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・1-ヒューマンカインド

Humankind



 罪を贖うだけの生。人は真に生きていると感じられるだろうか。


 ――――目覚める朝の話。


 自分はすでに死んでいる。そう思っていた。

 意味もなく息をしているのが嫌で仕方なかった。生の消費が嫌でたまらない。一日の終わりが来る度にまた息をしているだけで終わったと絶望するだけで、生きているなんて胸を張って言えやしない。生物学的には呼吸をして生きてるけど、それだけだ。それは、死んでいるのと何ら変わりはしない。それは何も今に限ったことではなくて、自分にとってその思考は極めて普遍的で日常に馴染んでいる思考だった。


 生きていられるだけ有難いと常々思うのに、生きていると胸を張って言い切れない自分が、生への感謝を述べたところでやたら薄っぺらい供述でしかない。死にたくないという朧げな死なない理由でしかない。生きていると胸を張って言えない時点で、生きていないのと何も変わらなかった。

 現実だと言い切れぬ現実は覚めぬ夢のようなもの。愛と言い切れぬ愛は存在しないように、生きているのに生を生とするものが何ひとつとして無い自分に何が言えるだろう。


 ――自分の掌を見る。


 しかし、手を放した当人である僕が手を伸ばせる立場にいないことは、ただ生を持ってでしか贖えぬ罪があるのと同様に、無情なまでの明白な事実として在った。

 誓って言える、生きていたくはなかった。しかしそれと同じように、同じ熱量で、誓って言える。生きていたい。生きなくちゃいけなかった。死にたくない。死んでしまえば、ほんとうに終わってしまう――結局、なんの償いも出来ず、後悔と共に。


 ()()()()()()。僕は知っている。生きることだけが、自分の犯した罪の贖罪になりえると。

 それは例えどんなに自己嫌悪にのまれようと、まだ希望を探している自分が憎いからでしかない。生きている感覚はしない、罪を贖っているだけ、生を消費しているだけでいる。無様にもいつか失った輝きを、もう一度目にしたいのだと思い願いやまない自分がいる。希望を捨てられない。無謀にも絶望の淵で消えた星を探している。まだそこにあるはずなのだと、ただ、憶測だけで生きている。

 そしてそれこそが、自分の犯した罪の贖罪だ。故に。死ぬわけにはいかない。死にたくない。死んだらもう、あの消えた星に償えない。


「はあっ……はあっ……」


 脚が縺れぬように、しかし全身全霊、命をかけて全速力で走る。

 自分にとって人生は未だ痛感しきれぬ生で無意味な贖罪でしかない。手遅れに失ったものへの贖罪なんて、意味を見いだせないのにそれでも償いでしかない生を守りたい。それだけで痛感できない生を生きている。


 ――だというのに。嫌味な話だが、いまは嫌に生きていると痛感している。こんな生の痛感の仕方は嫌だな。笑えないくらいそう思った。

 背後で獣の叫び声が、人間の悲鳴と共に響く。雄叫び。興奮しきったその獣の声に人間としての本能が極めて冷静に告げる。この場所で、僕は息途絶えるのだと。いやだ、死にたくない。終わらせたくない。なのに脚が震えて動かない。膝をついて、体をダンゴムシみたいに縮こまらせる。

 夢であってほしかった。夢じゃなかったとしても早く終わってほしかった。このすべてが、あまりにも非現実的で非道徳的だった。


「……せ……え……」


 獣の声が、吐息を感じる、すぐそばに!

 体は石みたく固まって、ついぞその時が来たのだと肝がぐっと冷える。

 心臓がうるさいほど音を鳴らす、無意味に。今に途絶える音。無意味な心臓の音と同じように、無意味に自分は死ぬのだ。人としての自覚も持てないままで、ただ理不尽に、生きていたのかもわからないのに生を失う。

 結局何も持てずに、結局何も知らずに終わりが訪れる。


 ――そう思うとひどく腹が立って、自分を八つ裂きにする存在を一目見てやろうなんて可笑しな気を起こしてしまった。まるで意味のない人生だったんだ、最期に意味のない抵抗をするくらい誰も文句は言わないだろう。

 覚悟を決めて、文字通り死ぬ気で振り返る。


「せんせい」


 獣。それは美しいヒトの形をした、獣だった。


「あ――――」


 食われる。



 ※



 強風が吹き荒れる。吹き飛んだ窓ガラスの破片が辺りに飛び散っていった。僕の上にのしかかっていた獣は一瞬のうちに吹き飛ばされて、そのあまりの騒音につい目を閉じる。何事かと理解するよりも早く何者かに腕を引っ張られながら、何とか立ち上がった僕はぐらつく頭を押さえた。


