・3-ザ・モス
The Moth
その繭から飛び立つ翅を、君は何と呼ぶだろう。
――――終わらぬ夜の話。
なんだって構わなかった。自分の命が生き続けられている限りは。だって死んだらそこでおしまいだ。生きていれば生きている限り幾らでもこの命が望むままに試みられる。でも、死んでしまえば。そこで終わる。それがひどく、まだ、こわくて。
だからこの命をたったひとりへ捧げることは、何よりもその恐怖を宥めた。
※
「胸糞悪ィッ!」
気持ちのまま、その気持ちを少しでも浄化したくて近くにあった来客用の椅子を蹴り飛ばす。部屋をめちゃくちゃにしたくてどうしようもない。飛んだ椅子が部屋の小物をなぎ倒していく音が脳をかき乱したくなるほど煩わしいのに胸がすく。何もかもに苛立って仕方なかった。
手違いと幾つかの問題に何度か困りはしたものの、件のアーティファクト・コレクターが所持していた清浄の首輪は手に入れた。元来の目的は達成したし、帰宅時に首輪を押し付けた相手たるキラが影崕さんへアーティファクトを渡しに行っているはずだ。何ひとつ問題はない。
――そのはずなのに。
この胸に巣食った憎しみ。あのクズに負わされた傷だなんて感じもできないほどの苛立ち。それは終わりが見えないほどに、本部へ帰宅した今になっても続いている。
あの声。あの言葉。あの無機質さ。その全てが許せなかった。拷問でもしてから殺すか?溺死させてみるか。それとも槍で突き刺す?剣で真っ二つにしてやるか。それか、ギロチンでも用意する。或いは焼死。または窒息。鮮血を出させてやるんだ。臓物を抉り出してしまいたい。まずは指、その次に舌からかな。きっとそうして自分の赤い血を見て絶望するのだ。絶望させてみたい。あの舐めきった無機質さを吹き飛ばせるなら何だってしてあげたい。心からそう思う。
ああ!殺してやりたい。そうしてやるのがきっと一番だ。世界にとっても、あのクズにとってもだ。
爪を噛む。ぎちぎちと音がモニターだらけの薄暗い部屋に響く。憎い。憎いよクズ。シグマ。あんな命を許してたまるか。許せない。
――穏やかだと。思った。その意味を知るまでは確かに心からそう感じたのだ。アレは無転百術者で、強く、謙虚で誠実だった。ここに呼んで、近くに置いておきたいと思わされた。ああ、なんて愚かだったんだ。アレの言葉の意味も考えずに、ただ近くにいたら楽だろうなんて、吐き気がするほど愚かだった。アレは空虚で、生の意味すら無意味になるようなクズだった。それでも、何より腹立たしいのはアレが――。
「ッああ、クソ、むかつく!」
棚をひっ倒す。棚に入れていた書類がばさばさと音を立てて床に散らばる。散らばったうちの一枚の書類に、この問題を引き起こした件の壺の情報を纏めていた紙が見えた。全てを有するだなんて絶対碌でもない実態がある、と簡潔に纏めた、ほとんど白紙の紙。
全有壺。
その噂自体は聞いていたが、アーティファクトは万能ではない。全てを有する際に起こる代償を考えれば絶対に碌でもない代物だと噂を無視していたのだ。ASXがあれを狙っていると知ったときはなんて意味のないことを、と呆れた。
――だがASXはきっと壺の実態を知っていて欲しがっていたに違いない。相手の全ての情報を手に入れられるアーティファクトなんて、あまりにもあくどすぎる。俺だって欲しい能力を壺は持っていた。
シグマが壺の実態を知らされていなかったのは、アイツみたいな中立の立場を好む反抗的な人間が、壺の実態を知っていれば盗みになんて行かないと上の人間は知っていたからだ。あくどい。人の善良性を理解して悪事を行わせるなんてあまりにもあくどすぎる。
しかしながらASXにとっては予期せぬイレギュラーが起きた。
俺と言う存在と、アレが度を超えるふざけた人間だということの相乗効果による結果。アレは壺の実態を身をもって知ることとなり、お見事と言わざるを得ないほどの速さで壺を破壊するという即決をした。
俺がまだアレの記憶と思考に脳を焼かれて苛まれているのに、アレだって俺の二十年分の記憶に脳を焼かれているというのに。アレは俺の腕から壺を奪い取り地面へ叩き付けた。壺は二度とあの効力を発揮できないよう、破片となり飛び散って消えていった。
『芒本志熊は目的の為ならどれだけ辛くても、死にかけでも突き進む人間だ。』
繰り返す言葉が今でも脳に響く。気色悪いことこの上ないが、同時にクソ有能だと評価せざる得ない。少し良い意味でも、クソ悪い意味でも。
