・9-ラブ・イズ・ブラインド
Love is Blind
「さて。先日の襲撃一件で旧境防に勤めていた二年の担当指導教官が亡くなって代理が見付からなかったので、今日は至急一年と二年の合同授業としまーす。」
道楽教官は珍しく抑揚のない静かな声色でそう告げた。一年の白を基調とした教室内には足立さんや途爪さん、目輪君以外に昨日の実地授業では見かけなかった二年生かと思われる人達が二人ほどいた。暗い顔をしており、彼らと亡くなってしまった教官の間には絆があったのだと雄弁に物語っている。
――僕たちがあの場で突如現れたシンに襲われたのと同時刻、実地授業中に抜け出して消えた道楽教官はあの森で起きたという襲撃事件の面倒を見ていたらしい。道楽教官と同様に二年の担当教官もあの場に居合わせていたのだろう。
……ひどく胸がざわつく。今朝、道楽教官からのメールで「昨日、ボクのせいで死人が出た。キミたちの連絡が来る前の話だから、とにかく気負わないように!信じられないようならボクの能力の全てに懸けて誓っても良いぜ。」と連絡が来ていたが、昨日のあの森で何人もの人が亡くなった事実は依然としてある。
僕なんかよりも生きるべき人がいた。なのに僕はまだ生きている。その違和感が抜けない。その既視感が苦しい。その事実がたまらなく、悔しい。
五体満足で生き残ってこの場にいることの罪悪感が心に芽生えて、僕はその芽を摘み取れなかった。どうして僕はいつもこうなってしまうのだろうと、疑問を持たざるを得ない。
「ちなみに環君、沙耶君と隼人君はどこ?ふたりして体調不良?」
「いや、それが、沙耶ちゃんがどこにも見当たらなくて天野が探しに行ったんですけど……」
環と呼ばれた茶髪の男子生徒の言葉に不穏な気配を感じる。
……昨日の今日で何かが起こり過ぎじゃないか?これがゼノの日常だというのなら僕は本気でこの世に存在するゼノ全員を心配するところだ。こんなに慌ただしく事件だらけのものが日常と呼んでいい訳がないと、そう思う。
「連絡はまだなんだ?」
「ウン。柚にも連絡が来てないしボク、不安で……!」
甲高い声で涙ぐむ環先輩に道楽教官は爬虫類のような目をぱちぱちと瞬きさせ、絵に描いたような苦笑を顔に浮かべた。
「柚君にも?それはマジでまずいね〜!」
「そうだよね!?絶対やばいよねッ!?」
柚と言うらしい先輩が、キンキンとした高い声で騒ぎ出す環先輩の頭を慣れた様子でバシリとはたいた。よ、容赦がない。
「じゃあ今日は別れてふたりを探そう。ボクはちょっと他の建物探してくるからキミらは学校内を探して、見つけ次第ボクに連絡してね。間違ってもキミらだけで何とかしようとか思うなよ。」
僕たちが頷いたり各々の返事をすると、道楽教官は慌ただしくもすぐに姿を消した。それから環先輩が立ち上がりどこかキンとする声で喋り出した。泣いていたのか、彼の目はちょっと赤く腫れていた。
「後輩隊、ボクは村重環だ、環でいい。今探しているのは一型ゼノの墓越沙耶とそいつを探して消えちゃった四型ゼノの天野隼人。……それと、そこで自己紹介もしないで黙ってぶすくれているヤンキーはお前たちも知ってるかもしれないけど、一型ゼノの足立柚。」
足立?足立って、もしかして。ぱっと足立さん――、女の子の方の足立さんへと振り向くと彼女は真顔で中指を立てた。とても明らかに男の子の方の足立さんを嫌っている様子だった。
「生物学上、兄。」
「え、兄貴とかいたの!?」
足立さんの言葉に目輪君は驚きを隠せない様子だった。ああ、やっぱり足立っていうと家族になるよなと思ったのも束の間、手袋に熱が集まり、獣の「先生に中指立てるとかどういうつもりかナ?」とキレかけている声が聞こえて僕は一気に冷汗が出る。
ま、まずい。道楽教官のいない場で暴れられたら僕は一体どうなるか、考えたくもないぞそれは。念のため、獣が出てこないよう手を合わせ握ると獣の呻き声が聞こえた。こわい。
「生、物、学、上、だ。兄貴とか呼ぶな恥ずかしい。」
「へえ。」
足立さんが噛み付くように目輪君に言うも、それに退屈そうな声で返事をしたのは眉と口にピアスをつけた如何にも柄が悪い、足立さんの生物学上における兄だった。彼は立ち上がると何もかもに興味ありません、といった顔をして教室を出ていった。
ま、まるで相手にしていない……。
彼の冷たい態度が足立さんを更に掻き立てている気がして、何となく、足立さんが生物上兄と呼ぶ理由も理解できてしまった。
足立さんに兄弟がいたという新事実に驚いていた目輪君は気を取り直したらしく、すぐにとてもにこやかな顔でイキイキと自己紹介を始めた。
「あ!そうそう、おれは目黒目輪です、三型ね。こっちの新人が鹿目礼司で、その隣にいるのが二型ゼノの泉水途爪。んでこっちのキツイ目してるのがおれらのリーダーの四型ゼノの足立律です、よろしくお願いしまーす!」
「っあ、よ、よろしくお願いします。」
目輪君による素早い紹介に僕は目輪君に習い、慌てて環先輩に頭を下げた。
「ウン、よろしく――」
環先輩の声を殆ど遮るようにぐうう〜とどこからか音が聞こえた。
僕は隣に座っている、力の抜けている途爪さんを見た。彼女は薄っすらと口を開けていて、そこから小さく呻き声のようなものが先程からずっと聞こえている。さっきから聞こえていた呻き声は気にしないようにしていたけど、なるほど。朝ご飯を抜かしでもしたのか、お腹がすいていたんだな。
食堂まで歩けそうか気になって、僕は途爪さんに声をかける。
「途爪さん、大丈夫?」
「う……ムリ……」
「おい目輪、何か食わせてやれ。あたしは新人と沙耶を探しに行く。」
「え、ぼ、僕ですか!?」
唐突に名指しされ、つい驚きで声が引き攣る。一年だけで動いたりしていいのだろうか?と僕のちょっとした不安を見透かしたように足立さんは当然だと頷いた。つんと顎を上げ、自信に満ち溢れた姿の彼女には頼り甲斐しかない。
「新人が他にいるとでも?いないだろ。それに私とトヅメは墓越沙耶の顔を知ってる、不安になるな。目輪、トヅメに何か食わせてやったらそこのチビの先輩と行け。」
「は!?チビ!?」
「この棟の二階から上はあたしと新人が見る。それでいいな、先輩。」
「な、なんでオマエが仕切ってんの!?」
「あんたが何もしてないからだが?」
先輩に向かって足立さんはとんでもないことを言った。環先輩も言葉を失ったようで、口をあんぐりと開いたまま呆気に取られていた。足立さんスゴいな。
「よし、じゃあ、あとは任せた。」