「遅れてすみません。逃げていてください。」


 声がして、僕は顔を上げた。

 月明かりに照らされた眩い金の髪が風につられて揺れている。彼女の首元で光るシンプルなネックレスが月明かりを反射しているのも相俟って、少女がとても眩しく見えた僕は徐に目を細めた。


 ともすれば先程の獣と勝るとも劣らない非人間なまでに美しい少女が僕を、穏やかな波のような静かな金色の目で見ている。僕は彼女の目を見つめ返しながら、今しがた起きている不可思議の全てをかき集め理解しようと必死になる。

 ――遅れてすみませんって……なんだ?ていうか誰だこの人。あの獣ってまだ生きてるのか?だとしたらここで立ち止まっているのは悪手である気がする、そう頭の中を走る考えは絶えずに生まれていた。


 その中で一番優先された考えは、「ここで立ち止まってはいけない」――そんな、なんとも危機感に素直なもので、僕は目の前でぼうっと立っている少女の腕を掴む。


「逃げようっ」

「いえ、わたしは――」


 躊躇いなく走り出し見知っているはずの、非日常に染まりきった夜の校内を進んで行く。皮脂が額を零れ落ちる。獣に聞かれると困るので喋りたくもなかったが、危険なことをされては大変なので僕はまだ何か言いたげな彼女に向かって小声で訴えた。


「あなたがどんなに強くても、あんなのと正面切って戦わない方がいい!」


 僕は馬鹿じゃない。少なくとも、あんなのを相手にしてはいけないことくらいは当然として理解できる。あの獣の圧が(もたら)す畏怖すべき存在としての風格は、人間が相手するべきレベルを軽々と凌駕していると本能に強く訴えかけていた。

 例え、この目の前の金色をした少女がどんなに強くたってそれは所詮人間が辿り着けるレベルの範囲に留まっている。

 対してあれは、正しく異常存在だ。この世の理から大きく外れた異常な存在。そんなものが存在しているとは微塵も信じていなかったが、浮いたり物を浮かせたり鋭い爪で肉を切り裂いたり、そんな生物が目前にいたら信じざるを得ないのも事実。あれは人が相手するべき存在じゃないんだ。

 彼女は僕の言葉を聞いて、ぐっと眉を上げて立ち止まった。まるで危機感が欠落しているような彼女に合わせて僕も立ち止まったけれど――正直、気が気じゃない。いつ獣がやってくるかわからない恐怖感と焦燥感に思考のすべてを蝕まれてしまいそうだ。


「わたしのことを勘違いしているみたいですね、君。」

「……?」


 勘違いって。なんの。この状況下において勘違いなんてない気がするのだが、しかし人の話を聞かなくては分かるモノも分からなくなってしまうのも事実。こうして突っ立っているのは非常に居心地が悪いが、今すぐにでも駆け出したいと血気に逸る気持ちを抑え、じっと見つめると彼女はどこか申し訳なさげに瞳を伏せた。


「あれの手を離したのは、わたしです。手綱を握り損ねたわたしの不始末なのです。わたしが君を助けようって感情に理由はあっても、君がわたしの手を引く理由はありません。」

「……あれの、対処ができるんですか?」

「できなくてもやらないといけない。そういうものなんです。」


 にこりと微笑まれる。あれを何とかできるか不明瞭なこの人だけに任せていい訳がないのに、僕なんかにできることは何ひとつとしてない。その事実がどれだけ悔しくとも結局、事実は事実として変えられない。

 目の前の黄金が揺らめく。


「だから。わたしを置いて逃げてください。誰も君を悪だなんて非難しません、正しいと判断するでしょう。」


 きっと、彼女の言う通りだろう。

 それなのに。背を向ける彼女の腕を掴んだのは、見間違えることなく自分のものだった。帰ってしまおう。逃げてしまおう。役立たずのくせそんな考えが微塵も浮かばないで起こした自分の行動に眉を顰める。


 何をやってるんだろう、僕。

 僕なんかにできること、あるわけない。わかってる。自己満足でしかないと、迷惑になることもわかってる。だけど、どうしたって彼女の手を離せない。怒られたって足手纏いになったって、それでも見捨てるような真似はできないと心が叫んで仕方ない。

 だって、そんなの目覚めが悪い。

 いつも以上に目覚めが悪くなるような真似なんて死んだとしてもできない。死にたくない、けど何も見なかったフリをしてここから逃げ出すことを選ぶくらいなら死んだ方がずっといい。

