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・16-ウェア・ユー・リード

Where You Lead



 ――古ぼけた寮に戻った僕と獣、それからシグマ先輩を出迎えたのは同級生のみんなだった。「よっす!」と元気に手を掲げるシグマ先輩の返事をする者はいなかった。代わりに、リツさんは僕の背後を指差した。それだけで何を言われなくとも、彼女の言いたいことは十分に伝わった。


「そいつ誰だ、新人。」


 やっぱり、ふわふわと宙に浮いて僕の首元に抱き着いている獣がやはり気になったようで、どう目を逸らしたってとても説明したくない事態を説明しなければならないのだと理解する。言いたくねえ、という感情に言葉を詰まらせていると、シグマ先輩が緩やかな動きで一歩前に出た。


「へえ、足立ちゃんは鹿目くんのこと新人って呼んでいるんですね。あ、ちなみにその子、異質体です。」

「は?」


 シグマ先輩のダイレクトさしかない答えに、三人の声が重なった。疑問というよりは「お前なにを言っているんだ?」的な、なんだか否定的なそれ。正直その気持ちはわからないでもなかったが、シグマ先輩はにこにこと首を傾げて、まるで子供に言い聞かせるかのようにゆっりと喋り始めた。


「いしつたい。彼に取り憑いている、高位異常存在、つよくてあぶなーいの。わかる?」


 やはりダイレクトさしかない詳細をすべて省いた彼女の説明にリツさんは眉を顰めた。


「いや、そういうことじゃ――」

「か、かわいいっ……!異質体ってこんなプリティだったのかよ!?」


 リツさんの言葉を遮ってそんなことを呟いたのは目輪君だった。頬を赤く染めている彼の視線はまっすぐと僕の背後、つまるところ獣に注がれている。同じように獣へ視線を向けて口をあんぐりと開けていた途爪さんはふと動き出すと、息を大きく吸いながらふらついた。


「はぁあカワイイ!異質体って、カワイイ!自分、その子、好き!」


 まあ見た目だけは確かに整っているので目輪君と途爪さんの反応は理解ができるけども。他人事だよな、うん。しかし褒め称えられている当の獣はフンと鼻を鳴らして、当たり前だと言わんばかりの態度だ。やっぱり生意気が勝ってかわいく見えないわけだが、目輪君と途爪さんは気にしていない様子だった。リツさんは「落ち着け!」と獣の容姿に盛り上がるふたりを嗜めると、獣から視線を外さずに言葉を続けた。


「なぜ異質体が今になって実体化してるんだ、答えろ。」

「私が思うに鍛えた結果ですね。」

「答える気がないのなら喋るな!そもそもなぜあんたがいるんだ、あんたみたいな特待生はこんなところに来なくていいはずでしょう。」


 シグマ先輩のどこかいい加減な態度にリツさんは噛み付くように言い、赤色の視線をいつもよりも鋭く細めるとシグマ先輩をじろりと睨んだ。

 知り合い、みたいだけど、それ以上に今のリツさんからはシグマ先輩への敵意を感じる。今にも喧嘩が起きてしまいそうなちりつくような、こびりつくような空気感には途爪さんも目輪君も黙り込んだ。普段ならもう少し空気感を和らげようとするふたりが、どこか硬い様子でシグマ先輩を見つめている。警戒心が滲み出ているふたりの反応に違和感を覚えて、たまらず不安になって視線を向けてしまった僕に気付いたシグマ先輩は大丈夫だとでもいうように微笑んで首を傾げると、リツさんへ向き直った。


「私、これからはそこの異質体さんと一緒で、鹿目くんにくっつきます!よろしく!」


 輝かしい笑顔を浮かべてサムズアップした。

 この人、空気読めないんだろうな……。


 翌日。

 朝、なんだか寝苦しさに目を開けたら獣が僕の上に乗りかかって眠っていた。


 ので、叩き落とした。獣がグワーッと立ち上がるのと同時に僕もぬくいブランケットから抜け出して立ち上がる。たぶん、僕のこの瞬間の苛立ちと獣の苛立ちはまったく同じレベルであるとも理解できる、できるけど!理解できねえよ!こっちはせっかく床で寝てやると言ってベッドを譲ったと言うのになにを呑気に他人の上で寝てんだよ!そうキレ散らかしたい気持ちを抑え、道楽教官が行ったように獣の杏色の頭へ手刀を落とす。


「んにゃッ、なっ、なにするの!寝てたのに叩き落とした挙句に手刀(チョップ)!?」

「こっちのセリフだ!なに考えてんだよ!」

「なにが!?」

「他人の上で寝るな!」


 獣は「はあっ」と心外であるとばかりに息を呑んだ。息を呑みたいのは僕だよアホ。昨夜シグマ先輩を空気読めないと思ったが、宣言撤回だ。こいつと比べたらシグマ先輩は豪い理性的で客観視の鬼です。


「信じられない、先生ってばほんとうにデリカシーがない。わたし、一応あなたの獣なんだよ。」

「そんなのは理由にならないしデリカシーがないのはお前だよ!いいか、お前がやったことはアレだぞ、ふ、不純……不純なんとかなんとかって言うんだ。良くないことだ。」

「ちゃんと言えもしないのに振り翳さないで。」


 じとっとアメジストのような目に睨まれながら呆れたように言われる。くそ、寝起きで頭が回らないせいで説得力がひとつもないし、それを指摘された以上僕にできることなんてひとつとしてない。癪に障る、と思うわけだけど彼女が癪に障らないことのほうが珍しいので、獣と言い争うのは素直に諦めて朝の支度をはじめる。

 床で眠ったのが祟ったらしく、体はアチコチ痛んだ。うん、どうやら僕は完全に床で寝る損したらしい。獣はどうせ言うことを聞いてくれないだろうし、今夜は寝るとしたら諦めてベッドで寝よう……。


 ――墓越へ暴言を言いまくった件で特待生待遇となっていた僕は道楽教官の授業もそこそこに、昼食後すぐにシグマ先輩と共に僕たちに宛がわれた任務へ向かうこととなった。その筈なのに、先を歩くシグマ先輩の軽快な足取りがはじめに向かったのはASX本部内で、僕はたまらず彼女に声をかけた。


「あの、どこに向かってるんですか?」


 シグマ先輩は僕の目をちらりと見ると、歩みを止めずになんだか上機嫌そうに微笑んで首を傾げた。まるで慈しむような目つきで、「そっか、きみはASXからの移動、はじめてなんだった。」と彼女は小さく呟き、それから大袈裟なまでの身振り手振りを交えて話し出した。