行くぞ、と例の大きなバッグを担ぎ先を行く足立さんを追うように僕は地面に寝かせていた木刀袋を拾い、同級生と先輩たちに頭を下げてから慌てて教室を出る。まだそんなには遠くに行っていないはずだと推測しながら、足立さんの姿を探して廊下を見渡した。
い、いない……!?あの一瞬で姿を消すのが可能だとはとても思えないが足立さんの姿が見えないのも事実。僕が右往左往して焦っていると足立さんが2つ隣の空き教室から出てくるのが見えた。
足はや!?こ、このままでは置いて行かれかねない。僕はかなり先を大股で歩いている足立さんに駆け足で寄りながら、呼び止めようと口を開く。
「ちょ、待ってください足立さ――」
「リツ!」
「はい!?」
足立さんの一喝で驚いてしまい、走って彼女の元へ進んでいた足は止まる。足立さんは振り返るとキッと僕を睨んで、彼女はそれから小さく呟いた。
「……あたしだけ苗字で呼ばれるの、ふつうにムカつくだろ。」
ああ。そういえば。トヅメさんと目輪君が自己紹介をした際にこう呼んでくれと言ってくれたので彼らに従っていたが、指定のなかった足立さんだけが苗字呼びではある。
確かに、一人だけ苗字呼びだと、何かなくても感じ悪いよな。
僕の気付きとは余所に獣は足立さんの要望に「大袈裟ね」と辛辣に言ったが、実際僕は一度も獣の名前を呼んでいないにも関わらず彼女はそれを気にした様子がないので、獣にとっては本当に些事なのだろう。それでも足立さんは獣とは違う考えを持つ人なので、というか獣がおかしいだけな気がするので、足立さんに気を遣わせた申し訳なさを感じた僕はすぐに彼女の名前を呼ぶことにした。
「り……リツさん。えっと、ちょっと待ってください」
「うん。よし。」
満足げに頷いて歩みを再開するリツさんの後を慌てて追いかける。先を進む彼女はどうやら僕を待ってはくれないらしい。
甘ったるい声で「名前ごときで騒ぐ子供に付き合うなんて、先生ってば優しい……」なんて妙なことを言っている獣は無視して、何とかリツさんに追いつき、彼女と二人で空き教室を覗きながら墓越先輩がいるかどうかを確認してゆく。
その間、廊下を歩き続ける際に訪れる沈黙がむずがゆくなって、僕は抱えていた疑問をリツさんに尋ねようと口を開いた。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
リツさんは視線をちらりと僕に向けると軽く頷いて先を促した。
「……昨日の、アレで。人が死んだのって……」
「ああ。新人、道楽教官の言葉を信じないていないの。」
――身も蓋もなく無骨に放たれたリツさんの言葉に怯む。僕はどうしたって、道楽教官のメールに書かれた文体は慰めでしかないように感じた。
可能なら四の五の言わずに信じたかった。僕たちのせいじゃない。僕のせいじゃない。でも、信じたいからって真実かどうか分からないことを信じるわけにはいかない。真実が存在している以上、信じたいことを信じるなんてただ目を逸らしているだけでしかない。それは僕がこの世界で一番嫌いなことだ。
「リツさんは道楽教官の言ったことを信じているんですか?」
彼女が道楽教官を信じているようなら、その理由を知りたい。僕だって彼女と同じように道楽教官の言葉を信じたいからだ。僕が殺したわけじゃないって思いたかった。責任から逃れたかった。浅ましいと自覚していたとしても、それがどれだけ嫌だったとしても、僕の心にある真実は変わらない。それから目を逸らすなんてしたくない。
横目で隣を歩くリツさんを窺うと、彼女はふんと鼻で笑った。
「もちろん信じてる。信じられないんならあとで道楽教官に誓ってもらいなよ、すぐ済むし。」
す、すごく雑に言われた。で、でもそうだよな、ただの同級生でしかない僕にとくに話すことなんかないよな。
肩を落とす僕を見て、リツさんは「あ。」と声を漏らした。
「そっか、新人だから知らないのか。簡潔に説明してやるけど、ゼノにとっての誓いはパクスにとっての誓いとは違う。命懸けなんだよ、文字通りね。」
なんだか現実離れしている話だが――きっと、そう言うからには、そうなんだろう。疑う気にはならなかった。リツさんの言葉を疑うには、僕はそれなりに見てきてしまっている。
獣も、魔力っていうもの、その力が織り成す奇跡も。
あらゆる僕の過去がリツさんの言葉を信じるに事足りる経験となっていた。今更現実離れしているからなんて言って疑うのは不可能だといっても過言ではない。
そうなってくると、現実離れしたリツさんの言葉と相反するように道楽教官の言葉には重みと現実味が増す。僕たちのせいではない。僕のせいじゃない。僕は、……僕は、また間接的に誰かを殺したりなんかしていないんだ。信じて良い。
その事実は醜くも、同時に荒れる心を柔らかく宥めてくれた。
「……ありがとう、リツさん。あっ、あともうひとつ聞きたいんですけど、いいかな?」
「どーぞ。」
教室を覗きながらリツさんが先を促した。
「その、リツさんは墓越先輩のこと知ってるって言ってましたが、どういう繋がりなんですか?」
「家の繋がりでできた幼馴染だ。年は違うけど、あたしにとっては大切な友達で、大事で――」
リツさんはそこで一度言葉に詰まった。とても強い目だと思っていた彼女の赤い目が、不安げに揺らぐ。
「だから。沙耶がいなくなった理由は……何となくだけど、わかる。」
どこか沈んだ声だった。見つからないことの恐ろしさと同様に身近な人間がいなくなって底冷えする気持ちは痛いほどに、僕は知っている。勝手に知った顔をされて共感されるのは嫌だろうけど、それでも、どうしてもリツさんと過去の自分と重ね合わさずにはいられなかった。
喉元まで出かかった見知った喪失感を押し込めるとその代わりに、必ず墓越先輩を見つけなければならないと使命感のようなものを沸々と感じる。
「本人がいないとこで話すのはどうもあまり気が進まないが、あれだな。盲目なんだよ」
「モウモク、ですか?」
「ああ。昨日亡くなった教官は沙耶の許婚で、沙耶はかなり惚れてたから。」
獣は何が楽しいのか弾んだ声で「わたしもそれなら知ってる!恋は盲目だね!」と呟いた。
恋は盲目か。恋というものがそもそも想像もつかないほどに、僕にはこれといって縁のない言葉だったので残念ながらその言葉への理解はあまりできない。更に付け足すのであれば、教官と生徒とかの許婚というのも理解できない。それって一般常識的にあまりよろしくないしな。……恋は盲目ってそういうことか?
