・10-ラブ・イズ・ファウンド
Love Is Found
口が、ぱくぱくと動いてささやかに棘のある呪いを吐いている。しかしながら自分は彼のような悪意を軽々しく言葉にする人間へ傾ける耳は持ち合わせておらず、彼が絶えず紡ぐ悪意の言葉は耳から耳へと通り抜けていった。こういうときに、もしもなにか大事なことを言っているのであればたいへんな話だが、まあその時はその時で腹を括ればいいだけのことだ。
隣にいる道楽さんがにこにこと何かを言っている。彼女はどうやら言い返したらしく、男は憤怒に顔を歪ませた。
正直、イオタとの戦いで負ったそこらじゅうの傷がなかなか重症だったらしく、体が怠いし何もかも集中できない。私が元々ひとの話を聞かないことも相まって、まるで無声映画を観ている気分だった。目に見える人間の殆どがふにゃふにゃとしたオーラで人間としてのカタチが定まっては崩れ、定まっては崩れるのを繰り返している。
……ねむい。左手で目を擦ろうとして、ちょうど左手が動かなくなっているのだと思い出す。お腹の刺し傷の回復を優先され、左腕はイオタに折られたままの状態だったので仕方なく右手で左目を擦る。
「シグマ、行くよ。」
「はい。」
話は終わったようだ。道楽さんに背中を押され促されるまま部屋を出て廊下を歩く。青色の絨毯が廊下いっぱいに敷かれており、ASX日本支部で尤も権威がある場所だと示すものでこの回廊だけのものだ。ここでなら唐突に倒れても柔らかく質のいい絨毯に身を受け止められるので、きっと気持ちよく寝られるだろう。
純白の壁は小綺麗でありながら、どこかいっそ異質ささえあって目に痛い。新校舎の方も真っ白ではあるけど、こんなに異質な雰囲気はないので思うに、この場所特有の異質感なのだろう。
病院には病院の、学舎には学舎の、教会には教会特有のものがあるのと同じだ。この場にはこの場特有の空気感に満ちていた。そしてそれは些かばかり異質だった。
それから自分がこんな場所にやってきた経緯を考えて、私は道楽さんに頭を下げた。
「道楽さん、迷惑をかけてすみませんでした。」
「いや迷惑をかけたのはボクだよ。ボクが素直にカイの弟を殺しておけばトギのチームが壊滅しなかった、オマエがぼろ雑巾みたいになって帰ってこなかった。……悔しいよ。」
如何にもいつでも殺せましたよと言わんばかりの言葉に私は疑問を感じて、首を傾げて彼女の爬虫類のような目を覗き込んだ。後悔と自責の念がその瞳にありありと映っていて、私は少しやるせなさを感じる。
「イオタのこと、次は殺せるんですか?」
「ムリです」
頭を抱える道楽さんに私は笑って、「そうですよね。なら責任は感じないでください」と頷いた。私がイオタを殺したくないと思う以上に、彼女はイオタを殺せない。理に絡ませた誓いをカイに立てているからだ。理に絡ませた誓いを破れば道楽さんと言えど無事では済まない(そうなると更にまずいのは彼女の力に頼り切っている節のある日本一帯)のが目に見えているため、二重の制約としてカイの血筋が近くにいると彼女の持つあらゆる機能に制限が強制的にかかるようになっていることもイオタを殺せない要因となっているだろう。
――そもそも道楽さんが勤めている(私やカイが通っている)旧境防はシン被害者のみの場所で、私とは違ってカイは明確にシン被害者として道楽さんに救われた過去がある。その際に道楽さんを信用ならないと思ったカイが持ち掛けた誓いが、「家族を助ける」というものだ。
それくらい何でもないと思った道楽さんがそれを承諾してくれたんだけど……、と少し気まずそうに話すカイは記憶に新しい。彼女も彼女でそのことについて責任を感じてないといいけど、この世界の人間はどうも責任感がとても強い。それは無責任でいることよりもずっと賢い選択であり、美徳だが、抱え込むことはべつに褒められない。
トギさんはそう思わないだろうけどチームの壊滅も私がぼろ雑巾のようになっているのも、過去の選択をいくら悔やんでも過去に起きた事実は変わらない以上、仕方ないと受け入れ流すのは大事な選択のひとつだ。生きていく中で過去に起きた後悔をすべて背負い続けるなんて、超人でもない限り一人間には不可能なのだから。
「……言及、したくないけど、オマエが拾ってきちゃったアレって今のところ無害なんだよね?」
「はい、今のところ。ほんとう、すみません。」
「謝るんじゃない。ボクはオマエが元気ならいいのよ」
そう道楽さんは言ってくれたが、今回の件で上層部にしこたま責められたのは道楽さんが自身の生徒を優先したこと二割、私のしたこと八割が理由だ。内容が知れている説教話は聞く気にならなかったので詳しくは聞いていないが、まあ、理由と説教はおおよそ同じ話だろう。
そう、短絡的にも拾ってしまった。拾うべき物とは呼べないモノを、解決策が他に浮かばなかったからという、ただそれだけの理由で他の案を大して考えもせずに躊躇なく、すべき思考を放棄した。今思えば瘴気に脳が侵食されていた可能性が高い。どうにかして瘴気耐性をつけるべきかな。
――シンの中でも倒してはいけないシンは一定数存在する。例えば強力すぎる余り一度の消滅程度では再度現れて同じように暴れられるのを危惧して封印に留めている事例とか、生かすことで人類側に利益が生まれている事例、土地神としてその土地に強く根付いている事例、その他エトセトラ。
零型:瘴気はその一例に属している。殺生禁止封印せよとか何とか、情報書類にもそう記されていた。零型:瘴気は私が全力三歩手前の力を出さなければ私が死んでいたような相手で、そもそも、私程度の人間ではあの零型を相手にするに至らなかったのだ。
私が使える封印の力はその力の起源上、相手に封印を求める意志があるか、否か、或いは相手が死を目前としていると知覚しなければ発動不可だ。それに、封印に要する魔力量も万全な状態(比較的魔力を持ち合わせている時のこと)でいてなお削らなければ足りないくらい、馬鹿みたいに消費する。
