・5-ハイイイジャック
HiiiJack
季節外れに凍りそうだと訴え震える両手を何度も擦り合わせる。雪化粧の美しい森を歩く。四月だというのに降り続ける雪がシンによる現象だと確認され派遣されてこの森に来たのだがシンの結界内に落とし込まれシンを探すここ数時間、ずっと変化のない雪景色を見ているせいで、段々とまるで永遠のただ真ん中にいる気がしてくる。それはとても――。
「お前は孤独だよね」
唐突に通信機器越しにそう言われて、カイの言葉について考えてみる。孤独。孤独か。この結界の森にひとりでいるというのは、客観的に見て孤独な奴だと錯覚してきてもおかしくない。これが任務であるとかそういうことは抜きにして今この状況が孤独に見えると言われたら、まあ確かにと頷かねばならないことだと私も思う。この森は延々と続いているし、その延々と続く森の中でひとり、現場でシンを探しているという状況は正直ちょっと孤独に見える。例え事実がそうでなくても。
とはいえ。
「この状況を見て変に錯覚してきたのなら休んだ方がいいですよ」
「そういうんじゃなくて世間話だよ、世間話。お前はいつも孤独に見えるよねって話」
何だそれは。何なら失礼まである。カイではなかったらぶん殴りに行っていただろう。
孤独、それは私に相応しい言葉ではない。尤もひととは大抵孤独な生き物であるし、孤独に終わるものだが、私にそれが合うものかとたずねられたら到底肯定できるものではない。何せひとが隣にいてくれたらもっと頑張れる以上、孤独ではないと言えるだろう。如何せん大抵の場合、私は常に〝もっと頑張っている〟状態にある。自慢じゃないけど。
「それなら否定させてもらいますね。私、孤独じゃありません!」
「これ心の話よ、ちなみに。」
「なんですか、考え直せと言いたいんですか、それ。」
彼女の言葉に少し棘を感じて、尋ねる。まるで私を孤独だと思い、それをどんな形であっても私にも信じさせたいようだった。カイは私なんかよりもずっと頭が良くて感も鋭いタイプだが、私が孤独であるなんて下らないことを言い続けるようならその印象を変えてもいいかもしれない。私は断じて孤独ではない、確信を持って言える。たまに寂しい日はあるけれど、それは誰にだってあるそういうおセンチな日というだけであって、特別孤独というわけではないのだ。
しかし彼女の返答は、私の望んでいたものではなかった。
「マ、考え直してみなよ。心の観点でね」
妙に舐め腐った感じで言われたものの、素直に考えることにする。私が孤独だと信じる訳では無いが、素直に一度考え直してもいいと思える程にはカイのことを信頼していた。
心。心の孤独。心。心?
頭が止まる、足が止まる、考えをやめる。いま私は任務中で、集中を欠いてはいけない位置にいる。心とかよく分からないものの話ではなく目の前の任務に集中しよう。第一、心なんて抽象的なものを知ろうとするほうがおかしいのだ。そんなの現実的じゃない。まったく、カイは夢見がちな節があるから困る。純粋なのはいいことだけどね。
「うーん、悪いねカイ。きみの言っていることに一々耳を傾けていたら熱を出してしまうよ。」
「とにかく!この正義の味方、カイの言葉を胸に刻みなさいな!ぼくの言ってること、わりかし合ってるもの。」
わりかし程度では胸へ刻む気にはならない。
すると不意にぐっ、と圧し潰そうとする負の感情を感じる。芯を揺らさんとする負の感情。やっとお目当てのシンが来てくれたようだ。こういう居場所がよく分かっていない、歩き続ける足が必要になるタイプのシンほど手強いものはいない。私が歩くの好きじゃないということを抜きにしても、きっと誰だって同意してくれるだろう。
「ビンゴ!言ったろ?そこら辺だって!」
カイの言い様に思わず笑いが漏れる。彼女は自分の能力に関しては多大な自信を持っており、私みたいな方向音痴と組まされると「自分の能力に問題がある訳ない」と必死になることが多い。今から数十分前には軽いヒステリックを起こしていたくらいだ。勿論、能力的な問題があるのは方向音痴である私側であってカイではないのだが――今回のような森に限っては、彼女もまた問題の一部分であると言わざるを得ない。
「毎回思うけどきみの言う〝そこら辺〟、分からない。とくにこういう、拡張されている森とかだと、マシマシで。」
「情報が無いよりかはマシだと言わせてもらうわ。」
「うあっ、痛いところを!」