「鹿目くん、私たちがいま向かっているのはずばり、ASX本部にある……こう、ずばばーんって移動できてしまう場所です。」

「ず、ずばばーんですか。」

「そう、ずばばーん!」

「バカっぽいね、先生。」

「コラ!……すみません、うちの獣が。」


 謝罪という文化を知らないであろう獣に代わって謝る――が、まるで何も起きていないみたいにシグマ先輩は上機嫌に首を振って、「構いませんよ」なんて柔らかな声で呟いた。その様子を見た獣は不快だと言わんばかりに眉を顰め、僕の腕にくっつく指先を強めた。訳が分からない苛立ちのツボだが、まあ獣の感情が分かりたいわけでもないので妥当だと言えよう。


 慣れた足取りで先を歩くシグマ先輩に着いて行きながら、木刀袋を抱え直すついでにちらりと彼女の右肩から垂れ下がる緑色の三つ編みを盗み見る。

 

 不可抗力とはいえ、彼女の腰まであった長い髪を切ってしまったときも、シグマ先輩は今みたいに気にしていないと言ってくれたっけ。そう考えると自然に彼女の人となりが見えてくる、様な気もしてくる。たった一日とちょっとの時間で知った気になるのは傲りでしかないし、自己嫌悪が深まりそうではあるが、うん。


 驚くほどに寛容で、妙なくらいゴキゲンで、なんだか空気が読めない。それから、なんだかたまにちょっと矛盾した動きをする。やっぱり変な人なんだろうと思う。

 だがふしぎと、僕は決してこの人のことを苦手だとは思わなかった。僕にはうまく言葉にできなかったが、彼女には苦手だと思わせないきらきらした何かがあった。近くに行きたい、友達になりたい。そんな愚かな期待を抱いてしまいそうになるほどの、何かが。


 ――ASX本部へ入るとシグマ先輩は一直線に受付へとスキップで駆け寄って、子供みたいな大袈裟な仕草でIDカードを渡した。受付のおばあさんはシグマ先輩に慣れているのか、とくに何も反応せずに、というか視線すら向けずにシグマ先輩へ先へ行くよう急かした。

 シグマ先輩は上機嫌で僕がちゃんと彼女へ着いて行っているのか振り返り確認しながら、軽快な足取りで先を進んで行った。まるで多動症の子供を見ている気分にさせられたけど、彼女の僕を見る目付きは逆に彼女が子供を見守っているのだと言わんばかりの穏やかなそれで。なんだか妙な気分にさせられる。


 幾つものドアが並ぶ白い廊下を歩いていると、ふと立ち止まったシグマ先輩が僕へと振り向く。僕と似たような黒手袋をはめた手の、細やかな指先がびしりと何の変哲もない白いドアに向けられた。ドアのプレートには他のドアとは違って何も書かれておらず、一見すると物置のようにも見受けられた。


「このドア、左側、まっすぐ歩いて十七個目のドア。特待生専用のものです。IDがカードキーにもなっているので――」


 一度言葉を止めて、彼女はちょっと大袈裟な仕草でかっこつけるようにIDカードを指先に挟むとにやりと不敵に笑った。


「任せてください……」


 やたらと湿度が高い感じで囁き、なぜだか自慢げにしながらシグマ先輩はドアを開けた。この人、ちょっと面白いな……。

 先へ入った彼女を追うようにして部屋に足を踏み入れるのと同時に部屋には穏やかな色のランプが色付いた。照らされ出したそこは実に質素でお洒落なロッカールームで、何だか目が痛くなるほど白いASX本部とは反対に黒を基調としていた。ロッカーやベンチは青で統一されており、また部屋の左両端にはコンパクトなシャワーブースが付いている。奥の壁には赤色のドアがあり、ピン留めされているプレートにはシックな英文字フォントでオープンと表示されている。

 僕の腕から離れて獣がくるくると回りながら辺りを見渡した。


「ふうん、ちょっと病的さが減っていて、わたし、ここ好き。誰がここをいじくったの?」

「あ、いじくったの、わかっちゃう?ここ、特待生の教官……マジモトが個人的に手出ししていて、ちょっと他のロッカールームよりは豪華になってるんですよね。」


 獣の疑問に対するシグマ先輩の解説に、ふと脳裏に幾つか過ったのはマジモトとの邂逅だった。人の話を少しも聞かないうえに傲慢な態度を取るあのマジモトがわざわざ個人的に特待生のための改装工事を望むとは思えなかったが、意外とあの人にもそういう生徒思いな面はあるらしい。正直、ちょっと見る目が変わる。

 幾つも並んだロッカーのうちのひとつを開け、笑顔を浮かべたままシグマ先輩はチャコールグレーのロングコートを引っ張り出して言葉を続けた。


「勝負に負けた方がひとつだけ言うことを聞く、みたいなアレソレがあって、カイに負けたマジモトが私財と、それから上層部を言い包めることに時間を削ってリフォームしたんです。愉快な記憶です。」


 ……納得って言ったら失礼になるかな。


「ねえ、きみ。」


 穏やかな表情で彼女は僕の前に立つと、先程ロッカーから取り出したロングコートを手渡してきた。こうして手渡されて見ると、僕にはちょっと小さい気がする。


「これ、あの子に渡しておいてくださいな。今のままだと目立つし、たぶんパクスに支障が出ると思うから軽くフードで外見を隠してほしいんだ。」


 ……。


「あ。〝なんで僕がやらなくちゃいけないんですか〟って顔だ。」

「まあ正直ちょっと。」

「ふふ、わかる!でも赤の他人でどうでもいい存在の私のお願い事、愛おしい存在である〝先生〟のお願い事、どっちの方がより彼女にとってお願い事を受け入れやすい?」

「そりゃあ確かに僕でしょうけど……でもアイツが僕の言うことを全部聞くとも思えないっていうか。」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。〝目立つからロングコートを着て顔を隠してくれ〟くらい聞いてくれるって。」

「なんかちょっといい加減じゃありません?」

「いや、本気本気(マジホンキ)です」


 小声でのやりとりを続けていると、辺りをくるくると見終わった獣が駆け寄ってくる。その目付きは少しばかり怪訝で、今までの経験から彼女が何を考えているのかはさすがにわかった。好意を向けられるのには未だに慣れないし、自分で相手の感情を嫉妬だと判断するのには勇気がいるが、獣のことだ。十割九分、きっとよくわからない嫉妬心なんだろうと思う。

 〝ちょっとキライだな、ソレ!〟とかなんとか面倒くさいことを言われるより前にロングコートを獣に渡す。


「これ。お前、目立つから着てくれ。」

「あ!それを話していたのならコソコソって隠さなくってもいいのに。お願いしてくれたらちゃんと着てあげるよ?」

「あれ。なーんだ、私でもよかったんですねっ」

「お前には言っていないよ。」


 か、感じ悪い。仮に僕が知り合って数日も経たない相手にそんなことを言われたら落ち込むどころか数週間は黙り込むという選択を取るだろう、もちろん躊躇いはゼロで。しかしシグマ先輩はとくに獣の棘を気にした様子もなく「そっか!」と、ただ明るく笑って頷いた。

