・4-ホワット・ア・タイム・トゥ・ビー・アライブ
What a time to be alive
パンドラから出た僕は本物の道楽教官とアダムスルトさんと対面した。こっそりとアバターだと思っていたふたりがシミュレーター内で出会った通りの非現実的な容姿していたのには驚いたが、そんな悠長なことを考えられる暇もないほどあっという間に謎の医者に捕まえられた僕は医務室へ放り込まれた。じつに見事な早業だった。
異質体に神殿化させられた一人間の肉体の情報とやらが欲しかったらしく、健康体である事実をしっかりと無視されて僕は何日間も何をするまでもなく病室のベッドでの安静を強制させられた。
たまに道楽教官か、彼女からの連絡が来るだけでスマホもない――あると言えば文字と臓器でいっぱいの医学雑誌くらいの病室は退屈で死ぬかと思ったが、そんな日々は七日目にやってきた道楽教官によって終わりを迎えてくれた。
彼女は病室の床で医学雑誌を無心で読んでいた僕の目の前に仁王立ちするとVサインを向けて笑った。
「ご両親から転校の承諾書貰って来たゼ!」
僕が今現在置かれている状況を話したとしても〝異端〟を記憶し続けるのは一般人には不可能なので、かなり回りくどい方法になるけど話を進めてくる!と言ったきり三日ほど姿を見せなかった道楽教官は今とてもご満悦そうだ。その様子からしてうまくいったのは目に見えた。けど。いや。あまりこういうの、口にすると失礼になるかもしれないんだけど。その。不信感と言いますか。
モゴモゴと言葉に迷って――それから、素直に尋ねよう、と諦めが勝った。
「えっと。その話、どう進めたんですか?僕の両親に変なことしてませんよね?」
できるなら僕も道楽教官に着いていきたかったが、獣が僕の体の中に居続ける限り危険は付き纏い、獣がどういう反応を示すのか見えてくるまで両親はもちろん身内に会うのは控えた方が良いとやんわり断られたのは記憶に新しいし、僕としても身内に危険が行くような選択はなるだけ切り捨てたかったので医務室に閉じ込められるのを甘受した。
とはいえ。自分の親なので、あの人たちが物事を簡単に信じるタイプではないというのはわかりきっている。疑い深さじゃ右に出る者はいないと思うくらいに揃いも揃ってふたりは慎重派だ。僕がいない場でどう僕の話を進めることができたのか、少しも想像はできないが楽ではなかったことばかりは確かだろう。
変なこと、していないといいんだけど。怪訝に道楽教官を見つめると彼女は焦ったように「イヤイヤ……」と軽く手を振った。
「変なコトなんて一切合切してないしてない。もちろん会話でオッケーを貰ったんだよ?ボクが、〝息子さんの面倒を見るのでどうか転校させてやってくだサ~イ〟ってお願いしたのさ!フツーにね!そしたら二人揃って〝ええ喜んで!〟って――」
「何かしましたね。」
「ちょっくら催眠術サ!」
「なにやってんですかアンタ!人の親に!」
医学雑誌を放り投げて立ち上がった僕より背の高い道楽教官はきゅっと身を縮こまらせながら両手をぱん!と合わせた。ずっと悠々としていた道楽教官らしくはなくて、思わず呆気に取られる。
「ほんっとゴメン!いやもう少し楽に進むかと思ってたんだけど思った百倍くらい厳しくて!これしか方法がなかったんだよ!」
「あー……まあ。でしょうね。」
人道的とは言えないけど今回ばかりは目を瞑るしかない。子供じゃないし、彼女の言い分くらい分かる。分からないとだめだ。慎重派ふたりを目前にした道楽教官の気持ちだって分からない訳じゃなかったし、僕も彼女と同じように催眠術が使えるのなら使わない選択を選ぶなんて到底言えないし……。
「その催眠術って害とかはないんですよね?」
「さすがに!害があるのに使ったらゼノとして失格過ぎるでしょ!本末転倒じゃね?」
「そ、そこの考えはしっかりしてるんですね……でも、ならよかったです。」
害がないのであればそれだけで十分だ。
――その流れで、ふと、ぽっかりとした穴の空いた心と直面したような気になる。〝毎日一緒だった人と離れたら寂しくなる〟なんて当たり前はすっかり頭から抜け落ちていて、離れたって寂しくはならないはずだと高を括ったのは間違いだったかもしれない。