近頃弟のせいで調子を乱されているカイの大雑把な情報――〝ここら辺の……三十キロメートル以内、たぶん〟と言われた――を元に、大幅に拡張されているシンの結界内で同じところを数時間ほどぐるぐるぐーるぐる。彼女が居なければ日を跨いでこの拡張されている膨大な結界の中、シンの捜索をしていただろう。そう考えるとやはりカイ様々、と言ったところだろうか。
一息つきながら長めのダウンジャケットを脱いで、ジャケットのジッパーを下ろす。
「第一ここって元々受験会場の近くでしょ?あの病院、曰く付きも曰く付きで瘴気だけじゃなくて魔力が強いせいかブレるんだよ、こっちの術式が。もう常時祈ってないとダメって感じ。」
「あー確かに、そうですね。魔力と瘴気が強いワー」
「分かんねーでしょ!分かんなくてやれてるお前が知ったかすんのナシ、質悪いーっ」
楽しくしてくれるカイの言葉を聞きつつ、手袋を脱ぎジャケットのポケットに仕舞う。ジャケットの内側から幾つか仕込んである、媒体として完璧な柄をひとつ取り出す。
カイの言う通りゼノ達の語る魔力や瘴気がどういったものなのかよく分かっていない私が知ったかぶりをしても、言わなければ誰も気付かない。ふつうにやれているぞ、と必死で見せているので簡単に見破られては困る。質の悪い冗談でないといけない。
私にとっての魔力と瘴気は「なんとなく負の感情がする」とか「ここは愛されている」とか、そういった感覚でしか知り得ていない音のない音のようなものであり、音圧しか知らない私と微細な音すらも聞き分けられるゼノとでは多少なりとも差が出ているのが実情だ。ここに来て半年が過ぎているというのに、未だに慣れない。
とはいえ何か起きている最中に原因解明として〝目〟を使えば魔力がどう動いているのかは判断できるし、それなりに魔力を扱えるようにはなってきたので慣れていなくても、そう困っている訳でもないので何とかしようという気にはならない。
尤も、なんとかできるものでもないし。この件での欠点といえば魔力はもちろん、瘴気にも気付けないということくらいだが巻き込まれても生き残る自信くらい、まあ多少ばかりはあるわけで。何事も些細であろうと思うのは傲慢かな、うーん。
「ン、」
吹き荒れる雪が肌にあたって痛い。冷たいし、目の前なんかは既に猛吹雪で何も見えなくなっている。夢のように真っ白だ。下らない考えを無視して柄を掴む手に力を込める。この件に任命されるだけあって、私とこの零型シンはとても相性がいい。
「〝σετ〟」
いつだって想いを乗せることを忘れてはいけない。いつだって本気で本心で本質的でいなくてはいけない。そうでなくては私は無力だ。柄が光に包まれて形を取る。
「〝ψεύτικο/第三節二章:それは燃えゆる星の剣〟」
光の束が収束し、姿を表したのは轟々と燃え盛る剣だ。辺りの吹雪があっという間に溶けていく。猛吹雪の本体であるシンが炎の剣の現界と共に姿を見せる。
無数の目が体中に幾つもついている雪の巨人が、たった今目を覚ましたのようにその巨体を起こす。
「う……」
巻き起こる風圧に目を細める。寒かった。私が十人いたってその高さにはならないだろう、見上げた空の先に巨人の頭部が見える。シンの結界内でなければニュースにでも取り上げられていたかもしれない。尤もそのようなことはこの世界の歴史的にまず起きはしないのだけど。
巨大な雪の塊は憎たらしそうに鋭い歯を剥き出しにして私を睨んだ。視線を少しずらし、雪の巨人の胸元に注視する。罪を祓う剣の効力によって雪の巨人が持つ禍々しい色の球体、改め核は無防備にも大きく露出している。
この燃え盛る剣、あまりにも大層な代物で私なんかが使い手ではまさに豚に真珠といったところなのだが、使わずにいたら本来の持ち主に悲しい顔をされるのがオチなので偽証して軽量化を図りながらバンバン使っていくに限る。後は私の努力と技術次第とったところだろうか。
「ごめんね、こんな形でしかできなくて。次はこんなことしちゃいけませんよ」
腰を落として一気にシンへと踏み込む。シンの敵意によって振り翳される雪は、剣を掲げるだけで溶け消えていく。溶けた雪が水にすらならないあたり、全てがシンによる紛い物なのだと改めて思い知らされる。情のない紛い物の雪は少したりとも雅ではない。炎に溶かされ水へとなる姿はきっと美しかっただろうに。
当たりどころ次第一発で死にそうな氷柱が降り注ぎ、私はすかさず剣を頭上に掲げた。しかし到底炎の剣だけでは回避しきれない、その予感が脳に警告を送って必死で走る。やだな、予感のせいでびりびりする――!
