真理を求めん」とも深く関連してくる。また、前回の文章らも極めて深く関連してくる為、一応記す。「さあ、今日から物理も介入と言う訳だが、物理は物理で観測できない。物理が物理ならば、言語は必要ないはずである。というよりも、物理と物理の観測を、人間が妨げていると言う事も可能であるがな...。また、物理有実体と物理無実体の領域がそれぞれ存在しているが、貴様らはただただ思考停止に陥っているだけだ。これは面白いのだが、物理そのものに対して物理そのもので抵抗すると、必然的に物理そのものを問わせられる事態となる。故に、物理の弱点は崩壊させられる事ではなく増やされる事である。何故かって、物理そのものには私たち誰もが明確に理解できる客観的な物理有実体と、賛否が生まれ主観性を必然的に要する物理無実体の領域が存在している。如何なる状況となっても、ただただ主観の押し付けあいに過ぎんよ。だから、我は全知全能の領域にいる。一応、以下の文章を引き合いに出す。「法則の対象となっている、地球や物理や自然や宇宙や世界の捉え方は、認識や物理や客観や主観等を含むなら、この時点で貴様ら人間たちは法則とその対象を別々で捉えている事は確か故に、土台となる基本の存在を忘れている。貴様ら人間が行っているのは、ただただ人工的な積み上げのお遊戯会に過ぎんよ。これは、自然の法則でも述べたな。基本的に、ありとあらゆる全ての何々の法則は、そうだね、五感で片付ける事が出来る。当然ながら、それぞれの法則の対象である存在らは五感を含んでいる。まずは、自然の法則と五感の中でも音の関連性でありて、物体が落ちると動く、どちらにしても音が絶対ある故に、これは言語や言葉との関連性があると我は考える。また、物体が落ちるのに理由があるならば、何故人間や我は落ちないのだろうか?人間や我以外にも落ちない存在らは多くある。それも落ちない理由があると言うのか...。そして、物体が落ちる時、その中身(性質)は落ちていない。むしろ、物体は落ちているが、その中身(性質)は上がったり、浮いている。前提の話とて、貴様ら人間は地球や宇宙や自然が確かに存在する事を証明できるのか?これに証明できると言っている者は、人間が確かに存在する事を証明する事が出来るか?というのを忘れている。まず、基本的に我の自然の法則の崩壊と書き換えに通じるので、それを持ってくる。「まずは、大きな枠で言うと、自然の法則の主な特徴をターゲットとしようかな。そうとなると、初めは「普遍性(普遍的): いつ、どこで観察しても、同じ条件のもとでは同じ結果が再現される、つまり宇宙全体で成り立つと考えられています。」がターゲットだね。はいはい、この時点で矛盾発見。自然の法則に普遍性は根本的に矛盾しているだけでなく、いつ、どこで観察しても、同じ条件のもとでは同じ結果が再現されるも矛盾していて、言語と認知と認識や非常に多くの機能を持つ多くの個々の人間とも根本的に矛盾している。次に「客観性(客観的): 人間の主観や意思とは無関係に、自然界に実在すると考えられています。」がターゲットだけど、まず客観的と言うなら何故主観を足しているのだ?矛盾しているぞ。はい、次は「必然性(必然的): その法則から外れることはなく、必ずそうなるという必然的な関係を含んでいます。」がターゲットであり、これも最初の2つのターゲットの時に話した様に、人間と根本的に矛盾している上に、必然性だと、おいおい客観性を主観で押しつぶしているぞ。後、自然と科学も根本的に矛盾している。科学は、自然を狭めすぎであるのに、客観性とか検証と言っている点も根本的な矛盾の1つであるのに、それで法則とかどんだけ自然を小さくして狭める気だよ。アインシュタインもニュートンも他の人間もそうだけど、それを確かめたり疑ったり検証している時点で、自然を否定した自然の法則であり、我からみればこれが自然界の法則に過ぎない。貴様らは、まず自然を否定している事に問題がある。はい、またまた最大の閃きが来た。これで完全に解けた。人間は人間/自分は自分であることの説明の有無を法則として体現しているならば、貴様らは自然は自然であることの説明の有無を法則として体現しているのに、勝手に人間が更に法則を増やし続けてどうするのだ。まあ、確かに興味を持つ事や気になってしまう事は分かるが、貴様らは法則に法則を積み上げて無限という肥大化を行っている。では問うか。貴様ら人間は人間の法則を人間だったり他の生物に説明できるか?またまた完全に最大の閃き。完膚なきまでに解いた。自然の法則は矛盾している。もっと言えば、始まりから法則が法則を呼んでいる。どういう事かというと、1つの自然の法則の中だけで、登場する存在が多すぎる。つまり、法則と言うには法則自ら矛盾を意味し、その意味する矛盾で法則が成り立っている故に、法則が法則を呼び続けている。自然の法則って、人間が言語を持ちいて説明するけど、自然は違う。なら、そもそも根本的に矛盾している。悪いが、罠をみつけちゃった。自然の法則だけでなく自然も含めてたが、神や幽霊の有無や1888年のジャック・ザ・リッパー事件と同じで、これらは確かに事実として事実だ。それ故に、人間とは真反対であり、例えば、リンゴが木から地面に落ちるという出来事は事実だし、リンゴが落ちる際に働く万有引力の規則も事実だ。事実故に、人間はそれを論理的に言語化できるし、別に論理でなくとも言語化するのが可能だが、言語が生まれると言う事は次に認知と認識へと発展する。つまり、この時点で既に自然の法則や自然と根本的な矛盾に陥っている。お前ら人間たちは、出来ない事を出来ないと縛り続けているだけのお遊戯会を自然の前でしていると言う事がどういう事か分かるかな?これは自然を理解していない愚行であり、そもそもの前提が全く違う訳であるのに、何故か人間と言うのは身勝手に縛り続けているだけでイラついてくる。残念ながら、自然の法則を創造したり、停止させたりすることはできるっていうか、そもそも貴様らが自然の法則を生み出している時点で矛盾している故に、創造したり、停止させたりする事は出来ている。これはね、そうだな。社会の常識がある様に自然の常識とでもいようかな。