「墓越家は代々死霊術師として名の知れている家で沙耶もその一員なんだが……道楽教官が気にかけているのは沙耶が鈴田……許婚を呼び出すかどうかだ。」
「だめなんだ?」
「ああ。そんなことが可能なのは理論上だけの話だ。」
苦々しそうに教室のドアを開けながら、リツさんはそう教えてくれた。理論上は可能、あのわりと何に関してもいい加減な態度を取っていた道楽教官が見合わずに余裕を欠いた姿を見せていたんだ、余程やってはいけない類のものなんだろうけど、一般人の見解としては〝そもそも死人を呼び寄せるな〟である。
そういう死霊魔術が絡む物語はどんなものでも、大抵碌でもない結末を引き起こすと相場が決まっているものだ。
教室内に誰もいないことを確認したリツさんはまたため息をついて壁に寄り掛かった。これで二階の教室はすべて見終わった事実と、僕たちだけがこの教室に残っているという難しい現実を照らし出さられた。
このまま見つからなかったらどうなるのか、なんて考えは不要なのにどうしても考えてしまう。きっとリツさんは僕と〝同じ〟になってしまうのだろう。変えられなかった運命を、共に過ごした時間を、救えたであろう命を常に考えて、生きる。残された人間は常にそうなる。
「……死霊術師は、生前繋がりのあった人間を呼び寄せるのを禁忌としているんだ。」
そうだろうな。そんな夢みたいなことができてしまえたら、きっと誰も苦労はしない。悲しみはしない。喪に服しはしない。
視線を投げて、言葉の続きを促すとリツさんは一度深く息を吸った。
「生前での繋がりが深ければ深いほど、死霊は術師の魔力ではなく寿命を吸い取る。呼び出された側が望もうが、望まないが関係なしにな。」
「……!」
彼女が呟いたその言葉に固唾をのむ。昨日森に行くまでの車内で行われた道楽教官による魔術レクチャーを思い出す。
――あらゆる魔術には相応の代償が理に求められる。
ここで語られる理とは噛み砕いて表現して言えば、業であり、宇宙の総意思だ。魔術という奇跡にも等しい力を行使すると人個人には背負いきれぬ業がうまれ、業にのまれ命が削られる。命が削られるのを回避し、うまれる業を解消する為にゼノは各々の代償を、各々が持つ価値のあるもので払わなければならない。
大抵の場合それは魔力であったり物質、或いは感情や記憶などの人の内側に潜むある種の概念的なものだったり、施行する魔術によって様々でありながら同時にとても明確なルールがそこには存在する。
それは、〝命は代償にならない〟という要だ。
仮に代償として〝命そのもの〟が絡むようであれば、それは十中八九禁忌であり、あらゆる手段を使ってでも阻止するべき魔術に他ならない。禁忌を犯す業の重責は当然として認知し、また禁忌へ触れたゼノに同情はしていけない。
何故なら、禁忌を犯すようなゼノなんてどんな理由があろうと碌でもないのだからね!――そう洒洒落落と語る道楽教官のレクチャーを思い出す。彼女はどこか今日のような日が訪れるのを覚悟していたのかもしれない。
「……ってなると、許婚だった故人を呼び寄せるのは――」
「自殺行為だ。間違いなく即死、ふつうに心中、マジでありえない馬鹿だって思ってたけどこんな馬鹿だとはあたしも思ってなかった。ほんと呆れる。」
矢継ぎ早に喋り出すリツさんには行方不明になった墓越先輩との深い繋がりと、それ故の焦燥感が見えた。
……苦しい。唾を飲み込むのがやっとだ。やっぱりどうしてもリツさんに過去の自分と重ね合わせてしまって、どうしたらいいのか分からなくなる。
いや。違う。どうしたらいいのかは知っている。分かっている。使い古された慰めの言葉も、「大丈夫」だとかの確証のない言葉も求めていない。胸に燻ぶるのは焦燥感で、僕が、僕たちが知りたいのはいなくなった友人の安否でしかない。僕たちに向けるべき言葉など、この世のどこにもない。僕たちが真に求めているのは姿を消した友人に他ならないのだから。
リツさんの赤い瞳に映る意思の強さを見つめる。
「リツさんの気持ち、わかりますよ。」
「慰めようとしなくていい。」
「……子供の頃、すごく仲の良かった幼馴染達がいるんです。」
僕にとって、僕たちにとって、かけがえのない記憶。僕が手放さなければ永遠だったかもしれない青春。今でさえ、青色に輝く一瞬の永遠。
あまり、自分の過去に踏み込む気はなかったけど、僕だけリツさんの事情を知っているのは嫌だと思った。自分のことを話すのは好きじゃないし、慣れもしていない。でも。話してくれた彼女に何も話さないのは不平等だし、抱えているであろうリツさんの不安感がマシになるかもしれないのなら、この過去はきっと共有すべきことであるように思う。
「――その中の一人がある日、僕の手を掴んで……最近何かが視えるんだ、どうしたらいい?って尋ねてきたことがあるんです。僕はからかわれているんだって思って、その手を振り払って突き放した」
今でも鮮明にその瞬間を思い出せる。夕日に照らされるその瞳は、思い返せばとても不安げで助けを求めていたものだった。それなのに僕はくだらない意地を張ってしまって、結局何よりも取り返しのつかないことをしてしまった。愚かにも、見捨てるような真似をした。
「次の日、彼女は行方不明になりました。」
「……」
「僕は手を離したんです。だから、確かにリツさんとはちょっと違うけど、それでもわかりますよ。大事な人がいなくなるのは、生きている心地もしない。」
