・15-サニー
Sunny
ああ。やっぱり。やさしい。
ASX内部の人工の風にあてられて揺れる鹿目くんの黒髪と、その真摯な横顔を見つめながら、やっぱりそう思う。彼といると何度でもそう思う。どこにでもいるきみ、どこにでもいないあなた。消えかけの灯火を見ても無意味ではないと言えてしまうひと。私の、ここでの、大切な人。
びり、とうなじを突く感覚がして、その殺気の元へ目を向ける。紫色の瞳に笑いかける。
「どうしました?」
「……先生に色目使っちゃだめ。」
拗ねたような声色に、はてと瞠目する。
色目ってなんだ?とそんなことを言いかけて、留める。言葉の意味は知っていたから、きっとこの場合には正しく適応されない言葉の羅列。色目ってアレだよな、すけべな目で見ることを示す際に使うやつ。ちゃんとわかっている。
……。いやしかし、わからないのはわからない。主に、理由について。
色目ってなんだ。私、彼をすけべな目でなんて見ていないんだけど。
「すみませんシグマ先輩。そいつ、誰にでもそんな感じなんで気にしないでください。」
「誰にでも?そうなんだ!嫉妬しいんですね。」
「ちが……違うもん!目ざといの!詳しいの!」
「そうなんだ!よく周りを見ているんですね。」
するとなにが良くなったのかまったくわからないが気分を損ねてしまったらしく、異質体に腕を殴られる。鹿目くんは目にも留まらぬ速さで彼女にチョップを下した。
「んにゃッ!」
「他人様を殴るな!」
殺気がなかったので避けられなかったし、なんの防御対策もしていないせいで完全に無防備だったし、そのうえ私が基本的にとても弱いことも相俟って正直マトモに腕が痛かった。子供じみた容姿に反してやたらと強いとは思うが、殺気もなかった辺り恐らく冗談の類で殴ったのだろうと考えると、うん、この子の近くにいるときは常に気を張るのが良さそうだ。
「その、何度もすみません、シグマ先輩。折角案内してくれているのに、獣がとんだ失礼を……」
「いーえ、謝らないでください。とんだ失礼だなんて思っていませんから!」
笑って、鹿目くんを宥める。たかだかのパンチなので失礼だとはほんとうに思わなかった。それもそのパンチの理由が嫉妬だなんて、とてもかわいらしい。
――初対面の頃はパクスであったのでほんとうのはじめましてを覚えていない鹿目くんとのはじめましての自己紹介を終えると、鹿目くんは早速、先日結界内で星狂いに腹を突かれた少女の安否について何度も確認してきた。彼にとってそれが気になるのであれば、とお恥ずかしながらちょっとばかり先輩面なんかして率先してASX内部パクス専用階の病院へ彼を案内することにした。
パクス専用階は、主に何らかの理由があって地上に出れば危険が及ぶ可能性のあるパクスの為に作られた地上を催した階だ。パクスに見られてはいけないので異質体としての力を利用して宙に浮くのを好んでいたらしい異質体には、この場所では浮くなと忠告して素直に歩いてもらっている。
先日の学校で狙われた少女……羽野薫は星の加護を得ており、それが所以で星狂いである千鶴に狙われる可能性があるので、現在はパクス専用階の病院に入院している。入院、といっても私が彼女の傷を治したので入院らしい入院ではないのだが、パクスが異質を認識できない為のカバーシナリオの都合上、仕方なく入院させているらしい。
今回のカバーシナリオは確か、殺人鬼が学校を襲い、学校の一部に爆弾を仕掛けて逃走。その場に居合わせた生き残りをもう一度狙いだす可能性があるので、生き残りたちの保護のため念を込めて入院してもらっている、みたいなシナリオだった。そのカバーシナリオについては既に鹿目くんに伝えてあるので、羽野薫と対面しても問題はないだろう――ただ、恐らくパクスに影響を出しそうな異質体は、鹿目くんと羽野薫の面会には同席できない。彼女を面会の場に引き合わせないように努めるのは私になるだろう、他に頼れる相手はいないし。
なんだかこだわりが強そうな異質体の相手になりたくはなかったが、四の五の言うくらいなら黙ってやるのがイチバンでもあるので、フム、我ながらグッドラックだと思うんだ。
病院のゲート前に近付くにつれてちょっと歩くスペースがはやくなるきみを見て、ああ、もっとすきだなと思うこと、この現象に名前があれば一体それはどういうものなんだろう?
ばかみたいに浸っていたい気持ちを堪えて、彼の腕を掴む。振り向く彼の目にはちょっとの驚きと、焦燥感がちらついて見えた。彼の気持ちはわからないでもないけど、だからって何もかもを無視するなんて愚行は犯せない。そんな自分はきっときらいだ。
「ここから先はあなたひとりで行くんです。異質体のきみも、ここにいる。」
「え、いやだよ。なんでわたしがお前なんかの指図を受けないといけないの?」
フム。それは確かにそう。
「それはそう、みたいな顔しないでくださいよ。」
それも、そう。鹿目くんの言葉に頷く。彼の言う通りだ。素直に受け入れるんじゃなくて、異質体が納得できるような理由を述べるべきだった、しばし反省せざるを得ない。
「異質体さん、きみが行って院内にいるパクスへ支障が出ると危険だから――」
「いやだってば。お前、ちょっと先生を助けたくらいでナマイキ。先生を助けた率で言えばわたしの方が高いし!」
苛立っている表情と申し訳なさそうな表情を両立させている鹿目くんの腕へ抱き着いた異質体に睨まれる。魂の在り方だけでひとを判断する癖は褒められたものじゃないのだが、やっぱりかわいらしい子に睨まれても怖くはない、なんて。この子が如何に危険であるのかなんて既にわかってはいたし、本能だってちりついているのに、そんな風に思ってしまうのは間違いだった。でもこれが私だった。痛い目でも見ないと考えを変えられない石頭。なので、フム、甘受である。
ひとりでに頷いてから、すこしだけ、異質体の方向に向かって体が傾く。
「きみが病院に入ればゼノ隊員に目を付けられる、そうなれば〝先生〟の立場が悪くなる、彼の身に及ぶ危険が増える。きみは、〝先生〟に迷惑をかけるの?」
あ。固まってくれた。話の分かる子で良かった。視た通り、根は悪い子じゃないみたい。いいことだ、ほんとうに。
顔を上げて、鹿目くんに微笑む。