「あー、シグ?」
「イ?!いまちょっと、ッ」
氷柱に足が貫かれそうになり私は慌てて炎の剣を向ける。がら空きになった頭上を注意せねば、とほとんど転ぶようにして氷柱を避けていく。カイが何かを言っているけど正直あまり余裕が、
「道楽教官からのお急ぎメールなんだけどさ」
「うおおっとととと!」
滑った――!いや剣、剣があるじゃないか。地面に剣を突き刺して滑りを止める。急いで剣を地面から抜いてシンへ向かう。滑り転んだことが予想外に功を成したようで、あと少しで攻撃範囲内に辿り着けそうだ。
大股で雪の大地へと踏み込み、足に力と魔力を込めて大きく飛躍する。空中で未だなお投げ向けられる幾つかの氷柱を足場にしてより近付き、もう十分な距離だと認識したところで二十五メートルのその中心部へ剣を向ける。刺したら何が出るかな、雪?それとも血かな。溶けるだけとか。
「お前が前に見た鹿目ってやつ、ヤバいことになってるって」
「ハイ!?」
炎の剣をシンの核に突き刺せたは良いものの、カイの言葉はとても受け入れられないものだ。何よりも説明がほしい、だって彼はヤバいことになる状態ではない筈なのだ。私が視て、そう判断した。あのときの予感もこいつは平気そうと告げていて――。
核を灼かれたシンはたちまち炎に身を包み呻き声を上げ消滅し、私は二十五メートルもの高さから落ちた。かろうじて魔力で身を固めたものの混乱していたせいで受け身はほとんど取れず、体中がドクドクと痛みを嘆いているのが嫌に感じられた。息を整えるうちに草木の匂いだ、と脳が回っていく。地面はしっかり土色で、雪色じゃない。結界内から出られたあたり、シンは無事に浄化できたらしい。
「……平気そう?ヤバいなら医療班呼ぶけど……」
「いい。それより、なんで鹿目くんが……」
打ちどころは悪くなかった、というか良いまである。魔力のプロテクト付きだとしても、二十五メートルから落ちて無事なのは控えめに言ってめちゃくちゃツイていたとしか言い様がない。だが問題はそこではない。鹿目くんだ、鹿目くん。
私の焦りにカイは少し躊躇いながら言った。
「いま道楽教官が不在を誤魔化してる最中で迎えに行けないらしいんだけど、マジモトさんに、」
「病院かな。」
「わ、ビンゴ!さすが去年のマジモトの被害者、分かってるね。さっきぼくたちが話してた件の病院だってメールにかかれてるよ」
我らが特待生担当の教官であるマジモトといったら融通の利かない問題児だ。彼女が鹿目くんを連れて行くとしたらひとつしかない、ゼノ受験会場たる病院だ。ゼノになりたいと望む人間にその覚悟を問う試験をさせたいという意識は正しいし、適正を測るにはそれしかないとも理解している。だが鹿目くんはゼノになりたいと望んでいなければ死にたいとも願っていない、シンによる被害者だ。
時期的に戦い方だってまだ教えられていないだろう。そしてゼノの受験といったら無駄に危険しかないもので、断じて彼のような何も知らない人間が行く場所ではない。
マジモトめ、何を考えているんだ。一発殴ってやる。
「……今から行く!きみも今から向かって。私ちょっと先についていると思うから。」
「は?あ、おい、シグ――」
※
意識が揺らぐ。それは海の中、漂うゴミの気分だった。
赤い視界のなか、ただの一振りであれだけ恐怖した目前の化け物は消えて、恐怖さえ一抹の夢のように心地よさすら感じた。
しかし身の毛のよだつおぞましさは消えず、そのおぞましさは僕をひどく苦しめた。眩しいまでの病院の中を歩いては目に見える化け物たちを薙ぎ払うのは心地よいと、心が晴れていく行為だと感じた筈なのに、依然として気持ちが悪いのは変わらない。矛盾だけが生じる。いつ終わるんだろう。いつ、苦しいのが終わるんだろう。
そう考えていたら妙な破壊欲求がふつふつと湧いてきて、気の赴くまま病院内をめちゃくちゃにするという決心が、わりと簡単についてしまった。それはまるで自分の選択ではないような選択だったが、それでも腕を振り上げるだけでコンクリートの壁が切れて崩れていく様を見ているととても胸が軽くなった。
そもそもこんなことならなければ、そもそも全部悪いのはこんな場所なんだ。気持ち悪い。だから、自分の行いは正しい。
いとも簡単に崩れていく天井から射し込む一筋の光が、苦しいほどに眩くて僕は思わず俯いた。あつい。熱い。この赤い世界はあまりにも窮屈で、おぞましくて、寂しい――ああ、これは一体誰の考えだ?
「フム。これは中々……愛ならではの問題ですね!きみ。」
何を。言っているんだろう、誰が今ここにいるんだろう。拙い疑問が浮かぶ。どこかで聞き覚えのある声に、顔を上げて確認する。天井から射し込む光にあてられた、陶器人形を彷彿とさせるうつくしい少女が僕を見ている。若葉色の髪が揺れ、黄昏色の目が僕を、――そして獣を貫くように見ていた。
「制御術式は壊されているみたいだけど、大丈夫!次はうまくやれますよ。きみはまだ彼女と知り合い始めたばかりですし」