 すごく寛容、というか。なんかもうそういうレベルじゃない気がしてきた。この人やっぱり変だ。


 渡したロングコートを早速着た獣は、頼んでもいないのに見せつけるようにまたくるくると回った。ロングコートは獣には些か大きかったようで……うん、こういうのは着られていると言うんだっけ。ふつうなら低身長の中学生が大人のコートを着ている状況にも見えそうだが、ふしぎとお洒落に見えるのは獣の妙に人間離れした容姿のおかげだろう。うーん。なんていうかな……。


「あの、先輩。これ逆に目立ちません?」

「えっ!先生それってこのコート着てるわたしがかわいくって逆に目立つってこと!?」

「あ、それね。パクスへの認識阻害の式が組み込まれているからじつは問題なかったりするんです!」

「わたしがかわいいってことだよね先生!?」

「へえ。コートにそんな機能が組み込められるんですね。」

「んもう、照れちゃって……」


 照れてねえ。軽く獣の額を指先で小突くと獣はまた嬉しそうにくすくすと笑い声を上げた。馬鹿にされてるような気もするが、獣の真意なんて知らないしわからない。脳裏に浮かび上がるのは、なんなんだこいつ、という一言コメントだけである。


「それと鹿目くん、きみはこっちの4番のロッカー。物資と、替えの着替えと……ひとまず必要なものはあらかじめ道楽さんが用意してくれたらしいので、これから遠慮なく使ってくださいね!なにか他に必要だったり、足りなくなったりしたら本部の購買に声をかけたらいいと思います。」


 頷いて、開けてみるとシグマ先輩の言っていた通り様々な物資、それから数着の着替えがハンガーにかけられてあった。スターターセットって感じがするし、これが基礎であるという指標は正直とても助かる。

 僕の横からロッカーを覗き込んだシグマ先輩は置かれている細身のウェストポーチを指差した。


「リュックとかバッグとかは前線向きじゃないし、ウェストポーチは小さくても必需品分が入るし動きに支障が出ないから、前線主体の任務に向かうときはウェストポーチがオススメです。」


 笑顔とサムズアップでのオススメ。度々お世話になっているし、ましてや先輩である彼女の助言だ。きっと間違いないはず――と、ひとまず木刀袋を置いてウェストポーチを身に着ければ、ウェストポーチはすっかりベストの裾で隠れた。

 これで正解なのかな、とちょっと不安になりながらシグマ先輩を窺うと彼女は首を傾げてにっこり笑ってくれた。うん、これでいいみたいだ。


「さて、準備万端!行きましょう、鹿目くん、ヴィーヴィル。ぱぱっと終わらせて――あ。うーん、きみ、好きな食べ物はある?」

「えっそれ今聞くことですか?……えと、そば、とか……」

「じゃあぱぱっと終わらせたら、一緒におそばを食べに行こう!」


 これまたこちらが尻込みしてしまいそうなほどのきらきらーっとした笑顔を振り撒いて、シグマ先輩はロッカールームの奥に位置する赤色のドアへと進んで行った。赤色のドアを開けた先は、大体七人ほどの成人がこの部屋に入ることができたのなら十分なくらいのこじんまりとした部屋で、床には赤く形作られた魔術陣で敷き詰められている。

 ミミズがのたくったような文字の魔術陣を見るたびに思うが、なんて書いてあるのかまったく想像もできない。理解できる日は来るのかな……、なんてモヤモヤしながらシグマ先輩を倣って魔術陣の中心へ足を踏み入れる。獣はぎゅっと僕の腕に絡みついてくる感覚がしたが、一々反応するのも癪なので放っておく。


『現場に送ります。我々ASXの健闘を祈ります。』


 天井のスピーカーからそんな言葉が響くと、地面に書かれた術式は眩く光り僕の視界を真っ白に染める。痛むほどの明かりにたまらず目を閉じるが――光はほとんど二秒もかからずに収まり、そうして目を開けると、僕は気付けば獣とシグマ先輩と共に薄暗い密室に立っていた。

 コンクリートの繭と言わんばかりの部屋には間接照明ひとつと、黒色の破けた革張りのカウチの下に無地の茶色なのか赤色なのかよくわからない絶妙な色の絨毯が敷かれていた。部屋はどうにも黴臭かった。密室だからだろう。


 はじめての移動方法にはそのまま驚きたい気持ちもあったが、獣も、シグマ先輩も平然という顔をしており僕だけが馬鹿正直に〝すげー!〟とか言えなかったので僕も平然だという顔を作る。

 しかし無惨にも僕の試みはすっかりとバレてしまったらしくシグマ先輩はどこか柔らかな、それでいて訳知りな目つきと共にムフ、とほくそ笑んだ。ちょっと照れ臭さで言葉に詰まった僕へ、彼女はやはりあのサムズアップを向けてきた。


「びっくりなんてオールオッケー!はじめては誰でもはじめてだし――」

「?いま先生が驚くようなことなんてなかったよ。そういう決めつけって良くないし、何も知らないお前みたいな小娘から決めつけやられたら、わたし、むかついちゃって殺したくなっちゃう。」


 獣は僕とシグマ先輩の間に立ちシグマ先輩をじろりと睨みつけるなり、なんともまあ〝お前が言うな〟の見本さながらな非難をシグマ先輩へぶつけていった。なんなんだお前はという呆れ、あと他人様に対してそんな失礼な態度で接するなという気持ちを込めて呼び掛けて宥めようと口を開いた……けれど、同時にシグマ先輩は獣を無視してスマホを取り出し、変わらず穏やかな視線をスクリーンへ注いだ。獣の言葉なんて、まるで耳に入ってもいなかったとばかりに。

 え。


「えっ……?」


 え!?と声が出そうになるのを直前で堪える。当然、シグマ先輩の流れるような無視には驚いたが、それ以上に獣のショックを受けたかのような声に驚きの意識が向いてしまった。どうやら獣でも本気で意表を突かれたみたいな声を出せるらしい。自由奔放で横暴尊大な獣だと思っていたし、そこそこの長い時間を共に過ごしていたつもりだが、まだまだ新しい一面を見つけられていることにはしばし感心せざるを得ない。


「これからの目的地はここを出て数分の位置にある、千葉の撮影スタジオみたいです。余程重要な件でもない限り、特待生はあまり情報が貰えないまま任務に投げ出されることが多いんですが、今回もそのようです。先行して向かったゼノもいて困っているらしいので早歩きで!よし、行くぞー!吉幾三!よし!」

「えっあ、はい!」


 元気よくドアを開けて密室から抜け出すシグマ先輩を駆け足で追う。すぐに穏やかな春の風が頬を撫でるのと同時に、この場が暗がりの駐車場なのだと目につく。ASXの転移先として整えられているだけの廃墟というわけでもないらしく、幾つかの車はこの駐車場の存在意義を確かに満たしていた。

