第一話 甘やかな日常と、不協和音のプレリュード
朝の光は、地上42階の窓から差し込む頃には、地上のもつ生々しい熱を失い、清澄なヴェールとなって部屋を包み込んでいた。
静寂に満ちたリビングダイニング。磨き上げられた大理石のアイランドキッチンに立つ男の名は、天城燈矢。寸分の無駄もない所作で、彼は朝食の準備を進めていた。
厚めにスライスされたブリオッシュが、卵と牛乳、ほんの少しのバニラエッセンスを混ぜ合わせた液体にゆっくりと浸されていく。フライパンに澄ましバターを溶かし、最適な温度になったのを見計らって、それを滑らせる。じゅっ、と心地よい音が立ち、甘く香ばしい匂いが空間に広がった。
完璧な焼き色のついたフレンチトーストを純白のプレートに乗せ、傍らには彩り豊かな季節のフルーツを添える。ラズベリーの赤、キウイの緑、オレンジの橙。まるで計算され尽くした絵画のようだ。最後に、丁寧にハンドドリップで淹れたエチオピア産のコーヒーを、彼女専用のマグカップに注ぐ。
これらは全て、高遠月詩――燈矢の義理の妹であり、そして最愛の恋人のためのものだった。
「ん……」
寝室のドアがわずかに開き、眠たげな顔が覗いた。寝癖のついた柔らかな髪、まだ夢の続きを見ているかのような潤んだ瞳。燈矢の心臓が、静かに、しかし確かに温かいもので満たされる瞬間だった。
「月詩、おはよう。ちゃんと起きられたな」
「お兄ちゃん、おはよう……。いい匂い……」
ふらふらとした足取りでキッチンにやってきた月詩は、背後から燈矢の腰に腕を回し、その背中に頬をすり寄せた。子供のような、しかし紛れもなく女を感じさせる甘え方だった。
「ほら、顔を洗っておいで。冷める前に食べないと」
「んー……。あと5分だけ……」
「ダメだ。講義に遅れるぞ」
燈矢が諭すように言うと、月詩は不満げに唇を尖らせたが、やがて諦めたように「はーい」と気の抜けた返事をして洗面所へと向かった。
このやり取りも、もう何年と続いている日常の一コマだ。
燈矢と月詩の関係は、少し複雑だった。
幼い頃に両親を亡くした燈矢が、親戚の家を転々とした末に引き取られたのが、月詩の父、高遠氏の家だった。燈矢にとって高遠氏は命の恩人であり、その一人娘である月詩は、守るべき大切な家族だった。
しかし、成長するにつれて、月詩の燈矢に対する感情は「お兄ちゃん」への思慕から、一人の男への恋心へと変わっていった。天真爛漫な彼女の猛烈なアプローチに、燈矢が根負けする形で二人は恋人となり、月詩が大学に入学するタイミングで、このタワーマンションでの同棲生活が始まった。
「わ、おいしそう! さすがはお兄ちゃん!」
席に着いた月詩が、目の前の朝食に目を輝かせる。
いただきます、と小さく手を合わせると、彼女は幸せそうにフレンチトーストを頬張った。その姿を見ているだけで、燈矢は満たされた。自分の存在意義が、ここにあるような気がした。
「そういえばね、お兄ちゃん。今度新しく使うキャンバスと絵の具、結構いい値段するやつが欲しいんだけど……」
「ああ、いいよ。リストアップしておいてくれ。いつもの画材店に注文しておくから」
「ほんと? ありがとう! あとね、来週、サークルの友達と箱根にスケッチ旅行に行こうって話があって……その費用も、お願いできたり……?」
上目遣いで、おずおずと切り出す。それが彼女の常套手段だった。
「わかった。いくら必要か、後で教えてくれ。口座に振り込んでおく」
「やったあ! お兄ちゃん大好き!」
月詩は屈託なく笑う。
彼女は、この生活がどれだけ恵まれているのか、深く考えたことがない。月々50万円を超える家賃も、数十万円の学費も、数万円の画材費も、友人との交際費も、その全てを燈矢が当たり前のように負担している。
月詩にとって燈矢は、「少し給料の良い会社に勤めている、優しいお兄ちゃん」でしかなかった。まさか彼が、表の顔とは別に、個人で手掛けるいくつかのプロジェクトによって、同年代の生涯年収を数年で稼ぎ出すほどの資産を築いているなど、夢にも思っていない。
燈矢もまた、その事実を彼女に告げるつもりはなかった。彼女の無邪気な笑顔が、自分への純粋な愛情から来るものだと信じていたかったからだ。金銭的な背景が、彼女の気持ちに影響を与える可能性を、彼は無意識のうちに恐れていたのかもしれない。
その完璧な均衡が保たれた世界に、最初の不協和音が響き始めたのは、いつからだっただろうか。
最初は、些細な変化だった。
以前はリビングのローテーブルに無造作に置かれていた彼女のスマートフォンが、最近はいつも画面を伏せて置かれるようになった。
燈矢と一緒にいる時でも、不意にスマホを手に取り、何かを確認しては、慌てたようにポケットにしまう。
帰宅時間が、少しずつ遅くなる日が増えた。「課題が終わらなくて」「教授に捕まって」――その理由は、いつも学業に関することだった。燈矢はそれを疑うことなく、労いの言葉をかけるだけだった。