不完全な状態で偽とは言え第三節の章をふたつも使った後に、零型:瘴気を封印するなんて魔力タンクでも持ってきていないと無理な話だった。
さらに殺生禁ずなんて明確に指示されている以上、零型:瘴気を殺すわけにもいかなかった私は星節内でより魔力をセーブできる第一節一章を使用する他なかった。総じてそれは言い訳と認識されるだろうが、私もまた説教話を馬の耳に念仏よろしくサッパリと聞き流しているわけだから、それでイーブンになると言えよう。
視界が真っ暗になって一度立ち止まる。
「あ、」
「――?――したの、シ――?」
音がうまく聞き拾えない。現在唯一まともに機能している肌の感覚で、空気の動きから道楽さんが心配していると感じ取れた。彼女を心配させる気にならなかった私はすぐさま「大丈夫ですよ」と言葉にして微笑んで見せた。
この世界へ不時着した日に使った第一節一章は〝魔力の付与されたものを切り離して自分のものにする〟だけの地味な力だったのが、世界から切り離したと認識すればシンは自分のものにできるのでは?とのカイの素朴な疑問によって見事なテコ入れが成功した。
そのテコ入れ以来、第一節一章は封印が使えない場合にシンを一時的に封じ込めたい際に使う有用な能力となったとはいえ、それも一時的なものだ。シンに限ったことではないが、切り離したものを長時間保持すれば少なからず自身の体に影響が出てくる。
――実際問題、零型と魔力のパスを繋いだのが原因で今現在私はすっかりキャパオーバーしてしまって、魔力どころか精神力すらもカツカツだ。心身共に満身創痍である。アドレナリンもない今、慣れるまで暫くはまともに五感がうまく機能しないだろう。
視覚ではひとじゃなく魂のカタチしか見られないうえ、2、3メートル以上先は白いペンキを零したかのようにまるで確認できない。信号なしで道路を渡ると間違いなく轢かれるレベルだ。意志は伝わるから何とか対処できるにしても、音はまるで通信状態の悪いトランシーバーさながらだ。匂いにおいてはこれっぽちとして何も分からない。味覚はそもそもなくても困らないのでリソースをカットして視覚に回している。今のところ一番機能しているのは触覚だろう。
とはいえ触覚重視になると、絨毯を踏む感覚に思考が持っていかれそうになるので気を付けたいところである。うーむ、バランス取るのが難しい、色々な意味で。
チカチカと視界が断片的に戻ってくる視界いっぱいに道楽さんの顔が映り、私は思わず後退った。
「んわ、ち、近いですよ道楽さん」
「今になるまで見えてなかった?」
「……」
視線を逸らす。ああ、何を馬鹿正直に反応しているんだ自分。手遅れかな、と思いつつも私は最後まで抗うことにした。とりあえず手始めに笑いかけてみる。
「べつに見えてましたけど。ね。」
「オマエ、そういうところほんとバカだよね」
少しも否定できない。
「そういえば鹿目君はどうなっていますか?」
誤魔化すようにずっと気になっていた話題に変える。
――三日前、千歳を利用した墓越健二、その妹が死霊魔術を使っての自害を試み、鹿目くんは〝理の運命〟を殺すことによってそれを未然に防いだのだとカイが教えてくれた。鹿目くん、才能があるとしても順序をぶっ飛びすぎだと思うんだ。
とはいえ、〝理の運命〟を殺すのは禁じられているので、その件に関わっている足立柚とオーフェリア、鹿目くんは以来、トギさんによる事情聴取に捕まっているらしい。件の脅しもあるし、私としてはヒヤヒヤしっぱなしである。
私の不安を解すように道楽さんは私の肩を叩いた。
「わからん!ボクはトギのエリアに手出しできないんだわ」
「んぐう」
「ンフフ……オマエがトギの話を聞いて不安に思う気持ちもわかるけどね、シグマ。トギは――ア。」
道楽さんはそこで黙った。おしゃべりな彼女の話が途切れるなんて、まずふつうのことではない。一体どうしたのだろうと疑問に思い、一旦、少しの間だけ、全てのリソースを視覚へ無理矢理に回し――道楽さんの反応に納得する。
あの癪に障る魂を相手にするのは、あまりに怠い。普段は無視するに限るわけだが、今回ばかりは無視するにも消化不良すぎるので絡むことを覚悟する。
男が口を開き、息を吸うその瞬間を狙って遮るように言葉を吐く。
「墓越。調子はどうだ?」
「……シグマちゃん、相変わらずオレに敬意とかないワケ?」
「もちろんあるよ。」
無論、嘘だけど。
崖から落ちそうになっているのがどんな人間であっても助けを請われたら二つ返事で承諾するのが私のポリシーである。しかし墓越健二、彼ばかりは鼻で笑って蹴り落としてしまうだろう。どう言語化すれば良いのかな、この気持ち。近いもので代用するなら生理的嫌悪感が手頃だろうか。
墓越は私に顔を近付けてきた。
「ヘラヘラ笑ってんなよ。いつになったら上官には敬意払うべきって覚えるのか気になってんの、わからない?ほんと頭悪いな。その見るからに軽そうな頭、何が詰まってんの?空気とか?」
「うん、おまえと私でお揃いだね。そうそう、拙分を利用したって話は聞いたよ。おまえ、まだ他人本願で生きて自立できなくてたいへんそうだね、だいじょうぶそう?」
「オレがオマエとお揃いとかヒドイ冗談やめてくれよ、マジで。それとオレは自立できてないんじゃなくてオレみたいな上流の人間って言うのがオマエらみたいなクズを活かしてやってるってわかんない?あ、頭悪いからわかんないか!はは!」
「その頭の悪いクズがいなきゃマトモに生きれもしないくせによく回る口だなー、恥とかないのかな?あ、ないか、おまえ言うだけ言って私に助けられてばっかりだもんね、はは。」