――というより、生きているという確証が持てなくなる。ただ底冷えするような感覚が延々と続いていく。それは手を離した者への罰として永遠に刻まれる。きっと死ぬしか道がない。でも楽になれるからって理由で、死ねるほど僕は清くもなかった。
生きていく。毎晩夢に見る。常時あの子の姿を考えている。
それが無力な僕にできるあの子への精一杯の贖罪だった。
「……その子は見つかったのか?」
「はい、おかげさまで元気ピンピンでした。だから、墓越先輩だって今日中にでも見つかりますよ。」
夢のような嘘をついた。そうであれば良かったと常々夢に見る嘘を。いなくなったあの子とリツさんに「嘘をついてすみません」と内心で謝るだけに留めて声には出さないよう堪える。リツさんの不安を消すためにこの話を打ち明けたのだから、死体どころか何もかもの痕跡がなくなった話をするわけにはいかない。彼女の焦燥感を増させるような真似だけはしたくない。
すると。僕の頭の中までは読めないはずなのに、頭の中にしか響かない獣の声は普段とは違って甘ったるくなかった。
『先生のせいじゃないよ。』
その言葉に、その声に、どうも息が詰まる。
僕のせいじゃないと宥める綺麗事なんて聞き飽きているし、知ったような口振りで言われたって僕のせいだという事実は変わらない。その事実に苦しむべきだとさえ思いながらこれまで生きてきた。
だけど、彼女の声に宿るものがあまりにも見知っている同情とはかけ離れていて、まるで事実を口にしているだけであるとばかりの冷静さで、一瞬だけ頭が真っ白になる。胸に抱えたクレーターが、満たされたかのような気持ちになる。
――でも。獣は獣だ。
思考を取り戻して、獣は獣でしかないという証拠である記憶を反芻する。彼女は僕を食い散らかした張本人で、そのうち僕をまた殺す気でいるだけの獣だ。僕を食ったときだって、僕の悲鳴が耳障りにならないよう喉元から食いちぎった冷静な獣だ。どんなに理性があるように見えても、彼女に人の心はない。
獣は僕に寄り添っているわけでも、事実を述べているわけでもない。
何より、獣は僕じゃなくて、〝先生〟という存在に固執して媚びを売っているだけだ。間違えてはいけない。彼女に心があるわけじゃないんだ。
リツさんの腕を軽く引っ張ってこの空き教室から出る。
「わ、新人!?」
「とりあえず早く三階を見に行きましょう!墓越先輩を見つけて、そんで、一言いってやるんです。それがいちばんでしょ、リツさん。」
「あ……ああ!それもそうだ。一言だけじゃ済まないと思うけど、少なくとも何かは言ってやらないとね」
誰もいないのをこれ見よがしに僕とリツさんは三階まで走っていく。
頭に過去が浮かんで仕方ない寂しさも、罰として背負う苦悩もすべて今も変わらず心に刻まれている。毎日毎秒心にあるのは虚無感だ。
その虚無感を、リツさんに背負わせたくはない。他の誰にもこんな思いさせたくはない。手助けできるのなら、何だってしたい。そうであるべきだった世界に直せるのなら、いくらでも。
走って、止まって確認して、走って、止まって確認してを繰り返す。何度かそうしていると、ふとひとつのドアに手をかけた瞬間、感覚がした。
ざらついた肉食獣の舌で、首筋を舐められたかのような、命を鷲掴みにされたかのような感覚――獣が「おぞましいね、先生」と甘えた声で囁いた。獣に同意するのは癪だけど、まったくその通りだ。
「リツさん、ここだと思います。」
「わかった!」
隣の教室から慌ててリツさんがやってきて、僕ははやくドアを開けようと力を入れるが、鍵が掛かっているのか開かない。その用意周到さに気付いたリツさんは舌打ちをしながら、例の斧をケースから取り出し、ドアを破壊するため一気に振り翳した。
その姿を見た瞬間、自分たちだけで何とかしようとか思うなよって道楽教官が言っていたのを思い出し、僕は彼女に電話をしようとスマホを取り出した。だが、すぐにネット回線が繋がっていないことに舌打ちたてる。
ここでネット回線が悪くなったことなんて一度もないのに――。
「くそっ、こんなときに限って……」
「繋がらないのか!?電波妨害なんて生意気だぞ沙耶ぁ!」
怒鳴る声と共に破壊の音が廊下に響いた。ぱっと顔を上げるとリツさんが教室のドアを破壊することに成功したようで、彼女は横目も振らず教室の中へと走っていった。スマホへ再度視線を向ければ、「先生、行かないの?」と獣が疑問の声を上げる。
……ルールに人生を縛られるわけにはいかない。僕は、今を生きるために今を生きなくちゃいけない。説教なら後でいくらでも聞けるし、うん。
スマホをポケットに押し込みながらリツさんが壊した教室のドアを踏み超え、教室に入ると「う、」と息が洩れた。
――教室の異様さに瞠目する。
噎せ返るような鉄と煙の臭い。獣が「死人を呼び寄せる罪の臭いだね、先生。わたし、これ嫌いだな」と不快げに言い、それにはまったく同意見だと僕は心底思った。
大きく空間を捻じ曲げられグラウンド程の広さへと拡張された教室の床には大量のキャンドルが置かれており、壁には魔法陣がびっしりとチョークで書かれている。
遠く奥で倒れかけながらも辛うじて座っているのは、泣き腫らした目をしたひどく青白い顔の少女。彼女の吐く息はまるで真冬で深呼吸をしているのかと見間違うほどに、真っ白だ。誰がどう見てもこの部屋は異質で、墓越先輩と思われる女子生徒は自ら望んで危機に身を寄せていた。
進むたびに聞こえる水音を聞き、僕は地面に目を凝らす。そしてこの噎せ返るような鉄の臭いが血であると理解して、肝がすっと冷えた。
『ああ、間に合わない。あの子供の命は、もう救えないね、先生。』