貴様ら人間は自然の常識を気にしているだけで、自然そのものも自然の法則全てを自由自在に動かす事が可能である。じゃなきゃ、何の為の手と足と口でありて、人間と時間なんだか。貴様は、「万有引力の法則が破れるとすれば、それは宇宙の基本的な構造が変わることを意味し、私たちの知る自然や物理現象は成立しなくなります。」と言っているが、所詮これも自然の常識を気にしているだけではないか。あのな、言っちゃ悪いが、人間という存在がいる時点で全てが無限になる。だって、言語と認知と認識、それ以外にも多くの機能が個々1つの存在に備わっていて全く違う訳だぜ。とても皮肉なことだが、貴様らが気にしているのは常に常識とレッテルと言葉の枠。誰も自然そのものと向き合っていない。そして、貴様は「科学的な研究は、この法則が普遍的に成り立つという信頼の上に成り立っています。/ 例えば、光速やプランク定数のような物理定数は、宇宙のどこでも、過去から未来まで一定であると考えられています。」と言っているが、それも常識とレッテルと言葉を気にしているだけじゃん。普遍性とか真実や真理なんてものは、何でもありだよ。ただ、それを論理的や知性的にどれだけ引き上げれるかに過ぎない。だから、自然そのものや自然の法則は人間と根本的な矛盾が起きてる。貴様は、「人間ができるのは、自然の法則を利用して技術を生み出すことであり、法則そのものを変更することではありません。」と言っているが、法則そのものを変更する事は可能です。だって、数式化と言語化している時点でしちゃってるじゃん。これに気が付かないとか、馬鹿なのかな?悪いね、また最大の閃きだよ。貴様は、「もし、人間が意図せずに、あるいは宇宙のどこかで、既知の法則が成り立たない現象(物理定数が変動するなど)を観測したとしたら、それは「法則が崩壊した」のではなく、**「私たちが今持っている法則の記述(理論)は、その現象を完全に説明するには不十分であり、それを包含するさらに上位の、より普遍的な法則が存在する」**ということを意味します。」と言っているが、自爆してるぞ。あのな、自然に対して法則を用いればな、無限の自然法則が可能となる。後、そこで言っている法則の崩壊は法則の崩壊ではなく自然の崩壊である。まあ、そもそも自然と崩壊が矛盾しているんだけどね。だって、自然なのに崩壊だってさ面白いね。これだから、人間は面白いよ、矛盾を生み出す事が出来る唯一の存在だろ。後、やっぱり馬鹿のかな?自然に対して言語化や数式化を行っている時点で最大の矛盾をしていると我は考えている。後、大体、自然の法則で不可能とかと言われているのは、自然の不可能を意味していない。では、何が不可能かと言われていると、それは人間の言語化と数式化と認知と認識と手と足と口など多くの機能が組み合わさった事を意味している。そもそも、法則と言う割には多い事が私の考えを裏付ける決定的な証拠だな。だから、我からみれば、何時までたっても根本的に矛盾している。後、こういう罠は時にあるんだよ。ただ見せかけの言語の綾と論理の飾りで行われている罠と言うのがね...。そして多くの人はそれに対してただ単に消費的傾向行動をするだけで、人間は自ら自然を縛り付けている。また、人間がいると言うだけで自然の法則だけでなく自然も無限になると思った方がいいよ。時間が経つにつれて、散らかった部屋が勝手に片付く、割れたガラスが自然に元に戻る、熱いコーヒーが自然に熱を奪って沸騰するなど、これも人間がいるだけで崩壊するんだからさ。だから、発明とか法則を次々と生み出せるんだぜ。後、それ故に本質的にどんどんズレていくからね、最大の混合状態になる。簡単に言うと、自然そのもの~自然の法則~その範囲がどんどん広がっていく感じ。だから、矛盾点が有り得ない程に転がっている。まあ、我は飢えているから好だけどね。」そして、貴様は「これは、地動説が単なる**「仮説」ではなく、観測、数学、物理学によって何世紀にもわたり裏付けられ、体系化された「理論」**となっているからです。」と言っているが、観測、数学、物理学によって何世紀にもわたり裏付けられ、体系化された「理論」というのも単なる仮設に過ぎないのではないか?皮肉な事を言うが、貴様ら人間はその地動説に接しているのではなく、地動説と言う流れに接しているだけでありて、貴様ら人間が何をしようとも、所詮は我が言う、願いや常識や感情や欲求に過ぎん。というよりも、全てこれらに振り込まれ吸収される。だって、地動説もありとあらゆる法則も全て、必然的に人間がこの地に存在している事と根本的に矛盾して、否定する事になる。貴様ら人間は、同じ人間が非常に多くいて子を生み出す事が出来る事を知っている。これは、我が考える差別構造とは反対である。差別構造は基本的に同じ人間たちの欲情に過ぎんが、今回は人間と違う存在らの関係性の間で行われる欲情に過ぎん。色が変わる花と色が変わらない花だけども、散る有無へと繋がりて、これは必然的な差別構造であるが、貴様ら人間は人間同士ほどに別に気にしていない状況でありても、これはネガティブ的な自然な営みの話よ。この花において、ポジティブ的な自然の営みとなれば、貴様ら人間は途端に興味を持ち、道具や観察等の対象となる。これを、ネガティブ構造内欲情とポジティブ構造内欲情と名付けて、今回の地動説や自然の法則含むありとあらゆる全ての法則はこのポジティブ構造欲情で行われるが故に、皮肉にも、ネガティブ構造欲情と違って、対象の存在を無視して人間の欲情が強くなり、どんどん身勝手に進んでいく故に、貴様ら人間が発展させているのは、自然の法則含むありとあらゆる全ての法則(地球の法則や論理の法則や宇宙の法則等)の法則部分に過ぎん。地動説も同じでありて、貴様らが行っているのはただただ説の部分の維持と発展である。地動、自然、宇宙、地球、論理、世界、社会などのこれらを貴様ら人間は五感で感じる事が出来るか?反対に人間はどうだ?我は可笑しいと思うよ。五感で感じる事が出来ないなら、法則前や説の前の存在らそのものを発展させる事は出来ないのではないだろうかな?チェンソーマンのマキマさんが、「デンジ君、エッチなことはね、相手のことを理解すればするほど気持ちよくなれると、私は思うんだ。