「行って良いですよ、鹿目くん。彼女は私といる。病院内の手続きは中にいるカイが手伝ってくれるよ、今頃ならカイもそこにいるから。見舞いのお土産とかは二階の購買のチョコケーキがうまいからおすすめ!」
「……、はい。ありがとうございます。」
「じゃあ面会が終わったら連絡してくださいね、迎えに行くから。」
頭を下げて走り出していく彼に軽く手を振って見送る。
きっと最初から鹿目くんは走って、いち早くでも羽野薫の様子を見に行きたかったんだろう。やっぱり私と異質体は彼と着いていくべきじゃないんだ、少なくとも今は。彼の病院内の警護は千歳のお見舞いに来ているカイが担ってくれるはずだ、あの子は察しが良いし面倒見も良いから信用しても問題はない。
「じゃあ異質体さん、こっちのほうにおいしいパン屋さんがあるんです。そこで彼からの連絡を待っていましょう。」
「……うん。」
「そのパン屋さんのおすすめはメロンパンでね、私の友人の千歳っていう子はこれにゾッコンだったんです!」
「うん。」
「先生に買って行ってあげたらきっと喜んでくれると思いますよ!」
「……う~~!べつに、許したわけじゃないから!」
えっ何をだろう。彼女に対して許されないようなことをしたような記憶はなくて、ちょっと疑問にも思うが、まあ異質体の言葉を真剣に考えるわけにもいかない……というか、恐らく言葉の響きとその声色から判断する限り無視しても支障はなさそうだった。愛する〝先生〟にパンを買ってあげられるという提案が彼女のお気に召したのだと思う。
なので適当に頷いてから彼女の手を引いてパン屋さんに向かって歩く。
「ちょっと手、離してよ。」
「おあ、すみません。癖でつい。」
「……お前、かなり変じゃない?」
「この地球じゃよくあることです。」
「ぜったいうそ……わたしが異質体だからってばかにしないで。その気になったらおまえなんていつでも殺せるんですからね。」
ムム。うそなんかじゃないのに。この地球では〝他とちょっと異なる〟だとか〝このひとちょっと変だ〟なんてことはざらにあって、それは極めて日常的なものだと私は認識している。とはいえ異質体にまで言われたとなると私もいよいよ本格的に変なのかもしれない、ちょっと不安になってきてしまうね。いえ、けれど私の常識と彼らの常識がすり合っていないだけで、私は極めて常識的だ。少なくとも、前の世界で私はふつうだった。その前の世界でも。〝庭〟では嫌われていたけど、それは私が変だからと言うわけでもなかったし。
――それからパン屋さんの品物を一通り買って、異質体とふたりで近場のベンチに腰を下ろしてパンを食べる。もぐもぐと黙って食べているところ見ていると、やっぱりふつうの少女のように見受けられた。
うん。ほっぺが膨らんでいて、かわゆい。揉んだり、突いたりしたら、きっと本気で怒られちゃうからしないが、できる立場にあるのであればしていたに違いない。
「おいしーでしょう?」
「悪くないんじゃない。」
「でしょー。」
「お前は食べないの?」
首を横に振る。
「ダイエット。」
「……人間は大変だね」
「楽しいよ?」
無視される。そんな、返事もできないほどチョココロネに夢中みたい。きっとあのパン屋さんも喜んでいるに違いないだろう。私も何だかうれしい。異質体の口を黙らせるほどの美味となれば、やはり桁違いだ。カイの食事のセンスはさすがだなあ。
とはいえ、チョコとパンに口の中の水分を持っていかれたようで、彼女は自動販売機を指差した。何か買ってこい、ということだろう。
「うん、なんか買ってくる。ご希望はありますか、異質体さん。」
「……じゅーす。」
「はいよー」
ベンチから立ち上がって自動販売機へ寄る。こういうとき、カイなら何を選ぶだろう――カイのお気に入りは、おしることウーロン茶なのでどちらもジュースの枠には入らない。千歳はこういうとき問答無用で炭酸を選んでいたが、異質体のあの立ち振る舞いからしてきっと炭酸は苦手な可能性があると思うし、その可能性がある以上は避けたい。
数秒程の思慮の結果、素直にオレンジジュースを選んで彼女の元へ戻る。ベンチに座ってペットボトルのキャップを開けてから渡してあげると、彼女は高貴な猫のような顔をして飲み始めた。
「なに笑っているの、小娘。」
「これデフォルトなんです。」
「……やめたほうがいいよ、誰にでも笑っているようじゃ笑顔の価値、なくなっちゃう。」
「笑顔はなんにせよプライスレス、じゃないですか?」
うげえっ、という顔をされる。異質体でもうげえ顔するんだ。ちょっと愉快かもしれない。もっと色々な表情が見られるんだ。それなら、この子は一体どんな顔をしてくれるんだろう。
「ねえ、異質体さん。あなたの名前を教えてくれますか?」
もちろん、彼女の名前くらい知ってはいたけど、何も尋ねずにいきなり彼女の名前を呼びかけるのは、このときなんだかひどく躊躇われた。なので礼節と常識を持って尋ねておく。彼女はこちらに視線のひとつも向けずに答えた。
「獣。」
「鹿目くんに呼ばれている名前じゃなくて。きみの、誰にも呼ばれない名前。」
「……なんで知りたいの?」
なんでって。名前を呼びたい理由がわからないの、とても異質体って感じだ。とはいえ彼女自身が単に理解しようとしていないだけなのかもしれないので、私たち人間はそんな一面を尊重するべきなのかもしれない。
「仲良くなりたいんです。」
「わたしは仲良くなるつもり、ないよ。」
それもそうか。彼女は異質体で、私は彼女の認知内にも属されていないただの人間だ。彼女にとって〝先生〟以外の人間なんて興味の欠片すらないのだろう。すきじゃないものへの時間なんて極力消したいし、思考のスペースすら他のものに分けたくないという考えは、よくわかる。ひとなら、きっと誰だってどこかしらそんなものだ。
だけど私はこの子の名前を呼びたいと思う。だから、粘りたくなる。とはいえ無理強いは趣味じゃないし面倒なので、軽く粘るくらい。
「ん~~なら、きみを呼ぶのが不便なのだ、っていう観点で。教えてくれると助かるのだ、という思考で。きみの名前を呼んだ時、きみしか振り向かないことを望んでいるのだ、というアプローチで。いかがでしょうか?」
「んめんどうくさいなあ……ヴィーヴィル・シナンだよ、これでもういいよね。」
「ヴィーヴィル・シナン!すてきな名前ですね」
「わかってる。」