部屋のゲーミングチェアに腰を下ろす。アレに何もかもを知られた以上、この場所とももう離れなければならないことを、恩師たる影崕さんに報告する気が、重い。
PCを起動して報告書を作成していく。
一種の認知障害の結界と共に人避けの結界を張ってある影崕派本部は都内高層ビル群の一角にあり、俺のような人嫌いが都内で生活するのには些か辛いものだが、見兼ねた影崕さんは俺がこのフロアから出なくても住めるように様々な気を遣ってくれている。影崕さんへ報告をしなければならないときのみ、このフロアを出て最上階へと向かう。
今の排他的な生活は人嫌いな俺にはうってつけで、まさに夢の生活そのものだった。これらの全てが影崕さんのおかげ。あのひとには本当に頭が上がらない。何をしたって感謝しなくてはいけないほどに、感謝し足りない。
それなのにあの壺と俺がシグマを殺し損ねたことは、間違いなく影崕さんの気遣いを無駄にした。シグマは既に影崕派本部がどこに位置し、どうして発見されないのかも知っている。控えめに言ってクソだ。
クソクソクソ。あーもう全部クソ。
纏めた報告書をプリントアウトする。印刷された紙がぐーぐーと音を立てて出てくる。
ゲーミングチェアをぐるぐると回転させる。いつか子供の頃に乗ったメリーゴーランドを思い浮かべようとして、もう思い出せそうにないことに気付いて嘲笑う。本当に可笑しかった。偽物の家族。偽物の記憶。偽物の愛。この世に存在するもの全てが偽物だったあの頃。今でも己を憎しみへと焚き付ける記憶。
俺ですら消えかけであると認識している記憶の全てを、シグマは観るだけじゃなく、俺が想った気持ちまでも知った。それはなんて気持ちの悪いことか。言葉にならないほどだ。マシなのは、アレが俺に少しの同情もしないであろうということだろう。
部屋に訪れたノックの音にゲーミングチェアの回転を止めて、顔を上げる。
「誰だ」
尋ねるとドアが少し開く。拳ひとつほどの隙間から忌々しいくらい燃えるような赤髪が覗いた。腹立たしさを堪え視線を赤髪から下げるとオレンジ色のサングラスが目に入って、少し冷静さを取り戻す。何が起きたのか理解しているくせに平然としているのが苛立つのには変わらないが、それでもワンビットくらいの苛立ちはマシになったと思えた。
清浄の首輪を影崕さんに渡すよう押し付けたキラと仲のいい彼女がここに来るのは予想通りだ。ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で少女が囁く。
「お姉ちゃんですよー」
……。いや、待て。いけない。駄目だ。冷静さを取り戻した、そのはずだろう。例え取り戻した冷静さがワンビットレベルでも。このチビがどれだけムカついても殺すのはいけない。まだ落ちるわけにはいかない。自分と彼女が腐れ縁だからという理由だけでなく、彼女は紛れもなく有能だし、何より影崕さんに気に入られている。最後一個の理由が完全な防壁だった。影崕さんに恩を仇で返すような真似はできない。
様々な理由に託けることで自分を抑えた。命拾いしたな、このチビ。まあ、それはいつものことではあるが。
「……トナリ。」
「こら。お姉ちゃんをそんな怖い目で見ちゃいけません」
「いつから俺に家族が?いや、いない、いらない。影崕さんへの報告には今から向かう。」
トナリに苛立ちながら、ゲーミングチェアから立ち上がる。自分に苛立っているのか、彼女に苛立っているのか分からなくなっていた。そろそろ本気で落ち着かないといけない。こんな様では木偶坊な星狂いの千鶴にでさえ馬鹿にされそうだ。
――トナリは、俺を理解できない。俺が持つ憎しみはおろか怒りも、苦しみだって彼女には一生理解できない。同じ苦しみを知っているというのに、まるで平穏な幸せの中で育った普通の人間のようにトナリは俺を理解できない。どれだけ苛立っているのか、何故苛立っているのか。
それは悲しいことじゃない。同じ経験をしてまったく異なる感想が出るのはよくあることだ。例えば映画や小説などの娯楽作品、例えば見るも美しい絵画や価値のない落書き。何にだって異なる感想は出る。もどかしさに歯痒い思いはすれど、相手を受け入れて、流す。
それは相手がトナリだからだ。通常ならば殴り倒して常識と言うモノを頭にぶち込んでやるところだ。
彼女とは、人生を変える経験を共に過ごした。踏み躙られた三つ葉は四つ葉になるか、歪に形を変えるかだ。トナリは四つ葉になった。俺は彼女とは違った。俺はそれを理解している、トナリはしていない。それだけのことだ。