拳が降ってくるのを避ける。死霊魔術者なんて死霊に働いてもらうだけの技術者の拳なんてアトラクション以下だ。軽く首を傾げて笑ってみせる、ほら、やっぱり上官相手に大事なのって愛嬌だし。
「ん~、今のは殴ろうとしてたのかな。」
「おーん、精々笑ってろよ緑頭。いつか絶対殺してやる。」
「パパの許可がないとなんもできないもんね。そりゃあ今じゃなくていつかだ!」
ダンダンッと地団駄を踏む音が聞こえる。幼稚なやつだ。千歳が拒否できないことを利用して一切の記憶を失くすのを良しとした道徳心の欠片もない人間のゴミ。気持ちが赴くまま痛い目に遭わせてやりたいくらいだが――残念な話、その行動の先に在る結果は何の意味も成さない。
千歳の記憶は消費されたまま帰ってこないし、そもそも彼女は自身の力を使うのを認めていた。あの子が認めてること、私が否定したって何の意味もない。そもそも今の千歳はカイや私、道楽教官や墓越を覚えていないので、私が墓越を殺したとしてそれはただ私だけがスッキリするエゴでしかないのだ。そして、他人に迷惑をかけてしまうその価値すらない感情に身を任せられるほど私は子供じゃなかった。
また命拾いしたな、と墓越の魂を見る。彼は静かになった。
「……さて、道楽教官。挨拶が遅れてすみませんね、こんにちは、調子はいかがですか?」
「沙耶君が処罰を免れたのはオマエが理由か?」
「アレでも家族なんで。まあ貴方にとっても悪い話じゃないでしょうし……これ、内密にしておいてくださいね」
「ふうん。シグマ、行こっか!」
墓越に中指を立てながら道楽さんに着いていく。はやくこんな場所から帰りたかった。
エレベーターに乗ったところで、道楽さんがポケットをパタパタと叩きながら険しい顔をしているのが目に捉えることができた。珍しい顔だ。彼女がこんな分かりやすい表情をするなんてどうしたんだろうと、じっと見つめたらこちらの視線に気付いた道楽さんはスマホを手にしてにへらと笑った。そこで視界はまたぐにゃりと歪み、彼女の姿は魂の形へと変える。
「トギに連絡しないとって!」
「はあ。どうしてですか?」
「墓越の件で言わなくちゃなんないコトがあるのサ」
※
人を、殺した。人を救う為に、刀を振り翳した。肉を、骨を断ち切る感触が手に伝わるのと共に顔に掛かる血飛沫を浴びる僕を見て、獣は笑っていた。
〝運命〟はぶちりぶちりと音を立てて断ち切れていく。
墓越先輩の運命は、理に殺されるものだった。理ではなく僕が墓越先輩を殺すことによって、予定として理に在った運命を変える。そうして生まれる世界と事実の齟齬が――彼女を生かすのだと、理解した。
だから、刀を何度も振り翳した。血が何度も溢れ出ていた。
矛盾だと思った。墓越先輩を殺しているのは僕なのに、僕が彼女を救っているのだと云う。気持ち悪くてしかたがない。それなのに僕は何度も彼女を殺すしかなくて、ただただ血に塗れた。獣のくすくすと笑う声が聞こえる。
血に塗れ汚れた手を見つめる。てらてらと光に当てられる、生暖かい……新鮮な紅い血。僕が殺したという証拠。僕が生かしたという証明。荒れる息が肺から溢れる。息を吸う度に鼻腔を満たす血生臭い匂い。うるさい鼓動。震える手と止まらない思考。
僕は一体、これからどうなっていくのだろう。人を殺して、生き方を変えて。この先、獣を殺したとして僕は元の人生に戻れるだろうか。起きた物事のすべてを忘れて、何事もなく生きられるだろうか――。
「やめろと言ってるだろッ?!」
怒鳴り声に目が覚めた。
いつもなら獣がモーニング・コールをかましてくるわけだが、強力な魔力制御機能が働いているらしく、獣はこの無機質な部屋には現れなかった。
身体中に張り付く汗を気持ち悪く思いながら、ドッタンバッタンぎゃーぎゃーわーわーと騒がし過ぎる喧騒の元に目を向ける。ここ数日間、四六時中共にいるオーフェリアさんと柚先輩が激しく取っ組み合っていた。
またか。
「終わらねえな……」
「はやくこのバカを止めるの手伝え鹿目!」
柚先輩は群青色の髪を振り乱しながらオーフェリアさんを投げたり、或いはオーフェリアさんに投げられたりしていて……正直、止めに入りようがない。
この部屋を出るためのドアまであともう少しというところで、柚先輩に投げられた眩い黄金、改めオーフェリアさんが僕の頭上を通り、ガ!と大きな音を立てて壁に打ち当たる。
顔色がひどく悪い。真っ青だ。彼女は口を開けて泣き叫んだ。
「パチに行かせろ――!!」
「行かせるかッ!アホ!」
この光景も慣れたものである。まったく、慣れたくないことにばかり慣れてしまって涙がちょちょぎれてしまいそうだ。
僕とオーフェリアさん、柚先輩は墓越先輩の運命を殺した容疑で戸木正義という陰鬱な印象の尋問官に捕らえられ、窓すらないこの無機質な部屋に閉じ込められた。
正直、彼らとこれ以上いるくらいなら獣の方が百倍マシに感じられる。
尋問官であるトギさんに尋問もされず、ただここに留まるのを強制されて、何も起きない現状が怖いまであったが……いちばん怖いのは、運命を殺してはいけなかったというまったく知らない話だった。何それ知らん……こわ。を素で言うことになるとは思いもしなかった。
なぜ誰もそれを言わなかったのか――いやリツさんは確かに否定していたワケだし、駄目だと知っていたところで僕は同じことをしていたと思うけど。
その件について初日のうちにオーフェリアさんがトギさんの目の前で弁明し出したのは記憶に新しい。
「弁明をさせてもらいます。わたしはいつも運命を殺しているプロなワケですが――」
謎のプロ視点から彼女の弁明は始まった。
「捕まったのははじめてのことです。なにをやったんですか鹿目?」
「えっ僕が悪いんですか!?」
弁明っていうか、完全に責任の押し付けだった。
僕が言葉を失くしている間、トギさんの前へ出たのはリツさんの兄であり、他ならぬ墓越先輩の同級生である柚先輩だった。彼は暗闇を呼び寄せ僕が手間取っていた泥兵の相手をしてくれた本人であり、運命殺しの共犯者と見なされて今この場にいた。