当たり前が当たり前じゃなくなるのは、ふつうに寂しくある。それはいつだって変わらないな。元々結構な親不孝者である自覚はあるし、こんなことになってしまって更に申し訳なさが募ってしまう。
「道楽教官、あの、僕の両親は元気でしたか?」
「?ウン、めちゃ元気だったよ。このボクに突っかかってくるなんてエライ度胸持ちじゃん!」
「突っかかったのか……」
「そりゃあもうモウレツだったサ……」
赤い蛇の目が遠くを見やった。真面目で慎重派の彼らのモウレツさとは、これ如何に。僕の知らない両親の一面を道楽教官は見てきたのだろう。
……なんか、こう、もっと。心温まる話が聞きたいなんて高望みするつもりはない。だけどふつうに、ふつうの話を聞きたくはあった。なんだモウレツって。何があったんだ。悲しくも聞く勇気はなかった。
「ま、何はともあれ、だ。早速今から寮に移転するから――」
「えっ今からですか?はやいな……」
「イマイマ。もうここにいたくないでしょ?」
確かに。ずいぶんと急な話と思ったけど、正直この場所にこれ以上居続けたら頭が爆発しそうだったので今から寮に移転するというのはとても有難いところだ。医学雑誌は正直もうこりごりだ。
「礼司君、これ地図諸々もついてるパンフね。」
「あ、ハイ。」
出たな。前に渡されたASX解説パンフはなかなかに度し難いデザイン性を誇っていたが、今回のはどうだろう。妙にドキドキする。あのダサダサパンフの再来は来るだろうか――?!
ASX地下五階、日本国立神奈川県横浜市、境界防衛教育機関。
通称、境防。
黒の背景に白いゴシック体でそう書かれている、なんだか地味なパンフレットだ。心なしか、ASXのマークであるオリーブの枝を加えた鳩も以前見た時より質素に見える。拍子抜けして、頭を掻いてしまう。
強いて言えば教育機関としてのネーミングセンスと略し方が気になるところだが、前に見たあのダサダサほどの感動はない。
「ずいぶんと地味ですね。」
「そうだよね。ボクもASXパンフくらいオシャレにしなよって言ったんだけど趣旨趣向を変えたがってさぁ」
「へえー」
なんの心境の変化だろう。パンフレットデザイナーと是非とも話してみたいところだ。地味化した淡白なパンフレットへ再度視線を移す。
横浜、かあ。訪れたことがないのでイメージがあまりないのだが、テレビとかで見る限りでは中華が美味しいとか聞く。うん、ほんとうにそれくらいのイメージしかない。こういうとき自分の無知さにはほとほと呆れてしまうというか――。
「地下五階?」
「お、気付いた。」
すっかり見落としていたらしい、その文字に思わず首を傾げる。地下……教育機関が地下に?
「なんですか地下五階って。」
「ASXは必要とする土地が多いし、でもその所在地をパクスに気付かれてはいけないっていう都合があってね、基本的に施設のすべては地下施設で成り立っているんだ。キミがこの病室の窓から見ていた空だって人工のものだよ、風も、太陽も、違和感がないように作られているだけでね。」
「マジ、ですか……」
「マァジ。」
ちっとも気付けなかった。僕が鈍いだけっていうのはあるのかもしれないが、パンドラといい、ASXは人工のものを本物に見せるのが得意なのだろう。盗み見るように窓の向こうの空へ目を向けて、それが如何に人工であるのかと認識しようとしてもやっぱり僕にはそうと認識できなかった。人口のものなのだとしても、僕にとってこの空は空だ。
きっと不便はないし、きっと僕は朝に目を覚ましてこの空を見上げるとき、いつものように澄んだ気持ちになる。単純、なんだろうな。
自分に呆れながらパンフレットを広げると、外観が載せられた境防の地図が説明と共に大きく描かれており、ある一文に僕はたまらず息を呑んだ。
「ゆ、夢の国十個分……!」
「ウン、迷子になったら出られなくなるから気をつけるんだぞ」
……出歩かないようにしたいところだ。
そうは思っても僕が住居として住まざるを得ない場所もまたこの境防なのが、なんだか無情なものだ。それなのに、それを嫌だと思うよりは懐かしく思う気持ちの方がふしぎと強かった。
最近は何もかもがキツめな事態に押し込まれがちでいっそ眩暈がするほどなのに長い間、流されるままに生きてきたせいですっかり忘れていた人生は元々こういったがんじがらめなものだと思い知らされるのは、なぜだか悪い気がしない。疲れはするけど、足掻けないわけじゃないからかな。