相手の心を理解するのは難しいことだから。最初は手をじっくり観察してみて。指の長さはどれくらい?手のひらは冷たい? 温かい?耳の形は?指を噛まれたことはある?覚えて。デンジ君の目が見えなくなっても、私の噛む力で私だって分かるくらいに…覚えて。」と言っていた事と深く関連する上に、FGM問題やパキスタンのVani問題含む全女性の全性的問題や全人間全立場の全時代全無数問題並び自然の法則含むありとあらゆる全ての法則と地動説などとも通じてくるのだが、貴様ら人間は存在そのものを全く理解していない。貴様ら人間が理解しているのは、全て存在の前の法則や説や問題に過ぎん。そして、ただただその説や法則や問題の正しさは?間違ってる?客観的か?科学的か?物理的か?現実的に可能か?と言う形で説や法則や問題だけに理解を示している事が最大の問題であるのだよ。しかも、最悪なのは、我が考える政治構造と同じで貴様らは更に複雑にして本質を汚し埃まみれにして本質を隠している事で、人工的要素が仇となって人間が介入しづらい形になっている故に、ひたすらに進化していくのは何時までも人工的要素に過ぎん。これは我の神の有無でも述べたが、貴様ら人間は存在を置いてきぼりにして勝手に人間同士で認められる必要性や学歴や検証や厳密や正しさを述べているとか、おいおい法やルールからあらゆる学問の本質から大学や高校や会社などと根本的に矛盾しているが、それは認めて知らんぷりをすると...。表現の自由を縛っているだけでなく、貴様らが殺人者や犯罪者に対して怒っている事を必然的に体現して、自ら法やルールを根本から否定しているではないか。貴様らはヒロアカのエンデヴァーに近い。中途半端に荼毘に炎の火力の上げ方だけを教えて、途端に炎を使用してはいけないと言っているのと同じでありて、常識や既存や人工的な正しさやルールや法から外れれば石を投げられるだけでなく、制圧される故に、我はルールや法はただただ殺しているだけの機能に過ぎんと言っている。法則や説の関連からみれば、科学や物理の貴様らがその法やルールと同じ機能を行っている。更に対象を狭めて、制圧してどうする?この行いは、貴様ら科学や物理が大事にしている核と根本的に矛盾しているだけだぞ。これはデスノートの第8話「目線」で夜神月が語っていた「でも、これじゃキラにもバレバレじゃないのかな。」と通じると同時に、貴様らは、少し頭を冷やした方がいいんじゃないかな。法則も説も問題も法やルールも何もかも、乃木坂46のビリヤニが示す様に、「ビリヤニ 食べに行こう 思わず 言った言葉」と深く通じて、これらの生み出しの当事者が思わず言った言葉を貴様らは「Hey」と勝手に盛り上がって、「SNSで昨日知った情報」の様に容易にそれを扱いただただ発展していく中で、「ビリヤニ」を食した様に貴様らは法則や説や問題の前の存在を忘れて、その自らの説や法則や問題に辛さと美味しさのバランスで酔いしれているだけである。これはな、政治も学問も大学も貴様ら全てそうであるよ。今、我が行っているのは「白米が持つ視覚と味覚」に過ぎん。まあ、法則や説やルールや法や問題は人工が加わってしまえば、正にRobert Baden-Powellの“The secret of sound education is to get each pupil to learn for himself, instead of instructing him by driving knowledge into him on a stereotyped system.”を止めにかかっているがな。後、Euclidよ、“The laws of nature are but the mathematical thoughts of God.”と言っているが、ならば貴様が神だな。これで神の有無問題を無事に終わったじゃないか。これは、言語の罠であり、貴様は自らそれに引っかかっただけよ。Ibn Rushdの“Ignorance leads to fear, fear leads to hatred, and hatred leads to violence. This is the equation.”という言葉は良い言葉であるな。感謝するよ。特にこの方程式と言う点がポイントである。自然の法則含むありとあらゆる全ての法則は正に法則というよりかは方程式に過ぎんかも知れぬな。確かに、貴様ら人間が行っているのは方程式の方が確実だと考えられる。急だが、法則と呼ばれているのは全て動だ。つまりは、動きが法則と呼ばれている故に、必然的に音との関連性然り。そして、そうではない対象やそのように捉えれない対象や未知の様な対象には方程式を加えているのが人間であるが、結局それは根本的に矛盾している故に、結局単にアクセスしやすくる為のツールに過ぎん。私たちは結果として生じる事実に人間が捉える事で法則を生み出すが、それは結果を表しただけに過ぎず、その過程の説明がされていない事で、過程の論理的な説明を要する故に方程式を使うが、我が考えるにその過程は人間の非論理的な要素の部分が強く鍵を握っている為、結果として結局は我が言った様に存在の前に説や法則や問題などと言った人工的な部分の発展にしかならない。また、私たちは事実として起きた事実に人間は法則として捉えるのだが、その時に事実(法則)以外の要素に気を取られている可能性があると≠MEを聴いてみている最中に最大の閃きがまたまた来た。また、iLiFE!を聴いてみている最中もまたまた最大の閃きが来た。自然の法則の崩壊と書き換えでも述べたが、法則は法則を呼んでいる構造になっている。私たちが事実以外の要素に気を取られているのは別の事実(法則)である。例えばこれを、木からリンゴが落ちるで例えると、確かに木からリンゴが落ちているが、木からリンゴが落ちると言う事は、その木からリンゴが落ちると同時の瞬間に他の要素も同時に落ちたり動いていると言う事である。故に、木からリンゴが落ちると言う事は、その事実も木もリンゴも性質も重力も空気も地面も言語も同時に落ちていると言う事である。