用意した今回の件に関する報告書を手に持って部屋から出る。トナリが着いてきていることに気付いて、うんざりしながら振り返る。彼女はスンとした表情で俺を見た。
「トナリも一緒に行くから。」
「一人でいい。」
家族面をするトナリにはほとほと嫌気が差す。同じ苦しみを知っているくせに。俺が家族というものを心から嫌悪をしていると知っているくせに。彼女は家族というものに未だ希望を持っている。呑気なものだ、苦悩と憎しみの種にしかならない家族というものを欲しがるだなんて俺には到底理解できない。理解する気もない。他にやることがあるだろう。家族という、暇な奴が持つ物になんか興味わくわけない。
「ううん、今日は絶対二人で行きます。トナリだってこの件についてちゃんと聞きたいんだ、わかる?イオタが影崕さんへ渡すものをキラに渡すとか、いつもだったらありえなさすぎてちょっとコワイくらいだし。」
「あ、そ。」
「反応薄いぞ~!」
一々馬鹿みたいに騒いでろって言うのかよ。言うんだろうな。どうなるのか目に見えている。聞くまでもない。いまいちその良さが俺には分からないが、本当に呆れるほどくだらないものを好むのはトナリの癖だ。家族もその内のひとつだと言えよう。
ビルの長い廊下をトナリと二人で歩く。
今回の件は実に心苦しく、到底認められるものではなかった。あのひとが許しをくれたとしても、自分を許せないくらいに。こんな酷い失敗は初めてだ。目的は達成したというのに、本部の移転を強制させられるなんて。クソ、シグマめ。ただで殺してはやるものか。今の俺と同じくらい惨めな思いをさせてやる。
「なんにしても、イオタは悪くないよ。落ち込んでるみたいだから言わせてもらうけど。」
トナリの言葉に同情を感じて徐に足が止まる。
こいつ。そんなことを言うために来たのか。暇だって言うにしても、もっと他にやることがあるだろう。気色の悪い同情をぶつけられる身にもなってほしい。
今回の目的が達成されたとはいえ、あのときシグマを殺せなかったという失敗は失敗だ。負けは負け。しくじったとしか言いようがない。そのことに対する落ち度は全て俺にあり、悪くない悪いの話ではない。何にせよ、俺はこの件についての責任を取らなくてはいけないのだ。至極単純な話だ。
溜め息をついて、振り返る。
「そんなこと、俺が聞きたいと本気で思っているわけ?何も知らない君から聞きたい言葉がそれだって、本気で思ってんの?」
「知らない。今のはお姉ちゃんが言いたかったから言っただけです」
澄ました表情を変えずにトナリは当然とばかりにそう言った。これが他の人間であれば躊躇いもなく罵詈雑言を浴びせているところだが、彼女はトナリだ。俺の隣にいた見知らぬ子供。悲しいほどクソくだらないこの世の中で珍しく心から許せる君。俺の唯一の友人。
廊下を歩いているうちに俺は心の平穏をある程度取り戻していて、極めて冷静に彼女と向き合う。
「お前じゃなかったら今のは殺してたよ」
「トナリがイオタに殺される?ナイナイ、トナリの方が強いからお姉ちゃんなんだぞ。」
俺に家族はいないし家族が必要なければ欲しくもないが、トナリの方が強いっていうのは事実だ、認め難いだけで御託なんかじゃない。トナリは俺より強い。
というか、影崕派においての彼女は影崕さんの次に強いと表現したって過言にすらならない。その代わりオツムの方は弱いが、真正面から戦って勝てるビジョンはまず浮かばない。真正面でなければある程度は思い浮かべられるが、この状況での場合ではまず殺せそうにはない。
影崕さんへの報告へ向かう歩みを再開させる。
「だから影崕さんが何かイオタに言ったらトナリが守ってあげるからな!」
「それが目的なら着いてくるな。」
影崕さんからの言葉を遮るつもりなら俺はトナリが相手でも迎え撃つ。分かってるだろうになんでそんな事を一々言うんだ。そんなことをされて喜ぶような奴に見えるのなら、悲しいよ俺は。かといって、トナリ相手に徹底的な印象操作なんてする気にはならない。したところで馬鹿みたいに笑われるのがオチになりそうだし。
廊下の十字路をまっすぐと進もうとして、足が止まった。ぐっと沈む足元にどれだけ力を入れても文字通り進めない。トナリめ、何がしたいんだ。おい!と声をかける。
「イオタ、エレベーターはこっちだぞ」
「はあ?」