「いいや、ふつうは捕まるものだ。理の運命殺しっていうのは、それくらい悪いことでASX全体が動かなくちゃいけなくなる事態……おい、そこの金髪、なにしてる。」
「冷蔵庫を漁っているのです。お腹が減りました。」
魚類ソーセージを口に入れながらオーフェリアさんがそんなことを堂々とした表情で言った。その腕にはパンやらオレンジジュースが抱えられていて、遠慮と言うものの片鱗さえ見えない。唖然である。
「ふんぞり返って人様の冷蔵庫を漁るんじゃない……オレたちはいま罪を問われてるんだぞ」
「それがどうしたんですか?わたしはやるべきことをやりました。おまえたちだって自分の行いが間違いだなんて思ってないでしょう。」
そうして、この場に響く音は彼女の咀嚼音だけになった。
的を射ている、と深々と思った。いっそ感心すらした。僕には今あの瞬間に時が戻ったって同じように動いただろうという自信がある。罪に問われると知りながら僕に墓越先輩を助けるための力を貸してくれたのだから、きっと柚先輩も同じ気持ちだろう。
「だからこうして捕まえられたのは不本意ですし、怒っていますし、反骨精神の見せ時だと思っていますし、今はお腹が減っているので食べる。」
「いやそれはちょっとどうかな……」
言って苦笑する。僕たちはやるべきことをやった。間違いはなかった。だが少なくとも間違いとして認識されるのは僕たちだ。なら人の命を救ったという事実にふんぞり返ることはできれば、したくない。
ふと、オーフェリアさんは金色の目を僕に向けた。もぐもぐと、今度はパンを咀嚼しながら。
僕は首を傾げて先を促した。
「ん。」
――ちょっと待てと人差し指を向けられる。
あ、はい。暫くオーフェリアさんの咀嚼を待つ。
こくり、と彼女の喉が動く。
「でも誰が運命殺しをしたのかと聞かれたら、わたしは鹿目の独断だと言わせてもらいます。」
……助けてくれた恩人相手に思いたくはないが、この人結構……アレだな……。
僕がオーフェリアさんの対応にうまく言語化し難い感情を抱いていると、トギさんがこめかみを抑えながら溜め息をついた。場の緊張感が振出しに戻って、質素な椅子に座ったままのトギさんは怠慢な動きで僕たちを見上げると感情の読めない声で喋り出した。
「もういい。お前たちにはここで数日間ほど滞在して貰う。」
「なぜですか?尋問はそんな時間がかかるものじゃなかったはずですよ。」
「ああ、足立君、その通りだ。通常は数日もかからせない。私がここにいろと命じているだけだ、そしてお前たちは私の言う通りにしなければならない。世界評議会には出されたくないだろう。」
柚先輩の表情に明らかな動揺が走る。その言葉の通り、世界中の人が僕たちの行いについて会議するのだろう。実態は何も知らないが、絶対にいやだと感じるものがある。とくに今この状況としては大変恐ろしい響きだ、世界評議会とか。
そしてもうひとり、動揺を隠さなかった人がこの場にいた。
「ま――待ってください。数日?数日って何日です?」
それも異なる角度の問題を、抱えて。
「数日だ。十分に時間が経てば、そのときお前たちを出してやる。必要な物資はお前たちが無駄遣いしなければ、そこの物置に数か月分はある。」
高圧的な態度だった。見事なまでの犯罪者扱いで言葉も出ない僕と柚先輩を差し置いて、オーフェリアさんは躊躇いもなくトギさんに縋った。
「待て待て待て!わたしには二日後に用事があるのです。」
「キャンセルしろ。」
「無理です!……27日は、七の日ですから。」
「ななのひ?」
「七の日は、イイのです。」
トギさんは溜め息をついて、こめかみを押さえた。
「パチか。」
「パチです。」
「〝控えろ〟。」
この場では異質と感じられるほどに魔力を帯びていたその言葉は、オーフェリアさんをあっという間に黙らせた。トギさんは煙草に火をつけながら部屋を出る直前、一度だけ僕たちを見つめた。
「一蓮托生、連帯責任だ。お前たちが私の言う通りにここで大人しく待っていれば無傷で出してやると言ってるのが分かるな?」
わかる。わかるとも。心から深くそう思う。黙って素直に状況を受け入れていれば、これ以上悪化することはないという意味も、もちろん分かる。
だけど、わかっていないやつがこの場にいた。いや、わかっていて気にしていないのだろう。何より悪質だった。
トギさんはあの日以来ここに来ていない。
柚先輩と僕だけでパチンコ店に行きたがるオーフェリアさんを引き留めるのに必死で、部屋の中はかなり荒んだ。僕たちは世界評議会なんて嫌な響きの所に出されたくないし、なるだけこれ以上の問題を避けたかったのでオーフェリアさんを止めるのに形振り構わなかった。
昨夜の疲労感が抜けなかった僕は、疲労感に任せて枕に顔を埋める。オーフェリアさんのすすり泣く声が聞こえる。
子供を持つってきっとこういう事なのかもしれないな……。
「なんで……わたしは悪くないのに……。」
「いーや!ここまで来たら十分に悪い。」
激しく同意せざるを得ない。部屋は嵐が通ったかのように荒れているし、柚先輩の言う通りここまでやって無罪を主張するのは無理があった。
柚先輩は唸り声をあげて僕の隣に座った。
「おい鹿目、オレ寝るからアレの面倒見とけ。」
「了解です。」
起き上がってオーフェリアさんを見る。彼女の輝く目と視線がかち合い、嫌な予感が胸にさざ波のように押し寄せ――僕が何かをするよりも前にオーフェリアさんは勢いよく僕に体当たりをかましてきた。
くそっ、この人容赦なさすぎるっ!
「もうあと数日くらい待てるだろ!第一、七の日はもう過ぎましたよ!」
「うるさいっ!賭けなきゃ生きている意味なんてないでしょうっ!」
ほんとう何なんだこの人!