 後ろから慌てて駆け寄った獣は僕の腕にくっつき、軽快な足取りで先導するシグマ先輩を睨んだ。


「あの小娘おかしいよ、先生。」

「わかってる。」


 言って、ただ、頷く。シグマ先輩だって獣相手におかしいだなんて言われたくはないだろうが、うん、シグマ先輩がちょっとおかしいのは事実だと思う。おかしくて、まっすぐ……いや。()()()()()()()()()()()()()

 常識がないくらいにまっすぐな人で寛大なくせ、無視はするし空気は読まないし。もしかして意図的なのかな。うーん、そんな気がしてきた。


「そういえばなんですが、」


 ちょっとおかしい先輩が振り向き、長い前髪に隠れる左右で異なる色の目が僕を見つめた。ふにゃふにゃした笑顔を人形じみた顔立ちに浮かべて、彼女は続けた。


「墓越の件で、どうやってあいつを黙らそうかなって考えてたんですよ。で、一番手っ取り早いのはきみが墓越妹の婚約者になるっていう選択肢なんです、あいつファミリーコンプレックス持ちだし家族の一員と認めたら黙るんじゃないかなって思って。これを話したら道楽教官にしこたま怒られたんですが――どう?きみはこの選択肢、選んでみたくない?」

「殺すよほんとうに。」


 獣が静かに憤怒した。僕はシグマ先輩の並び立てた謎の理論にひどく驚いて言葉も出なかった。

 ……シグマ先輩、〝ちょっと〟おかしいだけじゃない。

 この人、めちゃくちゃ変だ。





 アークポイント・撮影所到着確認/旧一年生四型ゼノ 鹿目礼司・特待生 芒本志熊/ケース2


 シグマ先輩が先導して僕たちが辿り着いたのは、僕が予想していた子供の記念撮影とかで愛される撮影スタジオよりもずっと本格的な撮影スタジオだった。映画とかの撮影に使われるものらしく、穏やかな天気を背景に建つ撮影所の門近くには青く大きな看板がこの場を象徴せんとばかりに「千葉映画撮影所」とシックなフォントで示している。


 ……これからここに入り、またシンを相手にするんだ。その感覚はやっぱりひどく恐ろしくて、ひどく非日常として僕の根幹に染み付いていた。

 芸能人とかいるのかな、と現実逃避として野次馬よろしく考えたところで自分がとくにテレビも映画もドラマも見ていなかったことを思い出す。芸能人がいたとして、僕はそれに気付けない。最後に何かを楽しく観たのは戦隊モノだが、それももう十年くらい前の記憶でうろ覚えだった。こういう緊張してしまう場面では、意図的に排除しているとはいえ自分の娯楽性に欠けた生活を苦く思わざるを得ない。現実逃避ができない。常に問題と一対一。だからと言って僕みたいなやつが娯楽に浸って良いわけがないという考えが、変わるわけではないのだが。


 一方で門へ向かい歩きながら、お洒落に形作られた映画撮影所の背の高い鉄柵へ指先をなぞらせるシグマ先輩の視線は穏やかで、到底これからシンと対面する人間のものだとは思えない。前にも思ったが、彼女は非日常を日常だと言わんばかりに受け入れているようだった。僕はまだ結界内にも入っていないのに手汗をかいているし心臓がざわついている。いつか僕も彼女のように余裕を持てる日が来るのかもしれないが、今のところは想像もできないのが本音だ。

 すると、突然獣がぎゅっと僕の腕に絡み付く力を軽く強めてくる。放っておいても面倒くさそうだったので抗わずになんだよ、と気持ちを込めて視線を向けておく。紫色の瞳が愉快げに細められる。先日、あれほど僕が弱くて死ぬんじゃないかと不安がって泣いていた奴とは到底思えない様子だった。


「楽しみだね、先生。」

「どこがだよ」


 いやマジで。嫌味か?とも考えたが獣がそんなことをするとも思えないので本気で楽しみだと考えたんだろうけど、うん、尚更質が悪いよ。如何せんきっと映画撮影所の中は前の学校と同じように、死が間近にある。平等に訪れる死が不平等に、暴力的に振り翳されている。楽しみだなんて言うその無神経さは正直計り知れない。コンプライアンス違反っていうんだっけ、そういうの。……なんか違うか。


「体のある状態で、ふたりでこうして来るの久しぶりなんだもん。わたしはすごく楽しみだよ。」


 そんなことを言われて、僕じゃない、先生との記憶を持ち出されているのだと気付く。妙に腑に落ちた。アダムスルトさんは初代会長を苦々しく想っているようだったし、たぶん獣みたいな奴だったに違いない。こういう事態にいても楽しめるような、妙で意地の悪い奴。お似合いだったんだろうと思う。


 ふと先を歩くシグマ先輩がくるり、と振り向いて僕と獣へ微笑みかけた。


「これから結界内に入るので、一通り基礎のおさらいをしますね。大事なのは主に二点です、シンによる内部結界の解除を目指してシンとその核の破壊、生存者の救出。今回はふたりで中へ向かうことになるけど、きみは経験が少ないので二手にはわかれられません、なるだけ離れないように。先陣を切るのは私が行います。ヴィーヴィルは鹿目くんが命の危機に見舞われているときのみ攻撃を許可されているので、そのように。」


 淡々と言葉を述べるシグマ先輩に、ふと、おかしな人だと認識していたが彼女は立派に特待生として認定されている事実を思い出す。非日常を日常として受け入れることに、命をかけて生きるという在り方に慣れているかのような立ち振る舞い。リツさん、途爪さん、目輪君にも見受けられた、非日常を日常として生きていた人のその甘受の在り様は見慣れることがない。

 僕には理解できなかった。如何せん僕にはまだ非日常の都度の覚悟が必要で、いつも土壇場の勢いで即席の覚悟に突き動かされているか、大抵の場合は苦々しく目の前の現実を飲み下しているかの二択で、真に非日常のすべてを受け入れたことはない。たぶんそれは僕がたまらなく非日常を嫌っているからだろう、なんて、意味のない分析なんだけども。

 もごもごと考えていると、シグマ先輩はにっこり微笑んで首を傾げた。


「それじゃあ、鹿目くん。化け物(シン)を殺しに行こう!」


 当然のことのように非日常を言葉にする人だなあ、などと思いながら僕は頷いて木刀袋から刀を取り出し、鞘を腰のベルトに装着しておく。化け物をこれから殺しに行く。皮肉なことに僕としてはその実感があまりないどころか逆に、化け物に殺されるために行くんだという実感の方が強かった。ううむ、難儀だ。