十字路の左の方を指差すトナリに思わず俺は顔を顰めた。そりゃあエレベーターはそっちだろうね。今回かなり酷い失敗をした俺でも、毎日欠かさずビル全体の様子をモニター越しに見ているのだからこのフロアに限らず全フロアの間取りくらい把握している。
監視と管理、視察、及び戦闘における前衛等。俺の与えられたその役目を理解してもなお、俺がフロアの間取りすらも分かっていない奴に見えるのならトナリの目は節穴扱いしても問題なさそうだ。それとも脳内がお花畑なのか?……まあ、どちらも大差ないか。
「エレベーターなんか乗ったら誰かと鉢合わせるかもしれないだろ。階段を使うんだよ、階段。」
「だあっ、色々と面倒くさいぞ、イオタ!黙ってトナリについて来い。」
ぐっと足が地面から離れる。ありとあらゆる内臓まで浮かぶような浮遊感に奥歯を噛み締め、固唾を呑む。主導権ならぬ重力権をトナリに握られてしまえば、もう潔く従うしかない。無論、全力で足掻けばこの無重力にも対抗できるだろうが、その場合このビルが数分も持たずに半壊することが目に見えている。トナリの重力権を無効化するために掛ける労力を考えるとどうも全てが割りに合わない。それに今の俺にそんな馬鹿をする気力はない。その資格もない。
故に黙って――いや、黙るわけにはいかない。こんなところを他のやつに見られたらなんて言われるか。冗談じゃないぞ、とトナリを睨む。
「分かったから降ろせ。人権侵害反対。俺にだって自由意志くらい許されると思うんだけど。」
「お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞けますかイオタくん?」
「……」
クソ。こいつ、いつからこんな性格悪くなったんだよ。昔はもっと可愛げがあったのに。ニマニマ笑いやがって。舌打ちを堪える。
苛立たしさに何もかもを殴り飛ばしたら少しは気が晴れるだろうか。等と下らないことを考えているあたり、俺も相当疲れが溜まっていたらしい。元々寝付けは最悪だし起きていた方がずっと気は休まるのだが、体ばかりはそうもいかないのだろう。この件が大方済んだらベッドで横になって休もう。前にちゃんとベッドで寝たのはいつくらいだったか。記憶がすっかり頭から抜け落ちるほど前のことだ、と脳が疑問に対する答えを出す。
十分に睡眠していないことを加味しても加味しなくとも、こんなことに一々労力をかけるなんて馬鹿馬鹿しい。ただ深々と呆れてしまって、俺はニコッと笑ってみせた。決してトナリが家族だと認める訳では無いが律儀に足掻くのも面倒だ。俺にそんな義理はない。
「ああ!言うことくらい幾らでも聞くさ。聞くとも。だから離せ。」
「……ツマンナイ。ちぇっ」
軽い舌打ちと共に重力が戻ってきて、俺は空中から落とされて着地する。何がツマンナイだよ、俺の身にもなれ。トナリと張り合わずにいる方がうざ絡みされなくなることを再確認しつつ、苛立ちを隠して素直にトナリの望み通りエレベーターへと向かう。
無論、トナリの言葉に従うと承諾したとはいえ何でもかんでも肯定する気はない。俺は頭を縦に振り続ける赤べこではないのだ(いつだって正しい影崕さんの為なら定かではないが。)、苛立ちの限度が来たら首を横に振るより以前に手が出てしまう可能性は大だと言える。こと今は身体的な限界も見えてきているわけで、己の暴力性を完全に自制できるかイマイチ自信がない。
自制できないという未熟さを苦々しく思うが、それでも今はそういった良くないところを剥き出しにしてしまいそうだと薄ら理解していた。そしてこういう時の薄ら理解ほどあてになるものはないことも俺は知っていた。
「トナリ。」
エレベーターのボタンを押すトナリに声をかける。彼女は赤い髪を揺らして振り返った。オレンジ色のレンズが照明に照らされて光る。俺は彼女の青色の目を冷たく見つめた。この気持ちが嘘偽りないと伝えるために。
「今日はあまり調子乗るな。たぶん、自制できない。本気で殺したくなったら困る」
トナリは唯一の友人だ。傷付けたいわけじゃない。殺したいわけでもない。だけど今はそんな心に従えられるほど余裕があるわけでもない。自分のことだからどうなるのか簡単に予想がつく。ぷちっときたら後先考えずにどんな手段を使ってもぐさっと刺したくなる。俺の改善するべき呆れるほど未熟な癖だ。トナリはタフだし俺相手で死にはしないだろうが、俺の至らぬ自制力のせいで面倒事が起きるのは絶対に御免だ。移転するからってビル半壊なんて後始末が大変だろうし――それに、影崕さんの邪魔になるようなことをするなんて死んでもお断りだ。