――それから。荷造りや必要な物は道楽教官が持ってきてくれて、僕は一週間ぶりに借りていた医務室のパジャマからマトモな服に着替えることができた。そこからは医務室から逃げるように素早くパンドラと医療施設が完備されたビルから出て、そさくさと道楽教官が運転する車へと乗り込んだ。
外は澄んだ空気と穏やかな風に吹かれていて、やっぱり僕には到底これが人工だとは思えなかった。どれもこれもが僕の知る世界そのものだった。疑うわけではないが、それでもこの現実はあまりにもは現実的だった。既に非日常が混ざっているんだとは、少したりとも思えない。
その矛盾が、まるで首を絞めているようで、そこだけは苦く思う。……まあ、今更だけど。この感じに慣れる日が来るとはどうも思えなかった。
僕がこの非日常を非日常と受け入れられるようASX内部の街並みをじっと見つめていると、あっという間に目的地へと着いてしまって、結局夢心地なまま車から降りることとなった。まだ眠っているみたいで、すごく変な感じだ。
「――デ。デカい……ですね。」
「フフフ、どうだい、境防は豪奢だろう?」
「圧巻ですね」
今までも現実身がないと思っていたのに。いざ境防を目の前にするとなおさら、呆気に取られる。上手く言葉を見つけらなかったほどに。
境防は見事に壮観だった。
パンフレットに載せられた写真だけでは伝わらなかった圧ときらめきが、未来的な作りの建物に宿されていた。横端が見えないほどで、正直そこまで大きく作る必要性は感じないが、草木に囲まれた赤色の煉瓦道が続くように僕もあの校舎に向かわなくてはいけないのだ。この、威圧感ときらめきを宿す校舎に。
澄んだ空気と風が運ぶ香りに充てられながらぼんやりと、そう思った。
呆けて境防を見ていると、ふとここを建てるのにいくら使ったんだろうという疑問が湧いてくる。これだけ広ければ光熱費なんかはえぐそうだ。
「ちなみに礼司君、ボクらの境防はアレじゃないよ。」
「え?」
「こっちこっち。」
ちょいちょい、と手招きをされる方向は赤い煉瓦道を外れた森だった。先を行く道楽教官を追いかける。獣道をキャリーケースを持ちながら進むのは些か難航したが、思いのほか目的地は近かったようで道楽教官はすぐに立ち止まった。彼女の隣に立ち、目の前のじつに古びた校舎を見つめる。
「ボクらの境防は素敵だろ〜?」
「はい、趣がありますね」
木製の校舎に蔓延る苔や蔦、棟から棟に続く道が一面硝子であるのを見ると、趣があると言う他ない美しさがあるように思う。先ほど見たえらくでかい境防とはまた違った良さだ。
というか、個人的にはこちらの方が好きだな。純喫茶かチェーン店の喫茶店か、みたいな違いだけど。
「なんていうか、昔に作られた最新施設って感じが好きです。ぎらぎらしてなくて、落ち着いているカンジが。」
「……」
「道楽教官?」
「旧校舎だけども……ボクがここを学舎とした時はね……新しい方だったんだわ……」
ジェネレーションギャップを感じているらしい。木製の校舎が新しかったとは、このヒト一体何歳なんだろう。アダムスルトさんにも思った疑問が違った形で蘇るのと同時に、道楽教官以前の校舎が一体どのようなものなのかも気になり始める。……洞窟とかか?
「校舎も見せられたコトだし!寮に行こっか!」
「あ、はい!」
息を整え、再びキャリーケースに手間取る覚悟を決めると、ふとちょっとした疑問が頭に浮かんできた。気になった以上は知りたくて、先をゆったりとした動きで進む道楽教官について行きながら僕は口を開く。
「そういえば、あのデカい校舎ってなんのためにあるんですか?もし僕たちがここでこう、鍛えるんなら。」
「旧校舎はゼノになる気はないけど知識は覚えたい子とか一度被害に遭って後天的にゼノとして覚醒した子の為の場所であるのに対して、新校舎は被害を受けたコトのないゼノになりたい子たちが入る場所で……あと校舎ってだけじゃなくて、〝ASX日本支部本拠地〟っていう役目も兼ねているからデカいんだよね」
新校舎にASX日本支部本拠地というわりと大きそうな役目を兼ねているあたり、さしずめこの旧校舎は本編に対する番外編ってところだろうか。ちらりと旧校舎へ目を戻す。