ふんと鼻を鳴らしてから、彼女はあどけない仕草でもぐもぐとチョココロネを食べ進めた。名前、教えて貰っちゃった。うれしいな。その拍子に彼女のことを知るべきだという考えに至り、私はちょっと彼女のほうへ寄りながら口を開く。
「ヴィーヴィル・シナンは――」
「ち、ちょっと待って。ずっとそう呼ぶつもりなの?」
「ヴィーヴィル・シナンなんですよね?」
「……すこし略して。」
「ヴィ?」
「すこしって言ってるでしょ!」
軽く殴られる。今度は防御対策を行っていたのであまり痛くはなかったけど、ちょっとその勢いだけでベンチから押し出されかける。すこしだけ、そうですよね、すこし。ヴィ、だけじゃ確かにフランス語の「はい」みたいになってしまうので、まったくごもっともな意見だ。暴力はいただけないけれど。
「ヴィ、ヴィーヴィル、みたいな?」
「はー……人間ってほんっとうに馬鹿なんだね。他になにがあるの。」
「ヴィーとか?」
「そんな風に呼ばれるほど仲良くない、だめ。」
彼女はチョココロネを食べながら尊大な態度で言った。一聴すると彼女の言葉は愛想のない突き放しにも聞こえたが、要は仮に仲良くなったのならヴィーって呼ばせてくれるという意味でもあった。ちょっと夢があると気付いた以上は、個人的にヴィー呼びを目指してみたいかもしれない。
「それじゃあ、ヴィーヴィル。きみは鹿目くんのどこがすきなんですか?」
「ぜんぶ。」
「なら、ぜんぶを教えて。」
頼んでみると、ヴィーヴィルは躊躇いがちにちょっとずつ話し出した。まだ私のことを気に食わない様子ではあったが、話してくれるのであればそれで十分だと思った。鹿目くんのことがすきなのか、ただ単に〝先生〟がすきなのか、知るべきだと考えたから尋ねた。私にとってはそれだけの動機だったが、彼女にとってこの会話は断じて些細なものじゃないはずだから。
話も盛り上がり、ヴィーヴィルがチョココロネを食べ終わって、オレンジジュースもすっかり飲み干した頃、鹿目くんから連絡が入った。パン屋さんの紙袋を両手に彼の元へヴィーヴィルと向かうと、彼とカイが病院のゲート周辺のベンチに座っているのが見えた。
鹿目くんを認識したヴィーヴィルはここがパクス専用階でやってはいけないとあれだけ言ったのに宙に浮いて、紙飛行機よろしく素早く飛び寄って彼に抱き着く。
……。パンを渡してあげるとかはしないんだ。『先生に買って行ってあげたらきっと喜んでくれる』という言葉が落とし文句だと思っていたが、もしかして違う?忘れただけ?わからない。異質体が。むう。
疑問に思いながら私も一向に近付いて、カイにパン屋さんの紙袋を一袋渡す。
「鹿目くんのことをありがとう、カイ。彼女を連れたまま病院に入ったら怒られそうだったから、助かりました。」
「……これ、賄賂か?賄賂なんてなくてもお前の頼みだったらやってやるのに。」
「じゃあこれ、お礼。」
「お、そっちのほうがぼく好み、いひひ」
明るく笑う彼女につられて私もつい笑顔になる。カイは笑っているほうが素敵だ。
先日の傷はすっかりナインナインによって治療されていて、こういうときばかりはあの偏屈な医者に感謝せざるを得ないと思わされる。仮に「あんなことになってしまった」という悲観的な視点で物事を視たとして、カイがそれで落ち込むことはまずないので心の方だって十二分に元気だろう。あと、彼女の鮮やかな魂に着いた傷の数が前に見た時と変わっていないので、本人が気付いていないレベルの傷すらない。極めて健康的で――ああ、誇らしいくらい。
「それと、ぼく先に帰ってるから、千歳の様子は寮で話そ。……ぼくはぼくで言えることを言ったけど、お前から見て鹿目がまだダメそうだったら元気づけてやれよ。そういうの得意だろ?」
「そういうのは買い被りっていうやつだけど、むう、努力する。」
ベンチを立って距離を取り、紙袋からメロンパンを取り出し早速食べ始めるカイを横目に私は鹿目くんの目の前に片膝をついて彼の魂を視て、それから、ふしぎそうな表情をしている顔を覗き込む。
「話せる?」
「えっと、なにをですか?」
「羽野薫との面会であったこと。」
「……いえ。その、あまり話したくはありません。」
私は聞きたかったけど、鹿目くんが話したくないのなら仕方ない。カイには彼を元気づけろと言われたし、そもそも無理強いなんて行いはこういう気まずそうなとき、大切なひとにはしないものだ。彼が話したくないのなら構わない、彼が仮に話せないのならこちらで理由を考える。この場合の彼はいやだと答えた。それは明確な意思表示で、私は彼の意思を尊重しなければならない。その常識は異質体であるヴィーヴィルでもわかっているようで、彼女は何も言わずに寄り添っている。
鹿目くんの空いているもう片方の隣に座って、手にしていた紙袋を彼へ手渡す。
「これ、なんですか?」
「これは見るからにおいしいパン屋さんのパンです!ヴィーヴィルとふたりで買ってきました。あ、聞くのを忘れてたけど、アレルギーとか、ある?」
「な、ないです。」
「よかった。それならどうぞ、」
さて、なにを話すべきかな。
※
シグマ先輩に獣を任せたあと、僕は羽野さんを一目見ようと駆け足で病院内へと向かった。自動ドアを通ると独特なにおいが鼻腔を満たす。大きな窓から人工の太陽の光が差し込むパクス専用の総合病院内での人影はまばらで、広々としたフロアにはひそひそ声と幾つかの足音が静かに響いていた。
教わった通りにカイ先輩を探そうと視線を巡らしながら歩いていると、ふと腕を掴まれてはっと振り向く。すると金色に染めた髪の、黒縁眼鏡をかけた少女と目が合う。
「鹿目、お前なんでここにいるんだ?」
そこにいたのはギャル――改め。
「カイ先輩、先日はお世話になりました。……というか無事でしたか?千原千鶴の、」
「どおわっ!ち、ちょい待ち。心配は嬉しいけど、この階ってそういう話は危ないっていうか、なるだけ小声で話すか話すな!」
「え?これでだめなんですか?」
「念には念を入れよ!だ!甘い考えは問題の元!虫歯と同じだから、こういう類は。」
な、なるほど。地上での生活が不可能なまでに瘴気や魔力に敏感なパクスが暮らしていることもあるので、このパクス専用の階では視界に人が映る限りなるだけゼノの色を見せてはいけないのだと、シグマ先輩に説明を受けていたが。まさかそこまで徹底しなければならないとは思わなんだ。だが、それなら、うん。気を付けるまでの話だ。