 僕はその苦渋の味をもうすでに、十分に知っている。


 もう一度、目の前の黄金の目を見つめる。


「後悔したくないんです。あなたが行くなら、僕も行く。」

「普通に邪魔です。」

「わかってます。」


 身を弁えることすらできない僕なんかにできることなんてない。わかっている。

 自分の掌を見る。誰の役にも立たない手。失うばかりで何も掬えない手。いつも、大事なものばかり手離す選択を取ってしまう手。この手が嫌いだ、これ以上なんてないくらい。

 だからこの手が選ぶ選択だけは、後悔したくなかった。


「邪魔になるの、わかってます。それでも、やっぱり邪魔になるからと言って見て見ぬふりをして逃げるなんて、絶対にしたくないんだ。ごめん。僕、死んでもあなたと行きたい。だから、」


 行くなら僕を殴って気絶させてからにしてください、そう言いかけて視界の隅に杏色の髪が見えて、僕は自分が何を言おうとしていたのかも忘れ、ただ目の前の人に見えたものを伝える為だけに口を開いた。


「後ろ、来ます。」


 彼女が獣へと振り返る。その手にはいつの間にか現れていた大きな鎌があって、僕は思わぬ光景に目を見開いた。え、あれ、この人こんな物騒なの持ってたっけ?いつから?と軽い混乱に陥る僕へ彼女は何かを投げて渡してきた。渡された物を深々と確認するまでもなく、それが鞘に収まった短剣だと理解して心臓が跳ねる。短剣であの獣を怯ませられるとは思えないが、何もないよりはマシだろう。


「だったら。一緒にいるなら、ぜったい死んじゃダメです。目覚めが悪くなるのは嫌ですから。」


 彼女が言う。その一瞬のうちに圧倒されてしまうほどの風圧が、あの獣と共にやってくる。

 獣が僕を見つめていることに気付いて、身が竦む。

 金色の彼女が鎌を振るい獣を威圧するが、あの獣はお構いなしに僕の方へと飛び込んでくる。またのしかかられるつもりは当然としてないので、鞘から短剣を出し僕に近付こうとする獣へと踏み込む。腹を狙う。押し付けた剣先はしっかりと獣の腹へと沈み込み肉の感触がして、暫くはお肉を食べられそうにないと僕は直感した。


「あ、うあっ……いた、いたいよぉせんせぇ!」


 痛みからか、血に濡れた口元をわなわなと揺らし、少女のカタチをしている獣が声を上げて泣き出す。その痛々しい姿に心臓が凍った気すらした。僕は慌てて短剣を引き抜いて、後退する。カラン、と短剣が手から滑り落ちた。


「う、ごめ、」

「いけない――!」

「ぐっ!?」


 金色の彼女に怒鳴られてびくっと肩が跳ねる。彼女は僕を押し退けると勢いよく壁すらも壊して吹っ飛んだ。獣から庇ってくれたんだ、と理解した僕は彼女の無事を確認したくてすぐさま追おうとしたが、獣に腕を引かれてそれすらも叶わなかった。獣はさっきの涙は何だったのかと疑問に思わせるほどスンとした表情で僕を見上げていた。紫色のうつくしい瞳で僕を見つめている。その瞳孔は血のように赤い。僕が刺したお腹は彼女の口元同様、血に濡れていたが傷跡のひとつも見当たらなかった。

 確かに刺したはずなのに……騙されたのか。くそ、掴まれた腕が微塵も動かない!どこからこんな馬鹿力を出してるんだこいつ……!


「先生にとって、あいつなに?」

「せ、先生……?」


 僕は今しがた聞いた言葉の理解がうまくできなくて、ぼんやりとその言葉を繰り返す。


「何なの!答えてよ……!」


 きれいな顔をくしゃくしゃに歪ませて獣は悲痛に叫んだ。いや悲痛に叫びたいのは僕だよ、とキレそうになりながら、それでも自分より取り乱しているヒトがいると冷静になる現象が今まさに僕に起きていた。


「知らない人だけど……」

「うそ!仲良さそうだった!」

「嘘なんかつくわけないだろ」

「じゃあなんであんな、あんな馬鹿な女の腕なんか掴んだの!」


 長く美しい髪を振り乱し始めた獣は、もはや意地だと言わんばかりに僕の腕を掴むその手を強めた。徐々に力は強まるばかりでその痛みに僕は顔を顰める。僕よりずっと小さいのにどこにそんな底力を隠しているんだ。ヒトは見た目で判断してはいけない、当たり前にある言葉が今となって心に深々と刻み付けられる。