――新校舎は被害を受けたことのないゼノになりたい人間が入る場所。明確な区別には、何が理由としてあるのか。知りたいと思った。
「分ける必要はあったんですか?被害者と、そうでない人で……」
「ここって、有り体に言えば支援学校の側面が強いんだ。被害者に対するアフターケアは少数であればあるほどいいし――あっちは思想教育も兼ねていて、途中から来た子にとっては必要ないんだよ」
し、思想教育。なにをやっているのかは想像もできないが、やっぱりここって怪しい組織なんだろうなという確信が持ててきた。異質を記憶できない人々、パクスにとってゼノなしでは生きていけないが、ゼノの実態は完全に白だと言い切れないのかもしれない。そのあり方はどうも一国の政府みたいだった。
怪訝な表情が出てしまっていたのか、道楽教官は慌てて大きく手を振りながら「違う違う!違うよ!?」と大きな声を出した。何が違うんだ。
「し、思想教育って言ったら響きサイアクだけど、ASXの思想ってそんな怖くな――なんだよその顔!」
びしりと指を指される。
「いや、いかにも思想教育する側の意見だなって……」
「違うって!いやしてる側だけども!まず聞いてくれ!ボクらゼノってパクスを守らなきゃいけないっていう考えが強いの、その気があってもなくても!」
「は、はあ。」
ゼノが異質を記憶できるのと同じ要領で、そうあるよう植え付けられたのだろうか。ほとんどの動物の親が子を守る本能を持つように、ゼノに刻まれてるもの。誰かを守りたいと強く願う本能。ゼノがパクスに抱く感情。
……僕の考えていたよりずっと危険と戦いで溢れているからだろうか?ゼノという異質がパクスという普遍を守るのは道理にかなっているように感じる。それとも単に僕もこの業界を理解してきただけかな、道楽教官の言葉はすんなりと頭に入ってきた。
「――でもだからってボクたちの命を無碍にしていいわけじゃない、大勢の為に少数が死んでいいわけじゃない。命は平等に重く、平等に生きている。切り捨てるという選択を安易にやってはいけない……そういうコトの思想をね?刻み付けてやりたいワケですよボクたちは!」
「アツイですね。」
「おお?適当言ってる?」
「ここが寮なんですね。」
「キミ面倒くさくなると無視する癖でもあるの?」
四階建ての大きな寮はどうも旧校舎とは雰囲気が異なっていた。旧校舎が木製であるのに対して寮はしっかりとしたコンクリート製で、とてもふしぎなことに、旧校舎よりは新しいはずがどうもボロく見える。埃だらけの窓なんかは何故か黄ばんですらいる。
「掃除……してます?ここ。」
「外観より大事なのは中身だろ。それにここ、十年くらい前に前の寮が燃えて新しく建てられた寮なんだよ?」
「え!?いやそれにしても最低限の清潔感は必要だと、うっ、蜘蛛の巣!?」
「掃えばよかろー!」
寮の門に住処を構えたらしい蜘蛛の巣を手で軽く掃いながら道楽教官は懐から出した鍵束のうち、最も古風な鍵で門を開けると僕にその鍵束を押し付けてきた。じゃらりと音のするそれを慌てて受け取る。みっつの鍵と、ケースに入れられているIDカード。
「コレ、ここの門と寮自体の鍵、キミの寮室、それからここでの学生証明書やら何やらを兼ねてるID……まあ兼用のカードキーね。失くしたらボクにまで連絡するコト!」
「道楽教官に?でも忙しいんじゃ……」
僕が医務室に軟禁されている際、夕方、面会に来ては時間に追われるような動きをしていたのは記憶に新しい。一度は返り血だらけでやってきたり、捻り出した時間で面会に来てくれていたのは明らかだ。道楽教官は「うーん」と唸ったあと、穏やかな蛇の目で僕を見つめた。
……やっぱり、どうも居心地悪くなるくらいの圧だ。
「でもキミの場合はそれが一番いい。揉め事はない方がいいだろう。」
道楽教官の言う〝僕の場合〟っていうのは、あの獣に関する理由だろう。何であれ問題を避けるためであれば異論はない。けど。なんだろう、引っかかる。
「ASX側から……僕は、やっぱりロクでもない感じに思われてますか?」
「そりゃあ!もうスゴいよ!ヘイトが!」
くっ、やっぱどう考えても理不尽だ!ヘイトが集まるべきなのは妙な勘違いを引き起こした獣の頭であるべきだろう……!