気にしなくていい、と柔らかに語るその声はとても平然としていたが、反対に少女の顔色はとても悪くどこか苦しそうだ。体も傷だらけなのが見える。体中の至るところに切り傷、捲り上げた腕の裾から見える打撲傷、それから首元の火傷。ふつうの人間であればそんなには怪我しないほどの量だった。大方、ゼノだろう。深々と考えるまでもなくそれは理解できて、僕はぼんやりと思った。
殺してあげたいな。そしたらもう、苦しまずにすむ。こんな苦しいことをしなくてもいい。きっと彼女もそう望んでいる。世界だって幸せになる。みんなハッピーだ。
「ン?あ、きみ、待て。どうした、びりびりするが……」
難しい顔をする少女目掛けて腕を振り翳す。化け物たちを薙ぎ払う要領で、しっかり殺すつもりで勢いよく、できるだけ痛みを感じないように頭を狙った。
ハラリと切れた少女の長い髪が汚れた地面に落ちる。少女の右耳から血の零れるかすり傷が見えた。
「も、もってかれてるじゃないですかやだ!どこまで共鳴してる?!まずいですねこれ!」
――外した。化け物たちはこれで消えたのに。僕が切ったせいで髪の長さが左右非対称になった髪を彼女は少しも気にすることなく、ただこちらをまっすぐと見る。その目には憎しみや悲しみもなく穏やかで、慌てている様な口振りとは裏腹に彼女はこの状況を楽しんでいるようにさえ見えた。
それは、とても悲しいことだ。こんな異常事態に平然と対応できるくらいに慣れてしまったなんて悲劇だ。だって人は、穏やかに生きているべきだ。その権利は人であるなら誰にだってあるし、その権利が奪われている状況に慣れているのなら、それは間違いだ。彼女のような年端も行かぬ少女が異常事態に慣れているだなんて、本来はあってはならない。
だから、僕が今彼女を殺してあげたい。終わらせてあげたい。なるだけ、もう苦しまずに済むよう。
「ちゃんと殺すから、動かないで。」
「……ううん、駄目だ。きみはそんなことしたくて、ここに居るわけじゃない。」
頭じゃない、体のどこかがその言葉で悲鳴を上げた。まるでその通りだと叫んでいるような痛みすら感じて、でも僕には何もできないのが酷く不快だった。これ以上ないくらいに自由を手にしているのに、燻る何かがその全てを否定している。それが、とても寂しくて辛い。素直にそう思った。
……それは、僕だっただろうか?もしかしたら僕ではない獣のものだったかもしれない。或いは真に僕であったかもしれない。頭がこんがらがって痛む。
違う、平気だ。平気も平気。僕は平気じゃなければいけない。分からなかったことや辛かったことを言い訳にして、やりたかったことをしないのは嫌だ。そんなことをしたら大切なものを全部取り逃してしまう、この手から。だから、僕はこの人を殺さないといけない。
「けもの、」
声が出る。突然のことで僕はそれが僕のものだと一瞬気付けなかった。
「僕を、出せ。」
――へえ、おどろいた。やっぱりいつまで経っても規格外。先生は変わらないね。大人しく食われてくれたから変だとは思っていたけど、もしかして、もしかしていよいよ先生、わたしのことを好きになってくれたのかな……!?
※
そんなわけあるか。
魂を元の状態へと吐き出されて開口一番にそう叫んだ。彼女にとって僕は確かに先生だ。規格外としか表現できぬ医者。だが好きで大人しく食われる人間がいてたまるか。そんなこともわからないとか正気か?
気が付けば、うるうると大きな紫色の目を潤ませた絶世の美を体現するかのような少女が僕を見つめていた。子猫の愛らしさに引けを取らず、この世の何より一番うつくしいと言われても納得する顔立ちだ。到底化け物の系統だとは思えない。尤も、やっていることはたいへんえげつない。こちら側が精神疲労でくたくたになるくらいには、えげつない。えげつない世界ランキングとかあったら百パーセント上位に食い込むぞ、こいつは。
「せんせい、怒った……?」
「怒るも何もブチギレてんだよ!精神を乗っ取るやつがいるかバカッ!」
「やだぁ!怒んないでえ!」
泣きながら抱き着く獣に拳が出かけて、何とか気を落ち着ける。獣と出会ったあの日のように手を出す訳にはいかない。例え相手が獣で、僕を文字通り食い散らかした挙げ句精神を乗っ取るような奴でも、だ。相手と同じ土俵にいくわけにはいかない。獣を刺激したら痛い目を見るのは他でもない僕になるのだから。……それに、また被害者面されるのなんてお断りだ。
とはいえ、さっきは本気で加害者側になりかけたワケだけど。罪悪感と疲労感でいっぱいになりながら、僕に殺されかけた当の本人へ面と向かう。彼女は穏やかに僕と獣を見つめていて、目が合うと彼女は緩やかに首を傾げた。その傾げた首元から火傷の跡が大きく露出して、僕は一瞬ほどそれに目を奪われる。人形じみた顔に浮かぶ穏やかな表情とは裏腹に傷だらけな体のギャップが何だかひどく痛々しくて、すこしばかり、言葉を見失ってしまう。
「どうかしました?」
にこにこと何事もなかったかのような態度はきっと、こんな状況に慣れているからだろう。あんまりな話だ。辛いであろう異常を平然として過ごすなんて、あっていいわけない――気付けば僕はそう、獣と似たようなことを考えていた。あんな過激思考にはならないが、ゼノは些か過酷すぎるんじゃないかと思う気持ちは拭えない。