「あの場にいたら危ないんだから、誰かがそこにいたら連れて逃げるものだろっ」

「危ないなんてどこにもないよ!わたしが守るのに!」


 再度、今しがた自分が聞いたものをうまく理解しきれなかった。しかし今度はぼんやりと言葉を繰り返すこともできないほどに理解し難く、黙って目の前の獣が放った言葉について考える。〝危ないものなんてどこにもない〟?〝わたしが守るのに〟?……指摘すら億劫になるような音の羅列は、元々はやくもなかった頭の回転をグンと鈍らせ、ただ何もかもが間違いであるという漠然とした事実だけがこの場において、鈍い自分の導き出せる答えとなった。

 僕は怪訝に眉を顰め、獣にとてもシンプルなことを問いかけようと口を開いた。


「守るって……誰から?」

「悪いもの全部から!」

「まずお前が危なそうだって自覚はしてる?」


 すると獣は「はあ!」と息を呑んで如何にも気分を害しました、と言わんばかりに形のいい眉を潜めた。獣は見るからに年下で中学生くらいの子供っぽいが、そのきれいな顔には血飛沫がかかっているだけじゃなく、まるで食べ汚したとばかりに口の周りすらも血だらけだ。その血が僕のでも金色の彼女のものでもないと知っている以上、(さっきは獣渾身の演技で流されてしまったけど)冗談でも人畜無害そうとは言えない。


「何心外ですって顔してるんだよ。さっき僕をぶっ飛ばそうとしただろ。現にあの人は――」

「さっきのはあの女の行動を読んだだけだもん!先生を傷つける気なんてないもん!先生以外の人間はべつに傷ついてもいいし!」

「いやダメに決まってるが!?」


 薄々感じていたがこの獣、まるでモラルがない。獣だと直感したのはどうやら間違いではないらしい。しかし獣にとってこの場で間違っているのは他ならぬ僕であるらしく、地団駄を踏んでムキになりだした。この状況の全てを抜きにして、その仕草はすごく子供っぽかった。


「馬鹿っぽい奴から追いかけられてたのを助けたのはわたしなのに、さっきからなんだよその物言い!先生ちょっと意地悪になった!?」

「僕は先生じゃないし第一僕を傷つける気ないって嘘!お前さっき僕を食べようとしただろ!助けられた気がしないんだよ!」


 獣はすんと表情を落とした。


「……何だ、気づいてたの。」


 あ。まずい。本能が危険警告を出すが、今この状況においては何もかもが手遅れだ。本能が出す危険信号と共に強く確信する。

 僕は既に蛇の腹の中にいる。

 獣は僕の腕を掴む手にさらに力を込めた。骨の軋む音がして痛みに叫ぶ僕を前に異常性の塊たる獣は静かに、静かに僕を通して誰かを見つめている。その冷酷さ(異常性)が僕を貫く。


「あのね、先生。わかってほしいの。」

「ッ……?!」

「わたしがこれからすること、全部先生の為なんだって。わかって。理解して、共感して、許して、愛して。ねっ?」


 足を獣の鋭い爪で切られて立てなくなった僕は膝をつく。僕の血の匂いで辺りが充満し出す。痛みで叫ぶ僕を獣はぎゅっと抱き締め、そして僕の首元に噛み付いた。


「うあ、ぁッ――……ッ!」


 引き、千切られた。ブチブチブチと肉が引き千切られる音。熱。痛み噎せ返る血の臭い。声帯を食いちぎられて叫び声すら奪われる。あ、死ぬんだって痛みを超えて感じた思いはどうも釈然としない。――先生って誰なんだよ。



 ※



 肉体の融合。再構築。魂の固定。

 零から一へ、肉体を塗り替えられていく感覚。

 何も見えないのに何もかもが見えている視界。

 鉄の臭いと視界いっぱいに映る赤色の世界。


 意識を引き上げられる。まるで深い海の中から引き揚げられたかのような、開放感に体の震えが止まらない。その気がなくとも瞼が押し上げられ、そのはじめに、目に映ったのは青い空だった。眩すぎる世界に目を閉じたいのに、目を閉じられない。清潔な匂いの空気に眩暈がするほど満たされる。

 流れる水の音がする。

 ……おかしい。僕は確か学校にいたはずなのに。


 ――最後の一時間までは、いつもと何ら変わりようのない、凡庸な一日だった。いつもと変わった点と言えば、元々使われていなかった学校の一棟全体が立ち入り禁止とされ、厳かな雰囲気を持つ警備員までついていたことくらいだが、それも普通に過ごす分には何の問題もない些細な変化でしかなかった。