「ほとんどのゼノは異質体がそうであるようにキミが先生だと信じていてね、初代会長である先生がいる以上、ASXを乗っ取って好き勝手するんじゃないかって考えを持ち始めていて、偉い人はみーんなキミヘのヘイトをあつぅ~~く貯めているよ!」
「サイアクだ……」
僕が悪くないことに対して僕へのヘイトが溜まっているとか理不尽もいいところだ。実際は僕に関係のないことだし。ああ、いや。このことへの否定はよくないんだっけ……好きに思うのもできないなんて、表現規制レベル百のディストピア世界みたいでどうしようもないな。ほんとう、何もかもがどうしようもない。
道楽教官は落ち込む僕の肩を無遠慮にドンドンと叩いた。僕は太鼓じゃないんだからやめてほしい。
「まあまあ!命あるだけ!良い!」
「最低限ですよ、それ……」
会話しながら数段の階段を上ってチョコレートの板みたいなドアを開け、寮へと入る。人の気配はまったくと言って良いほどなくて、そのわりには道楽教官の言っていた通り外観ほど汚れてはいなかった。むしろなんで薄汚れている感が出ていたのか不思議でならないほど小綺麗だ。
「ステキだろう?フフフ……昨日掃除の日だったんだよ。」
「ああ、それで……。」
この寮が小綺麗な理由はそれで納得がいった。それと外観の手入れは意地でも行わないらしいということも同時に分かった。
「二階は自習室で、キミの自室は三階の三号室……赤い扉のところね!制服はクローゼットに用意しておいたから明日からはそれを自由に着てくれ。四階は女子生徒専用だから不用意に立ち入らないコト!洗濯機はこの廊下の突き当り右、左は物置部屋。共有ラウンジとかキッチンはすぐそこのドア。自炊はしたコトなくてもここにいる奴らが色々教えてくれたり、ご飯くれたりすると思うから気張らなくてヨシ!バスルームは個別に自室にあるのと……ウン、それくらいかな。聞きたいコトはある?」
キャリーケースから手を離し靴を脱ぎながら道楽教官の言葉に耳を傾けていた僕はこの際、ずっと聞きたかったことを尋ねようと口を開く。
「あの、僕のスマホ持ってますか?」
「あ!いっけね、渡すの忘れてたわ!ごめんごめん、ボクってスマホあんまり使わないから忘れちゃったわ」
……。この時代でスマホを使わずに生きるのはチャレンジングすぎると思うんだ、さすがに。やはり道楽教官は只者ではないのだろう。
「えーと、確かこっちのポッケに……、ないな。こっちかな?あ?……あーと、あった!はいドーゾ!」
「バッグとか持ってた方がいいと思いますよ。」
「クールじゃない、却下!」
バタバタとポケットを叩いたり覗いたりするのはクールに入るのかよ。そう思いはしたが、ちょっと声にはできなかった。
却ってきたスマホの電源を入れようとボタンを押す。反応なし。もう一度押す。されど反応なし。ついに長押しする。ピコンと映された画面には、充電切れのマークがチカチカと表示されていた。
……一週間も充電せずにいたらそりゃ充電切れだよな、うん。
「そんじゃ!ボク明日の朝七時、迎えに来るから今日はゆっくり休むといい。同級生もそのとき紹介すっからね〜」
ブンブンと勢いよく手を振りながら「面白いヤツらだから楽しみにしておいてな!ステイ・チューン!」なんて言い残し、道楽教官はぱっと消えた。文字通り、ぱっと。
彼女がいた証拠とばかりに、道楽教官がいた空間にはきらきらとした金色の塵が舞っている。ドアの小窓から差し込む太陽の光に当てられ一層と輝く様は幻想的で、僕は塵が完全に消えるまでその様子を見つめていた。
――魔法だ、と思った。
同時に、耳が痛いくらいの沈黙だとも。
「……静かだな。」
騒がしいのが急にいなくなると普段なら気にも止めない静けさが気になって、どうにも慣れない――だが、立ち止まっていても仕方ない。魔法の塵は消えたし、沈黙は耳が痛いし。はやいとこスマホを充電して、両親の状態やら日課であったニュースを確認したい。
ええっと、僕の部屋ってどこだったか。考えながらとりあえず古びた様子の階段をキャリーケースと共に駆け上がっていく。ちょくちょく衣服が脱ぎ捨てられていたり、中途半端に残されたペットボトルが段の端っこに置かれていたりして、なんだかこの寮に規律がないとそんな予感がした。うん、あまり良い予感ではない、かな。
不安に思いながらも道楽教官に言われた通りの三階まで上がりきる。なんの変哲もないシンプルな白いタイル張りの廊下にそれぞれが異なる色のドアが幾つも並んでいる。僕の部屋は、確か、赤い扉をしている三号室だったっけ。