だが、違和感の正体は、やがて月詩自身の口から、その名前を伴って現れた。
ある日の夕食後、ソファで寛ぎながら、月詩が楽しそうに切り出した。
「ねえ、お兄ちゃん。最近、大学にすごい人がいるの」
「すごい人?」
「うん。神凪玲先輩っていうんだけど、一個上で、インディーズバンドのボーカルやってて。作詞も作曲も自分でやっててね、もう、なんていうか……カリスマ? すごく才能があって、ミステリアスで、みんな憧れてるんだ」
その名を口にする月詩の頬は、微かに紅潮していた。瞳は夢見るように、どこか遠くを見つめている。それは、燈矢が今まで見たことのない表情だった。
「そうか。良かったな、良い刺激になる先輩がいて」
燈矢は、平静を装って相槌を打った。だが、その声は自分でも驚くほど平坦に響いた。手にしていたコーヒーカップの中で、黒い液体が静かに揺れている。その表面に映る自分の顔は、能面のように無表情だった。
胸の奥深く、今まで感じたことのない冷たい何かが、じわりと広がっていく。それは嫉妬と呼ぶにはあまりに静かで、不安と呼ぶにはあまりに確信に近い、不吉な感覚だった。
「そうなの! この間もね、私のデッサンを見てくれて、『君の描く線には、誰も真似できない憂いがある』なんて言ってくれて……」
嬉しそうに語り続ける月詩の声が、少しずつ遠くなる。
燈矢はただ、黙って耳を傾けていた。心の中で、完璧に調律されていたはずのピアノの弦が、一本、軋んだ音を立てたのを感じながら。
そして、運命の夜は、まるで映画のワンシーンのように、唐突に訪れた。
その日、月詩が帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。
「ごめんなさい、お兄ちゃん! 先輩たちと次の作品の打ち合わせが白熱しちゃって……」
玄関で靴を脱ぎながら、彼女はわざとらしいほど明るい声で言った。その頬は火照り、纏う空気には、普段彼女がつけない、甘く危険な香水の匂いが微かに混じっていた。
燈矢は何も言わず、「お疲れ様。夕飯は?」とだけ尋ねた。
「食べてきちゃった。ごめんね。あ、私、汗かいちゃったから、シャワー浴びてくるね! 先に寝てていいよ!」
そう言って、彼女は逃げるようにバスルームへと姿を消した。
がらんとしたリビングに、一人残される。
壁にかけられた時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。カチ、カチ、カチ……。その無機質な音が、燈矢の思考を支配していく。
彼女の嘘。彼女の言い訳。彼女が纏っていた知らない香り。
バラバラだったピースが、頭の中で一つに繋がっていく。認めたくない、一つの醜い絵が完成しようとしていた。
その時だった。
ローテーブルの上に、画面を伏せて置かれていた月詩のスマートフォンが、ぶる、と短く震えた。
そして、淡い光と共に、通知のプレビューが画面の上部に浮かび上がった。
ガラスのテーブルに反射したその文字を、燈矢の目は、嫌でも捉えてしまった。
『玲:次のライブ、最前列用意しとく。今夜も楽しかったよ、俺だけのミューズ』
――時が、止まった。
遠くで、バスルームから聞こえるシャワーの音が、まるで異次元から響いてくるノイズのように感じられた。
燈矢は、ソファから立ち上がることも、目を逸らすこともできなかった。ただ、その残酷なまでに明瞭な十数文字を、網膜に焼き付けるように見つめていた。
俺だけの、ミューズ。
その言葉が、鋭利なガラスの破片となって、燈矢の胸に突き刺さる。血は出ない。痛みもない。ただ、そこにあったはずの心臓が、綺麗に刳り貫かれて空洞になったような、絶対的な喪失感だけがあった。
ああ、そうか。
そうだったのか。
長年かけて、愛情と信頼で一つ一つ丁寧に積み上げてきたはずの頑丈な城が、その内側から、音もなく静かに崩壊していく。硝子の壁が砕け、床が抜け落ち、美しいと思っていた調度品が、全て瓦礫と化していく。
その崩落の音を、燈矢はただ一人、静かに聞いていた。
やがて、彼はゆっくりと、本当にゆっくりと動いた。
スマホに手を伸ばし、乱暴に掴み取るでもなく、ただ、その冷たい側面に触れた。そして、カチャリ、と小さな音を立てて、スリープボタンを押す。
画面は暗転し、世界は再び静寂を取り戻した。
しかし、燈矢の中の世界は、もう二度と元には戻らない。
彼は無表情のまま、テーブルから身を離した。
その瞳には、もはや何の感情も宿ってはいなかった。深い湖の底のように、ただ静かで、冷たく、暗い光だけが揺らめいていた。
さようなら、月詩。
さようなら、俺たちが過ごした甘やかな日常。
燈矢は、静かに自室のドアへと向かう。
彼の頭の中では、明日から自分がやるべきことのリストが、恐ろしいほどの正確さで、一つずつ構築され始めていた。
それは、完璧な復讐計画などではない。
ただ、完璧な「消失」のための、冷徹なタスクリストだった。




