・17-アイリス(ホールド・ミー・クロース)
Iris(Hold Me Close)
「うおわああ、あうっ?!わあ!いたいっ!ぃぶッ!」
ひ、引き摺られが終わらない……!あの深緑のシンから離れられたとはいえ、手足付きフィルムのフィルムで引き摺られた先になにが待ち受けているのか考えると嫌な予感しかしない。この体を張ったアトラクション感を面白がっている場合ではないのは確実だと言えよう。
瓦礫の散らばる床を引き摺られるままにガコンガコンと体の至る場所を至る所にぶつけながら私はなんとか膝を胸元へ引き寄せ、脚全体へと絡みついているフィルムを斬り付ける。幸いにもフィルムという強度はフィルムのままだったらしく簡単に切り離せた。絡みついたフィルムを脚から解いて立ち上がりながら、手足のついたフィルムが素早くクルクルと転げ回って逃げていく先を見る。
……あのフィルムのシン、まるで魂がなかったから気付くのにも時間がかかったわけで、シンとしては低型どころか漂う空気に近しい。それがこんな形になって問題を起こしているとなれば、恐らく本体は別にいるのだろう。むむ、すこし面倒だな。チャネリングに反応しないとなれば苦労してもおかしくはない。
どこかの箇所で切ってしまったらしく額から流れる血を拭い、レインコートに張り付く瓦礫の破片やら埃を払い落す。
雑に引き摺られたせいで体のあちこちが痛む。魔力で固めてなければ死んでいたに違いない。この世界にはこういうことが多すぎる。ああ、たいへんだ。
チャネリングでの確認だと鹿目くんはセスが作った箱のなかに保護されたみたいだし、私の役目はチェンジだ。鹿目くんみたいな真面目な子は真面目なセスと気が合うはずなので、監視役はセスに任せても構わないだろう。そもそもセスが私を彼の箱内へ拾わなかった意図としては、「鹿目は私が引き受けるのでとっととこの件を終わらせろ」に違いないし、ここで彼らに固執するのは悪手だ。
……まあ、普段なら生存者は城壁を通して安全地帯まで運ぶか事が片付くまで城壁内で待ってもらうのだが、セスは私のことをよく思ってはいなさそうな顔をよくしているので、つまりはそういうことだと思う。
「さて、と。」
セスが鹿目くんを引き込んで保護したのならあっち側の生存者は完全に無事だとして、もう片方の方にも生存者が固まっているのがすこし不安だ。完全主義者であるセスらしくない、生存者のこぼし。罠でも罠じゃなくても、行ってみるだけの価値はあるはずだ。
よーし、走るぞ!と覚悟を決めて一気に瓦礫を避け走り出せば、途端にじゃりじゃりと踏み締める地面の感触がレインブーツ越しに伝わった。瓦礫での道だとして、それにしても室内だというにはちょっと妙なまでにじゃりじゃりしていた。
場所自体は空間拡張されているだけで悪質な妨害工作で敷き詰められている道ではなかったので、道中は至って問題なく、そして内部結界内にまだ残っているシンと鉢合わすこともなく、生存者がいるはずの区画まで無事辿り着く。
……そのはずなんだけど、むう。おかしい。まるでいない。更地よろしく無。瓦礫とフィルムの山。あと壁と床。
壁やら何やらを触ってもそれらしき反応はない。微かに感じるのは――愛されている、というぼんやりとした、けれど確かな空気感。シンに関する魔力やらが時たま負の感情の塊だとしたら、ここは善の感情の塊で固められているように感じる。
辺りを再び見渡して、目にかかる負荷を承知でしかたなくチャネリングを行う。四の五の言うのは趣味ではないので黙って幾つかに段階を分けながら状況を確認すると――ああ、なるほど、と単純明快な理由に納得がいく。
祈りの力。ただの人には触れられないほど領域。純然たる神聖な奇跡そのもの。シンでは決して手が出せないし、ゼノでもそうと判別するのは難しいだろう。セスが見逃す訳だ。こういった奇跡は三節二章であれば破れるのだが、無論その行いはあらゆる観点においてとんでもない大間違いなので命にかけてもしない。神様の奇跡を偽証の奇跡でぶち壊すなんて、いや、不敬すぎてさすがに死ぬ。魔力消費だってバカにならないし。
とはいえ、この場での適切な対応は私では正直極めて厳しい。祈りによる隠蔽を剥がすにはその祈りに見合う人間でなければならないのが通常で、私は、この系統にはとんと疎い。むう、なんとかなるように努力しなきゃいけない。