 映画撮影所の門前には他のゼノ隊員が僕たちを待っていた――主に、一帯に人避けの魔術を使っているとはいえ念には念を込めてパクスが結界へ近付かないよう警備として働く警備課のゼノだ。彼らの腕には黄色い腕章が目印としてつけられている、とトギさんが以前教えてくれたのは記憶に新しい。

 シグマ先輩は冷たい目で彼女を見る警備課のゼノ隊員へ近寄った。


「お疲れ様ですこんにちは!特待生の、」

「聞いてます。通ってください。」

「はい!」


 雑に通されているな……、と先に結界へ飛び込むシグマ先輩を見ていると警備課のゼノには聞こえないほどの小さな声で獣が呟いた。


「みんなあの小娘に冷たいのはなんでなのかな」

「……お前にもそう見えてるんだ。」

「うん。あんまりにもあからさまで、ちょっと不快。」


 ずっと気になっていたが、獣でもそう見えていたらしい。リツさんは普段よりキツい態度でいたし、途爪さんと目輪君ですらシグマ先輩を見る目には冷えた警戒心があった。

 あの空気感……あれは間違いなく()()()だった。ASX本部にいた受付嬢も似たような態度でシグマ先輩を一度も目を合わさなかったし、適当に流していたし。僕の知る限りで、シグマ先輩に対してふつうの態度で接していたのは道楽教官とカイ先輩くらいだった。


 警備課のゼノは僕たちと目が合うと軽く会釈をして先へ促した。その視線や態度はシグマ先輩に向けたものとは異なっていた。もっと穏やかで、まるで同志へと向けるそれ。


「……あの子が気にしていないって顔で黙っているのも正直言うと不快。」


 不満気に「わたしだったら文句のひとつやふたつ、言ってるのに」なんてぼやきながら結界内へ足を踏み入れる獣を追って映画撮影所の門をくぐる。水の中へ飛び込むみたいな、くぐもった感覚に包まれる一瞬が終われば視界が切り替わる。暗い空に走るマゼンタ色の軋み。瘴気に満ちた空気は重たく粘っていた。

 シグマ先輩はしばし映画撮影所の建物に目を向けると、静かに僕へ目を向けた。人形じみた顔立ちに浮かぶ、にこやかな笑顔に揺らぎはない。けどその瞳に映る芯は変わっていた。ふにゃふにゃと柔らかくて、きらきらのそれが、今はまるで燃えたぎる炎のようで。ぎらぎらと、目に映る全てを蹴散らしてやると言わんばかりの色で。ああ、自分の魂まで鼓舞されている――なんて、そう思わされる。瘴気でじりつく空気も、この先にあるであろう乱雑に振り翳された死という絶望も、ただその瞳の熱だけで何も怖くはないと、そう思わされる。


 ……特待生ってすごい。慣れているからすごいとかの話じゃなく――いやそれも勿論すごいことなんだけど、それ以上に、一緒にいて安心感があった。不安も恐怖も緊張も、彼女と視線が合うだけですっかりなくなってゆく。シグマ先輩といるなら大丈夫だなんてひどく他人本願な話だけど、と考える僕をヨソに彼女は柔らかく言った。


「ここからは軽く走りましょう、ばーっと!」

「了解です、ばーっと!」

「えっ、ばーっとで揃えるの反対!わたしの先生に変な口調うつしちゃイヤ!」


 また妙な視点の文句を垂れる獣だったが、僕たちが走り出せばブツブツと「んもう」とか「いっつもこう……」とか言いながらも素直について来てくれた。べつにいつもこうではないです。


 千葉映画撮影所内は、先日の校舎と同じように〝違法建築〟されていた。建物の割には大きく広がる空間、瓦礫の散らばる乱雑な床。瘴気で濁った空気は道をどんよりと曇らせている。散らばっている脚立にフィルム。ビデオカメラの回るその無機質な音は幾つにも重なり、気色の悪い旋律を奏でている。他に表しようがないほどかなりの悪夢テイストだったが、以前の校舎と異なり山ほど重なる死体は見受けられなかったので比較的マシには感じる。

 シグマ先輩は歩きながら周囲をぐるっと見渡すと、目をぐっと抑えて呟いた。


「んう、これだけ広くて25くらいか。」

「何がですか?」

「生存者の数、です。先行して向かったゼノに保護されていて無事みたいです。シンは5匹ですが、かなり魂を吸い込んでるみたいだから強化されている、すこし手がかかりそうですね。核はシンそのもののパターンなので、すぐ済むかと思います。」

「わ……わかるんですか?」

「わかっちゃうんですこれが。私、目をチャネリングすると他のひとだと視られないモノが視られるんです。そもそも魔眼でもなければ〝モノの本質を視る〟という点だけに特化したものだから、特別になにができるというわけでもないんですが、こういうときには役に立ちます。」


 笑うシグマ先輩にしばし言葉を失う。彼女はなんてことのないように話しているが、僕が前の校舎内で不安に思っていたことのすべては解消されたわけだ。生存者だけじゃなくて、核と、シンまでも。あの暗闇のなかをがむしゃらに突き進む感覚に苦しめられる必要は、もうないんだ。

 それはなんていうか――。


「すげぇ、ですね。シグマ先輩って。」

「あ……んふー、ありがとうっ!」


 きゅーっと目を細めると、シグマ先輩は首を傾げて微笑んだ。うん、誰から見ても愛嬌満点の笑顔だ。そんなふうに、自分が置かれている状況すらも一瞬ばかり忘れて彼女の穏やかな仕草に思わず目が奪われてしまう。非日常を日常とする人。僕までその在り方につられてしまいそうだった。……冷たい態度で切り捨てられていたのが、やっぱりわからないな。

 しかし、どうやら僕がシグマ先輩を褒めたことが気に食わなかったのか、納得のいかない様子で獣が声を上げた。


「わ、わたしだって完全体ならそれよりすげぇことできますけど!?なんだよもうっ」

「もちろん、なんせきみは高位異常存在ですからね。完全体だったのなら私なんてけちょんけちょんにされるかと思います!」

「煽らないでよ!」

「よし、それじゃあ今は嫉妬しいなの引っ込めて貰っていいかな。25人しかいない生存者が殺されないよう急いで行かないと、ですから!」

「嫉妬しいなんじゃないんだってば!今のどこがっ、」

「はは、走れ走れー!」


 にこやかにガン無視を貫くシグマ先輩を追いかけると、獣は「うーっ」と唸り、ひどく不満気にしながらもフヨフヨと浮いてついて来た。

 ……獣のこういう素直なところは嫌いじゃないと思う。まあ、素直すぎるのが彼女の良くないところでもあるので、うん。絶妙に関わりたくもないと思わされる節だ。短所が長所的な、時と場合によって迷惑になる時と好ましいと感じる時がそれぞれある彼女特有の獣節。きっと、こんな世界でもなければ、或いは僕も彼女のことを素直に好ましいと思えていたかもしれない、そんな彼女特有のそれ。