トナリは俺の意図を正しく理解してくれたようで、軽く頷いた。
「ふうん、いいぞ。トナリの聞き分けがいいとこ見せてやる」
「頼んだよ。」
エレベーターが到着する。そこに誰もいないことを心から強く願ったが、どうやら俺のこの日の運勢は地べたを這うものだったらしく開かれたドアの先には先着者がいた。瘡蓋色の髪をした巨漢の先着者は俺とトナリを目視すると冷たい目をそのままに会釈する。
星狂いか。
「トナリ、イオタ。」
星狂いの声を無視して血で汚れているエレベーターに乗り込む。
「千鶴、そいつ何だ?」
トナリが星狂いに問いかける。よくもまあそんなどうでもいいことを聞けるものだ。何も喋らずに黙っているのが一番だが、世間話にしてももっとマシな話題があるんじゃないか。影崕さんがいるフロアのボタンを押そうとして、既に押されていることに気付く。千鶴も影崕さんに報告したいことがあるのだろう。
千鶴は血だらけの手に持っていた血だらけの男の首根っこを悠然と持ち上げた。男は虫の息だった。彼が何をやったのか興味すら湧かないが、比較的温厚的な千鶴を怒らせるなんて相当馬鹿なことをやったに違いない。千鶴に殴られたのだろう男の顔は変形しており痣だらけで、個人の判別は難しかったが俺はある程度の見当が付いていた。
手加減というものをまるで知らない星狂いの千鶴なんかに殴られて息しているあたり一気に答えの数は絞られるし、千鶴が一発殴った相手を殺さないでいること自体がまずとても珍しい。絞られる答えなんて、ひとつだ。
「部下だろ。」
言えば、トナリは露骨に嫌そうな顔をしたが、俺の予想通りだったらしく、千鶴は堅実に頷いた。
「ああ。目障りなことをしてたから灸を据えてやった。」
「どうするつもりなんだ、そいつ」
そう尋ねながらトナリは男から垂れた血を踏まぬように壁に凭れかかった。
「影崕さんに話を通して処遇を伺い次第、家に送る。」
冷たく言う千鶴は己の部下たる男に何の感情も持ち合わせていないようだった。それに合わせて俺へと向けられるトナリの視線は、男の詳しい処遇が俺の手に委ねられたと踏んだからだろう。
事実、影崕さんが気にしない隊員の処遇は殆ど俺の管轄として扱われる。医者を手配するのか、或いは影崕派として〝処理〟するのか。
尤も、影崕さんに指示されない限り、今のところ俺から何かをするつもりは一切ない。馬鹿を仕出かした男の面倒をわざわざ見る気は微塵もない。面倒を見てもらいたいのならば同僚あたりにでも己の面倒を見てもらうことだ。面倒すら見てもらえないならば己の人望の無さを恨めばいい。そして次にまた馬鹿なことをやるようであれば、それは影崕さんが処遇を考えるまでもなく、俺が出るまでもなく千鶴が処理するまでの話だ。
千鶴は確かに甘い男だが、自分の部下の問題くらい自分で処理できる男だ。そんなこともできないようならば彼は影崕派に所属していない。
何も言わぬ俺を見てそれを理解したのか、トナリは千鶴に視線を移して好奇心欲求を満たそうとした。
「ちなみになんだが、何をやったんだ?」
「尻軽女と食って掛かりキラを殴っていた。」
エレベーターが影崕さんのフロアに着く。
それと同時に千鶴に首根っこを掴まれていた男の頭が一気に破裂する。破裂音と共に辺りに血と脳味噌、それから骨が飛び散り、おかげさまでその被害に巻き添えを食らった俺は左半身だけ男の血と脳味噌でベチョベチョになる。
うわあ、クソ汚れた。こんな姿で影崕さんと会わなくてはいけなくなったクソみたいな事実に眉を顰めざるを得ない。
男の首根っこを掴んでいた千鶴が一番被害を食らっているのに対して、辺りを汚した張本人であるトナリは一滴たりとも1片たりとも血と脳味噌で汚れていない。お得意の重力操作で血と脳味噌を避けたのだろう。怒りが込み上がるよりも呆れてしまって溜め息をつく。
「はー……あのさ、トナリ。殺すなとは言わないけどね、殺したいなら殺る前に言ってくれねえ?それか綺麗に殺れよ。クソ汚れたじゃねえか、クソ。」
「影崕さんは気にしないよ。千鶴も気にしないだろ?」
「ああ。手間が省けた。」
千鶴が首根っこを離すと頭無し死体が音を立てて血溜まりに沈む。手間が省けたって何の手間だよ、そいつの面倒の話か?汚れたって話をしているのに相変わらずまったく話を聞いていないな、こいつ。甘いとは思っていたが、どうやら脳の詰めまで甘いようだ。掃除の手間なら増えたくらいだし、いま俺が着ている服はもう使えないだろう。こういうときに限って白い服を着がちで嫌になる。カレーうどんみたいだ。