目から滲む血を暫く制服の裾で拭う。ああ、しみる。
「よし。ええと……なんだっけ、あれ。」
血を拭い終わる頃にはアイデアも出た。つまるところ、あれだ。あの……半年前にカイに付けられたコードネーム。曰く、モチベーションの一環のひとつ。ファーゴ?いや、もっとなんかこう、夏の男みたいな感じだったはずのそれ。
数十秒のロス。
それから、バチコーン!と記憶が舞い降り、幸いにも偽証の奇跡を使う羽目にならなくて済んだという安堵で肩の荷が軽い……少なくとも羽根なら生えてきそうなくらいだ。半年も前の、しかも全有壺の影響で脳が焼けかけた当日の一連のことを思い出せたのはきっと神様のご慈悲かもしれない。
らしくもなくそんなことを考えながら壁に掌を押し付ける。パワーグローブ越しに感じる壁は硬く、尊く、力任せでは越えられそうにはないのだという明確な楔が魂へと伝導した。単の神聖さ。
「サマリタン。葡萄酒、包帯――善き隣人。」
聖書の言い伝えの端々、覚えている限りのフレーズを呟く。祈りには祈りを知る者の言葉がいちばん良い。とくに悪意がないのなら効き目は百発百中。
だが私はカイに雑な方式で名付けられたとはいえ、サマリア人でもなければ敬われる敬虔な信者でもないので、これが効くかどうかは運試しとしか言いようがない。いや。けれど守護が目的なんだし、きっと――
目の前の壁が、和らぐ。指先が沈んだ白い壁へ更に力を込めれば、揺らぐ。壁を掴むように指先を捻ると、白い壁の正体が蜘蛛の糸であったと知る。
引いて破いた蜘蛛の糸の先に、少女と目を合わす。視界いっぱいに映るほどの近距離だと、菖蒲の澄んだ香りが鼻膜を満たした。キャンディの香りが好きなカイや、シトラスのサッパリとした匂いを好む千歳、ちょっとスパイシーなものが好きな道楽さんとは異なる、花の香り。
もみあげだけ鎖骨まで伸びているしっとりとした紺色の短髪に飾られた黒いカチューシャ、吸い込まれるようなルビーレッドの目。洗練な白いシャツに黒のネクタイ、黒のブレザーと膝丈のプリーツスカート――どこかの制服だと判断するにはあまりにも飾り気がなく素朴で、礼服のような印象さえ受ける。
少女は化粧っ気のない端正な顔立ちをしていて、けれどどうしてだか「あなたはなぜ生きているのか?」なんて傍迷惑な問いかけをしてきそうなほどに真摯な目つきで、私を見つめた。先程から感じていた愛されている、という空気感はこのひとから感じていたらしい。
ふと長いまつ毛が揺れ、瞳は伏せられる。
まつ毛なんかやたらと多くて、ああ、すごい美人だ。
「主に、感謝を――アーメン。」
……祈りの力で生存者を保護していたし、第一声がそう言ったものであることは予測可能だろうが、こうして神様に対して改まって感謝している相手を見ると、どうにもちゃらんぽらんにヘラヘラと生きてきている私なんかが救援に来てしまって申し訳なくはあった。
とりあえず挨拶として片手を上げる。あと、笑顔。
「こんにちは!救助をしにきました。」
「こんにちは。救助をされます。」
ローファーの踵の音が響き、彼女が振り向く――うわ、後ろ姿まで洗練されてる。なんて感想はすぐに彼女の背後にいた生存者たちが互いに身を寄せ合っているところを見てすぐに散った。
あれ。何人いるんだ、ここ。
「助かったのか……?!」
「フヒッ、こりゃあ良いネタになるぜ……」
「ほ、ほんとうに祈りなんかがうまくいくなんて――ううぅっ」
「あっ泣いちゃダメでしょマキちゃん、せっかく死ぬ気で祈って助かったんだから!こういう時こそ喜ばないと……!」
「ウチらどうなるんだろ……」
三者三様の反応と、騒つく声が反響する。
やっぱり、異様に多い。最初に眼で確認したときよりも、ずっと。眼でもう一度魂の数を確認すれば、百数人もいる。何度もあらゆる別世界を巡ってきたのに、私の眼が誤判断を犯したのはこれがはじめてだった。彼女の祈りの力が中途半端に隠すわけがないのでこの間違いは完全に私自身のバグなのだろうが……フム、これはおおきな問題になり得る。早急に理由と解決策を探さなければならない。今日は徹夜確定だな。
ざわつきがすこし収まったところで、少女がひとつ手を叩く。乾いた音が響き、百数人の注意が彼女と私に向けられる。