「で、無事でしたか?」
「……また調子のいい奴。ほら、見ての通りだよ」
カイ先輩は硬い動きでその場で一回転した。せっかくなので彼女の姿を改めて窺う。
休日でも制服だったシグマ先輩とは違い、カイ先輩は私服を着ていて、手にはレジ袋を手にしていた。普段ハーフアップにしている金髪の髪はツインテールに結っており、ドピンクのヒョウ柄のセーターというなかなかお目に掛かれないものながら、黒色のニーハイブーツと共に着こなしている。銀色のベルトには尻尾のキーホルダーがついて、彼女の動きに合わせて揺れる――つま先から頭の先までキュート・アンド・ギャルなテイストで、カイ先輩の愛らしいイメージにはとても似合っていた。
「私服、似合ってますね。セーターとか、とくにかわいいめだ。」
「お!だろ?このブランドの新作ってなかなか出ないんだけど……って。いや。ありがとうだけども!無事だってことに納得してくれたのならぼくの質問に答えてよ。お前、なんでここにいるの?」
「ああ……えっと、シグマ先輩に言われたんです。ここへ来たらカイ先輩がいて、面会の手続きを手伝ってくれるって。」
理由を話せば、丁寧にマニキュアが塗られた指先を唇に当ててたカイ先輩は視線を真上に向かせ、如何にも考えてますという仕草をした。ちょっとわざとらしかったのに、ふしぎと彼女には似合っている仕草だった。
「羽野薫、だよね。」
「はい。」
「んし、りょーかい。着いて来いよ。面会の手続きはぼくたちが持ってるあのIDだけで済むから早いけど、せっかくだしイチからちゃーんと説明してやる。お前の場合は相手がパクスだから基礎からだな。」
慣れた様子で進む彼女の後を追いながら説明を聞き溢さないよう耳を傾ける。慣れた様子で説明を続けながら僕のIDを使って面会者用のシールを受付嬢から受け取ると、カイ先輩は僕の胸にシールを張り付けた。
ぜ、ぜんぶ面倒を見てくれる。姉とかがいたらこんな感じなのかな。
そんなことを思っているうちに、僕はカイ先輩に連れられてあっという間に羽野さんの病室の前へやってきた。あっという間にやってこられたのはカイ先輩という面倒見のいい人と、獣という問題児を当然とばかりに引き受けてくれたシグマ先輩という人のおかげだ。……こうして考えてみると、特待生の人ってみんな面倒見がいいらしい。それとも単に先輩だからなのだろうか。
なんにせよ、まったく助けられてばかりで不甲斐なかったし、申し訳なくもあった。こういうはじめてのコトでどうしようもなく使えない奴になる時なんかは、とくに強くそう思う。フツーに考えすぎなんだろうけど。
耳を貸せと言わんばかりにカイ先輩が僕の腕を引っ張るので素直にその通りにすると、彼女はひそひそ声で続けた。
「いちお、ルールの復唱して。もちろんなるだけ小声で!」
「ハイ。ええと……まず、任務で出会ったパクスはゼノのすべてを忘れていて、話すパクスの様子によって面会時間が定められている。羽野さんの場合はレベル五で、基本無制限。カバーシナリオ通りの対応を行い、ぜったいゼノに関することを話してはいけない、ですよね。」
「よし!その調子ならパーペキだ!」
そう言うとカイ先輩は手に持っていたレジ袋を僕へと押し付けてきて、僕は勢いに押されるまま受け取らざる得なくなる。困惑する僕を余所に満足したらしい彼女はにんまりと笑みを浮かべた。
「これってなんですか?」
「お見舞い品。貰っておいていいぞ」
「あっ」
まずい、すっかり忘れてた。せっかくシグマ先輩におすすめも貰ったのに頭から抜け落ちていたとか、かなりの失礼でしかない。
「こーいうのは手に持っておいて損はないからな!フフン、苦しゅうなーい!」
尊大に言われたのでほとんど反射的に頭を下げて軽くひれ伏しておくと、「ノリいいじゃん!」とお褒めの言葉を頂いてしまった。お気に召したのなら何よりです、ハイ。
「いや、でも誰かのお見舞いに来てたんですよね?これを貰うの、なんか悪い気が……それに大事なのは気持ちだと思うっていうか。」
ちらりと貰ったレジ袋のなかを覗くと、パッケージに包まれたチョコケーキが目に入った。そういえばシグマ先輩に教えてもらったおすすめの見舞い品もチョコケーキだったような、と考えたところで、ふたりが同じように特待生であったことを思い出す。シグマ先輩への宇宙人呼びだとか、見舞い品のイチオシが同じチョコケーキだったり、僕が思うよりふたりは親しいのかもしれない。
「手持ちで赤の他人の見舞いっていう行動よりはマシだろ。あとそれ、じつはちょうどフラれたところだし、ぼくが個人的にこの後食べようと思ってたヤツだから気にしないでいい。」
「フラれた?」
「そ。友達の見舞いに買ってきたんだけど、ソイツ、かなりの気分屋でさ、いまはしょっぱいのが良いって突っぱねられちゃったの。だからマジで気にしないで貰ってくれるとぼくとしても助かる」
「……。元気そうな友達ですね。」
「おかげさまでね……」
な、なんて遠い目だ。
「ま、ぼくはいいの。ほら、行っておいで!」
グワシグワシと頭を乱雑に撫でられる。にこやかに背中を押されるままに前へ出る。い、意外と力が強いな。
たまらず苦笑してから目の前のドアへと視線を向ける。羽野さんの病室のドアは薄紫色で、プレートにはレベル五と表記されている。この先に羽野さんがいる、そう認識すると途端に胸がざわついて、気付いたら自分の掌に視線を落としていた。今となっては見慣れたあの黒い手袋と、情けないまでに救えない手。止まりかけた息を無理矢理に吸って吐く。
意気込みながら薄紫色のドアへ何度かノックをする。緊張で硬くなった拳が打ち鳴らすノックは予想外に大きな音を立てた。それから、微かに聞こえる返事が返ってきてからドアを開けて病室へ入り、羽野さんを探す。
探して、いたのだ。
「あの……?」
声。先日に聞いた、羽野さんのもの。
じゃあ。この病室のベッドに腰掛ける黒髪の少女は――そこまで考えて、ひとつしかない可能性に、けれどひどく現実離れしている可能性に、行き場を失ったかのような気分にさせられる。今更、現実離れしているからといって現実を受け入れないフリはできなかった。
「羽野さん、ですか。」
無理に言葉を吐き出せば、怪訝な表情で頷かれる。〝あの子〟とは似ても似つかない顔立ちに、たまらなく、――たまらなく!ああ!