 帰り道の途中で、定期券を入れたケースを無くしたと気付いた。異変其の一。学校で出したり無くしたりするわけのないケースを無くした。当然帰れなくなってしまった僕は慌てて帰り道を辿りケースがどこかに落ちたのではないかと地面に目を向けつつ……自然と、学校へと足を踏み入れることとなった。

 厳重なセキュリティがしかれていた一棟がまるで何事もなかったかのように誰もいない。おまけに立ち入り禁止のテープが消えているのに疑問が浮かびながらも、教室に向かうと運が悪くも不良たちと鉢合わせてしまった。

 仕方なく逃げると件の一棟から爆発音が聞こえた。


 しかし、不良たちが気にする様子もなく僕を追い続けるものだから僕も気にするわけにはいかなくなって無我夢中で走り続けた。とはいえ呆気なく捕まってしまった僕は成す術もなく彼らに殴られ、蹴られの暴行を受けていると――不良のうちの一人の首が、飛んだ。


 倒れている僕の目の前へと転がり落ちた生首に、何が起きたのか頭が働かなかった。理解したら暴行の痛みなんか気にする余裕はなくなって、一心不乱にその場を逃げ出しはじめた不良たちに僕も混じった。

 昨日の敵は今日の友と言ったところだろうか。そうして不良たちは狩る側から僕と同じく狩られる側へと回ったのだ。


 獣から逃げて。迷惑かけて。獣を刺して。また迷惑をかけて。結局僕は喰われた。不良たちと同じように。死んだ。少なくともそのはずだ。その記憶が、その恐怖が明白に魂に残っている。

 次第に体の異変が止まっていくにつれて、徐々に自分の身に起きたことを思い出した僕は体を起こす。草に埋もれていたらしく、揺れる草の音に僕は改めて自分が何処にいるのか理解不能の恐怖に直面した。辺りを見渡す。

 花々、草木、穏やかな川の流れ。幾つかの石像。

 まるで人が想像する楽園を体現したようなこの場所に見覚えは、無論無い。着ている服はかろうじて見覚えのある――いつもの学生服で、今はそれだけが自分が自分としてこの場にいる証のように感じられた。

 ……だが。


「なんだこの手袋……?」


 両手を目前にあげる。そこには見覚えのないものがはめられていて、僕は思わず己の両手をじっと見入る。

 黒いレザーの手袋の袖には固くベルトがつけられていて、外そうと思っても金具はまるでグルーで固定させられたように微塵も動きそうにない。ぴったりと僕の手にフィットしていて、手袋をはめていることが気にならないほど心地もいい。こんな質のいい手袋は初めてだ。

 うん、確実に僕の持ってるどんなものより質がいい、これ。で、なんでそんなもんを当然とばかりに今、僕がはめているのだ。


 草木を踏みしめる足音に顔を上げる。先程見渡した時にはいなかった人間がいつの間にか、この場に現れていた。澄み切った夢見心地な青い目と視線がかち合う。


「起きたかね。」


 低い声に身が竦む。いつからいたのかその美しい男は、まるで楽園そのものであるかのような佇まいで僕をまっすぐ見つめていた。浅黒い肌に重ねられた柔らかな白の衣服はまさに彼のためだけに拵えたかのように男に馴染んでいる。

 彼の背後には石像の土台に腰掛ける天使さながらに美しい、普通に暮らしていればまずお目にかかることの無さそうな女性だった。腰までの長い銀髪に、どこか愉快気に細められる紅色の鋭い瞳。彼女の首までぎっしりと覗く刺青に一瞬、頭が真っ白になる。

 ――普通の刺青ならまだしも、彼女の刺青はまるで生きているかのように、蛇さながらに蠢いていた。自由に蠢くその刺青から目が離せない。僕は自分の目がおかしくなったと確信して何度か瞼を擦ったが、しかし刺青は変わらず不気味に蠢いている。


「……天国?」

「混乱しているようだね。まあ無理もない。」

「え、えっと」


 男は僕の目の前で胡坐をかくとやさしく微笑んだ。


「まずは自己紹介と行こう。私の名はアダムスルト・ラブクロフト、ただの人間だ。うしろの子は道楽霧戯教官だよ。」

「教官……?」


 アダムスルトさんの背後にいる美しいヒト、改め道楽霧戯に視線を移す。僕が道楽さんを見たと気付くと彼女は余裕気な表情と共に手を軽く振り、僕とアダムスルトさんの元へフラフラ~っと近付いた。