「アホ、汚れは汚れだ。第一、お前たちは過剰反応しすぎなんだよ。キラはお前らが灸を据えなくても自己解決できる女だ。お前らに先越されて悔しがるぜ」
何を勘違いしているのか知らないが、あのピンク頭なら自分が殺したかったのにと言って先越された事実に苛立ち地団駄を踏むくらいするだろう。そういう女だ。千鶴もトナリもキラに対して過保護が過ぎるのだ。キラ自身は舐めた態度を取る相手を執着深いねちっこい殺し方で殺すのを好むし、馬鹿だがあんなに頭の回るやつを俺は他に知らないとさえ言える。彼女の用意周到さばかりは俺でも引くほどだ。決して容姿だけの甘い女じゃない。
今もきっとキラの脳内では如何に男を苦しませてやろうかと考えていることだろう。ああ、可哀想にキラ。お前が殺したがっている男はまるきり部外者に殺されてしまったよ。
「そういう話じゃないぞイオタ!」
「子供だなイオタ。」
「うるさいな、考え無しのバカ共に言われたくないんだよ」
ふたりを置いて血塗れ脳味噌塗れのエレベーターから出て、早歩きで影崕さんのところへ向かう。俺が子供だったとしても、トナリも千鶴も俺より手が早いし俺より未熟だ。彼らは赤ちゃんなのだろう。そもそも何の理由があって侮辱されたキラでもないくせに男に手を出したのだ。腹が立ったから?容赦のないキラに任した方がずっとストレス解消になる。キラが大事だから?それにしても男を殺すのはキラ自身を想えていない。
俺を追いかけて来たトナリはまるで何も分かっていない、と言わんばかりに溜め息をついた。何か言いたげな彼女の視線に腹が立った俺はしっかりと向き合う。トナリは俺が問いかけるまでもなくすぐに口を開く。
「イオタが思うより、キラはふつうの女の子だからな。」
「それはなかなか当たり前の話だし、どうだっていい話でもあるね。俺も〝朝には大抵太陽が昇る〟って話した方がいいかな?キラの話より有意義になる自信はあるよ。」
「キラだって怯えるし泣きもする。肉体的強さと精神的強さは比例しないぞ」
俺はその言葉に心底驚いた。そして心底軽蔑した。
トナリは本気でそう思って、本気でキラを想って男を殺したのか。本気で、恐怖の対象に立ち向かわせないで他人が解決することを、思いやりだと思ったのか。立ち向かわないでいることがどれだけ辛いことかお前は知っているだろうに。それともお前は立ち向かいたくなかった?立ち向かわずに一生恐怖し続けたかった?武器を取るときの湧き上がる勇気と恐怖を打ちのめしたときの解放感を知らずに、過去の恐怖に縛られて生きていたかったのか。影崕さんが教えてくれたことはそんなことじゃないだろう。
恐怖に立ち向かう勇気を、立ち向かう力を教えてくれたあの人とは程遠い彼女の価値観に目眩すらしてしまいそうだ。或いはトナリがキラを気に入っている、というのは俺の勘違いだったのかもしれないな。如何にトナリの考えが独善的であると指摘してやるのもひたすらに億劫で、俺はただ曖昧に笑った。
「そもそも俺はキラなんて興味ないよ、彼女に関する全てがどうでもいい!彼女は普通だとか強いとかの話じゃない。お前と千鶴は過剰反応しすぎってだけ。」
「お前のそういう好きじゃないものに対してチャンスもあげないで冷たくするところ、本気でどうかと思うぞ。」
俺がトナリを軽蔑したように、彼女も軽蔑するような視線で俺を突き刺す。
好きに思えばいいと思った。トナリが変わらないのと同じで俺が変わることはこの先の一生涯の中では有り得ない話だからだ。俺と同じ悪夢にいながら彼女はまったく違うところに目を向けている。同じ経験をしてまったく異なる感想が出るのは珍しくない。
蝶と蛾の蛹は似た姿でも、繭から出た蛾が蝶になることがないように、俺とトナリはそもそもからして違う生物だ。〝同じ〟を強要する気はさらさらないし、べつに同じである必要性は、俺と彼女の間に限ってはなかった。俺は人を憎んだ、彼女は罪を憎んだ。ただそれだけの話だ。
でもトナリはそれを理解できていなかった。キラに関してチャンスを与える云々の話ではないほどに、大前提として俺は人間という形を持つ生物を嫌悪せざるを得ないと知りながらトナリは共感どころか理解もしない。
