第四話 追憶のフーガ、もう君はいない
あれから、数年の歳月が流れた。
天城燈矢は、シンガポールに新設されたアジア太平洋地域の統括支社の責任者として、多忙な日々を送っていた。彼が個人で手掛けていたいくつかのプロジェクトは、数年のうちに爆発的な成功を収め、今や彼の名はIT業界の若き実力者として、知る人ぞ知る存在となっていた。
彼の隣には、聡明で自立した、美しい女性がいた。彼女は国際弁護士として活躍するキャリアウーマンで、燈矢の複雑な過去を全て知った上で、彼の知性や深い人間性を愛し、その孤独に寄り添った。
「燈矢さん、次の会議の資料、目を通しておきました。いくつか修正案を加えてあります」
「ありがとう。助かるよ」
オフィスで交わされる短い会話。そこに、かつて月詩と交わしたような甘ったるい空気はない。だが、互いの能力を尊重し、深く信頼し合う者だけが醸し出すことのできる、穏やかで知的な絆が確かに存在した。
燈矢が、月詩のことを思い出すことは、もうほとんどなかった。
過去の傷は、癒えることはないかもしれないが、瘡蓋となって彼の記憶の奥底に沈んでいる。時折、何かの拍子に疼くことはあっても、彼の時間は着実に未来へと向かって進んでいた。彼はもう、過去を振り返る必要のない人生を歩んでいた。
一方、高遠月詩の時間は、あの日から止まったままだった。
芸術の道は、教授の言葉通り、完全に断たれた。才能という名のメッキが剥がれ落ちた彼女には、厳しいアートの世界で生き残る力は残されていなかった。なんとか大学は卒業したものの、就職活動は上手くいかず、今は派遣の事務員として、都心のオフィスビルで働いている。
手取りは十数万円。そのほとんどが、相変わらずの古いアパートの家賃と生活費に消えていく。かつて燈矢が与えてくれた、光に満ちた華やかな世界は、今では夢か幻のようだ。
心労と切り詰めた生活は、彼女の容姿からかつての輝きを奪っていた。高価な化粧品も、流行の服も、今の彼女には縁がない。大学時代の友人たちとも、生活水準の違いから話が合わなくなり、いつしか完全に疎遠になっていた。
彼女の心には、常に一つの巨大な後悔が、鉛のように重くのしかかっていた。
ある晴れた休日の午後。
月詩は、気分転換にと訪れたお洒落なエリアのカフェで、ぼんやりと窓の外を眺めていた。ガラス張りの窓から見える街並みは、幸せそうなカップルや家族連れで溢れている。その光景が、まるで自分だけが色のない世界にいるような孤独感を増幅させた。
その時だった。
ふと、一台の黒い高級セダンが、カフェの目の前に静かに停車した。洗練されたそのフォルムは、明らかに周囲の車とは一線を画している。
(すごい車……どんな人が乗ってるんだろう)
月詩がぼんやりと目で追っていると、運転席のドアが開き、一人の男性が降りてきた。
上質な仕立てのジャケットを颯爽と着こなした、長身の男。その顔を見た瞬間、月詩の心臓が凍りついた。
「……おにい、ちゃん……?」
見間違えるはずがなかった。
天城燈矢だった。
数年の時を経て、彼は見違えるほど精悍な顔つきになっていた。学生のような幼さは消え、自信と知性に満ちた、大人の男の顔つきをしている。だが、その佇まいに宿る静謐な雰囲気は、昔のままだった。
燈矢は、月詩の存在には全く気づいていない。彼はそのまま、反対側の助手席のドアを開けた。
そして、中から降りてきたのは、凛とした雰囲気の、知的な美貌を持つ女性だった。彼女は燈矢に向かって何かを話し、楽しそうに微笑む。
その笑顔に応えて、燈矢が、ふっと表情を緩めた。
それは、月詩が今まで見たことのないような、自然で、心からの優しい笑みだった。かつて自分に向けられていた、庇護者のそれとは違う。対等なパートナーに向ける、信頼と愛情に満ちた大人の男の笑顔。
その光景は、鋭利な刃物となって、月詩の胸を真正面から貫いた。
あれが、自分が手放した幸せ。
あれが、自分がいるはずだった場所。
あの隣で、あんな風に笑いかけてもらえるはずだった未来。
そのすべてを、自らの愚かさで永遠に失ってしまったのだ。
声をかけることなど、到底できなかった。
今の自分は、あまりに惨めで、汚れている。彼が築き上げた新しい輝かしい世界の、塵にすらなれない。
燈矢と彼のパートナーは、楽しげに言葉を交わしながら、カフェの隣にある高級ブランドのブティックへと入っていく。その背中は、もう自分とは住む世界が全く違うのだと、残酷なまでに物語っていた。
月詩は、その場から動くこともできず、ただガラス越しに彼らが消えていった場所を見つめるしかなかった。
その時、彼女ははっきりと理解した。
自分が「才能」だと思い込んでいたものの、本当の正体。
それは、燈矢という名の絶対的な庇護者が与えてくれた、「時間」と「お金」と「心の余裕」、そして何より「無償の愛」という名の完璧な土壌からしか芽吹くことのできない、あまりに脆く、儚い幻想だったのだ。
遠ざかっていく燈矢の幻影を追いながら、乾ききった唇から、か細い声が、吐息のように漏れた。
「お兄ちゃん……ごめんなさい……」
それは、後悔と懺悔のすべてを込めた、心の底からの叫びだった。
しかし、その謝罪の言葉は、カフェのざわめきと、街の喧騒の中に虚しく溶けていく。
もちろん、燈矢の耳に届くはずもない。彼はもう、彼女の声が届かない、遥か遠い場所を歩いているのだから。
窓ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れ、やつれていた。
月詩は、この取り返しのつかない後悔と、永遠に失われた楽園の記憶を、これから先の長い人生、たった一人で抱え続けていくのだ。
その絶望的な事実に、彼女はただ、静かに涙を流すことしかできなかった。
空は、あの日のように青く澄み渡っていた。