「ではみなさん、慌てずに、絶望せずに行きましょう。祈りは聞き届けられたのです、何をも不安がる必要はありません。立ち上がってください。」
「……あれ。いろいろと聞くとかしないの?」
潔さに思わず尋ねてしまう。ふつうであればこれからどうする?とか、ちょっとした疑問点について話すものだと思うのだけど、彼女はとくになにを尋ねるまでもなくこの状況のすべてを飲み込んでいて、それがいささかふしぎであるように感じてならなかったのだ。
彼女は吸い込まれそうな瞳で私を見ると、静かに口を開いた。
「いいえ。わたしに説明は不要です。彼らにも、その必要はありません。わかるでしょう?」
「ええ、まあ。そりゃあ。そうですけど。」
言葉の節からして恐らくこの少女は異質者で、この場にいる生存者が普遍者だと理解しているのだろう。言葉の理屈的には問題のないことだけど、ひとは理屈通りには生きていけないものだし疑問を持つものだ。疑問を持たないでいるひとを見るのはどうにも慣れない。
うん、まあいいか!この場合、考え事は原因よりも解決のほうが先であるべきだ。なるだけ威圧的にならないよう、にこやかな笑顔を意識し、すうっと息を吸って声を張り上げる。
「じゃあ、とりあえず全員右隣のひとに触れてください!連鎖して連鎖して。ほら、そういうパズルゲーム的な感じで!」
数百人がおろおろと誰かに触れあって連鎖していく様を眺める。あと大体五度くらいは世界を無事に並行できるはずだ。最低でも行きと帰りで四度使うとして、残りの一度は緊急時用、それ以降は無理を承知での世界渡りになるだろう。
「あ、そうだ。私はシグマ。きみの名前を聞いても良いですか?」
「桐谷エレイソン乃亜です。どうぞ気軽にノア、と。」
どうやら名前まで聖書的なものらしい。余程敬虔な家で育ったのだろう。
私にも彼女のようなカッコいい名前があったのなら、その私はどういう私になっていたんだろう。今とは違う私だっただろうか?或いは今と変わらず何にも値しない人だっただろうか?深くまで考えかけて、とある事実に気付く。私はこの私しかいない。どれほど考えたところで私は名前ひとつで変わるような人柄でもないし、私の歩んだ軌跡が変わることもない。
この思考は飛躍しているだけで、まったく意味がなかった。
だから今は自嘲と共に思考の海から引きあがり、ただ微笑んで首を傾げる。
「すてきな名前ですね、ノア。」
言葉を使えば彼女は柔らかく頷いた。表情は硬いままだったが、それで十分だった。微笑みも答えも必要ない。誰からも欲しくはあるけれど、望みと必要性は必ずしも同じ秤にはかけられないものだ。
「あなたは、可哀想な人ですね。」
「え?」
なにか、とんでもないことをとんでもなく真面目な顔をして言われた気がする。気のせいじゃなければだけど。
「可哀想な人ですね、と。」
気のせいじゃなかった。うーん、正直でハツラツ。さすがの私でも驚いてしまってうまく返事ができなかった。いつもならもうちょっと気の利いた返しができるのだが、きっと私は私が思うよりも気を抜いていたのかもしれない。
「シグマ、だなんて。ただの数字じゃないですか。名前としては些か寂しいです。」
まあ、そうなんですけども。正しくそういう理由で偽名として使っているわけなんですけども。なんてことを馬鹿正直に話す気はなくて、私は曖昧に笑った。
「でも、なんていうか、うん。愛着とか持たなくて、私は気に入ってる。」
「気に入っているのと愛着を持たないというのは矛盾です。」
困ったように眉を寄せ、目を伏せて、きみは呟いた。その顔があんまりにもかわいくて、きれいで。私は思わず見惚れて笑ってしまう。
「そうかもしれない。きみの言う通り、きっと矛盾です。でもこれ以外の言葉を私は知らないから、今のところはこれが正解でいい。」
「……なんて曖昧な人。可哀想という評価はひどく間違いでした。」
「ありがとう!」
「褒めていません。」
「あれ。」
いやそれもそうか。曖昧だなんてあまり褒められたことではない。貶されている気もしないし、彼女としてはその気もなさそうなので個人的には何だって良かったので適当に流してしまった。
「けれど、謝罪します。あなたを一方的に可哀想などと評価する身に、わたしはありませんでした。我ながら、まったく何様なのでしょうね。」
「私は気にしないよ?」
「わたしが嫌なんです。」