人の生き死になんて俺の問題じゃないし、どうだっていい。個人の問題なんて個人で解決すべきだ。そう思うことを、彼女は非難せざるを得ないのだろう。きっと彼女の心のなかに未だ根付いている理想というもののせいだ。気持ち、わからないでもないけど押し付けられたくはないな。
「トナリ。俺が人間という種の中で好きなのは君と影崕さんだけだよ」
驚くところなんて無いだろうにトナリは珍しく狼狽えたように見えた。
「他はどうでもいい。俺の人生にいなくても困らない。だけどキラを思うのなら、ふつうの女の子だって思うのならキラに殺させるべきだったんじゃないのか。怯えなんてものは自らの手で殺してこそ、だろ。」
「わからないのか。それが難しいんだろう。」
どうも俺とは対極の位置にいるらしいトナリは吐き出すように言った。
難しいって、殺すことがか?あんなにも簡単にひとを殺せるお前が言うことか?嘘もそこまでくれば感心せざるを得ない。
――いや、そうか。
「意外だな。君は影崕さんに救われていなかったんだな。」
トナリの平手打ちを素直に受けてやる。こんなにも違うのに、すぐ暴力に走るところは彼女も俺と同類だな。これ以外の感情の吐き出し方を教わらなかったからだろう。
「気は済んだかよ?」
「済むわけないでしょ。すこしは自分が何を言ってるのか考えた方が良いぞ、イオタ。」
「ここにきて被害者面か?ずいぶんと調子がいいなトナリ。俺たちは所詮みんな加害者でいることを選んでいる。それは変わらない。」
「わかってる、そんなこと。」
トナリは今にも泣き出しそうな子供のように見えた。俺が悪いってわけでもないが、泣かれても気にしないでいられるほどの赤の他人だっていうわけじゃない。さすがに、人としての道徳まで失っているわけじゃない。
ため息を吐く。
「言えよ、トナリ。」
「なんだよ。」
「君が俺のことを嫌になったりしないのと同じで、俺もそうだから。隠さないでくれ。」
けど。トナリは「イーッ!」と歯を剥き出し威嚇の姿勢を見せると走って立ち去って行った。一緒に来るんじゃなかったのかよ、と呆れてつい鼻で笑う。
彼女が自身の気持ちを素直に言ったって、ムカついて殺したり、嫌ったりしない。彼女が俺の友人である以上は、ちょっとくらい違う意見を持っていたって構わないと思う。それくらいトナリはわかっているだろうに、それでも彼女は恐れている。
未来と可能性には終わりがない。未来も可能性も欲しくないのなら、きっとトナリはこれからも隠し続けていく。そして俺はそれを否定できない。非難できない。俺も同じだからだ。如何にくだらないと知りながらも、変わる必要はないと考えてしまうことを変えられなかった。
ふつうになりたい。隠しているだけで、遠ざけているだけで、トナリはずっと〝そう〟だった。しかしその願いと相反するかのように、他の誰かに普通を与えてあげたくなってしまう性質のせいで、トナリは本気でキラを想って男を殺してしまう。きっとこれからもそうだ。彼女は矛盾を抱えていた。向き合う真実は、いつだって苦しい。逃げることはそれ以上に苦しい。けれど変えられはしない。
俺はただトナリに幸せでいてほしかった。きっとこれからもそうで、変わることはない。それを言葉にするのは苦しい。だけど言わないでいるということは、それ以上に苦しかった。
互いに、自身の気持ちを言葉にできないのはただひたすらに、素直になるのは怖いからだ。それ以外の理由なんてない。だから今はただ、互いにどっちが先に本音を洩らすのだろうかと、そのときを手放しで待っているのだ。
※
どれくらい前の事だろう。
たまに、よく考えないと、その時の流れを忘れることがある。
歪に囚われたのは、僕にとってはおおよそ十二年くらい前で、影崕さんに救われたのは五年ほど前のことだ。
血と反吐、汗と臓物。死の匂いの積もるそこでは時の流れが捻じれ、拡張され、歪として固定されていた。後の身体検査で判明したが僕はそこで七年も過ごしていた、らしい。本来の時間軸内では、たったの一年。元の姉だった人間の年齢を越して、僕に姉はいなくなった。そもそもあの歪に囚われた瞬間から、僕に姉なんていなかったのだと思う。
代わりにできたのは、あの場所で僕よりも先に、ひとりであの地獄を生き抜いていた友人だった。生き抜いていた、とは文字通り生き抜いていただけで、出会った時の彼女はそれこそ抜け殻のようだった。彼女はただどうすれば場を切り抜けられるのかだけをブツブツと独り言を呟いていて、僕はそれに従った。