獣の言葉はどこまでも冷静だった。先程、僕のせいじゃないと言った時と同じ声色。悲観になることもなく、ただ事実を述べているだけ。空が青いねと呟くのと何ら変わりのない、どこか無頓着な言葉。
どうして、と独り言のように呟いた僕の声を聞いた獣は「理があの子を見つけたの。悪いことを見つけた理はね、ちゃんと子供を叱らないといけないんだよ」とそれだけを話して何も言わなくなった。きっとそれがこの自体に対するすべての説明なのだ。
……目の前で立ち竦むリツさんの後姿へ、なんて声をかければいいのか分からない。
「間に合わない」
彼女の呟いた声が聞こえた。リツさんはわかっていた。
「あれじゃ、あたしの、声も、届かない!」
「リツさん……!」
取り乱し崩れ落ちそうになる彼女を慌てて支える。ぐっと僕の腕に捕まったリツさんは僕の目を見ると、途端に理性を取り戻して僕を押し退け、それからブツブツと聞き取れないくらいの声量で何かを喋り出した。
獣が「お、おかしくなっちゃった?」と気まずそうに感想を述べた。
「……運命を、運命を……でも……」
「ど、どうしたんですか?」
「殺そう。新人。」
「なにを?」
「いやっ、だめだ、そんなことできないっ!そんなことが許されるわけない!でも、まずいっでもでも殺すしか……うう!」
駄目だ、取り乱していて話ができる様子にない。リツさんに算段があるとしても、すべてがあまりにも断片的で僕では推測すらできない。いや、今のところの推測ではリツさんが墓越先輩を殺すか悩んでいるように見えるわけだけど、それだとはじめに聞こえた〝運命〟という言葉の説明がつかない。
或いはほんとうに墓越先輩を殺すか否を悩んでいるのか?でも、だとするなら〝どうして〟という疑問が生まれる。今のままでは放って置くだけで墓越先輩は死ぬ。わざわざ殺すという選択を選ぶ必要なんてない。
……切りがない。肝心のリツさんが取り乱している以上、僕にできることなんてない。
墓越先輩へと視線を移す。
血だらけで、愛する人にもう一度で会うため自ら死を望んでいる。リツさんの話からして、もう聞こえてすらいない。獣だって間に合わないと判断を下した。
――置いて行かれる側に残されるのは、彼らを救えなかった罪とそうして生まれた確固たる罪悪感だけだ。
生きている実感すらしないまま記憶を背負い、手を離してしまった罪を贖い続けていく。ただもう一度、あの頃のように生きられるかもしれないなんて曖昧な希望に縋って生きている。そんなことは二度とあり得ないのだと知りながら、それでも淡い希望を抱いて生きる。
墓越先輩はそれが嫌だったのだろう。だから置いて行く側になりたがった。その気持ちは痛いほどわかる。僕だって死んであの子に謝りたいと毎日毎秒願っている、生きていて楽しいときなんてない。あの瞬間を、あの子のことを考えないときなんてない。だけど彼らは死にたくて、死んだわけじゃない。生きるために生を望み、そうして死んだ。
そんな相手の後追いなんて、あまりにもふざけてる。
自ら望んで置いて行く側になるなんて、許せない。
それは望まずして置いて行く側になった人間に対する冒涜だと苛立つ心が叫んで止まない。
だからだろうか。あの人を助けたいと思う気持ちが、消えない。愚かにも、無情にも。もう手遅れだってことくらいわかっている。算段なんてなくて、希望なんてなくて。墓越先輩はあの子じゃないってことも分かってる、過去は変えられないってわかっている。
「あぁ……だけど、無理そうだな。」
それでも、なにひとつ意味がないことだったとしても、今ここで何もせずにいたら僕は〝あのとき〟と何も変わっていない。どうしようもない人間のままでいることを甘受するだけ、人生を流れるままに生きているだけの、どうしようもない僕。……そんなのは、ぜったいにいやだ。
木刀袋から刀を取り出す。
『先生、理には届かないよ』
薄情に聞こえるほど冷静な獣の声。それが正しいと、いやでも本能で分かった。だからって嫌だと思うことをそのまま受け入れるなんて、僕にはできない。したくない。あのときと変わらない自分でいるのだけは、死んでもお断りだ。
「何ができなくても足掻いてみる。それから、考える。」
『でも、』
「歴史は繰り返すためにあるんじゃないんだ、獣。」
学ぶためにある。知るためにある。変わるためにある。
人は、より良いモノになれなくてもいい。でもより良いモノになりたいと手を伸ばさないのは、努力をしないのは駄目だ。なろうとする気概さえないのは人としておしまいだ。
足を踏み出す。
血の浅瀬が波紋を描いて揺れる。
「――〝百発百中、鹿目礼司の刀は運命を切り裂ける〟」
ぐぅと背中を押し出される。背に感じた温かい掌の感覚に、鼓膜を振るわす凛としたその声に、僕は思わず息を呑む。振り返らなくちゃ、と思った。
「あたり、あたり、あたり。スリーセブン、ハンドレッドパーセント、コンプリート。」
パチン。指を鳴らす音が響く。
「〝エクスチェンジ〟……君の運命はいま固定された。さあ、行ってください。」
振り返る、視線の先にいたのは黄金の髪に黄金の目を持つ、まるで女神のような人。後頭部でひとつに結った緩やかなウェーブを描く彼女の毛先すら、あまりにも完璧で完全だった。彼女はいつの間にか気絶したらしいリツさんを腕に抱えた。
ざわつく心を、押し込めるので精一杯になる。オーフェリアさんが冷たい表情のまま、こてりと首を傾げると獣は「うえ~っ」とじつに嫌そうな声を上げた。