自然と、僕が傷つけてしまった彼女の右耳に視線が奪われていく。赤い血が滲んでは皮膚を伝って零れ落ちていて、見るだけで胸が苦しくなる。なにをやってんだろう、僕は。くそ、もっとちゃんとすべきだった。もっとはやくに獣から体のコントロールを奪うべきだった。もっと、もっと、正しくあるべきだった。
膝に手を置いて、頭を下げる。
「――さっきは、すみませんでした。あなたを殺しかけてしまって。謝れば済むもんじゃないけど、それでも。すみませんでした。」
「あ、ううん。きみが無事ならいいんだ、それで。」
やさしく、無邪気そうに微笑むその表情には嫌そうだったり、取り繕っている様子が少しも見当たらない。例えばそれが嘘によるものだったりするのならば、彼女は間違いなく演技派な大女優になれるだろう。それくらいに彼女は穏やかで、一切の嘘っぽささえ感じさせなかった。この目の前の少女は僕が知る限りの中で最も優しそうな人間だと忌憚なく言えるだろう。あと、なんかふにゃふにゃしていた。
そして彼女を殺しかけたことと同様に、忘れてはいけないことがある。
「それから、髪の毛もすみません。どうお詫びすればいいのか……」
彼女の若葉色の髪は獣と僕のせいで不揃いな左右非対称になっていて、腰まであった長髪の片側は今や肩までの長さだ。腰と肩で異なる左右の差はとても大きく誤魔化しようがない。
髪は乙女のナントカって言うし、ここはもう僕も反省の意を込めて坊主にするべきかもしれない。そう提案しようと口を開くが、彼女のほうがちょっと早かった。
「いえいえ!不可抗力だったわけだし、ちっとも気にしてませんよ。」
「でも、」
「お手入れするの、苦手だったし丁度いいものです!」
穏やかな笑顔。嘘や偽りを感じさせないそれ。
けど、不可抗力とはいえお返しとして何をされてもおかしくないことをやってしまったのは変えられない事実で、何をされても当然だとその覚悟だってしたつもりだったのに彼女は平然と僕を許した。そのことに対して構わないという彼女の言葉が嘘だったとしても、僕は文句を言えないし、言うつもりもない。
……いや、よく考えると、この人、結構頭おかしいのでは?ふつうもうちょっと問題とかになる気がする。
「にしても鹿目くんは猛者ですね。ふつうは彼女とかの高位異常存在に取り込まれたら彼女の意思なしじゃ出られないんですよ?」
「そんなの、先生なんだから楽勝に決まってるもん!」
「んなわけあるか!」
戒めに軽く杏色の頭をチョップする。「んにゃっ」と呻いたものの獣は楽しそうにするだけで、反省の色は少しも見られない。こいつ……、と苛立つ気持ちはあれど、どこか前より嫌悪感が薄れているのも事実だった。
――あのときの言葉にしようのない無敵感と、終わりのない寂しい孤独感は、この反省しない獣によるものだ。あんな孤独な感情を抱えて生きるのは恐ろしい以上につらいと思った。
といっても。
手足に枷を付けたうえで檻に閉じ込められ、その檻ごと海に放り込まれたような経験をさせられた以上、彼女への嫌悪感は完全に消えたわけじゃない。正直、溶けていく感覚は獣に喰い散らかされたのと同列で最悪の経験だった。意識があるのに手はおろか、足や声も出ないうえに段々と僕個人としての意識が消されて獣に溶けていくあの感覚といったらない。きっと、あのまま閉じ込められていたら僕は獣の一部として消えていた。それは直感であり、予見であり――獰猛なまでの本能だ。
獣は〝先生なんだから当然〟なんて言ったが、我ながらよくあそこから出られたものだと深々と思う。
うん。ムカついてきた。
「あと。猛者といえばなんですけど、よくこの病院を破壊できましたね。」
「え?」
「ここ、〝取り壊しができないほど曰く付き〟なんですよ」
……今すごく帰りたくなった。今日様々な経験を経たが、結局僕は僕でしかない。今回の件で非日常に慣れたわけでもない。ふつうの人間として、曰く付きなんて言われて平然とこの場にいるのは無理だ。どうしよう、変なのに取り憑かれでもしたら。いや、もう既に取り憑かれていますが。
「あ、で、でも瓦礫とか色々道にあったし、わりとこの病院いつでも取り壊せそうだったような気がするんですけど……」
「あ――、れは去年色々ありまして。まあ、今回みたいにふつうじゃないことが起きたんですよ」
ゼノの語るふつうじゃないことって何だろう。異常事態の異常事態なんて想像もつかないが、碌でもないのは確かだ。そこまで考えて、今回の件が所謂碌でもなくふつうじゃない事態であることを思い出して泣きたくなった。
僕はこの件に関してはまさに渦中の人間だった、愚かにも自分とは何ら関係のない問題だとして事実をすっかり忘れていたけど。この獣に取り憑かれている限り、自分が獣と同等に異常であるということは忘れないほうが身の為だと言えよう。精神的にも、だ。
僕の腰に抱き着いたまま離れそうにない、小さな少女を見る。彼女は僕が見ていることに気付くと嬉しそうに頬を緩めた。こうしてると可愛いだけの女の子に見える……うーん、まったく恐ろしいものだ。