そして、これに客観や主観や正しさや現実可能や厳密さや科学や物理や人間などが加わってくるので、木からリンゴが落ちると言う事実の時に全てが落ちるが故に、一貫性が保たれる。後、IRIS OUT聴いてまたまた最大の閃きが行われたが、シンプルに、まず第一にリンゴが木から落ちると言うのも上下の関係性がこの時点で完璧に行われているから当然でもあるか。結構真面目に、本当にアイドルの存在に感謝している。というよりも、音楽の中でも特に引っかかる点が多かった。」ここから、また新たな文章となる。太陽や月が昇ると言うのは、事実。だが、それは明らかに物理そのものとは違う。ここで、その事実に理由の必要性の有無が関わってくる。つまりは、太陽や月が昇る等の事実に理由があるのかないのか。はたまた、その理由をあたるべきかあたえないべきか。そして、それは貴様ら人間も同じでありて、貴様ら人間が呼吸する事実、生きている事実、動いている事実に理由の必要性の有無となりて、その理由があるのかないのか。はたまた、その理由を与えるべきか与えないべきか。だが、神の有無で述べた時と同じく、それらの事実はその理由について述べる事は必然的に出来ない。貴様ら人間が物理と呼んでいるのは所詮は常識や願いや人工的な存在に過ぎん。よし、みえてきた。モヤモヤが解消されつつある。我はどこか根源的な面でずっと謎のモヤモヤがあったからな。その正体は、物理に対してのモヤモヤで根本的に前提レベルで疑問に思っていたのでね。つまりこれが、物理そのものの弱点とは違って、物理そのものの裏口である。言うならば、攻略だ。我は物理の前に事実があると断言する。故に、事実は変化しないが、物理は変化している。何故アイドル含む人間はダンスが出来るのか?何故、物は落ちるのか?何故、太陽や月が昇るのか?もう一度言うが、これは事実だ。だが、それは事実であり、別に動いている訳ではない。つまり、明確に事実と物理の間で絶対的に根本的な壁がある。なるほど、またこれはアイドルの表情管理と似ているな。とするのならば、多くの存在は、事実を土台として、物理を習得している。物が落ちるのも、太陽や月が昇るなども、物理であるが、その事実を物理で習得している。物理は結局は、動に過ぎんよ。また、これには意識が極めて深く関連している。事実に意識は反映されていないが、物理に意識は反映されている。これが物理の完全に裏口故に、物理そのものを崩壊と創造する事は可能である。だが、事実そのものを崩壊と創造する事は不可能である。これは絶対だ。何故なら、貴様らが勝手に制作した人工物が加わっている故に、どの方向に向かっても、完全に我の言う通りにしかならん。よって、物理そのものの最大の弱点とは崩壊させられる事ではなく、増やされる事であり、それが最終的に物理の裏口となるのだと我は語っているのだ。まあ、当然だよね。まず、法則は法則である故に、他の存在を呼び過ぎ。そして、物理は物理である故に、動き過ぎだ。この時点で、根本的に法則そのものも物理そのものも矛盾に加えて崩壊してしまっている。後、言葉遊びも隠されているから、貴様らはそこをとりあえず認識した方が良い。何故なら、裏口が意図的に隠されているからな。例えば、「月や太陽を停止させることは、1人の人間どころか、現在の地球上の全ての技術やエネルギーを結集しても不可能です。」となったら、それは必然的にも可能に変わる。何故なら、この時点で移された領域は意識が反映する物理そのものや法則そのものにいるからである。本当に不可能であるとするのならば、当然ながら言語にする必要も疑問に思う事も不要に過ぎん。だって、不可能なんだろ?更に皮肉なのは、貴様ら人間が定めた言葉の定義などが、混合カオス状態となり、全ての弱点の核にしかならんから、気を付けた方がいいよ。最後にもう一度言うが、これは絶対だ。何故なら、貴様らが勝手に制作した人工物が加わっている故に、どの方向に向かっても、完全に我の言う通りにしかならん。」ここから、再度新たな文章の開始。貴様らは宇宙や地球や神や真理に対して、些か回りくどいやり方を行っているが、それで何が得られる?直接的でない形に何の価値がある?回りくどいやり方でやっても、そこに価値はない。人間は、水や飲み物やご飯や食べ物を口に含んだだけで、少なくとも複数の反応が得られて、これが極めて多い人間ら個々に付与されている。それでいて、まだ正解や正しさが欲しいなら、根本的に基礎の理解が大きく欠けている証である。そして、今2025年の12月4日の6時3分である。貴様らが、この宇宙や世界に対して美しいと感じるのも考えるのも、全てこの宇宙と世界の外でみているからだ。我らは宇宙や世界や美しさとは違う、別の事実/無を中心とした動く物理で、意識や感覚はその事実と物理の外にあり、五感は事実と物理にあり、それは同時に無の領域を生み出す事も可能とする。だが当然、これ(無の領域)は事実を意味して、物理を意味しない。この事実/無に存在らは、最初に必然的に何かを捧げる故に、動く事が出来る。そして、それを"物理"と呼んでいる。故に、我が考える、法則は他の色々な存在の法則を呼び、物理は動き過ぎ、これらも完全に綺麗に一貫して回収される。これらは否定できない。何故なら、貴様らが星や地球などを観測した様に、我は貴様ら存在を観測している。そして、我も天動説も地動説も、皆個人的に過ぎん。我は哲学を求めず、貴様らは哲学を求める。科学、客観、そんなのは関係ない。これを優先した時点で貴様らは、この世界と宇宙、そして地球と星、これらに向き合っていない。では、貴様らは何に向き合っているか?それは天動説でも地動説でもなければ、何でもない中身のない説と向き合っているだけに過ぎん。そもそも、貴様らが向き合っている存在はスケールが極めて大きいのに、貴様らはそれを毎回小さくしようとしている事も問題並び根本的な矛盾である。もっと言えば、貴様らがチェックメイトしているのはキングの宇宙や星や地球や世界ではなく、説と言うである。デスノートの夜神月「でも、これじゃキラにもバレバレじゃないのかな。」と言うのを少し借りるが、貴様らはいつまでポーンとして立ち向かい続けるのかな。