『先生、人助けをしたいのならそこの女には構わないで今すぐ走って。今なら運命だって切り裂けちゃうけど、でも今だけなんだから。』
今なら、きっと運命だって切り裂ける。
……〝百発百中、鹿目礼司の刀は運命を切り裂ける〟という今まさに僕が必要だと願っていたことと、あの奇妙な言葉の羅列が僕に何かしらの力を与えたのだろう。オーフェリアさんの能力が一体どういうものなのか――いや。いまはそんなことよりもすべきことがある。
踏み出しかけた足を戻して、僕は一度ちゃんとオーフェリアさんの目を見つめた。
「あの!前回に引き続き今回も、ありがとうございました!」
「んーん。当然、なのです。」
頷いてくれるオーフェリアさんから視線を外して、墓越先輩の元へと走る。とはいえ、墓越先輩を斬り付けるのはさすがにリスクが高いように思う。一体どうすればいいんだろうか。癪に障るけど獣に聞くべきかな……。
「あ……!?」
壁の魔法陣が光り、だだっ広い教室内に現れたのは泥の体を持つ数十体の化け物――これが、墓越先輩の使役する死霊か。それぞれ刀、剣、槍、弓を持っている。「先生、死霊の殺し方は覚えてる?ちゃんと刃物に魔力を纏わせるんだよ」獣が囁く。これではどっちが先生かわからないな、と呆れ笑いながら刀を抜刀する。
魔力を腕に、刀に纏わせる。降りかかる弓を刀で捌き前へ前へと進む。かなりの距離があるせいで、弓を持つ死霊を狙いつけるわけにもいかない。今の僕の目標は墓越先輩だけだ。
『あっそうだ、先生!あのね――』
※
病院は苦手だな。とくに私がイオタに半殺しにされた後、その一部始終を見ていたトギさんが行った緊急連絡によって駆け付けてくれた道楽さんに担ぎ込まれた本部内の病院は、瘴気とはまた少し異なる負の感情が染み付いている。正直瘴気の方がマシだと思わざるを得ないレベルだ。なんていうか、陰湿なんじゃなくて、湿。みたいな。こっちまで暗くなりそうだ。
長居はしたくないけど、実際ここがなければ私はもうとっくの前に死んでいるというのもまた事実なのではやく退院させてくれとか、我儘は言えない。
――何も言わない私に痺れを切らしたらしく、トギさんはもどかしそうにコツコツと指先でテーブルを突いた。硬くたいへん居心地の悪いベッドの上、「内通者がいる」と殴り書きされている文字に触れて、私は首を傾げた。
「それで、これってなんですか?」
体中が痛むし、何より怠いので本当は何も動かしたくなかったけど、トギさんに対する礼節は持ちたかったので、大して何も見えていないのを隠して彼がいるであろう空間に目を向けた。
「書かれている通りだ。あの廃駅の森と……同時襲撃が行われた遊園地には厳戒な情報規制が敷かれている。データ上に記録媒体のない、機密文書にのみ記述されている封印指定のシンがこうも立て続けに狙われたとなると、観測機を使う他なくなってな。」
「千歳をまた利用したんですね。言い方も気に入りません。あの子はものじゃないですよ、観測機だなんて呼ばないでください。」
「使えるものは使う。苛立つ気持ちもわかるが、死ななければ良いという主義があるだけマシに思ってくれ。しかし私の言い方については謝罪する。彼女の友人である君に対して浅慮だった。」
大人だ。率直な感想が浮かんでくる。ただ、だからって甘受はしたくないし、そう簡単に受け入れることもできない。我ながら、難儀なものだと思う。
「そうですね。ところで千歳を利用するって決めたのは誰の判断ですか?」
「墓越上官の決定だ。」
「……。」
「は、そう熱くなるな。」
鼻で笑われる。半年前は元気だった千歳がカイや私、道楽教官を認知すらできなくなるほどASXが利用したという事実をどう受け止められるのだろう?私は彼女の友人としてASXの所業について見て見ぬふりはできなかった。私が愚かで子供なんだとしても、譲れない。
この前に面会した際もまだリハビリの途中だったし、ASXが再度千歳を利用したというのなら、記憶喪失の悪化を辿っていないかという不安も過る。
けれど、千歳が既に観測したというのなら、いまさら何を思っても仕方がない。不安は一度思考の隅にでも置いておくしかない。彼女への面会は近いうちに絶対行おう。
「それで、千歳の結果はなんですか?」
「書かれている通り、内通者の存在だ。容量がまだ回復していないこともあって得られた情報はこれくらいだ。」
「なんで私に教えるんですか?」
私は一応ゼノとして在籍させてもらっているが、それだけだ。トギさんの話す情報はそこそこ重要そうで、私のような下っ端に話す内容には聞こえなかった。
「前回の零型の時点で君のことは既にリサーチ済みだ。人柄くらい全有壺の件で理解している。君は道楽教官に不義理なことはできないと言っていたらしいな。」
はて。そんなこと、言っていただろうか。実際そう考えはするけど、正直、あの日のことはあまり覚えていない。流れ込んできた二十年分ものイオタの記憶で脳は擦り切れていたらしいし、あの日でちゃんと覚えていることと言えば私の恩人たる鹿目くんくらいだ。
「それにもし君が内通者であれば、もう既に自白している。」
「どうしてですか?」
トギさんの言葉には自信が溢れていた。こちらとしては疑われないに越したことはないけど、理由が知れるのなら知りたい。
「今回はなかなか危険な状態だったと医者から聞いた。生きているのが不思議だとね。腹は裂かれ出血多量に全身打撲、瘴気で脚と肺は半分焼かれ、おまけに魔力は命から拝借したときた。禁忌一歩手前のグレーゾーンの使い方だ。」