すると、先程フヒと絵に描いたようなオタクように笑っていた長髪の青白い男が躊躇いがちに声を上げた。
「あの一応全員がその、右隣の人に触れましたけども……」
「ん、じゃあ協力ありがとう!ちゃんとバッシリと守ってあげたい!」
「ヒッ……あげたい系形容詞ということは拙者らもしかしてまだ命の危機が……?」
「だいじょうぶ!」
ぐっとサムズアップして、しっかり数百人の生存者が私の指示通りに右隣のひとと触れ合い、連なり終わっているかを私の目でも確認する。下手すると何人かは置いてけぼりにしかねないし、私の認識が緩ければ移動した先での四肢が足りなくなったりしかねないので、注意をするに越したことはない。繋がり合って連鎖し、ひとつとしての認識があればあるほどコピー&ペースト的な移動での事故は起きないものだ。
問題がないとしっかりと確認してから、ノアと生存者の肩へ手を伸ばす。
目を閉じて息を深く吸う。
空想する、城壁の世界を。
眩い青空に、白い雲。撫でる風の香りは澄んだ世界の色を運んで、草木は青々と育つ。白いフェンスに囲まれた時計塔へと群がる命たち。遠くで聞こえる列車の音。
春の香りに、夏の色。秋の轟に、冬の夢。
第一節思念世界、城壁。
※
朽ちた命の搬び、脆く飢えた花壇。消えぬ夢の縋り。降り止まぬ雨が濡らすコンクリートだけが唯一の反響音。行き交う人はまったくまばらで、こちらへとかける目つきは鋭い。
〝庭〟はそういう世界だ。強い感情と結び付けられているだけあって、最も移動が容易いのも特徴だろう。
生物が踏み入れる土地として論外なのは〝目〟。
そもそもアレを保持したのはほとんど事故的であるのと単に技術として必要だったからで、人が足を踏み入れる土地としては機能していないと言っても過言ではなく、適応性のない生物があの世界に辿り着くのは実質的な死を意味している。非常に強力であるにせよ、適性のある私ですら〝目〟は危険地帯で、アレの影響を限りなく薄くするために普段から前髪を伸ばして左目にかぶせてあの世界からの認識を緩めているくらいだ(普段使いしている右目はそのうち使い物にならなくなるだろう)。
けれどそのふたつの世界とは対照的に〝城壁〟は、比較的に平穏だった。少なくとも基礎的には。どこも平均値が揺らがず穏やかで、それ故に庭とは正反対に世界移動するときは数十秒ほどが掛かる(目への移動には長くて一分くらいかかるだろう)。
鹿目くんとヴィーヴィルには砕けて説明したが、世界を自分の内側――心臓に潜む小宇宙へ仕舞い込むには幾つかの条件がある。意味を付属させるのは前提だが、更に大前提としてその意味と各々の世界と合うかが鍵となる。
大袈裟に例えるなら、食べ物とかがちょうどいいだろう。
私はハンバーガーを持っているとして、それに見合う国はアメリカかドイツであってイタリアではない。私はアメリカやドイツを保持できても、イタリアを保持することは叶わない。同様に私がピザを持っていたらそれに合う国はイタリアで、他の国は保持できない――という仕組みだ。
全ての世界を保持する為にすべての意味を手にすればいい、という理論が通用するわけでもない。意味は、具体的には魂に関連付けされるものだからだ。私の魂では保持できない世界のほうが多いくらいだ。
庭は私の性質と合っていたから保持へと至れたし、目はほとんど事故(それほどまでに相性がよかったのだと思う)によるものだ。城壁は滞在した時間そのものが長いし、何よりあそこは他の世界と比べても〝意味〟が特殊で、保持のし易さが飛び抜けていた。
私が心臓に抱える小宇宙。
生存者を抱え込むのであれば、城壁以上に徹底されている場所はない。あそこで暮らす選択を視野に入れてもらって良いくらいなのだが、この世界を去る選択はASXの上層部的に褒められたものではないらしい。道楽さんは私にするなと躾を入れてきたので、私も彼女の願いに従う他ない。この世界の人口、減ったら困るし、行方不明扱いにするというのも楽ではないし。気持ちはわかるとも。
とはいえ余程の緊急事態とかでもない限り、一瞬で移動できる庭よりも比較的危険性のない城壁のほうが無難だと言える。生存者を連れ込むのに最も適している地域、住人性。気候。
「それじゃあ、あの時計塔にトイレとかキッチンとかありますし、列車には乗らないようにしてくれたらこの辺りを好きにしていいですよ!色々他の用事を済ませたら迎えに来ますね!」