「どうしたの、せんせい」
「……いや、何でもないデス。」
――こいつ、弱体化しているらしいんだよな。それにしては腕を一振りしただけでシンが消滅したり、病院の一部が細切れになったりと、ふつうじゃない力を出せていた記憶があるのは何故だろう。異常事態の異常事態という高位異常存在の獣。ますます僕に倒せるのか疑問になってきたところである。
「……む、マジモトの結界が消えた。これで外に出られますね!行こう、ふたりとも。」
「えっ結界なんてあったんですか?」
「もちろん!大暴れする奴がシンかゼノかに関わらずいーっぱい、いるんですから、なんにしても外に漏れたら危ないでしょう?マジモトはその点エキスパートでね、結界がバカほど強固で何も外に漏れないわけなんです。」
なるほど。何度も開こうとしては開かなかった鉄壁のドアを思い出して、僕はしみじみと納得した。通りでミリ単位として開かなかったわけだ。まだ腰に引っ付いている獣を引き離し何とか手を繋ぐだけにとどめて、病院の出入り口へ向かって歩いて行く。
「……だったら、あなたはどうやってここに入ったんです?」
「えーっと、ナイショ!」
ちょっと考えた素振りを見せてから、彼女は笑った。僕と獣が彼女を殺しかけたのは何でもないと言わんばかりに許せるのに、どうマジモトの結界を掻い潜ったかは教えてくれないのか。ますます好奇心が擽られる。しつこく尋ねるのも違うので、好奇心は好奇心のまま胸に閉じ込めておく。
とはいえ、その道のエキスパートとまで称したマジモトの結界にどう侵入したのか、疑問が消えたわけではない。そもそも異質体として名を馳せている獣と同化しかけていた僕を目の前にして彼女は冷静で、口元に笑みすら浮かべていた。
……もしかしていま僕の隣にいるのは結構強いゼノだったりするのかな。行儀が悪いのを承知でちら見する。夕暮れの色の目、傷だらけの体、人形を彷彿とさせる整った顔立ちであるということ以外に目立った特徴はとくにない。しいて言うならとてもにこにこ、そしてふにゃふにゃしている。
――いや、いけない。ゼノとしてふつうの人らしくない感じは十二分にある。ふつうの人はこんな人形じみた愛らしい顔をしていないし、怪我だってこんな多くない。マジモトと道楽教官の異質感のある印象が強過ぎるだけだ。あの人達と比べたら誰だってまともに見えるせいでふつうを忘れかけていた。恐ろしい話だ。
……あ、そういえば名前を聞きそびれている。
「カイだ、おーい!こっちですよー!」
「あーいたいた!正義の味方が助けに来てやったぜー!ていうかここの瘴気なくなってね!?お前たちなにやったんだよー!」
瓦礫を下りながら歩いているとカイと言うらしい染めた金髪の少女が彼女の呼びかけに反応しながらやって来る。カイの背後にはマジモトもいて一瞬身構えたが、何だか不貞腐れているように見えて僕は思わず不安や疑心よりも感心が先に来た。あの感じで不貞腐れることができるのか。ずっと横暴な態度でワハハと笑っているかと思っていた。
不意に名前を聞きそびれている彼女が走り出す。えっ?と驚いたのも束の間、彼女は勢いよくマジモトの顔へと目掛けて拳を――えっ拳を!?
マジモトが吹っ飛び、拍子でマジモトが被っていた帽子も飛び、何だかとてもドラマティックな画になる。その様子はスローモーションにさえ見えた。マジモトが瓦礫の中に沈んで、沈黙が訪れる。獣すらもどこか唖然としていて、僕はこの奇妙な状況にどう反応するべきかとぼんやり考えた。
くるりとマジモトをふっ飛ばした彼女が振り返る。彼女は出会ったときと何ら変わらず、ただにこにこと穏やかに笑っていた。まるで何事もなかったかみたいに。
「さて、帰ろう!今日はすこし疲れちゃいました!」
「せんせい、あの小娘、中々ファンキーだね……」
「こら!そんなこと言うなよ」
失礼にならないよう獣と小声で会話しながら、それでも獣の言葉は的を射ていると思ってしまった自分がいた。ファンキーと言わずしてなんて言うんだろう。
※
うまくいくわけないなんて、最初から知っていた。というか一目瞭然だった。
それでもやらせたのは野地が彼の部下達に持つ、くだらない自信を一度壊したかったからだ。過剰な自信とは軽率に命取りになるものだし、何より洗脳が能力の奴なんて精々一般人相手にしか使えないし、まともなゼノにはこれっぽっちも使えない捨て能力だって教えてやるのも影崕派として大事なことだろう。この無駄足すぎる洗脳のおかげでこっちの狙いはASXにバレたかもしれないが……、野地のプライドをへし折れるなら多少の苦労が増えたって構わなかった。第一、洗脳能力とか前線に出られない時点でお察しって感じだ。
一型ゼノであるマジモトの相手を不安に思って泣きついてきた野地の部下へ手助けをしたのはトナリで、まあトナリなんか相手にして一型ゼノごときの抵抗がうまくいくわけもなくボコされたマジモトは無様に洗脳されてくれたが……さすがはウラキ家の長女だと褒めたい。うつけ者だなんて馬鹿にされているがマジモトは中々だ。洗脳での命令が上手い具合に避けられた。