 ふと先頭を走るシグマ先輩が赤いレインコートの内側から黒くて細い筒のようなものをひとつ取り出した。


「どうしました?それなんですか?」

「これは(ツカ)、武器、ブンブン振り回すんです。それと、シンがこっちに向かって来てますね。たぶん、強力な魂持ちだと気付かれたのかな。」


 彼女はそうしてちらりと獣に視線を向けた。ああ、と納得がいく。魂を吸い強化するシンであるのなら、確かに千原千鶴の魂を吸って実体化している獣は熟れた果実みたいなモノなのか。獣ならべつに心配しなくたって平気だろうが、僕が命の危機に見舞われているときのみ攻撃を許可されているという状況下のなか、彼女の行動を制御できるか否かが問題になってくるわけで……。


「獣、ちょっと下がってろ。」

「えっ守ってくれるってこと!?きゃあっ先生ったら!」

「おっ……ひゅー!おあついねー!」

「う、うぜえ……先輩も捲し立てるようなことしないでくださいよ。勝手に前に出られて問題を起こしたくないだけです。」


 しっかりと釈明をしたところで自身に都合の良いように物事を見る癖のある獣は現実というものが理解できなかったらしく頬を赤らめたままだった。こいつ、と呆れ果てるもシグマ先輩の動きが揺らいだことに気付くと意識がそちらへ向かう。まっすぐと向けられるその視線の先を僕も追おうとしたら、即座にシグマ先輩へ制される。


「先輩?」

「フム。」


 シグマ先輩はもうひとつの黒い筒をレインコートの内側から取り出す。両手に持った黒い筒を振り翳し、すると途端に筒は剣へと形を変えた。黒色の、鋭い、それ。彼女はそのまま軽く助走をつけると走り出し、至って無造作に片方の剣を壁へ投げつけた――かと思ったが、ぐしゅうっ、という肉から吹き出る血飛沫の音が聞こえた。

 透明になっていた、らしい。


 自身の血に濡れてシンが姿を現す。

 脂肪の爛れる巨体に、その中心には瞼のない人の目を持つ、歪なカオ。カオについていた大きな口からは鋭く、血に濡れた歯が見える。その腕は長く大きく、掌だけで人ひとりを潰してしまいそうだ。不気味な深緑の肌はまだらにその色を変え、背景と同化せんとしている。人と呼ぶにはあまりにも欠けているその歪な姿。その飢えた視線。()を、捉えて。

 きもちわるい、と喉が引き攣る。後退しそうになる体を持ち直し、獣を背後にして刀へ手をかける。勝てるイメージも、生き残れるイメージも、なにひとつなくても。来るなら迎え撃つ、その気で。


 なのに。ひどく呑気にシグマ先輩が振り返る。唸り、走り出して襲い来るシンを、まるでものともしていないかのように。何してんだよあんた、そんな言葉にならない声が喉奥辺りで詰まる、目が見開く。彼女はただ穏やかに首を傾げて微笑んだ。


「だいじょうぶ。気を楽にして。きみは死なない。」


 確信を持った声だった。ただ、空は澄んで、雨は降れたら濡れると述べるかのように。淡々と当たり前を話す、無機質で柔らかな声だった。


「そういうふうに私が努力する。」


 シグマ先輩はレインコートのフードを被ると俊敏な動きで腰を低くして、彼女へ飛び掛かったシンを避けきった。しかし、すると彼女の目の前にいた僕が、この化け物と面合わせするわけで。なにが〝そういうふうに努力する〟だよ、と戸惑いと苛立ちに頭が真っ白になりながら慌てて抜刀し――ふと彼女がシンの肉体へと手を伸ばして触れた、その瞬間。灰色が、滲んだ。

 静寂。


「……消えちゃった。」


 獣が心底理解不可能だと言わんばかりに、ただ事実を呟いた。

 シグマ先輩が消えた。あの緑色のシンと共に姿も、音も、においも。なにひとつとして〝そこにいた〟という証明をなくして。

 するとその一瞬前まで感じていた戸惑いと苛立ちはすっかりと、じりつく不安へと変わる。僕はどうするべきなのか。一体なにが起きて消えたのか。彼女は無事であるのか。あんなふうに、やさしい言葉を紡ぐおかしなくらいまっすぐな人と二度と会えなくなってしまうんじゃないか。

 気付けば無心で手を伸ばしていた。ほんの数秒前まで、そこにいたシグマ先輩へと手を伸ばすように。手を伸ばした先に彼女がいるんじゃないか、なんて。そんなことを。


 ――うるさく音が鳴る。同時に風圧で目が霞む、髪が揺らぐ。件の巨体のシンが空中から降り落ちてきたが故にうまれた音と、それが故の風。力なく横たわり、溶け出す緑の肉体には幾つもの黒い剣が突き刺さっており、その各々の傷口からは血が滝のように流れ出している。

 シグマ先輩は、その死体の頂点にいた。

 赤いレインコートは血と、雨で濡れていた。


「今のはふつうにかっこつけ。でも、ほら。だいじょうぶでした、でしょ!」


 えへん、と腰に手を当て、彼女はピースサインを見せてきた。シンの肉体から滝のように溢れ出す血よろしく、僕の頭には疑問が湧いて止まらなかった訳だが、僕よりもはやく事の理解を終えた獣がまったく尊大に顎を上げてシグマ先輩を見上げた。


「どこに行ってたの。」

「お庭。」


 にこり、と首を傾げて微笑む。


「なんで濡れてるの。」

「雨が降ってたんです。血は、ほら、これ。」


 そうして、指差す方向は彼女の足元。今となっては物言わぬ死体となったシン。じりじりとマゼンタ色の塵へと体を変え、徐々にシンは消えてゆく。獣はきゅっと眉を寄せていやそうに呟いた。


「おまえ、ちょっといい加減だな……」

「んふ。真面目なのは美徳だけど、考えすぎは苦悩になりますよ、きみ。」


 目を細めて微笑みながら、シグマ先輩はまた歩き出した。しっかりとした歩みだったが、フラフラと軽快に歩むその足取りはどうにも覚束ないようにも感じられた。ふと、道楽教官が「彼女の問題は無茶の鬼ってところ。」と言葉にしていたことを思い出す。


「先輩、」

「ほら、生存者優先!走りましょー!」


 気遣われたくないと明白な意思を感じた。その意思を汲み取るべきなのだとわかっていても、僕は気付けば彼女の腕を掴んでいた。筋肉すらも感じられないほどに細っこい腕だった。