尋問区画取締役にそうも言われるとどうも責められているみたいで気分はあまり良くない。禁忌だなんてASX側から本気で怒られたら……いや、とくに一大事にはなるわけじゃないのだけど、素直に面倒なことにはなる。
トギさんは言葉を続けた。
「仮に君が使い捨て程度の存在にせよ影崕派の内通者だとすれば、君は零型の封印に死にかけるほどの力は入れなかったはずだ。しかしながら仮に君が内通者で影崕派の零型を放つという意思に盾突き、全力を注いで零型を封印したことで腹を裂かれたのだとしたら、影崕派の裏切り者でもある君はこの時点で既に我々に身の安全を求め、影崕派の情報を吐いている。君はASX側の裏切り者にしては悠長過ぎる。」
「悠長なのが演技だと思わないんですか?」
「思わないね。人は、目に見えるものだからだ。」
視線を感じる。なるほど、つまり完全に勘と経験による推測か。
異世界出身と言っているだけで見事に出自不明、イオタとただ関わり合いになったことがあるだけじゃなく、彼の記憶をすべて見た立場。同情でイオタと手を組んだと思われても仕方ないだろうに、よく信じられるな。自分で言うのも憚れるが、私なんてまさしく怪しいのなかの怪しい存在だと思う。
納得できない私をおかしく思ったのか、微かに笑ったトギさんの気配を感じる。
「確かに君はグレーな存在だが、白ではない。同時に黒でもない。そして君は、自らグレーでいるのを選んでいる。合っているだろう?」
それを自ら肯定するのはダサいな、と思った。実際どの立場にもならないよう気を付けているが、トギさんの言い方はちょっと大袈裟だった。ばか素直に肯定すれば、きっと盗み聞きしているカイに笑われて馬鹿にされること間違いナシ。誤魔化しておこうと適当に笑ってみる。
「そんなふうに分析されるなんて、照れちゃいますね」
「照れてもいないくせによく言う。しかしながら、とにもかくもだ。私は今回の内通者の脳天に一発ブチ込むと決めているんだ。君の協力を仰ぎたい。」
「どうして、私なんですか?」
「一番グレーだからだ。君ほどASXをどうでもいいと考え、同時に義理を重んじ、そして自由に動ける人間はいない。」
確信を持った声に苦笑する。根無し草である私を嫌うひとがほとんどであるというのに、まさか根無し草たる一面を求められるとは思わなんだ。奇妙な人間もいるものだ。
「オマケに、人格も保障されているときた。」
「さすがに褒め過ぎですね」
「必死なんだよ。君の協力が手に入るなら君の靴だって舐めよう。」
「さすがに気持ち悪いですね」
靴を舐めるとかふつうにフケツだ。どんな価値観があるのか知らないし知りたくもないけど、靴は舐めるものじゃないのだ。
「君へのメリットは――」
「あ、すみません、断ります。」
「……聞きもしないのか?」
トギさんの伺うような声にハッとする。遮ったのは、確かに失礼だった。いけない、変に気を持たせるよりすっぱり断った方がいいと思って気持ちが先走ってしまった。
「遮ったりしてすみません。不躾でした。」
「いや、構わない。ただ断る理由は聞かせてほしい。」
私が断る理由なんてわかりきっているだろうにトギさんはそんなことを言った。
「私は、私の友人がどう思うかを優先します。」
トギさんの誘いは、通常なら二つ返事で承諾するだろう。断る理由がないからだ。でもこの話の延長線上に存在するのは、事実上、イオタの死だ。トギさんは内通者を許さないと言っているが、その殺意の視野には無論イオタも含まれている。他ならぬイオタがトギさんのチームを壊滅に追いやったのだから、そう結論付けるのは難しいことじゃない。
だから、断る。勝手に決めない、思慮にいれて行動する、大切にする。友人っていうのはそういうものだと思う。記憶を失う前の千歳がカイや私にしてくれたように、カイが私や千歳にしてくれるように、私も彼女たちには誠実でありたいと願う。
トギさんは正しく私の意図を汲み取った。
「……カイか。イオタについては協力しろとは言わない。」
「すみません。それでも私ひとりが決める話じゃありません。」
カイなら承諾するだろう。彼女はイオタが影崕派にいると知った日からずっと唯一である肉親の死を覚悟をしていた。それを隣で見てきたから、カイの答えなら既にわかりきっている。
それでもカイのいないこの場で、カイの家族の行く先を決めたくはなかった。それは不義理で退屈で、非道徳的だ。行わないという選択を選ぶ理由がなんとみっつもある。
「なら話を付けてくる。そうしてもし、カイの承諾をもらったら……」
「そのとき、考えます。」
「ではそのときにまた、君の元へ来る。君からの連絡は勘繰られる可能性があるし、なるだけ避けてくれ。」
頷いておく。衣服が揺れる音、革靴の足音にトギさんが近くの椅子から立ち上がったのだとわかる。先程より高い位置から彼の声が聞こえる。
「メリットを提示しておこう。」
「いや、べつに――」
「駄目だ。タダほど恐ろしいものはない。」
「でもマジモトは好きですよ?タダ。」
「アレを怖いものがあるような人間として見てるのか?」
「ウムム。確かに。」
私の視界が映すギリギリであるテーブルに赤い林檎が置かれた。あまりにも突然のそれにしばし思考が止まりかける。
「鹿目礼司を守ってやろう。」
その言葉に目が、動く。
トギさんを見る。今日はじめて捉えた人の顔。じっとこちらを見る目に色はない。なるほど、ずいぶんと下手に出ているかと思っていたが、これは脅しらしい。呆れた。だがじつに聡明だ。
つい笑みが溢れた。興味深い。