基本的に洗脳は自己の強さによって命令を避けることがほとんどで、弱った体での洗脳は百発百中だ。トナリにボコされて弱っていると言うのに、『病院内に封印された零型の解放』という命令を『封印された零型の解放を受験生に任す』という他人任せの視点で受諾し、行動し、その結果がこうして全員五体満足での失敗に終わっている。何で今の季節に受験生がいるんだかとしばし苦笑せざるを得ないが、そこの件に関する運も踏まえての実力だ。
この件はあらゆる点から見てうまくいっていなかったのだ。マジモトの予想外の豪運に加えて、彼女の自己の強度……トナリの手助けが必要になったのもうまくいっていない証に他ならない。手助けを求めるのは時にとても大事なことだろうけど、今はそんな人間のあり方の話をしているわけではないので割愛、割愛。如何せん結果は結果だ、負けて失敗したのならすべてが理由になり得るものだ。
――マジモトがシグマにぶん殴られたところで小型のドローンカメラで敵情視察していたモニターから目を離す。病院内に存在するシンの開放という目標が、いま正式に失敗した。あれが放たれたらASXに対する良い時間稼ぎと目眩ましになったんだが、まあそれについてはべつのプランを用意している。問題ない。
「マ、最初から期待はしてなかったさ。早めに野地へ報告しに行くんだね。次会えるのを楽しみにしてるよ、がんばってねー」
あのクソ真面目で高飛車な野地の信頼とプライドをへし折ったんだ、どうなるのか予測はできるが改めて見ものだ。青褪めている部下に笑いながら手を振ると彼女は慌てて出ていき、随分と気が楽になった俺は再度モニターに視線を移すことにした。
やはり部屋はひとりで満員だ。ふたりでいるものじゃない。今回は野地を思って入室を許したが、うん、あいつの山より高いプライドをへし折れたことだし次はないかな。
モニターの向こう側にいるシグマを見る。一番初めに出会ったのが半年前。モニター越しでの監視を開始したのも半年前。彼女が立派にクズであることは全有壺の一件から知っていたし、監視した半年間で得た情報といったらやはりクズである確証、それだけだ。
しかし今日、シグマは今までになくうれしそうな顔をしていた。
シグマの背後には見たことのない卑屈そうな少年がひとりと、そいつに引っ付くうつくしいヒトならざる者だ。あの子供の気配の異様さからして異質体だろう。異質体にしてはひどく弱っているが、それでも特有の異質感は簡単には消えない。言ってみればパクチーのようなものだ。それを、間違える訳がないのだ。
そんなパクチーが卑屈そうな奴に引っ付く理由。
シグマがうれしそうな顔をしている理由。
――ナルホドね、つまりゲテモノ吸引器の人柱が今のASXにいる訳だ。異質体の紫の目と目が合う。異質体に認知された、そう一瞬にして理解して――あ、やべ。
反射的に椅子から立ち上がりながらモニターの電源を落とす。燃える痛みに呻き目を抑える。
「うえ、クソ、マズッた……!」
汎ゆる歴史、汎ゆる刹那、汎ゆる罪、その全てがこの肉体に流れ込む。
異質体の目を目視するべからずと、誰かしらが文献に書いておいてくれたらこんなことにはなっていなかったろうが、クソ、異質体という存在を軽く見てた弊害が出てしまった俺のミスだ。俺の失敗だ。自分が精神異常系統に弱いことを少しでも考慮しておくべきだった。愚かなまでに軽率にジロジロと見つめるべきじゃなかったのだ。今更考えても無駄だけど。
――ああ。痛む脳を引き摺り出して掻き毟りたい。体中の毛穴から吹き出す汗が酷く不快だ。恐ろしいほど赤色へ染まる視界に前後感覚を失っていくのに、自分は何をすることもできない。体中を、目を、心を蝕む赤い毒に瞬きひとつの抵抗さえできない。何もかもが支配されている。そう直感する。気持ち悪いほどに視界は真っ赤だ。
目を開いても、閉じても、見えるのは赤、赤、赤。
「ハッ、あークソクソクソ!」
汎ゆる悲嘆、汎ゆる憎悪、汎ゆる幸、全てが一瞬にして遠退く。
赤以外に何も見えない視界の中、脳の痛みでふらついた拍子に指で何かのボタンを押してしまう。それが何のボタンであったのか疑問に思う前に耳障りな声が部屋に響くのがわかった。何も見えないし音もあまり聞き取れないのに、その嫌に耳障りな声ばかりはやたらと脳にも響き渡り、俺はつい耳を塞ぐ。
「苦しそうだね、形の奥にいるのが見えているよ。イオタくん見てるー?」
見えてねえよ。クソ、モニターの電源ボタンだったか。余計なもの押すにしてもモニターかよ。
「イオタって誰ですか?」
「カイの弟兼、爆弾魔です。友達じゃないから会ったら気を付けましょうね。ちなみに向こう、結構苦しんでるけどなにかやった?」
「わたし。わたしを見てたから毒を送ってあげたの。ほら、先生に手を出されたらいやだし。」
毒。毒か。その言葉を聞いて、躊躇なく人差し指を噛む。血が出るほど勢いよく、噛み千切りはしない程度。口の中に血の味が広がる。