 ……瞳孔が、縦だ。


 首の刺青に視線が奪われて気付くのに遅れてしまったが、道楽さんの瞳孔は爬虫類の瞳孔そのもので、口からは人にしてはかなり鋭い犬歯が覗いていた。ほとんど考える間もなく彼女がそういった類の存在なのだと理解せざるを得なかった。僕を食い散らかした獣と似たような異常な存在である可能性はあったが、彼女の爬虫類の目に宿る理知的な意思が、あの獣とは明確に違う存在であると僕に確信させた。

 化け物ではない。――けれど。

 彼女の蛇の眼は爛々と輝く。


「いかにも、ボクは道楽霧切、教官だ。この世に存在するありとあらゆる超常現象(オカルト)をこの手で破壊し、またその方法を伝授することを職業としているんだ。故に如何なるカオスも当然として受け入れる気概があるのサ!」


 軽快に話す道楽さんの言葉を噛み砕く。蛇の眼に、蠢く刺青を持つ彼女のヒトならざる者の雰囲気にピッタリの職業だ。そんな職業があるとは知らなかったし生きていく中で少しも知りたくなかったが、超常現象的な動く刺青を目の前に突き付けられているし、何より僕だって超常現象を経験してしまっているのでそれが真だと信じる他ない。


 ……超常現象(オカルト)って破壊できるものなのか?とは思うけど。如何せん、世の中に溢れるそういったオカルトな情報は決して少なくないし、もしほんとうに破壊できるのならオカルティックなモノはもっと少ないはずな気がする。人によってはそれを悲劇と呼ぶだろう、オカルト雑誌とか特に。

 道楽さんは黙り込む僕が目に入っていないのか、見えていてなお気にしていないのか、一層と目を輝かせながら言葉を続けた。


「人はボクを道楽教官と呼ぶコトを好み、ボクもそれが好み。キミも是非ボクを道楽教官と呼んで慕ってくれたまえ!」


 ビシ!と指と共に期待の視線を向けられる。それから少しの沈黙。……これはもしかしなくても。とりあえず今すぐにそう呼んでみろ、ということだろうか。


 教官という響きが僕とは程遠い世界の一部分に感じて、あまり呼ぶ気にはならない、どころか普通に呼びたくないまである。というか今この状況でノリノリで応えられるやつがいるとは思えない。今が絶不調である僕の調子が絶好調でも彼女のノリには躊躇うくらいだろう。

 呼ばないぞと渋って、数秒の沈黙が辺りを包む。


「呼んでやってくれ。」


 アダムスルトさんは瞼を伏せて小さく呟いた。ちらり、と道楽さんを見る。彼女の蛇の眼は依然と輝いている。結局期待の視線に押し負けた僕は渋々彼女の期待に答える覚悟を決める。このよく分からない状況下で言いなりになるのは嫌だが、あの蛇の目に勝てる人がいたら是非とも会って話したいものだ。


「ど……道楽教官。」

「飲み込みが早くてたいへんナイスだね少年!」


 パチンっと指を鳴らすのと共にウィンクを飛ばされる。十数年生きた中で彼女のような陽気な雰囲気(他意はない)の人間と接するのはほとんど初めての事態だった。

 う、うーん……これは……どう接するのが正解なんだ……?


 とはいえ、あまり深く考えない方が正解により近い気がするので頭を空っぽにしながら、自己紹介ついでに気になっていたことを尋ねようと口を開いた。


「僕は鹿目礼司、学生です。その、ここってどこなんですか?」


 ――いつもなら、簡単に信頼するわけにはいかないと粘っただろうが、状況が状況だ。藁にも縋る思いで彼らの言葉を信じるしかない。どうか悪人でないように、と祈りながら自分の手にはめられた黒いレザーの手袋を見つめた。


「ここについては追々説明するよ。よければ顔を上げてくれ、鹿目君。」


 アダムスルトさんに促されて顔を上げる。夢見心地な優しさが浮かんでいる瞳と、蛇のような瞳に見つめられどうも気分が悪くなる。たまらず誤魔化すようにぐっと胸のあたりの服を掴み、視線を逸らす。

 ああ。鼓動が煩い。皮脂が滲み出る。

 体が震え出したところで、ふと自分が何故こんなところでまだ生きていると言えるような状況に置かれているのかを疑問に思う気持ちがぶり返してくる。


「きみは一度死んだ。それは、理解しているね?」


 アダムスルトさんのどこか気怠げな低い声に、何を言うまでもなくただ頷く。僕の頭の中を覗いたかと疑いたくなるほど鋭い言葉だったが、アダムスルトさんの夢現な雰囲気がそうさせたのか、或いは立て続けに起こる異常事態に慣れてきたのか、僕はそれを不思議だと感じることはなかった。