「ちゃんと説明してください。」


 知らないでいるのは楽だ。見て見ぬふりは楽だ。だが、知らないでいることを甘んじて選ぶのは嫌だった。僕は知っている。その選択は、失ったときにできる傷へ限りなく痛く傷口に沁みる塩なのだと。だから、後には引かない。恥も、躊躇いもない。

 シグマ先輩は一瞬だけぼんやりと遠くを見つめると、それから僕と獣へと視線を向けた。その表情は柔らかかった。ふにゃりとした笑顔で、穏やかな声で。彼女はなんらひとつ僕の気持ちを汲み取らないで、掴んだ腕をそのままに歩きはじめながら、至っていつも通りの様子で言葉にした。


「急いでるから数か所を切り取って説明しますね」

「あ。す、すみません!急いでるんでした!」


 慌てて手を離して頭を下げる。そ、そうだった。目の前のことに思考を取られていたが、絶対に呑気に話している場合ではない。

 ああ、我ながらなんともまあ恥ずかしい醜態を晒してしまった。正直なところ、自らのどうしようもないほどの短絡的な一面がモロに出てしまって合わせる顔もないのだが、シグマ先輩は気にした様子もなく「だいじょうぶ!」と笑ってサムズアップをした。

 う、朗らかさに救われる……。


「じゃあ説明するけど、私、別世界を行き来できるんです。そして星の数ほどある世界のなかで私が保持している世界はみっつ。()()()()。行ったり来たりすると魔力がすこし減って、すこし疲れるのと、すこし眩暈が起きる。ぐおんぐおん、ばびばーんって。乱用は出来ませんが……。」

「そのオノマトペで合ってます?」

「きっと!」

「バカっぽいね、先生。」

「コラ!……またすみません、うちの獣が。」


 シグマ先輩は気にした様子もなく首を傾げ、きゅっと愉快気に目を細めると「構いませんよ」なんて言って笑って、再び軽快に走り出した。僕と獣もその軽快な足取りに合わせて進んで行く。

 ……さっきの獣への説明よりは真剣なんだろうけど、最後の妙なオノマトペでイマイチ伝わらない真剣さだった。あまりにも感覚的な人なのでついていくのにはそれなりの感性か忍耐が必要だな、なんて、彼女の能力の説明を余所に思ってしまうわけで。ええと。

 

「別世界……を、保持しているってどういうことですか?」

「そのままの意味ですよ。壊れかけのものを私のにすることで保持と点検をしてる。世界に意味を付与して――」

「壊れかけ?意味?」

「意義を終えた世界、意味がない世界は消えてしまうんです。一抹の夢みたいに。だから、その世界へ穴を突き通して道を作る。道があると意味があるんです。するとその道は私の心の中に残るし、私はいつでもその道を通って移動ができる。もっと感覚的で、もっとたくさんの細々としたディテールと仕様があるんだけど、わかりやすくかいつまんで説明するとそんな感じ、です。」


 こつこつ、とシグマ先輩は自身の胸元を叩いた。理解の範疇をどうにも超えた話のようにも聞こえるが、彼女の雨粒に濡れたレインコートを見る限りでは真実でしかないのだろう。うそだあ、なんていう感想は無意味に違いない。


「……おまえ、さっきから軽く言って誤魔化してるけど、だから空っぽに見えるんだね。」


 また。こいつ()どうしてこんなに失礼なことしか言わないのか。いままで何を言ってもわりと寛大だったシグマ先輩だったが、これには歩みを止めてにこやかに首を傾げると獣を見据えた。

 ……いや。この人も、またこれと言って何も思っていなさそうな顔をしているな。なんて思って間もなく獣はシグマ先輩の胸元を指差した。


「道だって言って誤魔化したけど、ほんとうに世界を()()()()()()()でしょ。だからわたし、おまえが気に食わないんだ。」

「……はあ?」


 獣の指摘に思わず声が洩れる。世界を()()に持っている。えっと、文脈と仕草からして、つまり。シグマ先輩はみっつの世界を……別世界を、文字通り心に持っているということか?そんなのは不可能に決まっている、と思いかけて、すぐに考え直す。この世界に在る非日常と異質の数々を思い返せば、不可能なんて事態がないのは、いくら僕の頭が固くてもわかることだった。

 獣は至って平然とした様子で言葉を続けた。


「ふつうの人間だったら死ぬ大きさの意味と物質量を魔力で抑え込んでるから、魔力がほとんど残ってない、空っぽ。おまえの魔力量と力なら惑星くらい殺せるのに平然としているだなんて、悪質だよ。」


 ひどく棘のある言い草だった。実際に世界を持って、魔力がほとんど残っていないとして、それを平然としていることの何が悪質なのか僕には理解できなかった。


「おい……悪行三昧ってわけでもないのに悪質は言い過ぎだろ。」

「ううん、ちがうよ、先生。悪質なの。わたしが先生のじゃなかったら殺してるくらい、世界に対しては危険分子。」


 ぞっとするほどの断言と、異質体が決して人間の味方ではないという事実が改めて浮き彫りになる。

 惑星の保護という目的がそもそもの異質体にはあることを、獣とのはじめての邂逅のあとに道楽教官から教えてもらった異質体の存在理由を、僕はこの瞬間に至るまですっかり忘れていたが――いまの彼女を見ているとそれが如何に事実であったのかと思い知らされる。

 獣は目的のためであるのなら、殺しを躊躇わない。

 どれだけ獣が人のように振る舞おうと、いつか僕が人殺しに慣れてしまってそれ以外の生き方を忘れたときは何度でもそれ以外の生き方を思い出させると獣が宣言しようと、僕は確かに〝恋〟だなんて歪な感情が理由で喉元をラムチョップよろしく獣に食い千切られたのだ。硬く変わらぬ事実。わかりきっていたことなのに今は獣が獣であるという現実がひどく生々しく感じられた。人のモラルを持たない、化け物。

 

 しかし。当のシグマ先輩は瞬きをすると、


「うわ!嫉妬しいっ!」


 極めて、とくになにも気にしていない様子でそう言った。


「しっ、嫉妬しい!?そんなじゃなくない?!いまのどこが嫉妬しいなの!?」

「やですねえ、そんな脅さなくっても鹿目くんには手を出しませんよ」

「は、そん……はあ!?」


 うーん。一味違う。この人、獣の扱いがうますぎる。アレだけ自由奔放そうに見える道楽教官でさえ獣の横暴尊大さに振り回されて手刀(チョップ)で黙らすという方式を取っていたのに、シグマ先輩は獣を振り回しているようにすら見える。


「第一、惑星なんか殺しても意味がない。いま持ってる世界を切り捨てる気も、ない。意味がないから。私、意味のないことはしませんよ」

「だったら、意味があるなら惑星を殺すの?」

「きっと。でも人の命より重要な意味なんて、この世のどこにも存在しないと思います。」





 瓦礫とフィルム、脚立で散らばって獣道さながらの廊下を走る。ビデオカメラの回る無機質な音が幾重にも重なり響く道で、先を走るシグマ先輩の足取りに迷いはひとつもなかった。道中、彼女の視線は微かに上向きに向けられ、生存者がまだ確かに無事であるのかを何度か確認してくれる。