鍵を開けて、これからしばらくお世話になる部屋へと入る。部屋を入ってすぐ右にバスルームへと繋がるドアがあり、入ってまっすぐにシンプルなベッドと机が置かれていて、部屋の片隅にはクローゼットと『日用品』と大きく書かれた段ボールが置かれていた。
キャリーケースは適当に放って、とりあえずはじめに電気ソケットを探す。やっぱりまずはスマホの充電である。
こういうときが一番現代人だって感じるな……。
――僕のいない一週間に、世界が180度くらい変わるようなことが放送されているかもしれないと考えていたが、しかしながら世界は変わらなかったし、テキストで話して見た限り両親は元気そうだった。
それなら良いんだと思いながらベッドの上に寝転がれば、その気が無くとも瞼は閉じられていって、僕は気付けば夢の中にいた。
夢は暗がりの世界で、唯一照らされている足元は、赤く、濡れていて。それがまるで血の海のようだと思い気分が悪くなるのと同時に、僕はこれを夢だと認識した。だって血の海なんて実在しないし、世界は暗がりで埋め尽くされてはない。照らされる唯一が足元だけなんて、あり得ない。
ありえないんだ。
血の海が揺れ、目の前に意識が向く。
ありえない。
「せんせい、わたしの、せんせい……」
獣が、僕を見ている。獣の声が、聞こえる。
ありえない。あり得てほしくはない。そんな渇望だけで、僕はこれを夢だと認識する。
紫色の目。赤い瞳孔。まろやかな、色付いた頬。血でベトベトに濡れた口元。美しくもこの世の何より不気味であった少女は僕を見ている。
肉食動物みたいだった。獲物へと飛び掛かる寸前の化け物だ。きっとその気になれば僕なんてすぐさま殺せてしまえる。それは、ありえてしまう。その事実だけで息が荒れる。脈動だけが鼓膜を揺らす。死にたくない。ありえてしまう未来、それがいやだった。それが死ぬほど怖かった。
獣の口が開く。犬歯が覗く。
「せんせい」
――ふと。
隣接する窓から差し込む光で目が覚めた。重たい微睡みなんかはなくて、ただぐっしょりとした汗で気持ちが悪かった。例えて言うのなら、生ごみになったみたいな気分だ。汚くて、びちょびちょで、くさくて。
シャワーを浴びたい。吐き気を催すほどに強く感じた。
えらく気色の悪い夢を見た気持ちを早く塗り替えたくて、手短にスマホで時間を確認する。
「いっ、一日中!?あれから一日中寝てた!?嘘だろ、」
あと十分ちょっとで道楽教官がやって来る時間だ。だというのに荷造りは無論、気持ちの整理すらできなかった。用意無しで物事に飛び込んで掛かるのは僕が最も苦手とすることで、こうなったときは経験上うまくいった試しがまずない――僕には覚悟を決めるための時間が必要なのだ。意味のわからないことと向き合わなくちゃいけないときは、とくに。
だが、今なにより必要なのは覚悟ではなく清潔なシャツと体だ。ベッドから飛び起きてクローゼットから道楽教官の言っていた制服を取り出し、シャワーと清潔な体を求めてバスルームへと駆け込んでいく。
それからしばらくして、部屋にノックの音が響いたのと、僕がバスルームから出たのはまったく同じタイミングだった。腕時計を見ると七時五分前だ。道楽教官は五分前行動するタイプには見えなかったけど、時間には几帳面らしい。
僕はスマホをズボンのポケットに押し込みながら赤色の丸っこいドアを開けた。
「ハァイ、ボーイ。」
明らかな外国人がそこにいた。もちろん身に覚えはない人だ。鼠色の長い髪をみつあみにした学生帽を被ったその人に尻込みしながら、何かを言わなくちゃ、という考えに背中を押されて口を開く。
「あ――あいむふぁいん、さんきゅー。」
「貴様マジか」
「りありー。」
「いやいい!止せ!儂が悪かった。貴様のソレはめちゃくちゃだ、二度と使うんじゃない。」
むっとする。確かに僕の英語は多少下手なのかもしれないが、なにもそこまで言われる筋合いはない。少なくとも僕は非ネイティブでありながらも英語を使ってのコミュニケーションを諦めずに図ろうとしている。全世界の非英語ネイティブの為にも、黙るわけにはいかなかった。黒いアイラインに囲まれた黄色い目を見つめ返す。
「当たり、強くないですか?僕まだ勉強中の身ですよ。」
「うまくなるとでも?」
「可能性だけなら無限大でしょ」
「良いことを言う。気に入ったぞ、器!儂の名前を教えてやろう。」