「はは、そうだよな。そうなんだよ……」
何を考えていたんだか。馬鹿だな、僕。くそ。アホほど馬鹿でまったくヤになる。羽野さんはあの子じゃない。僕がどれだけ願っていたってその事実は変わらない。現実がどういったものであるのか理解していながら、僕がそうであればと願ってしまっていた事実も、変わらない。
「あの。その、誰ですか?」
いたく気まずそうに尋ねられて、羽野さんは僕のことを覚えていないのだとすぐに気付く。パクスはゼノを記憶しない。彼女に起きたあらゆる悲劇はもちろん、僕のことも。今の羽野さんにはカバーシナリオ通りの記憶しか存在しない。
取り繕わなくちゃ、なんて思うのと同時にふしぎと疲れがどっと押し寄せたようだった。
「鹿目礼司です。えっと、警察です。見舞いに来ました。これ、見舞い品です」
「……はあ。ありがとう、ございます。」
彼女に怪しまれないよう、適当に名乗りながらシグマ先輩に教えられたとおりのカバーシナリオを思い出す。殺人鬼が学校を襲い、学校の一部を爆破させたのちに逃亡。その場に居合わせた生き残りが逃走した殺人鬼に再び狙われる可能性を考慮し、今回の件の生き残りにはしばらく入院してもらっている。警察ならここに寄ってもおかしくないはず、と考えた僕の拙い出まかせを羽野さんは信じてくれたようで素直にチョコケーキを受け取ってくれた。
羽野さんの体には点滴もなければ見受けられる包帯のひとつもないので、見た限り肉体的な損傷はないようだった。ナインナインの技術を見て驚いた目輪君のこと思い出すと、腹を突かれた羽野さんをここまで〝何事もなかった〟ことにできるシグマ先輩の力量は、きっと同じように目輪君を驚かせられるのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えてから、もう一度口を開く。
「すみません。失礼します。その、うん、はやく良くなると良いですね。」
「いや、良くなるも何もどこも悪くな――あ、ちょっ、」
羽野さんの言葉を遮って頭を下げ、病室を早足に出る。
足が赴くままに歩いて、歩いて。心臓の煩さに眩暈すらして。
「帰りたいです。」
病院の薄暗い端っこ、辺りにまったく人のいないベンチに座るカイ先輩を目の前にして、僕はただそう呟いた。彼女は僕を見て、すこし怪訝そうにすると隣の席を軽く叩いた。促されるままに座ってみると、自分の掌に頭が吸い寄せられた。がむしゃらにくしゃりと髪を握り締める。
「どうしたわけ?」
「言いたくありません。」
「んー……ぼくさ、お前みたいになんでも隠そうとするやつが同期にいたんだ。今思えば、もっとちゃんと話を聞いてやればよかったとか、いろいろ後悔してんの。だから、マジでぼくの前でそんな湿っぽい顔をしたのが運の尽きだったって思えよ」
言われて、ふとコメカミを熱っぽい指先で触れられる。急になんだ、と驚いて顔を上げるよりも前に、カイ先輩は穏やかな表情で口を開いていた。
「SET - DELETE - FACADE - ADD - YOU」
「っうぁ……!?」
――脳を目掛けて体を突き奔る、青の世界。視界がチカチカとする。耳の奥でずっとカチカチというクリック音が聞こえる。
「言え。今思ってること、心の底からぶちまけろ。」
穏やかな声に脳が揺れる。何をどう命じられたって言いたくはなかった。だが今は真を言わなくてはいけない。ただそれだけの使命感に魂が突き動かされて喉が動いていく。
「救えたはずの、幼馴染を、自分の甘さが……原因で、見放してしまった過去があるんです。」
これ以上は言うな。喋るな。こんなこと、誰かに言うべきじゃない。だって僕だけの過去だ。僕だけの苦しみだ。そんなものは人に打ち明けるべきことじゃない。今まで誰にどう話したところですべて何かが変わることはなかった。今更無意味に話す必要はない、ないんだよ。
それなのに、どれだけそう思っても喉が止まらない。喉を握り締めようとすると手が痺れる。舌を噛んでやろうと思ってもうまくいかない。心のすべてをぶちまけてしまいたいと願う衝動が尽きない。言葉にするのを魂が望んでいるのだと直感する。僕では僕を止められない。
「校舎で見かけた羽野さんは、その幼馴染と同じ顔だったのに、今日は違った。僕は確かに羽野さんを助けられた、けど今日の羽野さんを見て気付いたんです。何かが変わるわけでもないのに、僕は心のどこかで期待をしていたんだと。何かが変わるのかもしれない、なんて期待を、」
そうして僕は僕の望まぬまま、魂の望むまま、自分の最も醜い一面を晒してしまっていた。
「救いたかったのは、誰だったのか。わからないんです。僕なのか、あの子なのか。」
ああ。こういうときだ、死にたいと想うのは。胸に空いた穴の奥底で蠢くものに、飲み込まれてしまいたくなる。
仮にあの子への贖罪ができないのなら、あの子のために在れないのなら僕は死ぬべきだ。でもあの子へ償うためであれば、僕はなんだってする。だから生きている。そうでもなければ僕は生きていられなかった。生きたいと願うあの子の手を突き放してしまった僕に生きる価値はないと理解しているからだ。
けれど。そうと理解しているのに、わからなくなったのだ。あの瞬間、僕は羽野さんがほんとうにあの子であればと願ってしまっていた。あの子は帰ってこないとわかっていて、尚もそう願ってしまった。その愚かさに理由をつけるとしたら「あの子に生きていて欲しかったのは僕のためだったのかもしれない」くらいなものだった。
それと獣が僕を先生と認知していること、何が違うのだろう。変わりたいと願って変われない僕より、獣のほうがずっと良い。
仮に。真に。そうなのであれば、僕は――……!