 先が視えることを彼女は些事であるように話していたが、うん。やっぱり、僕にもそれがあればなぁ、なんて呑気に考えているとふとシグマ先輩が走りを緩めた。


「来ますね。こちらで尽力しますが、鹿目くんは刀を構えて、油断はしないように。さっき確認したけど、脇辺りが弱点だと考えていい。ヴィーヴィルはなるだけ下がっていてください。まあ、きみは先生がだいすきだから難しいかなぁ」

「愛してるけどそれくらいできますけど?!一々わたしを決めつけないで!」


 思春期よろしくキレながら獣が下がるのを見て、僕は指示されたように刀を構えながらもしばし瞠目した。

 こうして見るとなんか……こいつ()、ふつうにチョロいな。

 いや、元からチョロいと思うときは何度かありはしたのだが、シグマ先輩の扱いがうますぎて獣のチョロさが露骨になっていた。とはいえ、それだけじゃないこともなんとなくわかる。(先生)へ対する執着や惑星の保護という本来の目的も相俟って、獣のシグマ先輩に対する認識が「負けられない相手」みたいになっているのもいい方向に働いているように見えた。


 当のシグマ先輩はわかっているのかいないのか、はたまたひとつも気にしていないのか、赤いレインコートの懐から黒い柄を取り出すと、その場で軽く足取りを整えるように何度か跳ねた。ゆらゆらと赤べこよろしく頭を揺らし――彼女は何もない壁へと走り出した。

 さっきみたいなのがいるんだとすぐにわかって、自然と刀を握る手に力が籠る。


 そして、シグマ先輩が投げ飛ばした黒の剣に刺さり、血を流して化け物(シン)は姿を現す。

 深緑の巨体と、瞼のない目。 その身体は瘴気に満ちており、蜃気楼のように皮膚から漏れ出していた。姿形は同じでも先程シグマ先輩が殺したシンよりも強力なのだと直感する。シンは呼応するように咆哮し、それの不気味な声は廊下全体に響き渡った。まるで眠りから覚めた肉食動物のような声。


「三度くらい攻撃の様子を見る。きみもそうして。」

「了解です」


 シグマ先輩の指示に頷く。三度と言わず、敵の動きの様子を窺うのには至極賛成だった。僕は化け物から目を離さないようぐっと目を細めて注視し、息を止める。

 それの巨体とは裏腹にシンは非常に素早く突進してきた。長い腕が伸び、僕たちを押し潰さんと迫る単調な、けれど風圧の籠る動き。なるだけ視線をそらさないよう気を払いながらシンの掌が届かないであろう範囲まで走る。シグマ先輩はシンの視線を奪うように、大胆な動きで滑り込みながら掌を避けた。

 すると一拍子遅れで体を揺らすような爆音と爆風が辺りを包む。シンによる攻撃の衝撃は床を揺らし、破壊し、塵と瓦礫の破片を空中に舞い上がらせていく――これを、あと二度避ける。


 なんというか。破壊魔人って感じの威力だったが、シグマ先輩がシンの視線を引き付けるような動きをしてくれているということも相俟って、この調子であるのなら余裕をもって避けられる気がした。とはいえ、こういうところで油断なんかしたら避けられるものも避けられなくなるので、と油断はしないように注意を張り巡らす。


 そうして、ふと視覚の端に、五十センチほどの……巨大なフィルムの破片に手足のついた奇妙な生物が目に入る。よちよち歩きで廊下の隅から姿を現したそれは、まあ、ふつうに考えてこの世の生物ではないのは明らかだった。

 ただ、なんていうか。フォルムであったりとか、よちよち歩きであったりとか。なんだか奇妙な愛らしさがあって……アレって、ええと。シンか?シンだよな?


「えええアレなに!?うおわあっ」

「あっ先輩っ!」


 僕と同じように謎の生物の出現にシグマ先輩は深緑の巨腕に薙ぎ払われ、壁へ激突した。大きな音を立てて壁にのめり込んだ彼女をフォローしなければ、と思考が回り、深緑の化け物へと向かって瓦礫の散らばる不安定な床を走る――が、一瞬にして視界が移り変わる。


 気付けばまったく異なる部屋に僕は立っていた。白いタイル張りの床と壁。部屋は密室なのに、ふしぎと澄んだ夜の空気がした。


 目の前に立つのはゼノ隊員の黒い制服を身に纏う、どこかやつれている異国の男。白髪の混じる乱れた茶髪に、大きな隈のある黒目。この人がシグマ先輩の言っていた、先行で現場に向かったゼノだとすぐに理解する。辺りを見れば保護されたのであろう生存者らしき人間が十人程いて、そのほとんど全員が不安げな目付きで僕を見ていた。

 シグマ先輩はこの場には、いなかった。獣も、いない。瘴気の澱んだ空気感すらもこの部屋にはなかった。


 なるほど。僕はどうやらこの目の前の男の魔術によってこの部屋に引き寄せられたようだ。そして周囲を観察する限りでは、ここは所謂セーフルームに違いない。僕がいま最も欲しくなかったもの。

 ふと、あたたかな感触が手袋の下の掌にじんわりと響くと、まるでずっとそばにいたかのように獣が僕の背後から姿を現す。彼女は尊大に、ゼノへ視線を向けると口を開いた。


「あの緑頭は?」

「アレ、放っておいたほうが賢明ですよ。」


 ああ。また。まただ。アレだとか、まるで放っておいて構わないみたいな、あの人への嫌悪。しかたなく僕だけを拾ったわけでもなく、ただ純粋に、放っておいたほうが賢明だから放っておいただなんて。

 アレだけまっすぐで、穏やかで柔らかな人。多少おかしな人ではあるが、だからといって嫌悪を向けられて当然だとは思えなかった。苛立ちと、シグマ先輩への心配で僕はたまらず声を上げた。


「帰してください。」

「……放っておけばすぐにこの件は終わります。十二時を越えることすらない。だから――」

「帰せって言ってるんです。」


 吐き出すように、ただ想いが洩れる。躊躇いなんてなかった。安全なんて今は要らない。少なくとも、あの人がいない安全なんて、あの人がひとりで化け物と対峙してながら与えられる安全なんて、少しも欲しくはなかった。そんなものに意味はないからだ。

 男は、はあ、とわざとらしいくらいの疲労しきったため息をつくと、僕の背後を指差した。


「そこにあるモニターから状況を確認してみるといい。如何に、生き残っている特待生というものが異質であるのか。お前は一度知っておいたほうがいい。」


 ……こいつ、人の話を聞かないな。



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