私、確かにそう言ったはずなんだけど。
「何やってるんですか?」
「お、怒らないで頂きたいッ……!拙者、記者なればこのようなネタになりそうな話は、」
「んー怒ってない。」
襟元を掴み上げる。彼は大事そうに一眼レフのカメラを遠ざけるように片手を伸ばして、もう片手で私の手を必死そうに掴んだ。どうやら記者なのはほんとうらしい。ここで撮ったものはすべて十二時を越えた途端に消えることも知らない、ただの記者。
「ひぃいっ!ぼっ暴力反対!怒ってないって言ってるくせ掴み上げるとかちょっと矛盾!矛盾も反対ですぞ!」
「暴力を受ける勇気もないのによくついていこうと思ったね、きみ。」
「ネタに困ってる記者を甘く見てもらっては困ります故……フヒヒ」
この長髪のヒョロヒョロ記者……。
「気持ちはわかりますが、暴力に出てはいけません。彼もまた祈りを捧げた新信者にあるので一線を越えるようであれば、わたしもあなたに手を出す可能性があります。」
「ノア氏ッ、さすがのクリスチャンだぜ!彷徨える子羊の味方!」
ノアの冷静な声に止められて、私は彼女の言葉にこそ滲む矛盾と騒ぎ立てる記者の男を一度無視し、色々と堪えてくる文句を忘れよう努めて息を吸う。
ノアと、このかなり頭のネジが緩そうな記者は私が世界渡りをする瞬間を狙って私に再度触れたのだ。これが如何に危険であるのか口酸っぱく注意したいところだが、起きたことについての文句はしない、手遅れだから。なので注意すべきは〝これから〟についてだろう。
「うん……きみたちふたりの行いはたまらなく愚かだったけど、だからって見殺しにはしない。ふたりを守れるよう私、全力で努力はする。もちろん!死にたいと願うのならさっきみたいに私のことは無視して貰って構わないとも!」
「ええ、お心遣いに感謝します。」
「ヒイッ……ふたりとも笑顔が怖いですぞ……」
まあ、なんだっていい。ふたりを守れるよう私が努力すればいいだけの話なので。
「私はシグマ。記者のきみ、名前は?」
「き、急に冷静だな……フヒ、拙者名乗るような者でもなければ。」
「無名ヘタレ記者って呼びますよ。」
「星野星夜と申します。あ、名前負けしてるとかの指摘は受け付けてないでおります……」
「言ってないし思ってない。」
眼でシンの居場所を確認しながら歩き出す。残りの四匹と、あの魂のないチビのフィルム。あのチビフィルムに限っては大本のシンがどこかにいて操っているだろう。可能ならそっちを先に叩きたいとは思うが……。
……。
「ちょっと、ノア、なにを勝手に進んでるんですか。」
「?ああ、言い忘れましたね。わたし、バチカン傘下の大天使聖ミカエル修道会特務課に所属するゼノです。守るべき百数人の民間人が安全である今なら戦えますので、ご心配なさらずに。」
んう?ということは――。
「そんな目で拙者を見ても拙者が一般記者である事実は変わらないというか……拙者、ノア氏の守るべき百数人に加算されてないだけで……」
「む!いえ、困ります。こちらの意図を勘違いしないでください、あなたを加算していないのではありません。わたしが、たかだかひとりの民間人も守れないほどのクリスチャンではないというだけのことです。」
なんだ。異端を撮影した写真はすべて消えると知らなかったし、まさかそれでもゼノなのか?という疑問を一瞬でも持った自分が間違いだったらしい。星野さんはしっかりとパクスなのでこの件が終わったあとの彼は瘴気の影響で体調を崩すことだろう、かわいそうに。
とはいえ。ノアがゼノだからって放っておいて構わないわけじゃないので、しかたなく彼女の後を追う。守るって決めたのは私だ。守る努力をしなければ、私は私以下の人間に成り下がる。自分で決めたことだけはせめて守らなくちゃ、きっと辛くなってしまう。
カシャカシャッ、と何がそんなに興味深いんだか星野さんは周囲の写真を撮った。
「シグマ氏について聞かせてもらいたいのですが、君もノア氏と同じで若く見えるけど十代くらいでござろうか?恋人が欲しくなる年齢でしょうに、なぜふつうの生活もせずに――んむぐぅッ」
「あえっ」
どこか遠くに行かないようぐっとノアの腕を引いて、星野さんの唇を片手で塞ぐ。