無遠慮に抱えられて地面に投げられ、背中に走る衝撃に息を奪われる――疲労。たった二文字、されど強力な二文字が脳裏に浮かぶ。寝転んだまま何もかもを放っておきたくなるのを我慢して起き上がる。肺から押し出される咳を無視してオーフェリアさんを追いかける。
「ゲホッ、この、待てって!」
ドアノブを掴む彼女の腰に張り付いてなんとか引き剥がすことに成功したが、飛んできた勢いの良い拳を避けきれず、頭蓋骨へ響く衝撃に意識が消滅する。
ほ、星が……輝いている。
「こんにゃろーッ!休めもしねえ!」
どったんばったんと喧噪が鼓膜に響いた。
起き上がらなくちゃいけない。だが、頭にドデカイ石を乗せられているみたいな重さ。痛み。疲労。柚先輩の苛立ちに満ちた声が聞こえる。なんでこんなことになってんだろう……。
苛々と頭を押さえながら上半身を何とか起こし――、目の前に飛んできた二リットルのペットボトルに意識を完全に打ち砕かれる。
暗転、暗闇。
体に熱が走り、暗闇の中で僕を見つめている少女の瞳に気付かされる。燦然たるアメジストの瞳が僕を射抜く。この世で最も美しく、この世で最も無情な目。何もかも知らないのに、何もかもを見て知ってきたかのように、彼女はただ尊大に僕へと手を伸ばした。僕の頬に触れるその手は氷のように冷たく、色がない。
獣は囁いた。
『起きて。』
それは尊大な命令。それは静かな強請り。だからって言うことを聞かなければならないような理由は、僕にはない。だが、彼女に作り変えられたこの体はまるでそうしなければならないのだと、そんな強い意思を持ったかのように意識を表面へと突き出していた。無理矢理目覚めさせられる感覚に、僕にはまだ自己意思があって、それなのにこうも簡単に動かされてしまうのはきっとこれが夢だからか?と考えたところで目がばっちりと開く。
「――う、いっててて……」
体中が悲鳴を上げているのが分かる。とくに眉間辺りがやばい。凹んでいるんじゃなかろうかと不安に思い触れてみる。
『せんせいっ!』
獣の嬉々とした声に体が竦む。相も変わらず元気なことだ。
ほとんど反射的にそこまで考えたところで、異変に気付いた僕は勢いよく起き上がって周囲を確認し、たまらず息を呑んだ。外への経路たるドアが開いて――というか、壊されていた。
……部屋に敷かれていた魔力制御が、ドアの破壊によって消えたのか。だから獣による副音声、改め念話が戻ってきたのだろう。しかし、うん。
「ま、まずいぞ……」
オーフェリアさんはおろか、柚先輩もいない。僕だけがこの部屋に取り残されたらしい。一蓮托生、責任連帯。そう言うトギさんの言葉が脳裏を過った。このままでいて僕はここから出ませんでしたよと知らん顔を通すことができたのなら知らん顔を……いや、していなかったか。見過ごすような真似に苦しめられる経験は十二分に経験しているので、たぶんどれだけ知らん顔をしたくてもできない。
素直に諦めて立ち上がる。彼らを探しに行かないといけない。
『はやくこの部屋から出ようよ、先生。わたしと先生の念話を封じるとか、ここ、ちょっと忌々しすぎるし。』
「ん。……お前、あの人たちがここを出ていったの見てたか?」
『?うん、ドアが壊れて先生を起こしに行ったときだから……ほんのちょっと前くらい、かな。』
獣の言葉に耳を傾けながら半壊してあるドアの前に立つ。
柚先輩がいないということは、オーフェリアさんを連れ戻しに行ったのだと思う。こんな風にドアを壊して抜け出して、トギさんに許してもらえるとは思わないが、だからと言って何もしないわけにはいかない。というか、こうなってしまった以上は百パーセント責められるのだからいっそ好きに動き回ってオーフェリアさんと柚先輩を探す他ない。怒られるのだとしてもふたりを見つけて共に戻ることができたのなら、きっとそこまで怒られはしないだろう。大事なのは反省とその証明だ。
いざ部屋から出て青い上質な絨毯を踏むと、自分の体から制御されていた魔力が沸き上がるのを感じた。止まりかけていた血が回り出したみたいな開放感にたまらず息をはく。魔力はパワーだと感じていたが、どちらかと言えば血に近いかもしれない。
「よし!」
オーフェリアさんと柚先輩を見つけて早く尋問室に戻ろう。トギさんに捕まるのと同時に意識を奪われ、気付けばあの部屋に閉じ込められたので実のところ、正確にここがどこなのかは見当もつかないが、それでも行動に移さなければそもそもはじまらない。
廊下を歩きながら辺りを見渡す。敷き詰められた青い絨毯に目が痛くなるような真っ白な壁。
色合いからして……たぶん、ASX本部かもしれない。
歩いていると、ふと周囲の様子が変わったと肌で感じはじめる。ピリピリと肌を焼く様な殺意。青い絨毯と白い壁を汚す、無視できないまでの大量の血。獣が呆れたように「うーん、汚いね……」と見当違いなこと呟いた。いやそういうことじゃなくて。いま考えるべきなのはこの血が一体誰のものなのかという事であって。
獣の言葉に呆れながらも十字路の廊下をそろりと覗くと、右側の奥から見覚えのある黄金の姿が吹っ飛んで来た。文字通り。
不本意ではあったが、ここ数日間でオーフェリアさんに吹っ飛ばされる柚先輩を受け止め慣れ始めていたので、すぐにオーフェリアさんを受け止めるための体勢を取れたが、腕の中に黄金が納まる衝撃に思わず呻き声が洩れる。倒れ込みそうになるのを持ち堪えて、オーフェリアさんの様子を窺う。
――うわ、目つき悪っ。
「……殺してやる……鹿目、おまえも協力をしてください。わたしたちはいま墓越に狙われています。」
墓越の名前に「えっ恩知らずにもほどがあるんじゃない!?」と獣が叫んだ。獣に常識を疑われているなんてかなり人としてオシマイだ。何か事情があるのかと疑問に思うのと同時に、オーフェリアさんに腕を引かれて顔を上げる。すっかりと立ち直った彼女は今しがた飛んできた方向を睨んでいた。
「ほら、来てください!殺しに行くのです!」
「ちょ、でも、いま武器もない、」
「向こうで幾らでも拾えます。」
腕を引かれるがままに血だらけの廊下を走り出す。奥には柚先輩もいるのが目に見えた。ひとりで泥兵と戦っているのが見えて、ほんとうに、墓越先輩が僕たちを殺そうとしているのだと理解して……到底言葉に表せないような気持が胸に燻ぶった。
泥兵たちは前に見かけた時よりずっと俊敏に動いているのが遠目でも理解できる。はやく柚先輩と合流しなければ――。
『先生なんで腕を振り払わないの?なんで触らせてるの?殺していいの?』
「オーフェリアさんちょっと離してください。」
「なんですか、潔癖症なのですか?」
「そんなところです。」
地面に落ちている泥兵の武器であっただろう刀と槍を拾ったオーフェリアさんは剣を僕に渡してきた。
「潔癖症なところ悪いですが、武器はこれで我慢とかしてください。ちなみに本体の泥兵が消えると数分で消えるから大事にするといいです。」
「大事にできないじゃないですか。」
「アンタら駄弁ってないで手伝え!」
「すみません!」
「了解しました。」
柚先輩の声に急かされて再び走る。確かに話している場合ではない。前に対峙した時よりずっと俊敏な動きの泥兵に違和感を覚えながらも刀を握る手に力を込めて、刀に魔力を纏わせて振るう。
刀が肉に、泥に沈まない。
――硬い。前の奴より、ずっと……!