 今この状況と矛盾してはいるが、僕は確かに殺されたのだ。


 あれが偽りだったなんて嘘でも言えない。というのも、覚えている限り結構、それはもうとにかくグロテスクな方法で僕は殺された。苦痛しかない方法で喰われた。何が起きたかをできるだけ思い出さないようにしても、体の芯まで凍るような感覚が僕を襲う。何故僕はまだ五体満足で生きているのか、不思議以上に気持ちが悪いくらいだった。


 ぎりぎりと痛む脳裏に思い浮かぶ、美しい紫の瞳を輝かせるヒトならざる者。僕よりもずっと小さいのに僕なんかよりずっと強かった少女。襲われ、逃げて、襲われて助けられて、結局逃げ損なった。それからすぐに意識をなくして気がつけばここにいた訳だが――いや、今はそんなことより気にすべき大事な点がある。


「あの、聞きたいことがあるんです。」

「構わないとも。きみの疑問を是非聞かせてくれたまえ。」


 アダムスルトさんの穏やかな視線と声色に促されるまま、ひとつ疑問を溢す。


「あの場にいた金色の子って、無事ですか?」


 名前を知らなかったので抽象的な印象でそう尋ねれば、道楽教官が「ああ!」と嬉しそうな顔でポンと手を叩いた。抽象的な言葉でも伝わったらしい。


「キミが言っているのはオーフェリア君のコトだね。彼女はもちろん無事だよ、ご心配ご無用サ!」

「……はー、よかった……」


 ぐっと体から力が抜ける。道楽教官がオーフェリアさんの無事を軽快に保障してくれたおかげで僕は安堵で胸を撫でおろすことができた。


 ――ほんとうに、よかった。無事でいてくれて。

 僕を庇ってくれた後、結局最後まで無事かどうかを確かめられなかったので無事だと知ることができて心のしこりが取れたような気分だ。どういう原理かは理解できないが、僕自身も五体満足で生きているし、あの場でオーフェリアさんと共に行動しようとしたことが間違いなんかじゃなくて、よかった。そうして生まれる後悔がなくて、よかった。

 とはいえ、そうなるともうひとつだけ聞きたいことがあった。


「あの場にいた不良……えっと、ほかの男子生徒たちって……どうなりました?」

「マジに知りたいの?」


 道楽教官の言葉に、嫌な予感がした。そんな念押しみたいな聞かれ方をされたのならば、もう答えは必要ないだろう。けど確証や理由を知れる立場にいるのに知らないままでいるなんて間違いだと思う。その考え方ばかりは変えられなかった。

 彼女の問いに僕は頷いて先を促した。道楽教官は爬虫類のような瞳を僕から逸らさず、言葉を続けた。


「キミの気になっている五名のうち三名は死亡して、残りの二人は重症。一度死んだとはいえ、キミがいま無傷でこの場にいるのは奇跡だと思っていいよ」

「――、そう、ですか。」


 覚悟は、していた。

 目の前に落ちてきた首や、開いた口がぱくぱくと動く様子のすべてをよく覚えているからだ。それでもやっぱり、いざその事実を肯定されると恐怖で身が竦んだ。背筋に冷たい何かが通ったみたいな、本能的な拒否感。まるで首元を絞められているかのような、恐怖感。

 人の命があんなにも簡単に、あんなにも一瞬のうちに散ってしまう事実が、たまらなく怖かった。そうなってくると恐怖と共に疑問も胸に燻ぶってくる。


 道楽教官の言う通り、不良たちと同じようにあの獣に殺されたはずの僕が無傷で生きていることは奇跡としか言いようがないなんてことの理解はできた。当然、事実として生き残ってしまっている以上、そこの理解は簡単だ。

 たが納得ができない。

 奇跡以上に不可解だった。不良たちが重傷を負い死んだ理由。僕も彼らと同じように重症――というか、文字通りバクバクと遠慮なしに食われたのに、自分の鼓動だけが健在である理由。自分だけが無傷でいる、その理由。

 知りたい。知らなくてはいけない。


「さて、本題と異なる質問はここまでにしよう。きみも、きみの置かれている状況が気になっているだろう?」


 アダムスルトさんは気怠げな目付きでそう問いかけた。


「お願いしたいです。僕が……死んだのに生きてる理由を、教えてください。」

「もちろんだ。まだ幼いきみに話すのは些か心憚れるが、知らないでいるというのは時に知りすぎていることよりも苦痛になるだろうからね」

「とっとと話した方が早く済んで楽なんじゃないです?」

「注射じゃないんだよ、道楽君。」


 道楽教官は曖昧に息を吐きながら僕とアダムスルトさんと同じように蒼い芝生へ腰を下ろした。アダムスルトさんもそうだが、どうも綺麗すぎて現実のない姿である。この場にいる僕が場違いであることは明白だな。自分の置かれている状況も何もかも忘れ切ってそう思っていると、道楽教官の首元で光るネックレスに目が行く。……あれってどこかで見た気がする。