無念だが、稼働しまくりの目の限度がきているし、このまま使っていれば一時的に目を使えなくなる可能性が高い。行動できなくなるのを避けるため左目を閉じて、右目だけでチャネリングを行い、視界を幾つかの層へと変えて周囲と状況を確認する。
即座に神経を焼く様な激痛が走り、途端に右目から血が零れ出した。痛く滲みて、間違いなくこれ以上は使い物になりませんと悲鳴を上げるが、なんとか周囲の状況の確認し終える。
ああ。まずいな。いろいろと。わりとサイアクな状況かもしれない。
「血、シグマ氏、血が……!」
「いや。これくらいならまだ支障ない。」
喚く星野さんの肩を落ち着かせるように叩く。
それから伸びた前髪を横にずらして、右目にかぶせる。
〝目〟に認識させるような行いである以上、本来ならなるべく使うべきじゃないのだが、四の五の言える場合でもなかったので普段使わない無事な左目を開けて、ノアに視線を向ける。どうやら彼女は私の言いたいことがしっかり伝わっていた様子だった。
「トリガーを踏みましたね。」
ノアの断言に頷く。
零型のシンが展開する内部結界には通常の条件付けとは別に特殊なルールがある。
トリガーと呼ばれるそれは内部結界内に入り込んだ人間へと向けられた引き金で、特定の行動や条件を満たすと発現する結界絡みの致死性の攻撃だ。――例えば酸素が徐々に脳に回らなくなるだとか、出血が止まらなくなるだとか、そういった地味に致命傷となるのが代表例としてあげられる。この例は零型のゼノの星である道楽さんでさえ対処に手間取る例だ。
そして、いま私たちがいるこの内部結界の致死性は〝魔力を奪い取ること〟に長けているらしく、強力な効果であるが故に〝これは死ぬかも〟といやでも感じる。
「たいへんまずい。私たち、とられている。これダブルミーニングです。」
「今ふざけている場合では……」
ノアの呆れをよそに、チカチカと思考が回る。鹿目くんはなぜかセスの箱を出ているし、彼と共にいるべき存在の魂は見当たらない、私たちはトリガーを踏んだ。
この内部結界に残っているシンは現在二匹。先ほどまでいたであろう他のシンはそのうちの二匹に取り込まれ、いま現在、この内部結界内にいるシンは零型に等しい存在へと変貌しているだろう。厄介そうなフィルムもいる。今もこうしている間に吸われていく魔力。残された時間はそうない、精々十分程度だ。私で言えば五分程度。トリガーの原因は星野さんのカメラであるとして、カメラやフィルム、それが真に確定的なものであるのなら。
脳裏に幾つかのアイデアや理由、こうなった原因が頭をちらつく。
うーん。
「フム、しかたない。」
「シグマ?」
呼びかける彼女に微笑んでおく。心配はいらないのだと、すこしでも伝わればいいと、素直にそう思う。
「きみ、ほんとうに戦える?危機感知能力とか、ある?」
「……ええ。ゼノである主の使者は皆、そうであるかと思いますが。」
「じゃあよかった。」
ぐっとノアと星野さんの腕を掴む。ぎょっと目を開くふたりには悪いが、まあ命以上に大切なことなんてないだろうと思うので、私の行いは客観的に見たらプラスマイナスゼロなはずだ。少なくとも私はそう信じている。
※
――セスと名乗った男の安全地帯から出してもらった。
あまり深い意味はないと思う、ただ腹が立っただけだ。
根気よくついて来てくれた獣は(コイツの場合、ついて来ないほうがふしぎではあるのだが)内部結界のかさついた空気感をものともしていないとばかりに宙を舞いながら僕の顔を覗き込んできた。どうしてだか、いまは距離感の近さに戸惑えなかった。
アメジストのようなその目がいたずらげにきらめく。
「これからどうするの、先生?」
「……。」
途端に、舌の根が乾いた。
「フフ、まったく考えてなかった~ってカオしてる!かわいい!さっきアレだけ口達者にあのセスって男を貶してたのに!」
「あー聞こえない、聞こえない。」
「なんだっけ、守る必要がないからって他人を見捨てる人間もどきのクズが責任をひとりに押し付けて偉ぶるなよ!だっけ?」
「あー!聞こえない!」
先程の一幕は正直なところ忘れたかったし、(あくまで僕は悪くないので)再会の機会があっても決して謝りたくないが、しばし我を忘れて言いたいだけ言ってしまったのは事実だ。癪ではあるが獣の言う通り、まったく後先を考えていなかったと認めるほかない。