違和感が確信へと変わる。これは墓越先輩の泥兵じゃない。そうして確信を持ったのと共に生まれた隙を付け込まれてしまい、槍を持つ泥兵の槍で薙ぎ払われ、無様に地面に転がされる。肺から息が吐き出される。刀を離さないように拳に力を入れる。
僕が立て直すより先に泥兵は飛び掛かってきた。何もかもがスローモーションのように見える光景に、奥歯を噛み締め――すぐに隣に落ちていた槍を拾いながら横に転がって追撃を避ける。拾った槍で泥兵の足元へ引っ掛け、更にもう一度横へ転がって飛んできた弓矢をなんとか避けた。そのまま更に転がり続けて、僕を薙ぎ払った泥兵の上に乗っかって、馬乗りになる。
今度は先程より強固になるよう魔力で固めた刀を泥兵の首へと回し、斬る。依然と同じように泥の飛沫が飛び散る、そう思っていたのに。
赤。赤い。
「血だ……」
声が震える。でも、そうか。あの廊下に塗りたくられたような大量の血は、この泥兵たちのものだったんだ。墓越先輩の死霊とは何もかもが違う。何もかもが。
「誰の魔術なんだ……?」
「実体化させる死霊魔術なんてのは墓越くらいだ!」
「だ、だけど……!」
「死にたくないんなら黙って動け!」
息が荒くなるのを放っておいて、立ち上がる。体が震える。泥兵たちと対峙する柚先輩とオーフェリアさんは至って普通の表情で、このすべてが何てことのないように戦っている。
この場で僕だけが、まだ恐れていた。
怖かった。人を殺しているという感覚が、気持ち悪かった。ここ数日間ずっと夢に見ていた、墓越先輩を殺すときの感覚と同じ。
人を殺して、生き方を変えて、僕は元の人生に戻れるのだろうか。起きた物事のすべてを忘れて、何事もなく生きられるだろうか。
その答えは息が詰まる程に、恐れる程に、わかりきっていた。
これ以上は殺したくない。変えたくない。変えられたくない。
強くならなくては獣を殺せないなんてことはわかっている。それでもこんなやり方で強くなりたくない。自分を見失うような選択を取りたくない。僕が生きたいと願ったその理由の否定になる。変わるのは構わない、変わるべきことなんて幾百でも例をあげてしまえる。変わらないままの人生に意味はないと思う。
でも命を些事として見るようになるくらいなら、僕は死んだ方が良い。
『……先生、どうして戦わないの?』
「変わりたくない。変えられたくない。」
泥兵たちの攻撃を避けながら答える。後退して、後退して、避けるというよりはほとんど逃げるような動きだった。そんな僕を見ているだろうに、僕が彼女の知る〝先生〟じゃないことなんて今の僕を見たら分かるだろうに、獣は静かに言葉を紡いだ。
『でも先生が何をしても、先生は先生だよ。戦っても、戦わなくても、根っこの部分は変わらない。そんなことで根っこまで変わる人はいないよ』
「これ以外の生き方がわからなくなるが嫌なんだよ……っ!」
口にしてすぐに後悔した。
自分でもわかるくらい悲痛で、惨めな声だった。元々の道を見失うのが怖いだなんて、言いたくなかった。それでも胸に燻る不安感はそれだけしかなくて、それだしか今は言えなくて、獣を殺さなくちゃいけないとか、その為に強くならなくちゃいけないとか今はもう何もかもどうでも良かった。ただ怖かった。
獣を殺す過程で人を殺して、殺して、たくさんいろんなものの命を奪って、その度に生き延びたという興奮を感じる度に僕は僕の知らない自分になっていっている。そう感じて止まない僕の最期はきっと、僕が最も嫌う人間の質になっているに違いない。それがどれだけ恐ろしいことなのか、それがどれだけ気持ちの悪いことなのか。一言として、声にしたくなかった。
『だったら、分からなくなったのなら、わたしがあなたに教えてあげる。あなたが必要になるたび何回でも、必要なだけ教えてあげる。あなたはこういう人間で、こういう生き方をしていたって、教えてあげるよ。』
――それでも、獣はいつもと同じように、いつもと同じような態度で言った。尊大で直球、傲慢で誠実。自分がまるで僕のすべてであるとばかりの言い草。態度。価値観。
『先生が先生でいられるように、わたし、ぜったいそばで手伝う。あなたは誰にも負けないんだよって、ちゃんと伝える。どんなことが起きても、何があってもあなたはあなたで、変わらない。あなたでさえ、あなたであることは変えられない。だから、殺していいんだよ。』
乾いた息が口から洩れる。
「なんだよ、それ。」
お前なんて僕を食い散らかした化け物のくせに。
「なんでだろうな。」
僕は獣を殺すと決めているのに、愚かなまでにその獣の言葉を信じてしまうのは、どうしてだろう。その言葉に安堵してしまったのは、どうしてなのか。きっと何よりも愚かなことだと分かっているのに――信じたいと思う気持ちに、躊躇いが生まれなかった。
まあ、こうなったらなんだっていい。
刀を構えて目の前の泥兵へと押すように切り込む。赤い血飛沫が顔にかかった。血が口に入った。すかさず踏み込みながら斬撃を続け、刀についた血飛沫を払いながらもう一度刀を振り翳す。泥兵の腕が千切れ落ちる。もう片方の腕も切り落とす。大量の血が廊下を汚していく。
持っていた刀が溶けて血へと変わり、僕はすぐに新たな武器を拾い次の泥兵へと切りかかった。
『えへへ……』
獣の微かな笑い声が脳裏に響く。ムカつくけど、なんだか穏やかな気分だった。
そうしてオーフェリアさんと柚先輩と共に泥兵を殺し続け、数分を経て泥兵たちはいなくなった。汗と血だらけになってくると、もう以前のような迷いはないと心から言える気がしてくる。……まあ、気がしてくるだけなんだけど。だって、まだいやだ。まだ不快だ。
そこばかりは変えられないんだって、今になって気付く。殺し以外の生き方を忘れてしまうことはないんだと、気付く。その事実はたまらなく救いだった。僕が命を些事と認識することは絶対にない。
歴史は学び、変えるためにある。だけど、どう変えるのかは僕が決めることだ。僕は人として真っ当でありたい、真っ当であれるように変わって成長していきたい。故に、そう想う心がある限り、僕はずっと僕のままだ。どうしてそんな大事なことに気付けなかったんだろう。