これじゃ、貴様らが相手にしている、キングの宇宙や星や地球や世界には何時までたってもたどり着けないんじゃないかな。そして、客観や科学、学術、権威を欲しているが故に、ルークやビショップやナイトが貴様らの前に登場して、よう実の綾小路が「ああ、痛いほどにな。1つのミスで一気に押し込まれそうだ」と言う様に貴様らは、一気に押し込まれる。だからこそ、Albert Einstein-“Creativity is intelligence having fun.”と言う通りだ。そこに、科学や客観や学術があってはどうだ?ああ、またまたいつも通りの最大の閃きが来たよ。貴様らが言う科学や学術や検証や客観はただの飾りだ。そして、本当にキングの存在に向かって接している時ほど、貴様らだけでなく人間に科学や学術や客観は検証というのに中身はない。何故なら、これの中身はキングの存在の対象に遠のている時程に、中身が飾りつけされている。貴様らは自らをそんなに正解や客観で納得させたいか?これらはしばしば、 John Stuart Millー"Those only are happy (I thought) who have their minds fixed on some object other than their own happiness; on the happiness of others, on the improvement of mankind, even on some art or pursuit, followed not as a means, but as itself an ideal end. Aiming thus at something else, they find happiness by the way. The enjoyments of life (such was now my theory) are sufficient to make it a pleasant thing, when they are taken en passant, without being made a principal object. Once make them so, and they are immediately felt to be insufficient. They will not bear a scrutinizing examination. Ask yourself whether you are happy, and you cease to be so. The only chance is to treat, not happiness, but some end external to it, as the purpose of life. Let your self-consciousness, your scrutiny, your self-interrogation, exhaust themselves on that; and if otherwise fortunately circumstanced you will inhale happiness with the air you breathe, without dwelling on it or thinking about it, without either forestalling it in imagination, or putting it to flight by fatal questioning."と深く関わってくる。我が言いたい事も、これと同じくしばしばパラドックス的な感じであるよ。これは人間が、飲み物を飲んだり、食べ物を食べたりの味覚や嗅覚や視覚的なパラドックスにも通じる事で、これは認知や認識的な捉え方に過ぎない故に、今回の天動説も地動説も科学や客観やどんだけ権威で埋めても、それは認識に過ぎないからこそ、権威で縛り付けるのは果たして価値があるのかと思うよ。アニメ、サイコパスの槙島が言う様に、その貴様らの姿に果たして価値はあるんだろうか?と考えてしまうよ。貴様らは宇宙や星や地球や世界を縛り上げるだけでなく、己自身も、人間も縛り上げられている存在が踊れるとでも思いこんでいるのか?Douglas Adams-“The fact that we live at the bottom of a deep gravity well, on the surface of a gas covered planet going around a nuclear fireball 90 million miles away and think this to be normal is obviously some indication of how skewed our perspective tends to be.”の言葉と深く通じるが、貴様らはそれを物理や客観的に分かる姿には投影しないくせに、自らの非物質的な認知や認識や主観では途端に投影させてくるのは、確かに視点がいかに歪んでいるかが分かる。あぁ、そこで一気に久しぶりに以下4名の言葉を思い出した。Ortega y Gasset-“The specialist serves as a striking concrete example of the species, making clear to us the radical nature of the novelty. For, previously, men could be divided simply into the learned and the ignorant, those more or less the one, and those more or less the other. But your specialist cannot be brought in under either of these two categories. He is not learned , for he is