後悔は微塵もしていないが、反省はするべきだと我ながら深々と思うものだ。後先考えずにあの安全地帯から出してもらったが、とくに何かの策があるわけでもシグマ先輩のように眼をチャネリングして魂を視分ける、みたいな能力があるわけでもない。いまの僕はちょっとした迷子かな。
「ま、でもあんなところで臆病者みたいに隠れているより正面切って戦って死んだほうがマシだし、ひとまず歩こう。」
「うふふ、先生ってば意地が悪いんだから。正直わたしでもそんなことしないよ?」
いったい何のことやら。獣より意地が悪いと認識されるのはどうにも不快だったが、まあなんだか今更の話であるようにも思えた。先をぼうっと歩きながら、獣を一睨する。
「……先を探知してくれ。」
「もちろん!先生のためならわたしなんだってしちゃう!」
「ハイハイ、ありがとうな。」
「どういたしまして、先生っ」
語尾にハートがつきそうなくらいの甘ったるい声で獣は応えた。それにひとりじゃないんだと元気付けられることがないのは、もっぱら彼女が僕を先生としてしか認識していないからだろう。獣があとすこしマトモであればどれだけ良かったか……うーん、これはないものねだりってやつかな。
腕に張り付いて僕を先へと引っ張る獣に甘んじる。とくにシンがいないらしく、道中は荒れた周囲と鳴りやまぬビデオカメラのジーッという旋律の不穏さに相反して平和だった。
「なあ」
「なあに、先生。」
「お前はどう思う?シグマ先輩のこと。」
獣がマトモだとかマトモではないという議題を抜きにして、僕はなんとなく彼女に尋ねていた。
――セスや警備課のゼノだけじゃない。リツさんや目輪君、途爪さんもシグマ先輩を見て嫌悪感や警戒心を全開にしていたことがどうにも胸に突っかかる。獣は異質体としてシグマ先輩を「殺すべき危険分子」として認識したし、彼女の答えはわかりきっていたのに聞かずにはいられなかった。……例えあの一瞬だったとしても、ゼノたちの反応を見た獣が僕と同じようにそれを不快だと思ったからだろう。
獣はうーん、と唸った。
「緑頭だと思う。」
いやそういうことじゃなくて、と呆れる僕の鈍い反応を見た獣は察してくれたようで獣はハッとすると再びうーんと唸る。フヨフヨと浮きながらも、僕の腕を引く柔らかく小さな手は緩まなかった。
「内面的なモノのことなら、うん、オカシイと思うよ。嫌われる理由もわかる。彼女、異質だから。」
「異質……」
うん、確かにおかしな人だという認識は僕にもある。穏やかで、明るく、まっすぐ。無論そのどれにも枕詞として「おかしなくらいに」が付与されるのだ。
――こうして獣に憑りつかれてからゼノと関わるようになって大体一ヶ月と数週間になるが、ここ一日と数時間で眺めている限りにおいて、シグマ先輩のような人間はほかに類を見ないという結論に至りつつあった。無論明るさだけで言うなら道楽教官が名乗りを上げるだろうが、あの人でさえシグマ先輩と比べるとふつうだった。「ここが違う」とか「あそこがふつうだ」とかうまく言葉にはできないのだが、(あの蠢くタトゥーを抜きにして)感覚的な点においてシグマ先輩と比べれば道楽教官は間違いなくふつうなのだ。
とはいえ、それは今更な話である。他と違うだけで嫌われるのなら嫌われるに値する人間はたくさんいる。
「嫌われる理由って言うけど、多少おかしいってだけであんな反応はしないだろ。なんていうか……全員過剰だった。」
「そうかな?わたし、共感はしないけど理解できるよ。」
「だろうな。」
お前、獣だし。この世の理解し難い物事すべてに対しては大体理解できてそうだもんな。
「昔からそうだけど先生はね、理屈的に考え過ぎなの。」
獣の語る「昔から」である以上、〝本物〟の先生と僕に新しい共通点ができたようだ。理屈的。感情に左右されない頭の持ち主だと思われたのか。
……僕は理屈から最も離れている感情的な人間だとそれなりに自負しているのだが、獣の果てなく曇りきった眼に映る僕はどうやら理屈的に見えたらしい。マジでなんでだよ、なんていう疑問は獣相手ではまったく無意味であることは既に明白だろう。
「――人はね、先生。感覚だけで人を嫌えるものなんだよ。とくに相手があの子みたいなオカシイ子なら嫌うだけの理由はあるし、なおさらだと思う。……あっけど、ほかに理由がないとは言えないかも。」
「ええ?ほかに理由がないとは言えないって、なに?」