自分に課せられた毒であるなら、毒まるごとを誰かに譲渡できる筈だ。写真の上に術式を書くことでその写真に映る人間へ毒を譲渡する、呪いに値する術式を前に見たことがある。いつかどこかで見た記述を緻密に思い出しながら、人差し指で血の術式をモニターに書いていく。モニターの様子が見えていない以上、誰に毒が飛ぶかはランダムになるだろうが、この毒の苦しみを少しでも理解してくれるやつがいたらうれしいと思う。そして可能なら死んでくれるかな。
「いや何勝手にやってるんだよ?!そういうのナシ!やめにしなさい!」
は?待てよ、今書いている途中だろうが。くそ、良いやつだな!困るタイプの良いやつだ。確かにこういう困るタイプの良いやつはゲテモノ吸引器になりやすいイメージがどうしてもあるが、いま俺はべつに「なるほどね」とそんな納得をしたいわけではない。誰でもいいから痛い目に遭わせてやりたいんだ。痛む視界と脳に負けじと術式を書く指先を早める。
あーここの最後のルーンなんだったっけ。考えろ――。
「えーでも先生、いいの?こいつ面倒くさそうだよ」
「僕は人殺しになるつもりはない!ほら、はやく」
ええい、しかたない!適当に書いちまえ!とにかく何かにはなる!慌てて適当に最後のルーンを書き、術式構築を終え魔力を込めた。
「SET - GIVESGIVE……!」
カラカラの喉を無視して無理矢理に唱える。するとすぐに体から異質体による毒が消え失せてゆき、目には愛しき視覚が戻ってくる。事が終わったわけでもないのについ安堵の息を吐いてしまうくらいには、どっと疲れた。あの気色悪い赤はもう懲り懲りだ、などと考えながらファインプレーをかましてくれたモニターへと目を向けると画面にはただ青い空が映っていて、誰に毒が譲渡されたのかは分からない。
……ん?これどうなっているんだ?我ながらなかなか上出来な術式ではあるが、人が映っていなければ譲渡の術式は無効化されるはずだ。今更ながら譲渡無効化――人が画面に映っていない状態での術式行使する可能性があったと気付いて、失敗していなかったことが不思議になる。しかし毒の譲渡は成功しているわけだから、その失敗する可能性を退け、術式は上手く行ったということだ。
つまり結局、誰に譲渡されたんだ?血に濡れたモニターを覗き込む。
「……あれ?おかしいな、干渉できなくなっちゃった……」
「し、死んだってこと?!」
「はあ!?ぼ、ぼくの弟を殺したのか!?」
「えっち、違うよ!わたしの命令なしで命が絶たれるなんて幼稚なミス、わたしがするわけない!あっちが勝手に縁を切っただけだし!」
アホばっか。マジでくだらねー。呆れてつい天を仰ぐ。モニターの電源を落とす一歩手前まできている。あんなグロテスクなもの見せられて、気が狂いそうになった後に聞く会話じゃなかった。どういう会話が適切だとか、そういう具体的な要望があるわけじゃないけど、なんとなくこれは違うと思う。こっちまでアホになりそうで嫌だねまったく。
「正しくは、違うかな」
――その言葉に、その声に、体中の血が沸き立つ。
おいおい、お前か?お前に毒がいったのか?赤以外に何も見えなかった世界の中でこんな最高な事を上手い具合に引き起こせたのか?譲渡には失敗したものの毒はどこかに消えた、とかじゃないのか?本気で?いやいや、うれしくてたまらないね。これはトナリに話そう。彼女もウケてくれるだろう。
「私にうつしたね、イオタ。おかげでバリバリしてる。」
よくわからないが、たぶん苦しんでいるのだろう。〝バリバリ〟だなんて妙なオノマトペ、シグマの口からは一度も聞いたことはないので余裕そうに聞こえても、実際のところ奴の額には皮脂でも浮かんでいる筈だ。いくらあいつがそこそこデキる奴でも、異質体の毒に耐えられる奴だとは思えない。耐久性の悪いさこそがシグマの欠点だからだ。まあ、シグマの持つ欠点自体は他にも上げられるけど、それが1番目につく欠点なのだ。
「ちょ、それやばくないですか!?」
ゲテモノ吸引器の言葉に思わず笑う。そうだね、ヤバいんだよ。俺もさっき経験したから分かるが、異質体の毒は気が狂いそうなくらいに苦しいし何もかもが痛む。いつの間にか溢れていた鼻血を手の甲で拭う。赤い毒の影響だろう。
「いえ!大丈夫ですよ、きみ。」
俺がなかなか苦労したってのにこのクズときたら、まったく人の苦労を垣間見ないやつだ。ああ、なんてツマラナイ人間なんだろう。とことん興覚めだ。
「残念だね、イオタ。私ときみは異なる体の作りをしていて、とくに毒とかは私に作用しないんです。勘はめちゃくちゃにされてますがゴフッ」
びちゃびちゃと血が画面に飛び映る。モニターの半分が赤色に染まる程の血。それは相当な量だった。
「バリバリ効いてるじゃねーか!」
俺より異質体の赤い毒に対する耐性がないせいで血反吐を惨たらしく吐く様は正直胸がすいた。苦しむクズを見届けてすぐにモニターを切る。あの図太く生き残ることに長けているクズのことだ、どうせ死にはしないだろうその足掻きを見続けるほど俺は暇じゃないし物好きでもなかった。
だが精々生きて苦しめばいいとは心から深く思った。苦しんで、そのうち何もかもを諦めてしまえばいい。その絶望を見せてほしかった。きっと俺としても楽になる。