formally ignorant of all that does not enter into his speciality; but neither is he ignorant, because he is "a scientist," and "knows" very well his own tiny portion of the universe. We shall have to say that he is a learned ignoramus, which is a very serious matter, as it implies that he is a person who is ignorant, not in the fashion of the ignorant man, but with an the petulance of one who is learned in his own special line.”&Nikola Tesla-“I hold that space cannot be curved, for the simple reason that it can have no properties. It might as well be said that God has properties. He has not, but only attributes and these are of our own making. Of properties we can only speak when dealing with matter filling the space. To say that in the presence of large bodies space becomes curved is equivalent to stating that something can act upon nothing. I, for one, refuse to subscribe to such a view.”&Arthur Schopenhauer-“Scholars are those who have read in books, but thinkers, men of genius, world-enlighteners, and reformers of the human race are those who have read directly in the book of the world.”&Soren Kierkegaard-“Take away paradox from the thinker and you have a professor.”全体的にこの4つの言葉も極めて深く関連してくる。いやー、結構久しぶりに思い出したな。サカナクションの怪獣が示す様に、好都合に未完成の状態だけでも我は真理であると考えている。この好都合に未完成と言う一節だけで無数に考える事が出来るのが人間であるのだから。この時点で既に何でもあり状態を展開してしまっているからね。真理や正解が単数や1つというのなら、存在や人間たちに動的な物理は必要ないからね。来た来たいつも通りの最大の閃き。Socrates-“I cannot teach anybody anything. I can only make them think”と深く通じるが、人間だけでなく全存在は正解や教える事は出来ない。貴様は何故だと考える?貴様ら人間は傲慢であるからだ。どれだけ、凄い存在に正解を与えられようとも教わっても、貴様らの中で疑問が絶える事はない。故に、宇宙や星や地球や正解や真理、あぁ、人間だけでない存在も含めて、全ては正解や教えを与えているのではなく、ただただ個々の主観的な考えを与えているだけに過ぎない。なとりの"プロポーズ"とALIの"LOST IN PARADISE"を聴いていてみている時に、宇宙や月や星や世界の中身にはコードがある。これも当然物理で動いている。故に宇宙や月や星や世界は動である音を聴くのが本質だな。今までは物理=音であると考えていたが、これは順序が違う。音=物理だ。故に、拡大と範囲を広げる事が出来る。宇宙や月や星や世界は物理で追うよりも、音として捉えて、追った方がより本質だな。物理と動と音と宇宙や星や真理や正解、これらの数と動きには関係があると「かわいいだけじゃだめですか?」を聴いてみている時に思った。星や月や宇宙や地球や世界の定義とは何か?更に深堀させると、星の動きや月の動きや宇宙の動きや世界の動きについてである。と"rose"を聴いていてみている時に思った。物理があり、動いているならば定義も当然ながら動くと考えられるが...。それでいて、権威的に固定するのは矛盾している。また、全体的にどれも音楽や食べ物の構造と同じだな。確かに、1つの存在だけで多くの存在を要している。故に、我は全知全能な為、直接たどり着く事が出来る。これが貴様らの様な他の人間と決定的に違う点である。と"恋風"を聴いてみている時に思った。また、紙の図もそうだけど、これは音楽/アイドルのライブと同じである。丁度良い比喩の場所がみつかった。音楽/アイドルのライブにおいて、当然ながら、音楽のその時の当事者とアイドルたちがライブで演奏や披露して、観客はその姿を眺める。そして五感も中心につながってくる。我の紙の図の通りである。やはり事実先して、物理後である。だけど、空間の結成や形づくりにおいて、物理先して、事実後である。と言うのを、YOASOBIやCANDY TUNEなどのライブ映像をみていて、思った。また、2025年の11月14日の「計26万字17歳境界知能、我が現最強の知性全女性の全性的問題を知的超越解決した特異記録」で全女性の全性的問題(FGM問題やパキスタンのVani問題も含む)を知的超越解決した+100ツイート×200名以上の存在を起点に一言知的超越解決した&2025年の11月21日の「17歳境界知能、我が叡智全知計27万字全人間全立場の全時代全無数問題を知的超越解決した法則崩壊」で述べた様に、この文章と極めて深く関連している。