あ。この人苦手かもしれない。たぶんあらゆる世界線で僕はこの人を苦手としている。そんな気がする。
「儂はマジモト・ウラキ。特待生教官、そして試験官である!」
※
困った。とても、すごく。
聞いてないぞ道楽!と叫びたい。というかちょっとは叫んだくらいだ。マジモトに連れ出されて試験だ!なんて言われて鍵を渡され、真っ暗な病院に閉じ込められた。
これ以上最悪なことは起こり得ない。断言できる。……いやまあ、最近はそんなことの連続なわけだけども。
病院に閉じ込められる直前マジモトに鍵と共に少しデカめのナイフを渡されたが、獣に突き刺したのはいいものの手を離してしまって大惨事となったあの時を思い出すと、僕が悪いとわかっているにしてもナイフへの信頼は薄くなる。
第一、シンに対する戦い方なんて僕は知らない。シミュレーターでの戦いと、実践は大きく異なることくらい目に見えている。
そういう、ふつうに過ごせば手に入らない戦う力が欲しくてゼノの学校に入るんだろ、何でその前にシンをぶっ倒せとか言われるんだ。理不尽すぎる。これはグーグル・マップレビューで星1の評価をつけてコメントを書かないといけないレベルだ。〝この学校に入学しようとすると病院に閉じ込められて戦えとか言われます、オススメしません〟とか書いてやる必要がある。役に立ちましたって言われるに違いないぞ。
「……進むしかないよな、コレ」
開けろと言って叩きまくった病院の扉は依然として閉じられたままで、進むしか話が進まなさそうな見た目をしていた。絶望しかない。だが、ヘコんでいても仕方ない。時間は進むし、お腹は減るし、いつかは動かなくちゃいけなくなる。僕は腹じゃなくて首を括る勢いでここにいるんだという覚悟、見せてやる。
よし。そうと決まれば生き残って、帰って、ぶん殴る!
幸い分かりやすく鍵には三階とかかれているので、三階を回っていけば目的の部屋を見付けられるはずだ。あまり時間はかからないとも思う。大丈夫、いけるいける。
「ただ、問題は……」
めちゃくちゃ怖いことってところだ。辺りは物凄く暗い。いや幾つかの電気は機能していてポツポツと蛍光灯がついているのだが、それが嫌な雰囲気をとても深めていた。先すらよく見えないのに廃れていることだけはしっかり分かる。気分はホラーゲームだ。使い方すら知らないナイフ片手に持つ自分がアホに見えてくる。これでどうしろと。すぐ死ぬタイプのキャラじゃないか。
「案内板見つけて、階段見つける!」
恐怖心を無視するように小さく叫びながら歩く。足が震えていたが、それに意識を向けたらどうも負けな気がして、見て見ぬふりを突き通して辺りを見渡す。暗闇で先の見えない病院内というものは、見渡すほど肝が冷えていくような景色だった。正直見たことを軽く後悔するくらいには夢に現れそうなおぞましさがあって、こんなところを進まなくちゃいけない状況がたまらなく憎たらしかった。目当ての案内板はどこにも見当たらないし。
「案内板ないとかどうなってるんだよ……いやコレは食い殺されて死ぬタイプなキャラの台詞だな。いけない、落ち着け、落ち着け……」
しかし、そもそも僕は主人公っていうタイプではない。どうやっても序盤ですぐ死ぬモブタイプだ、その自覚があった。〝禁煙〟を達成するという考えももはや虚しいほどに遠く感じる。ここから生きて出られるかどうかすら分からないんじゃ、〝禁煙〟なんて夢のまた夢。明日いきなりぽっくりと死んだとしても文句は言わないが、あのグロテスクレベル100の殺され方でもう一度殺されるのだけは絶対にいやだ。
……負ける訳にはいかない。落ち込むわけにもいかない。焦るのも、ここで突っ立って考えてばかりいるのも、駄目だ。案内板がないのなら、歩き回って階段を見つければいい。周囲の光景はやたらに怖いが目的のシンを倒せばここから出られる。立ち止まっていることのほうがずっと怖いし、嫌な風景とずっといることにもなる。
嫌な雰囲気のこの場所からいち早くでも抜け出そうと大股で歩く。ここは違う、ここも違う。こっちでもない。暗い!何も見えない。ポケットからスマホを出してフラッシュライトをオンにする。
すると一気にホラーゲーム感が増したし、だというのに暗闇の先に階段はなかった。
うわ、サイアク……二重の意味で。
「あ……!」