……きっと墓越先輩を殺した時の恐怖に目が眩んでいた。手が震えているのに刀を振り続けなければならないと言う悲しみに、心が傷んでいた。いつかナインナインが精神的な痛みはそう簡単には癒せない、と危惧してくれたことを思い出す。心が傷ついたら見えもしないどころか、その証拠さえも残さない。墓越先輩のために墓越先輩を殺したあのとき、僕はたまらなく傷ついていたのだと今になって思う。
でも、もう大丈夫だ。――認め難いほどに悔しいが、そこには獣の言葉も一因を担っていた。変わりはしないと気付けたのは獣が理由じゃなかったが、その理由を見つけられるほど視界が開けたような清々しさをくれたのは、間違いなく彼女だった。……うん、そこばかりは、まだちょっと複雑だな。
泥兵の血を拭い、オーフェリアさんは豊かな黄金の髪を掻き上げて満足そうに眼を閉じると、口を開いた。
「よし。パチに行くですよ、パチ。」
「んー、戻ったって襲われないなんて確信はないしな。どっか行く目的あるだけマシかぁ」
「……あの、この死霊魔術ってほんとうに墓越先輩なんですか?」
あの時の墓越先輩が弱っていたとしても、この数日で完全に回復して僕たちを襲っているとは考えられない違いが明確にあった。俊敏さだけじゃなく、泥兵の強度も何もかもが異なる。より強力で、より数も多い。より技術的で、より知能的。あの時の墓越先輩の泥兵たちとは根本から違っていた。
ずっと気になっていたことを尋ねれば柚先輩は腕を組んで頷いた。
「もちろん墓越だ。さっきも言ったが死霊魔術で死霊の魂を実体化にまで引き上げるのは墓越家の芸当。ただ、沙耶じゃない。百パーセント墓越兄だな。命なら賭けてもいい。」
「賭ける、ですか?」
「反応すんなパチカスクソ女。」
墓越兄というワードに首を傾げる。
「その人が僕たちを狙う理由なんてあるんですか?その……墓越先輩と仲がすっごく悪くて、彼女の命を守った僕たちを逆恨みしている、とか?それとも単に僕たちが運命殺しの犯人として狙われているだけですか?」
「後者よりだな。墓越兄は家族フリークだから。」
「なんて?」
「ファザコン、マザコン、シスコン、ブラコン。全部コンプリートしてる。」
……頭が痛くなってきた。「へえ、仲が良いのはいいことだね、先生」と獣が感心したように綺麗事を言ったのは無視せざるを得ない。とんでもないことになっているのに〝わあ仲が良くて素晴らしい〟なんて頭お花畑すぎるだろ。いや、まあ獣に常識を求めるほうがいけないのか。
「ええと。なんで、それが僕たちを狙う理由になるんですか?」
「アイツの場合、間違いなく情報の揉み消し、とかだな。命を代償にしようとする魔術はタブー視される以上に嫌われるから、沙耶の為に〝そもそも運命殺しなんて起きていない〟ということにしたいんだろうな。」
情報の揉み消し。確かにそれなら筋が通る。いや、家族フリークとかぶっとんでいる理由だと思うが、行き過ぎた感情の結果だというのなら納得がいく。墓越先輩自身も行き過ぎた感情に突き動かされるまま禁忌という行動に起こしていたし、わりと墓越という血筋の特徴なのかもしれない。
「まあ、そんなことを知ったところで、オレたちにはどうしようもないがな。」
「ええ。パチが優先ですからね。」
「ち、げ、え。墓越兄がどこにいるのか判断できないからだよ、パチカス。大本を止めようにも、沙耶と違って兄の方は死霊魔術の限界距離がないからどこに隠れているのかオレたちにゃあ分からない。分かる?」
オーフェリアさんに語り掛ける柚先輩を見ながら、込み上げてくる苛立ちに僕はこめかみを押さえた。人生がそういうものだと理解していても、傍迷惑なやつを懲らしめることもできない状況が、どうにも腹立たしい。獣といい、なぜ迷惑なやつはいつも手が届かないほどに強力なのか。不公平だ。
うん、こうなったらアレだ、うん。
「……パチ、行きますか。」
「おまえたちは未成年だから何もできないでしょうが、話の分かるやつは好きです。交換所でチョコでもくれてやりますよ。」
「いりません。」
「いらねえ。」
「行かせない。」
背後から感情の読めない声がひとつ会話に紛れ込み、場の空気感が凍る。振り向くと、前と変わらず一切の感情が読めない目つきでトギさんがその場に立っていた。彼の腕にはライフルが担がれている。
オーフェリアさんが「ここは任せてください」と言って、前に一歩踏み出た。彼女と数日過ごす前であれば感動なんかしていたかもしれないが、オーフェリアさんが如何に人として尊敬できないのか身をもって思い知っている僕と柚先輩は彼女の素振りに顔を顰めた。
あ、怪しい。何かとてつもなく嫌なことを言いそうだ。
「わたしは無罪です。ふたりがわたしを外に連れ出したのです。」
「は?!」
「おいパチカスクソ女!」
予感的中。やはりこの人はずっと揺らがない。自分だけが助かろうとする、自分に有益なことしか興味がない。彼女は正しく自己中心的な人物のお手本のような人だった。獣はどこか落ち着いた様子で「ほんと非常識だよね……」なんて言っているが、僕はお前も大概だと思います。
オーフェリアさんの言葉に一切の感情も見せずトギさんは首を横に振った。
「言っただろう、一蓮托生、連帯責任。誰かひとりでも問題を起こせばそれ相応の罰は下る。墓越に狙われて少しは反省――しているはずもないか。」
トギさんは怠慢な動きで人差し指を僕らに向けた。
「ひとりは運命改定者。もうひとりは厄災の村の出、もうひとりは異質体の器……反省できそうにない連中なのはわかるが、せめてもう少し自分が置かれている状況、それからASX内で自分がどういう立ち位置なのか理解しておいた方がいい。」
「オレから言わせてもらえば、そんなのは余計なお世話ですね。自分がどんな目で見られてるのかくらいオレだってわかってる。」
「まったくです。わたしは、変えようもない事実を改める必要性、それを感じません。」
「変えられないからと言って甘んじるなと言ってるんだ。」
鋭い言葉だ。食ってかかるオーフェリアさんと柚先輩を他所に、僕はふしぎとトギさんの鋭い言葉には非難はおろか、裏すらないように感じられた。最初から最後まで彼は誠実なのだと、信頼しても構わないのだと、獣に作り替えられた体の隅々が本能として叫んでいる。トギさんは最初から最後まで〝真実〟しか話していない。