「ああ、それな。」
カイ先輩は苦笑交じりに呟いた。それなって。なんだよ、と思って視線を向ければ、思わず瞠目させられる。僕はいま確かに自分の最も醜いと思う部分を無理に暴かれたはずだ。だというのにカイ先輩はにやりと不敵な笑みを浮かべていて、僕が無理に吐かされた言葉がまるで最も愉快な言葉だと言わんばかりだった。
「その気持ちなら、ぼくもよく知ってるよ。……〝自分は罪を清算したいだけなのか、仮にそうであるなら自分はなんてサイテーなんだ、自分が生きているのはそういう意地汚いところが理由なんだ。うわ、死にてえ~〟、みたいな終わらない自己嫌悪と卑下、そして仮説!辛いよなぁ。わかるぜ、すごく。」
「……わかってんのなら無理に言わせないでくれよ、」
カイ先輩の魔術のせいで、普段なら胸に秘める想いが零れ出してしまう。先輩に対する態度ではないのは理解していたが、今更、そんなものになんの意味があるのか僕にはわからなかった。最も人に見せたくないところを暴かれたのだ、何もかもが今更に感じてならない。
ただ、自分が認められなかった。他の誰が僕を肯定したとしても、僕だけは僕を否定しなければならない。僕には罪があり、その罪を知るのは僕だけで、罪から目を背けるようなら僕は死んだ方が良いからだ。だってそれこそあの子に対しての冒涜だ。死にたくないのと手を伸ばしてきたあの子の手を振り払った僕が、死にたいからと死を選ぶのは許されない。死にきれない。報えない。だから生きて償うことを選んだ。
「ま、君の思考を隠された後に死なれたりしたら後味悪すぎていい迷惑なんだよ。だからぼくは迷惑をかける方に回るのさ、わかる?」
「迷惑の正当化ですか?」
「お前だってぼくの立場で、ぼくができることできるのなら、同じことしてるだろ。」
少なくとも押し黙るくらいの、そして腹が立つくらいの正論だった。
それでなんとなく、ほんとうにカイ先輩も僕と同じものを抱えているのだとわかった。押し黙ってしまったのは、腹が立つほどの正論だと思うのは、まるで自分の言葉のように感じてしまったからだ。
僕は後悔しない為ならなんだってすると決めているし、ただひとりのことを考えて生きて選択している。故に、たまにひどく周りがどうでもよくなる瞬間がある。他人の考えなんてすこしも気にならなくなって、嫌われるとか、好かれるとか、そういうものがすべて頭から抜け落ちる瞬間。思い返せば数えきれないほどある瞬間。
カイ先輩が僕に無理やり吐き出させたのは、そういうたまにある、ひどく周りがどうでもよくなった瞬間での選択なのだろう。誰かの願いより、正しさと自分の願いを優先してしまう。あまりにも自分勝手で、あまりにも身に覚えのある選択。僕は彼女を非難できない。どうしようもないくらい僕も同類だった。
カイ先輩は視線を合わせたまま黙り込む僕を見てツンと僕のコメカミを突いた。
「逆説的に考えるんだよ、鹿目。罪の清算がされなくても、まだその子を救いたいのか。それを一度考えてみると良い。」
罪の清算が、されずとも。なんだそれは、という思考が脳に過る。するとカイ先輩の魔術が体に働いてもう一度視界が青の世界に浸食される。ほとんど無意識に喉から言葉が零れ落ちていた。
「そんなの、あの子を救えるのならあの子に憎しまれたって、殺されたって構わない。どんな罪を背負ったって僕は、あの子を――あ。」
――声が喉を掠めた。息が詰まって、苦しくて。
「……じゃあそれが答えだな。」
「……そう、ですね。」
滲む視界を隠すようにぐっと自分の掌に顔を埋める。何も救えない手。大事なものだけ崩してしまう自分。ああ。だけど。
僕の人生はただひとりのためにあった。あの子に報いるための人生であるべきだと、僕の心はそうして形作られたし、僕の選ぶ選択のすべてはあの子のために選んできた。そこに躊躇いはひとつもなかった。正しくありたいと強く願うから、同時に同じくらいの罪悪感と生きていく。そして、その生き方を変えることは一生ない。刻まれた過去が僕を形作ったからで、それが変わることは一生ない。なかったんだ。
カイ先輩の言う通り、これが答え。
僕の内側にあるものはきっとこれだけだ。それだけで十分だった。
「落ち着いたか?」
「ええ、まあ。うん、そこそこ。」
「ヨシ。それじゃあ次は理論の話だ……コラ、そんな嫌そうな顔しない。難しい話じゃなくて、なんで羽野薫が先日の校舎で見た姿と変わっているのか、についてだから。」
あ。確かに。理論の話と堅い単語で言われて渋りかけた気持ちが解かれて、代わりに疑問を掘り返される。すっかり頭から抜け落ちていたが、元はと言えば羽野さんの容姿が〝あの子〟だったから悶々としていたのだ。あの子のために生きているしそれは変わらない、という気付きにまだ浸っていたかったが、今日と先日で自分の目を疑うほどの変わり様にも理由があるのであれば素直に知りたい。
いまを逃せば一生機会を逃す気がしてならなかったのでしんみりとした気持ちを切り替え、改めてカイ先輩へ視線を向けると再び彼女にツンとコメカミを突かれて、青い視界はすうっと消えていった。それから彼女は眼鏡の位置を押し上げて、「ぼくの見解ではね、」と説明をはじめた。
「主に内部結界に理由があると思うワケ。基本的にゼノの結界とシンの内部結界は別物として認識してほしいのは変わらないんだけど、どっちも条件を付けることが可能で、ぼくたちはそれを〝対象型〟と〝条件型〟、それと〝特異型〟で種類分けしてるの。ゼノがシンの内部結界の上に張り巡らす結界は〝瘴気を出さない〟という条件型。マジモトがお前を廃病院に閉じ込めた際の結界も〝鍵を使わない扉は開かない〟という条件型で、お前でも身に覚えのある話だろ」
「ああ……」
アレか、と納得感に頷く。やたらと開かないドアに苦しめられた記憶はそう古くないし、トギさんから内部結界の説明を受けたときにマジモトの例を出されもしたので今のカイ先輩の説明を理解するのには苦労しなかった。ゼノの結界とシンの内部結界は別物として認識してほしい、というのは純粋な結界単体と違法建築で空間を作っている内部結界とでは似て非なるものだからだろうことも、なんとなくの領域で理解できる。
うん。なんとなくであってピンと来るわけじゃないけど、理解は理解だと思うし、一々根本まで理解しようとしたら僕の人生はひとつの質問で終えてしまうに違いないので、さらっとなんとなくで受け流そう。
カイ先輩は煮え切らない反応の僕を見てしばし不安そうに眉を顰めながらも話を続けた。
「えっと。それと同じで、シンの内部結界にも条件付けを行われているときがあって……強力な条件付けはそれ相応の力を必要とするし、結界内にいれば結界者でさえそのルールが適応されるから行き過ぎたものはまず不可能でぇ……理解できてる?」
「ハイ。」
強く頷いておく。とはいえ、僕に対しての信頼がこれと言ってないらしく、うんうんと頷く僕を見て彼女はどうにも心配そうにした。