いや。ある。あった。暗闇の奥の奥に階段を見つけて、僕は走って向かい、三階まで一気に階段を駆け上がった。あとはこの鍵がどこに使えるかを見つければいいだけだ。風向きが良くなってきているんじゃないだろうか、と半ば無理矢理ながら楽観的に考えようと努力するが、うん、フツーにちょっと無理矢理がすぎるかな。
階段を駆け上がって三階に着くと瓦礫だらけで進めない道が多く、ほとんど一本道を進んでいるかのようだった。導かれている、だなんて不吉なまでの自身の考えに思わず足が竦んだ。立ち止まって一度呼吸を整える。
――いや、マジで頼むよ、僕の脳みそ。こんなときにそんな不気味なことを考えないでくれ。阿弥陀三。アーメン。ああ、神様。なんだっていいが少なくとも守ってください。
ため息ひとつを溢して、再び歩き出す。視界にうつるドアは半壊しているか鍵がかけられていないかのどちらかで、マジモトに与えられた鍵を試す機会さえないまま進んでいく。道なりに暗がりの院内を進むと鍵付きのドアに突き当たった。他にいける道もなければ他のドアもないし、と諦めて鍵を差し込んで、それから手が止まる。
この先にシンがいる。
その事実は僕を凍りつけさせた。僕は戦い方を知らない。獣以外のシンというものが何なのかも未だによく分かっていない。鍵を開けて、その後はどうする?戦う?どうやって?どうやって戦って、どうやって勝って、どうやってここから出るんだ?分からない。僕にある経験なんて、獣に食い散らかされたことくらいだ。
マジモトに渡されたナイフを見つめる。片手に収まる刃。シンを傷付ける為の道具。僕がここから出る為の唯一の鍵。
「いま苦しんで死ぬのと、ここから出られずに死ぬこと。どっちも変わらないよね、これ。」
アハハ、と乾いた笑いが漏れる。結局のところ、結論としてはそうなるのだ。マジモトと結託していると考えると、道楽教官からの助けは来ないだろう。すると僕が動いても動かなくても、どちらにしろ僕は死ぬ羽目になる。いつかどこかで獣に食い殺されるか、シンに殺されるか、飢え死ぬか。くそ、どうせ死ぬなら今いきなりぽっくりと死ねたら楽なのに。楽だからってそれが最善だっていうわけでも僕の願いだっていうわけでもないが、今ばかりは少しそう思わざるを得なかった。
鍵を握る手を捻る。たったそれだけの動きで、ドアはいとも容易く開かれた。スマホをポケットにしまう。ドアを開けて踏み込むことへの躊躇いはもうなかった。
――飛び散った幾つもの血、血、血。
ゾッとするほどこの場所は血で汚れていた。暗闇であれば気付くこともなかったのだろう、この場所は蛍光灯がついていて、嫌になるほどそこら中に染み付いた血を照らしている。自然とナイフを握り直す手に汗が滲む。
……、どういう風にナイフを使うのが正解なんだろう。野菜や肉を切るように傷付ける?それとも、こう、獣にやったように突き刺す感じかな。突き刺す、うん、前にもやったしイメージできる。
とすっ、と、音が聞こえた。とすっ、とすっ。音は何度も繰り返す。シンがいまこの場所にいるのだ、とすぐにわかった。その事実に息が止まりそうになる。
繰り返すその音は鳴るたびに間隔を無くしていった。暗闇の向こうから、それが姿を表す。
「……!」
それは、ひどく骨張ったヒトのように見える、不気味そのものだった。あるべき場所に鼻はおろか口すらもない。体中にあるおびただしい量の目だけが、ぎょろぎょろと動いてそれが確かな生命と意思を持っていると認識させた。胸部から腹部にかけて見える縦線がク、と開く。それの開いた腹から覗く鋭い歯に目眩がして体が震えた。きーんと耳鳴りがする。生物の本能的な恐怖。
食われる。食われてしまう。あの日みたいに。あの日、獣に、食われたみたいに。
「ミタ」
化け物の声が響く。合唱のように幾つもの声が重なる歪な音。グジュグジュと肉の音を立ててそれが形を変えていく。鋭く、喰らうモノとして。
「ミタ、ミタミタミタミタミタミタ見た」
――あ
あか、あかい。あつい。いたい。
※
――共鳴する。あか。あつい。ねつ。
「せんせい。センセイ、先生。わたしの先生。だいじょうぶだよ、ぜったいぜったい守ってあげるから、もう泣かないで」
共鳴する。獣の声を歯切りにして体中へと疾走るその痛みに似た熱が、僕を塗り替えていく。体中が可笑しくなったみたいに全ての歯車が拗れていく。意識が混濁する。己の体を貫く目前の化け物なんて存在すらしていないようにただ、ただおかしくなる、イビツになる。塗り替えられる、赤に。熱に。罰に。お前に。獣に。