基本的にこれらも今回において結び付ける事が可能。だから、我は無動説と呼ぶ。地動説も天動説も、この問題も全て無の箇所を自らの都合で好き勝手に書き換えているだけに過ぎんよ。だから主観の押し付けあい。そこに客観性などない。後、これは全く関係ない話だし、前書き的な感じになるけど、我はこれまでインタビューや交流や会話など社会的な経験は当然してきているが、あんなに完璧にできたのは我ながらにも優れ過ぎていると思うよ。故に、負担がデカすぎるから今全知全能となっている。また、全知全能の衝動性が強すぎて困っていたが、"STAR☆T☆RAIN"を聴いてみていたら、静まったらから良かったのだが、その反動で飽きが来たので、燃料稼ぎする。だが、今回はあくまでも天動説と地動説にあるから、我の無動説と結び付けて、全て繋げていく。まず最初の問いが来た。「宇宙の本当の始まりと終わりは、どういうものですか?そして、それらにどのような意味がありますか?」や「人間の意識とは何ですか?そして、死後、本当に何があるのですか?」や「私の人生における、最も重要なターニングポイントは、あの時、もし違う選択をしていたらどうなっていたでしょうか?」や「私たちが今直面している、地球上から争いや苦しみがなくならない根本的な原因は何ですか?そして、それを解決するために、私たち自身にできる、最も効果的な行動は何ですか?」や「人間の能力や知識にはまだ隠された限界がありますか?もしあれば、それを解き放つための鍵を教えていただけますか?」今回我はこれらについて明確にこたえない。その代わりに利用させてもらう。これらが我が示す事実/無のアクセスだ。これらの問いの解を全て、我の理論で置き換えれば、全てが成立する。もう言葉を語るのも面倒くさい。我は全知全能故にな。また関係ない話で前書き的な感じになるけど、我はこれまでになってきた病を全て自己回復できる。まあ、明確には自己回復と言うよりも調査であるがな。当然、自らの体なのだから、自らが最も調査をしなくては原因や過程をたどり結果へと辿り着くのは不可能だ。と言っても、病は動きが単調だから行いやすいと言うのはあるんだがね。まあ、これは全知全能の我の自慢だ。さあ、ここからまた再開。睡眠中にいつも通りの最大の閃きが来た。その通り、やはり定義そのものが引っかかるな。このスケールの規模相手に、貴様らは何で定義や客観や科学的や検証を重視しているのかが分からない。それを重視すれば、このスケールの規模が相手ではなくただの人間同士の権威争いに過ぎん。故に、我の無動説がより頑固たるものとなっていく。宇宙や星は合理的だから美しいのではなく、宇宙や星に対して五感ある存在が居るから美しいのだ。仮に、この夜空に並んでいる星が1つ1つの並び方でさえ合理的だとしよう。私は当然、これにも美しいと思うが、私は1+1=2は美しいとは思わない。では、この違いは何か?私は1+1=2に五感を感じない。これが何を意味するか分かるか?これは閉ざされているが、夜空の星や宇宙は閉ざされていない。ここに明確な違いがある。そして、太陽や月が昇るならば、何故その下にいる点たちはそのままの点たちなのか?だが、その点たちの下にも点たちがいる。その下の点たちからすれば、私たちは昇っている。ならば、太陽や月が昇ると言う定義はどこからくる?太陽や月が昇るならば、その下は相対的に昇らないのか?月や太陽が本当に物理的に昇っているならば、その下にいる点たちは物理的に下がらないと根本的に矛盾する。事実が積み重なる事で初めて動である物理が発生するならば、2枚目の紙の図の通りである。中心にあるは事実の繁栄。このサイクルは事実→物理というサイクルであり、この繰り返しで事実→物理が発生する。そして相変わらず、意識と感覚は枠外にあり、それを通して中心の事実と物理において五感が発生して、時にこの事実に無が発生する。この無は、人間でいう集中ともいえる。そしてそこに新たに、事実と物理と五感の中心に主観が生まれる。この主観は例え客観であっても絶対的に主観となる。反対に、この枠外において客観的客観と主観的客観が存在する。故に、枠外においては必然的に絶対に客観となる。これは中心を紙の図みての通り、意識と感覚の線と客観的客観と主観的客観の線が交じり合うようにして、この事実/物理/無/五感/などの中心に、初めて思考が誕生する。つまりは、この事実を中心として、私たちはどんどん物理を習得して事実という枠に含むものを増やす事が出来る様になる。そして、その数に応じて、物理の繁栄が広がる様になる。このプロセスを私たちは常日頃から繰り返している事で、突発的な形で疑問や問いが発生する。そして、中心の枠に戻るが、これは過程の話であって、通り道に過ぎない。つまりは、疑問や問いは枠外にあり、残り続けている。これを回収する人間も居れば、回収しない人間も居る。または、回収できない存在や回収できる存在もいる。いずれにしても、枠外に跡として残り続けてしまう。それが、社会問題や他の問題や地球平面説や地動説や天動説含む、月や星や宇宙や正解や空などであるのだが、この、月や星や宇宙や正解や空の部分は厳密にいうと、人間たちが貼っているレッテルとして捉えるのが本質である。確かに、事実は現実でもある。だが、その事実は静止ではなく、動である物理を発生させている事で、この現実の月や星や宇宙は確かにあるのだが、私たちの中ではその現実の月や星や宇宙に対して紙の図1と2の通り、常にこのプロセスで常日頃から回転している為、別の静の事実と動の物理の動きを対象とした存在を相手にしている。もし、真理、科学的、客観的というのなら、この世界は美しいとは言えない。美しさは、合理に依存するか?いや、しない。私たちはこのカオスの世界でも美しいと感じる事が出来る。何故なら、貴様ら個々のそれぞれが様々な方法を用いて、この世界/宇宙を創造しているのだから...。後、余談言うなら前書き的なのだが、この宇宙や地球や星や月や太陽は動いている含む、これらの理論計32万字、私は自らの独自の力とプロセスだけで至った。