「あの子、かなり恨まれてる。そう運命に絡みついているから。」
厭な記憶として脳にこびりついた墓越先輩の一件で僕は獣が〝運命〟を目視できるのだと知ったし、身をもって体験もしていたはずなのだが、どうにもそれを引き出されれば「あ、そういえばそんな能力があったな」というどこか抜けた意見が零れる。自らの脳を貧弱な脳であると責めればいいのか、或いはこんな状況ですべての手札を把握できるわけもないと自らを慰めればいいのか絶妙なラインではある。
はじめて獣に乗っ取られた際は運命のうの字も知らないでいたが、墓越先輩の件ではしっかりと獣の協力を得て視えた視界内では、運命は確かな糸として存在していた。糸は繭として墓越先輩を包み……ふしぎと、あの赤い糸の正体こそ死の運命なのだと僕はふしぎと直感していた。
身をもって同じ世界を視た以上、同じように獣がシグマ先輩の運命を視て恨まれているのだと直感するのであれば僕は獣を信じるほかない。信じなければ、それはきっと獣が僕を先生と認識していることくらいには愚かだ。僕は確かに愚かだけどそこまでじゃない……と思いたいかな、うん。
僕の腕を引いて浮き進む獣の頭を軽く小突く。
「んにゃっ、な、なに?」
「そういうのもっとはやくに言えよ。」
「あ、う……う~~、それは、ちょっと、やかも。」
え。
驚きで思考が固まる。傲りなのかもしれないが彼女はなんだかんだで常に僕の……じゃない、先生の言葉を叶えたがる節があった。まさかの柔らかな拒否に思わずじっと獣を見つめると彼女は慌てて立ち止まり(いや、浮いているし浮き止まりか?)必死に手をぶんぶんと降りながら弁明をはじめた。
「あっ、違うよ!?先生が嫌いになったとかじゃないよ!命に懸けてもいいくらい先生以外に興味ないし先生のためならなんだってしたいと思ってるよ!」
「聞いてないけど。」
「先生がほかの人間に興味持つなんて滅多にないのは知ってるけど、ほかの人間が先生に興味持つのはよくあるでしょ?だからそういったときのためにちょっとなるだけ言わないでおきたいっていうか、万が一の場合は捨てないほうが賢明だって思ってるっていうか――」
うわ、物の見事に聞いてねえや。相変わらず自己本位なやつだ。
「……ん?」
獣の必死な弁明をよそに、ふと、再び何か小さいモノの影が視界の隅で動いていることに気が付いた。まるで気付かずに獣は話を続けているけど、アレ、間違いなくシグマ先輩を引き摺り回していたフィルムだ。そうと認識するのと同時に刀を構える。
「おい、獣」
「でもやっぱり言うこと聞いた方がわたしのこと好きになってくれるかな?いや、いいえ、そんなのは違うよね。先生らしくないし。でもわたしのこと好きにならなくてもいいから他の人間に好きだなんて感情を持ち合わせてほしくないみたいな、ちょっとそんな独占欲的なキモチがあって――」
……ダメそうだな。なんかアクセル入ってるし。
と。件のフィルムが新たな動きを見せる。
それは一瞬にして刃のようにしなり、鋭利に伸びながら魔力を帯びはじめ、無害そうな気配を途端に失った。シグマ先輩を引き摺り回したときとは明確に異なる動き。確実に僕の命を狙うためだけの、純粋な攻撃。穿つための鋭さを孕んだフィルムはまったくの凶器そのものだった。
アレにシグマ先輩が引き摺り回されていた光景を目撃している以上油断はできなかったが、狙われた以上は迎え撃たねば――と、踏み出して、すぐにそれが失敗であったと気付く。フィルムは、妙にそうだと判別しづらい見た目であろうとも確かに、あの深緑の化け物と同じようにシンであったのだ。魂なき命。魂を狙う、化け物。
アレの目的は僕じゃない。そうと気付いた時には既にあの刃は僕の隣を通り過ぎ、獣へと直に向かっていた。
突き飛ばす。引き寄せる。どっちだって必要なのは手を伸ばすことだった。だから、と獣へと手を伸ばすが、否。間に合わない。本能的に理解する。僕が獣に辿り着くより先に、フィルムが獣の脳を貫くのだと、ひどく淡々とした直感。
あの獣を守りたいだなんて思ってなどいない。化け物共の一部である、僕がいつか殺さなければならない獣を守りたいなどと。僕を食い散らかした、あの獣を守りたいなどと、思うわけがないのだ。
――でも。クソ、僕が手を伸ばしたからってそんな嬉しそうな顔をするなよ……!