己を家族だと名乗るおぞましい歪に殺されないために、生きるために血反吐を飲んだ。臓物を口にした。瘴気を身に浴び続けた。感覚に麻痺した。時が進むにつれて僕ははじめて会った頃のトナリがどうして殻になっていたのか知った。あそこは、歪が家族のホームだと呼んだそこは地獄だった。僕たちは息をするのを辛うじて許されていた。歪の理想通りに振舞わねば僕とトナリは地面に転がる肉片の一部となっていた。
そこで七年、過ごした。
だから今でも夢に見る。あの赤い家を、あの赤い悪夢を。そうして悪夢のなか、影崕さんは突然と現れて当然とばかりにその悪夢を破壊していった。あの人が指先ひとつを振り翳しただけで歪は自壊していき、歪まれた空間は解かれ、僕とトナリは何年ぶりに青色の空を目にした。その都度に目が覚め、その都度に救われる。そこで何もかもが終わったのと同様に、そこで何もかもがはじまる。それを俺は救いと呼んだ。
「まったく、恐ろしく汚いね。よく生きているものだ」
よくわからない汚れで全身が埋もれている俺とトナリを見て、第一声をそれに、影崕さんは笑う。なんだか地味に貶されたような気がする怒りとか、こんなしみったれたクソみたいな状況に陥らされた悲しみとか、そういうものすべてを抜きにして、この瞬間の俺とトナリはふたり揃って言葉を失っていた。
あの人は、影崕派は、俺たちに様々なことを教えてくれた。すぐに順応したトナリとは違い、人間不信が勝って彼を信用しようとしなかった俺に対しても影崕さんは見放すことなく根気強く俺へと語り掛けた。振り翳した暴力ではなく、植え付ける恐怖ではなく、個を覆い隠す洗脳ではなく、対話だけであの人は俺を世界へと連れ出した。
生き方、死に方。在り方。己の体に沈む力の使い方。この五年の間、何もなかった日なんて一日たりともなかった。流動的に、受動的に与えられる力と相応の知識。与えられる温かな食事に、失敗を恐れずとも許される環境、ぼろきれでない衣服。死が間近でない日々。これ以上に何かを求めてしまうのであれば、きっと罰が当たってしまうほどの幸福。影崕さんはそのすべてを与えてくれた。
俺とトナリを七年間も幽閉していたあの歪の正体も、彼は同じように俺たちへ教えてくれた。アレは、人から生み出された罪の末路。生物のように息をし脈を持ち、自由に動き意思を持つがそこに魂はなく、それ故に魂を奪う怪物。対応できる者が対処し、この怪物を打ち払う。しかし彼らは死ぬ度に生れ落ち、生れ落ちる都度に死んでいく。何度も再生し、何度も破壊される。人はそれを罪と呼ぶのだと、影崕さんは言う。
この世界の仕組み。罪の存在に、神の存在。神が作り上げた詩編。
ずっと前に起きた大戦の結末、故にうまれた約束。
異質と普遍。異質者が持つ、理と交渉する能力――つまり、魔術。
シンという存在が何度も再生するのだと知って、心がざわついた。
理に交渉する能力が俺自身にもあるのだと知って、心が靡いた。
魔術を影崕さんに学び始めて、心が滾った。
俺とトナリは俺たちを捕え続けていた歪と再び対峙する機会を影崕さんに貰ったが、そんなことを頼み込んだわけじゃないし、はじめはいやだった。だって恐ろしかった、だってあの悪夢が脳裏にこびりついてやまなかった。ただ死にたくないという感情だけが俺とトナリを生かしていたのだから、もう一度死を目前にはできないと強く想っていた。
けど最終的には殺していた、殺したいと強く願ってしまったのだ、変わりたいのだと。血に濡れる己の手を見つめて、あの悪夢はもう悪夢ではないのだと俺は身に知った。己の手で殺せてしまうほどの呆気ない夢だったのだと、ひどく愕然と悟るのと同時にすべてが腑に落ちて。もう悪夢は視なくなった。
俺と同じように衝動に突き動かされたトナリは、俺とは違いその経験を引き摺ったし、俺だってその気持ちは十二分にわかった。七年も死地を共にした友人だ。わからないわけがない。
彼女が憧れているものと、彼女を突き動かすものはまったくの別物だ。
トナリは俺以上に殺しという行いに躊躇がない。殺すと一度でも思えば殺すし、下手に力が有り余っているのも相俟って彼女が一度でも殺しの動きに出れば一秒後には死体が地面に転がっている。しかも困ったことに、彼女を突き動かすものは「悲しみ」だった。そこらへんは駄々をこねる赤ん坊と同じ。だからこそ彼女は俺たちを苦しめに苦しめたシンの肉片を見て、この経験を引き摺った。シンへ複雑な感情を抱いていたわけじゃない。彼女が憧れていたものが、「ふつう」だったからだ。