「私が彼を気にしているとでも?」
トギさんの首が傾げられた。
林檎を指先で押し退ける。
「林檎は嫌いです。メロンとかにしてくれませんか?」
「メロンは嫌いだ。苺なんかどうだ?」
「赤いのが嫌なんです。」
「では梨でいいかな。」
「よし、決まりですね。」
※
目が、熱い。赤い――視界。
よくもまあ、こんな爛れた世界が視界と機能しながら生きてこれたものだ。いくら獣相手と言えど、感心が勝る。
泥の弓矢を避けるのと同時に槍で狙われ、いなしたところを剣が振り被ってくる。地面を踏み締め勢いよく相手の背へ回り込み、発光する糸、改め可視化された〝運命〟を絶ち切る。
すると剣の泥兵が形をなくして崩れ落ち、糸にしか見えないソレがほんとうに〝運命〟であるのだと思い知らされる。
――あっそうだ、先生!あのね、先生は確か視えなかったよね。だから、私の目をトクベツに貸してあげてもいいかなあって……もし先生が私と〝でーと〟してくれたら……。
数分前の獣を思い出す。愛らしく、こんな状況だというのに乙女さながらのいじらしさ。あまりにも愚かで無情だったのでつい思わず切り捨てたしキレてしまったら、なんと無条件で彼女の目を差し出してくれた。
獣の素直な対応に裏があるんじゃないかと不安にも思ったが、途端視界が急激に赤く染まり……〝運命〟は確かに視えはじめた。
このことに関して従順でいてもメリットなんてないと深々と痛感させられたわけだが――あか、赤い!赤すぎて見にくいっ!泥兵の攻撃を避けるので手一杯になる!運命に絡みつかれてほとんど〝繭〟と化している墓越先輩の方へとじりじりと向かっているが、時間勝負中でのこの状況はあまりにも苦しい。
「っこんな視界でどうやって生きて来られたんだよ……!」
『先生と一緒に生きてたの……えへへ』
ヒ、おぞましい。僕の人生で獣と生きていたことなんて一度もないと声高々に言ってしまいたい。ていうか、何より、この泥兵!数が多いだけじゃない、ちゃんと面倒だ!
振り落ちる弓矢を転ぶようにして避け、慌てて体勢を立て直せば今度は槍が目先を掠る。
「ぅ、く……!」
危うく頭ごと刺されていたという恐怖感を即座に振り払う。僕が一々怯んでいられるほど、墓越先輩に残された時間は多くない。あの繭化した状態は見るからにギリギリだ。僕も彼女も命がずっとギリギリの崖っぷちすぎる。でもどちらかが死ぬようなら、どちらも死んだ方がいい。その事実だけが、いま僕を突き動かしていた。
息をつく暇もなく降りかかる攻撃を避けながら、前へと進む。逸る気持ちに急かされまいと意識を強く持つ。
泥兵に刀を突き刺し、足で蹴り飛ばして刀を引き抜く。横から襲いかかってきた別の泥兵の刀を、しゃがみながら避けて勢い付けて下から斬りつける。泥がアチラコチラに飛び散っていく。
生まれた隙を見て墓越先輩の元へ走るが、降りかかった弓矢をうまく避けきれず矢に腕を掠め取られる――支障はない、と脳が判断する。地面を蹴って目の前にいた剣を持つ泥兵に飛び込み運命を斬る。
途端、世界が一瞬にして暗闇に溶け落ちた。あれほど真っ赤だった視界が、今となっては一切の光もない、宇宙の奥底のような一面の黒へと変わり果てた。
「群れて、集って、情けない。」
ま、まだ生きている、僕。ちょっとした衝撃にしばしば惚ける。辺りに響いた見下すような声を聞くまでほんとうにもう終わってしまったのだと、死んだのだと本気で思ったが、どうやらまだ生きているらしく、泥兵を切り裂く音が次いで聞こえてきた。
――ビバ・ライフ。生きていて心底良かった。〝死ぬ時は実際こんな感じデス〟という感じがえらく怖いのなんの。こんな感じで死ぬとしたら呆気なさすぎでムカムカすらする。ダメだ語彙力が死んだかもしれん。
「おい!何惚けてやがる、走れ。沙耶がどこにいるか覚えてるだろ!」
いやまったくその通りだ。息を吸って、吐くのと同時に走り出す。どこの方角に墓越先輩がいるのかは確かに覚えていて、一寸の光もない暗闇であろうと走る脚に迷いはなかった。
泥兵を切り裂く音を背後に奥へ、より奥へ。墓越先輩の元へと走っていく。
光が満ちる。
再びの、赤い視界。暗闇の中をがむしゃらに走っていたので分からなかったが、僕はなんとか墓越先輩の目前にまでやって来れたようだった。白く発光する繭は、もう墓越先輩の目元すらを覆い隠している。
残された少ない時間で墓越先輩を包む運命だけを切り落とすのは中々骨が折れる作業になりそうだな。
『よぅし、さっそくこの子を殺しちゃおう!』
「運命、な。縁起でもないこと言うなよ。」
『先生ってば……死の運命は死を持ってでしか変えられないなんてわたし、ちゃんとわかってるよ!そうやってすぐわたしのこと揶揄って、ほんとしょうがないんだから!』
……、え?マジで?そんな言葉すら声にならなかった。獣の癪に障る態度には目を瞑るとして、直面する状況に息を呑むことくらいが今の限界だった。
もし獣の言葉がほんとうなのであれば、問題はこれと言ってない。だが、もし獣が嘘をついているのであればどうなる?獣を信じた結果にある未来は両極端なふたつだ。
墓越先輩が生きるか、墓越先輩が殺されるか。
目を閉じて、一度、深く息を吸う。
獣を信じてもいいのだろうか。僕を食い散らかした、化け物でしかない無邪気な少女の言葉を。ほんとうに信じる価値があるのか、分からない。疑問の先に息が止まって、目を開ける。
押し上げた瞼の先には赤い運命が巣くっている。
――きっとそれが答えだ。
「だったら、うん。殺そうか。」
『うん、決まりっ!』