……異質体の器だなんて呼ばれるのは癪だけど、実際僕の置かれている状況、立場にはヘイトが集まっている。獣に先生と呼ばれているせいで僕は実際に先生、つまり初代会長であると判断され、ASXの頂点を狙い動いていると思われているからだ。
そして先程のトギさんの言葉を聞いて確信したが、恐らくオーフェリアさんと柚先輩も僕と同じようなヘイトの集め方をしている。自分が望んだわけでもないことで、嫌われている。
しかし、それだけに留まらず運命殺しというASXからしてみれば禁忌とされていることを行った身だというのに、トギさんからは悪意や嫌悪感を少しも感じない。
「……それ相応の罰って、僕たちをどうするつもりですか?今ここで殺すんですか?」
「人の命を奪うのはASXの主義から反する。」
トギさんは廊下にこびりついた大量の血へと視線を向けた。
「墓越については例外とさせてもらう。アレはここがおかしいんだ。」
彼は自身のこめかみを突いた。なるほど、墓越兄の頭がおかしいというのは常識らしい。この先、墓越兄と出会うことがあるようならば油断しないように気を付けたいところだ。
……まあ出会わないというのが一番なのだが。
「お前たちには第3尋問室に移ってもらう。軟禁で済んでいた前回のようには動けないと思え。」
獣が「えっまた先生と話せないの!?やだ、つまんないつまんないッ……!」と駄々を捏ねたが、彼女にしては大人しく受け入れている様子で、正直こういうところでは常識人ぶるのが何だかムカつく。
恐らく獣と同じくらいには非常識であるオーフェリアさんは身動ぎし、今にも逃げ出していきそうな彼女をトギさんは高圧的に見下ろした。
「それから、今ここで私に従わなければ魔術特権剥奪になる。鹿目君へ説明させてもらうと、魔術制御の紋を体に刻まれ一生魔力や魔術が使えなくなる、という意味だ。理解できるか?」
「は……はい。」
「まあ、オーフェリアの面倒を見なくて済むんなら楽になりそうだな。」
柚先輩の言葉に深く頷く。ここ数日間で最も骨が折れたのはオーフェリアさんの面倒を見なくてはいけないことだった。正直もうアレを経験しなくて済むのなら、どんなに厳しい監禁状態であっても構わないと思える。いっそ、いい経験だったのかもしれない。……いやそれにしてもそれはないな。考え直して、ふと疑問がポカンと浮かぶ。
「そもそも、なんであんなに自由だったんですか?」
禁忌を犯した人間に対する扱いにしてはかなり甘かったような気がするのだ。自由に動けるし、その気になれば好きなだけ飲食ができる。暇つぶし用の本だってあった。扱いの良さだけなら、ナインナインのところよりずっと良いと言える。ナインナインの大声と圧に怯える必要もないし、オーフェリアさんさえいなければ極めて快適な場所だったと思う。
「こちら側の好意を無碍にされたら、こちら側も相手の人権を無視するが、相手が人間である限りどんな悪人であってもはじめは人権を重視する。……基本的には相手がどんな人間か見せてくるまでは無碍にしない、 ASXはそういう主義だよ、鹿目君。」
「へえ、じゃあドアの鍵が開いたのもあえて、なんですか?」
途端に、それまで落ち着いていた様子のトギさんの目付きが薄暗くなり、場の空気が重くなる。間違ったことを言ったわけでもないが、なんだかとても今の発言を取り消したくなった。しかしながら現実は現実でしかなくて、放った言葉は取り消せない。ピリつく空気感は変えられない。
「それは本当か?」
「ハ、ハイ。」
トギさんが尋問室を出て行って数時間後、それまで静かに絶望していたオーフェリアさんは開錠された音を聞いてすぐに様子を変えてドアに飛びつき――あの瞬間以来、僕と柚先輩は一度も休もうとしないオーフェリアさん相手に殴り合いを強いられていたので間違えるわけもない。
僕と同じようにオーフェリアさんの変貌を思い出したのか、苦い表情を浮かべ目を閉じた柚先輩はがしがしと頭を掻いた。
「そのせいでオレと鹿目は苦労したからな。間違い様はありませんよ。」
「鍵の開錠か……恐らくそれも墓越の仕業だな。随分となめられたものだ。」
トギさんは墓越兄のものだと推測したらしい。実際、今のところ最も怪しいのは墓越兄なので彼を疑っても仕方ないと思うが、トギさんの声色からはこの件に対する疑い以上の何かを感じられた。
高圧的で表情が読めないという印象だった彼のその言葉には日頃の恨みを込めているかのような、地を這う重みがある。
……墓越兄はかなりの問題児なんだろうな。
同じことを思ったのか、獣は「ハカコシ、殺した方がはやいんじゃないかな」と静かに呟いた。まあ、さすがに殺せとは言わないけど、魔術特権剥奪という手法があるのならば、墓越兄の暴走は止められる気がする。
深く溜め息を吐いたトギさんはゆっくりと歩き出しながら、着いて行くようクイクイッと指で僕らを促した。魔術特権剥奪なんてことになればいよいよ獣を殺せなくなりそうだし、何より彼に従わない理由がないので素直に後を追う。
しかし案の定というべきか、自由意思による決定しか行わないオーフェリアさんは渋って、その場で唸った。
「せめて一度でいいからギャンブルをさせてくれないですか。」
その言葉にトギさんは微かに鼻で笑った。
「ギャンブルなら既にしていたさ。お前たちは幸運だった。」
「ほう、ならばぜひ教えてほしいのです。わたしはどんなギャンブルをしていたんです?」
「私が来なければこのままこの階を出ていただろう。そうなれば問答無用で魔術特権剥奪されているところだ。……私に連絡を寄こした道楽教官の鋭さ、そしてその連絡が遅れてこなかった事、私がたまたまスマホを手にしていて連絡に気付けた事、たまたま本部と離れていない場所に私がいた事――重なった幸運に感謝するんだな。」
「……あとみっつですね。」
「何?」
「あとみっつ偶然を言ってください。スリーセブンのために。」
柚先輩が「パチカス……」と独り言のように呟いた。おおよそは同意見だが、正直なところオーフェリアさんは〝パチカス〟のワンワードで済ませられる範疇を超えている気がした。