「そ、そお?ならいいけど……んで、対象型っていうのは、主に結界内にいる個人に対して発揮されるものだ。例えば〝コイツは赤が青に見える〟とかなのは出来ちゃうワケだ。どっちにも当てはまらない珍しい類は特異型に分類される。今回の場合は対象型の延長線上で、〝核はゼノの目には大切な相手に見える〟みたいな条件付けがされた状態だったんだと思う。」
なるほど。核をゼノに破壊されないための工夫としてはまったく完璧な考えだ。相対することはなかったが、かなり頭の回るシンだったらしい。
……ああ、でも。大切な相手に見えても殺せてしまえるのであれば、羽野さんを躊躇いもなく殺せた千原千鶴は……。
※
「それでもうドッカーン!だい、ばく、はつ!そこから私はイオタを信頼していないってわけだ。」
「す、すごい話だな……それすこし盛ってません?」
「バレた?」
「おい。あっ、いやすみません、今のは先輩に対してよくない言い方でした。」
先輩に対する態度ではなかったことを謝るが、すこしも気にしていない素振りでシグマ先輩は楽しそうに笑って僕の謝罪をさらりと流し、獣は「先生は謝らなくてもいいのに、」なんて見当はずれな意見を述べた。相変わらずの先生信仰だ。それが獣の通常運転だとはいえ未だに慣れることはないし、文句を言ったって聞いてくれるわけでもないので彼女の通常運転には「ア、ハイ、ソウデスカ」みたいに縮こまった言葉しか返せない。
おいしいパンに、明るくて、気負わない会話。
こんなに穏やかな気持ちになれたのはいつぶりだろう。獣の存在はまあ、確かに、アレだが。数ヶ月前に戻れたような、元々の生活の片鱗に身を寄せているような気分ではあった。平穏で、平凡で、そのなかでただ息をしている感覚。生きているのかも、死んでいるのかもわからないままに。
「すこし盛っているとしても、すこしだからね。イオタと鉢合わせるようなことがあるのなら彼を信頼しすぎないように。彼、よっぽどムカついていなければ無駄な殺しはしないだろうけど……それでも、ふつうの価値観があるのなら〝人を殺す〟なんて選択はしないものですから。」
「何かあってもわたしがメチョンメチョンにしてやるから、先生は大丈夫です。」
先日「先生が負けちゃったら!」みたいなことを言って泣いていたくせに、尊大な態度で言う獣。彼女の記憶保持力のなさには少々驚かざるを得ないというか、もしかすると僕よりヤバいところがあると見た。だから獣なんだよ、お前。
「……でも、その。話、どこから盛ってました?殺し合いからですか?」
「殺し合いはほんと。盛ったのは全有壺の効果です。」
「えっ。じゃあ、ふたり同時に触れたせいで全有壺に乗っ取られてイオタと手を組んで精神攻撃を乗り越えたって――」
「盛った!」
い。潔い。曇りのない薄茶色の目でシグマ先輩は断言した。しかし全有壺のすべてを有するという効果の衝突によって起きた精神攻撃がなかったのであれば、壺の効果を聞いたときに「……嘘だあ」と思った僕の反応は至極合っていたらしい。こんなにもたくさんの〝ふつうじゃない物事〟を体験してきてなお、僕の働き下手な脳は〝ふつうじゃない物事〟を見聞きしたとき依然としてまずはじめに疑いから入ってしまっていたのだが、それもあまり悪くないように思えた。
……とはいえ。疑問が残る。殺し合った部分はほんとうなら、なぜ途中まで手を組んでいたイオタと殺し合いに発展したのか。全有壺の効果はなんなのか。気になってたまらず「それなら、」と口を開く。
「全有壺ってなんの効果があったんですか?」
尋ねれば、首を傾げてシグマ先輩は「ん~」と考え出した。長い前髪の隙間から覗く瞳が緩やかに目の前のブランコで遊ぶ子供たちへ向けられて、それから僕と獣へと向けられた。とくになにか考えているわけではないのか、なにかの想いがあるわけでもないのか、或いは隠すのがうまいのか、彼女の瞳に映るものは終始変わらなかった。とても、柔らかなそれ。
薄く色付いた唇が揺れて、開く。
「同時に触れることによって、効果を表すものではあるんです。対象AがBへ壺を受け渡すとき、その瞬間に至るまでの生きてきた記憶と感情、思考の全てを、AとBが互いに共有するっていう効果。相手の記憶と感情、思考の全部を有するという点では実際に全有壺ではありましたね。」
ほとんど反射的に、嘘だあ、なんて思考がまた過る。隣に獣がいる僕はシグマ先輩の言葉を真実として信じるしかないわけだけども。
獣は興味がなさそうに「ふうん」と鼻を鳴らすと僕の肩にしだれかかり、気だるげな見下した目つきで呟いた。
「じゃあおまえ、かなり薄情なんだね。」
常軌を逸した獣の不躾さに、僕は思わず言葉を失って身震いした。
――こいつ、常識がなさすぎる……!毎日のように痛感はしていたが今回は桁違いに常識がない。知り合って間もない相手の顔を見てよく情についての非難を平然と口にできてしまえる。
社交性ゼロの、嗚呼、獣。お前はなんでそうも人を見下せるんだ。知りたくもないけど!
ひどくウンザリもすれば失望もしたが、だからといって黙って見過ごすわけにもいかなかったので僕の肩から離して手刀を杏色の頭へ落とせば、「んにゃっ」と獣は小さく呻いて僕をじとっと物言いたげに見つめた。まったく、呆れる。
「先生、いじわるっ」
「お前が失礼だったからやったんだ、いじわるなのはどちらかというとお前。」
「?それなら構わない。私、言葉ひとつで傷つくほどヤワじゃない。」
間髪入れずに柔らかな声が僕の鼓膜に優しく響いた。視線を向ければシグマ先輩と目が合う。にこり、と微笑んで首を傾げて僕と獣を見つめる視線は先程と変わらない。今まで他に相対した経験のないほどに柔らかで澄んでいて、ふと場違いにもそれが雨上がりのようだと思った。
「……いえ。それでも、僕は構います。」
僕の人生にはほとほと関わりのなかった穏やかな瞳が、揺れて、ふしぎそうに僕を視る。
――獣は彼女を薄情だと言ったが、僕はすこしもそう思えなかった。イオタの記憶と感情を共有したからと言ってシグマ先輩が彼のすべてを肯定できるわけじゃないし、きっとそれはイオタにとっても同じだ。シグマ先輩の人生を見てきたからと言って、イオタは彼女のすべてを認められるわけじゃない。
第一、自分の人生を振り返ったときでさえ自分を憎たらしく思う瞬間があるのだ。まったくの赤の他人の感情や記憶を経験して、それ振り返ったとして受け入れられる人間が何人いるだろうか。少なくとも平然と受け入れられるのなら、それは余程似ているふたりか、或いは余程自信の持てる人生を送ってきたふたりに違いない。
……それに。
「先輩が平気だからって何を言っても良いなんて考えは間違ってると思います。悪いことは悪いし、失礼は失礼。だから、獣の失礼は失礼だし、いじわるでした。コイツが謝罪しない代わりに謝らせてもらいます。すみませんでした。」
「ゃっ、やだあぁ~~!そんなにっ、そんなにこの緑頭が好きなの!?」
「アホ。好きとかじゃなくて誰かが責任を持つのは常識だ。」
そしてこの場合、その誰かは僕だ。
「やさしい、ね。」
澄んだ囁き声。まるで独り言のように呟かれたそれ。視線を向けるとシグマ先輩は愉快気に瞳を細めて愛らしく肩を竦めた。
「言葉と真剣に向き合ってる。ふつうは私が構わないと言ったら、顰め面で放っておくものだ。」