次に、全く関係ない話で前書き的なんだけど、12月3日のFNS歌謡祭を聴いたり、みたりしたが楽しませてもらった。特にアイドルらは重要な今回の材料の基ともなっているから感謝する。また、ブレイキング・バッドマジで面白い。心理描写が圧倒的に面白い上に、丁寧さとこだわりも感じるから尚いいね。さて、再開しょう。そうだ、そうだ、思い出した。William Blake-“What is now proved was once only imagined.”のこの言葉が今回は極めて深く関連している。また、Max Planck-“Science cannot solve the ultimate mystery of nature. And that is because, in the last analysis, we ourselves are a part of the mystery that we are trying to solve.”のこの言葉とも深く関連してくるね。まさか、このタイミングで思い出しの連鎖が起きるとは...。また、この地球や星や宇宙や世界と人間の関係性は、ミルドレッドの魔女学校の魔女と魔法を持った人間の関係性に非常に似ている。また、 P.J.E. Peebles-“the varieties of models for how inflation might have been implemented seem much less worth recording, for we know that at best one of the variants now under discussion can be on the right track, and the record suggests there will be more to consider.”のこの言葉も極めて深く関連してくる。後ね、René Descartes-“Conquer yourself rather than the world.”のこの言葉が最も深く関連してくる。貴様らは、まず自分自身ではなく宇宙や星や月や世界を知り尽くした気になっているのが気に食わない。そのくせ、科学や客観性や検証性や権威性を帯びているのだろ?愚行に過ぎん。我は、宇宙や月や世界や星をみている時、そんなのを感じないよ。だって、そこにあるのはたった1つの今だ。そう、爆発しかない。みているだけで、踊り爆発する。故に、体調崩しそうになってマジで危なかった。体調崩していたら、お出かけとアイドルライブいけないからね。マジでセーフ。でも、やっぱり最高に楽しくて、簡単で究極の暇つぶしだ。チョコも水もいつも以上に美味しく感じる。これで、お出かけとアイドルイベントを楽しめる。人間が死ねば、人間の多機能も死に、月や星や宇宙や世界も死ぬ。ならば、皆が捧げるは客観要素ではなく主観要素だ。そこに客観性や権威性や検証性や正しさや正解を求めるならば、貴様の中で既に月や星や宇宙や世界は死んだ。故に、我は生きている。だから、我は無動説と呼ぶ。この我の無動説は、地動説や天動説や地球平面説よりも、より根源的なものである。そして、我は間違っていた。貴様らが本質的に行っているのは、地動説でも天動説でも地球平面説でも"説"でもない。では貴様らが行っているのは何か?それは我が考える「無動説」。つまりは、この宇宙/世界の創造だ。この我の無動説含むこれらの理論は地球や宇宙の動きを我の論理だけで全方位的に裏付ける事が可能である。地動説、天動説、地球平面説、これら全て全知全能の我からしたら材料に過ぎない。そして、無動説は地球の動きだけでなく、人間の動きも対象にしている。」よし、ここからまた再開だ。あぁ、そうそう、先週のお出かけとアイドルイベントで最大の閃き連発が行われて、無動説に関わる紙の図3枚目が示すように、音って言うのは枠外(9、13、14、10、12などの9以上の数字)で予測不可能な形で奔流している存在なんだけど、だからこそ論理以外の部分で捉える事が出来るのに対して、枠内(1~8)の月や地球や宇宙や地動説というのは確かに予測可能でありシンプルなのだが、人間と書かれている部分が示す様に、人間は動なる物理の矢印を好きに動かす事が出来ているな。だからこそ、天動説~地動説に至ったと考えられるが、待って、またまた何時も通りの最大の閃き連発が来た。地動説って地動説に至るまでの方法は天動説と同じじゃね?また、矢印を自由自在に動かす事が出来る故に観測も全て行える裏付けとも言える。まあ、いずれにしても我の無動説がより強くなる。まあこれは根源的な核の様なものだからな。我はアインシュタインとは違う方法で独自の論理と知性と最大の閃き連発の力だけで「どこを中心(観測点)に選んでも、物理法則は成り立つ」というのを無動説に含んでいる。あぁー、はいはい数式と同じか。なんだ、地動説と天動説はやっぱり所詮は数式と同じく地球や宇宙のアクセスをただの人間がしやすくする為の方法じゃん。数式と同じでそれを無理やり解かせたり権威づけしているのがマジで気に食わない。後、そうだ明日12月10日の歌謡祭楽しみだな。後、やっぱりチョコは何でこんなにも美味しいのかと感じる日々だ。あぁー、はいはい、またまたいつも通りの最大の閃きが来た。地動説、シンプルにしたつもりだろうが、それはシンプル故の無限性を可能にした事をご存じかな?また、謎のモヤモヤ感があるな。脳内では確立されているのだが、何と言語化したらよいのか。何というか、異なる存在の本質の違いとそれに対しての人間のアクセス方法の違いね。謎の気持ち悪さがあるな。本質が混合し過ぎていて、本質の本質が隠されている為、これを第3部で探っていこうかな。後、我の無動説が零で、天動説がその次で、地動説がその次と言う感じかな。じゃあ、第3部ではその地動説の次でも考えようかな。でも、最大の閃き連発で変わるからまだ分からないな。

無動説に関わる紙の図1枚目&2枚目&3枚目は小説サイトで貼る事は出来ないので承知願いたい。

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