まるで未知の生物との接触だと思った。穏やかに述べるだけの言葉節と見通してくるような澄んだ瞳から、ふとシグマ先輩がカイ先輩に宇宙人だと呼ばれていたことを思い出す。
「ええと。違いますよ。それはちょっと過大評価なくらいで、僕はむしろサイアクなくらいというか。獣より幾分かは真面目ってだけで、うん、ふつうに……」
「ううん、だいじょうぶ。」
柔らかで無機質な声。
「それでも。きみはちゃんと、やさしいよ。」
魂の側面をそっと撫でてくるようなその言葉に、息が詰まる。
僕は彼女の言葉を前に聞いたことがあった。思い出せない記憶の裏側の、最奥の部分。たまに聞こえる、たまに微かに思い出す、ふと溺れてしまいたくなるほどの肯定。何もかもを捨てて、ただ肯定されるがままに頷いてしまいたいと思わされてしまう宥め。
――だけど、だからこそ。ひどくそれを否定しなければならない気がした。
「仮に、ほんとうにそう見えたのなら、勘違いです。僕はサイアクでしかなくて、たまに自分が嫌になるくらいだし。優しくなんてありませんよ。」
認められなかった。溺れたくなる肯定に流されるわけにはいかなかった。他の誰が僕を肯定したとしても、僕だけは僕を否定しなければならない。それだけは一生変わらない。
シグマ先輩は何度か長い前髪の下で瞬きをした。僕の躊躇いのない卑屈さに驚いているというよりも、言葉に詰まっているというよりも、まるで僕が急に猫の言語を喋り出したと言わんばかりの表情。自己嫌悪に満ちて、とびきりの卑屈を込めてしまった僕の言葉に彼女はすこしも怯んでいなかった。彼女の人形のような顔立ちにあるのは変わらない穏やかな笑顔だけ。
「サイアクだって悩んでいるくらい、あなたは優しいんです。自分がいやだって思えるくらい、本気なんです。サイアクでも、サイアクにはなりたくなくて、足掻いていて、それに悩める本気さがあるのならあなたは優しいと思います。」
「悩んでなんかない、です。」
「サイアクで悩んでいない人間が悩まない理由は、そもそも他人なんて頭にないから。その点においてきみは確かに悩んでいるように見えます。常識を振り翳したのは、自分の為じゃないでしょう?」
若葉色の髪が、穏やかに風に揺らされている。彼女の両の目と、見つめ合う。普段と何ら変わらずそれを不快に思ったのか、ぎゅっと僕のシャツを握りしめた獣の腕を撫でる。獣が微かに息を呑む音が微かに鼓膜に響いた。
――この瞬間のシグマ先輩と見つめ合っただけで、心臓がざわついて止まなかったし、ふしぎと僕はそのざわめきがいやではなかった。
どれだけ恥じたって、自分の一番いやなところを話して嫌われてしまうのが怖い、というのは紛れもない本心だ。それなのに今はこの人にすべてを話して、嫌われてしまいたいと思った。本能の勢いで、この人と友達になりたいなんてひどく願い過ぎな想いを抱いてしまった自分がいやだったからだ。
僕を嫌いになってほしかった。
嫌いになって、僕を遠ざけて、僕のいない人生を歩んでほしかった。故にだろう。カイ先輩に無理に吐かされた言葉が、自ずと喉元で形作られていた。
「……子供の頃、僕のせいで幼馴染が行方不明になりました、まだ見つかっていません。近頃変なものが見える、死にたくない、助けてくれって縋るあの子の言葉を冗談だと思った僕は彼女の手を振り払った。先日の学校にいた羽野さんの姿はその子とそっくりで、でも今日面会で会った羽野さんは幼馴染と似てはいなくて。カイ先輩は内部結界のせいでそういうふうに見えていただけだって。僕は、それが……」
蔑んでほしかった。軽蔑して、なんてひどい人間なんだと非難して、僕から離れていってほしかった。だがシグマ先輩は揺らがない笑顔のまま、静かに頷いた。
「それがいやだったんですね。」
「……まだ僕を優しいと言えるんですか?まだ、僕がサイアクなだけじゃないと思えるんですか?」
「うん、言える。思える。優しくないところ、とくになかった。きみの行いについては、そうですね、ひどいと思います。でも悪意のない、たったひとつの行動ですべてを否定するわけにはいきませんし、本物の幼馴染に会いたいっていう心も、なにがいけないのか私には理解できない。」
言葉通り心底理解できないと言わんばかりに、彼女はきっぱりとそう口にした。ひどく無機質で、ひどく柔らかな声。労われているようで、同時にまったくそうではなかった。
「あなたはたぶん、優しさを都合のいい人間だって勘違いしているだけだと思う。だけど、優しい人間でも欠点もあれば期待もする、厭な気持にもなる、怒ることだってもちろんある。その理由がどんなものであっても。そうじゃなければ人間は人間と呼べない、ただの器でしかない。」
喉が痛む、言葉が出ない。
シグマ先輩はまるで人形のように首を傾げると「間違えていたらごめんね、」とちいさく呟いた。彼女の視線が僕にもう一度向けられたとき、やっぱり、また心臓がざわついた。僕を知ってほしいと心臓が叫んでいる。知って、嫌って、遠ざけてほしい。でも、きっと彼女はただ穏やかに笑いかけるだけなのだと、僕はもうわかっていた。
「あなたは自分を都合のいい人間じゃないといけないって考えてるんじゃないですか?それを優しさという聞き心地の良い言葉で置き換えてる。でも優しさって、そんな都合がいいだけのものじゃないですよ。」
シグマ先輩はやっぱり、にっこりと僕へ微笑みかけた。
「すこし自己本位の期待をしたからといってきみが優しくない理由にはならないと、私はそう思います。人間なんだから願いたい様に願うもんでしょう。だからきみはサイアクなだけ、なんかじゃありません。」
その穏やかさが、僕の胸の空いた隙間のフチをそっと撫でたようだった。
期待。そればかりはどうやったって変えられない、人として人が持ち得る自由。僕がただの器じゃない、操られるだけの人形じゃない、ひと個人としての人間だという何よりの証明。願いたい様に、願うこと。
自分の命は贖罪のためにあると思っているし、それはきっと変わらない。生きたいと願う意味はそれだけだし、それだけであるべきだ。
けれど同時に〝生きている〟ことには変わりない。だから期待をしてしまうし、日々あの子に会いたいと願わずにはいられなかった。日々あの子と歩める人生を願っていた。どれだけ嫌でも、自己本位的でも、芯の部分で僕は願うことをやめられなかったのだろう。
ただひとりに償いたいと、ただひとりの隣に見合いたいとそう願う。だから、まだ息をしているし、生きてしまう。僕が器なんかではない証。なんて単純な話で、なんて嫌な気持ちにさせられる話で、なんて清々しい話なんだろう。
自覚するってどうにもキツくて、どうにもすっきりする。たぶんバンジージャンプとかこういう感じだ。
「先輩も、なにか願ったりするんですか?」
「もちろん。ほとんど毎日、明日、いい日になるといいと願っています!」
朗らかに語るシグマ先輩の言葉に獣は「……それはちょっと嘘っぽいなぁ」と呆れたが、僕にはふしぎとその言葉が真実であるように感じられた。シグマ先輩の目に浮かぶ柔らかさと無機質さが、見間違えようのないほどに揺らいでいたからだ。