 ――アダムスルトは「常ならば」と静かに話を始めた。道楽教官の首元から彼に視線を移す。


「こういう事が起きないように努力するのが私たちの仕事なんだが、いまのきみの肉体はすこしばかり元々の肉体とは異なる。」

「異なる、ですか?明確に身に覚えのある変化って言ったらこの手袋くらいですけど……」

「それは私がはめたものだよ。」

「えっ」

「きみは、自分が一体何に殺されたと思う?」


 手袋について追及したとしても答えてやらないぞって勢いで続けたな。いや、間違いなくそうだな、その予感がする。まごつく僕を見つめるアダムスルトさんの瞳がそう物語っている……!

 彼の瞳の圧に負けた僕は〝何に殺されたのか〟という話題の先に、この手袋の話へ続くことを願いながら口を開いた。


「あれが……その、なんにせよ。僕はあれを獣だと思ってます。」

「フフフ、獣ときたか!いい感性だね、礼司君。ボクとしてはそう違わないとお思うね。」

「ああ。先程私たちが壊して回っているのはオカルトだと道楽君は称したけれど……」


 アダムスルトさんは不意に草に紛れて生えている黄色い花を撫でた。丁寧な動きだった。まるで作り物みたいな、丁寧な動き。僕がそれにちょっとした違和感を覚えたのに間髪入れず彼は「正しくは」と言葉を続けた。


「私たちが壊して回っているのはシン()。魂なき命、消えぬ者共。人類の害となる異常存在のことを私たちはそう総称している。彼らはどれだけ祓っても完全に消滅せず、何度だって人を傷つける。信義や人の心のない生物は獣とジャンル付けするのであれば、シンは紛れもなく獣であると私もそう思うよ。」


 ――ちいさなこども。普段勝気な表情が、怯えを深く滲ませていて。僕はからかわれているんだと思って。その手を――。

 すぐさま過去が脳裏に過って、ほとんど無理矢理に呆けかけた思考を取り戻す。だが、思い出すまでもなく常に脳の隅にあり続けている記憶を、今更だと振り払うことはできない。一抹の可能性と向き合わなければならない。


「人類に害って……人に害を、加えるんですか、そいつらって。子供、とか。」

「ああ、老若男女問わない。魂持つ者の狙い魂を奪う存在だ。」


 息が震えるのを、息を呑んで誤魔化す。確証を知り得ないひとつの可能性が脳の中心に居座り、拭えない過去の答え合わせを聞いているようで、なんだかひどく心地悪いのに全てを知りたいと願わずにはいられなかった。

 自然と己の掌へと視線が下る。大事なものばかり取りこぼす手。

 きっと、この苦しみの全ては因果応報だ。たいせつなともだちの手すら簡単に振り離した僕みたいな人間への、当然の報い。そう思えば、ふしぎと苦しみは心に馴染んだ。


「……僕を殺したやつも、その〝シン〟なんですか?」

「ほとんどそうで、ほとんど違う。実に近しいモノだ。人類の敵であるシンとして分類されてはいるが、シンとも敵対している存在がいる。私たちには殺すことを禁じられている高位異常存在――〝異質体〟こそキミを殺した者の正体だ。」


 アダムスルトさんの言葉に、見た目だけじゃなく、立ち振る舞いも子供っぽかったちいさな少女を思い出す。

 子供のような言葉使いで話す口元を血で滴らせているのがひどくアンマッチで不気味だった。不気味なくらい僕を真っすぐと見つめた紫色の目はとても無垢で、それがより一層と不気味だった。


 あれが〝高位異常存在〟だと言われたって納得できるか?――無論だ。

 異常存在としての不気味さと子供特有の無垢さを、僕は間近で見た。あの化け物じみた力……実際化け物なのか。いま思い返すと、ひとつひとつの動きがこちらを圧倒するためだけで、あの獣はあれだけ僕を追い込んだくせに本気を出していなかった。

 人間ではどう頑張っても勝てない力の差があるのは明白で、だから僕はオーフェリアさんと共に逃げようとした。無残な失敗に終わったけど。


「……異質体、でしたっけ。彼らを殺すことを禁じられているのは、なぜですか。」

「それはだね、礼司君。主にフタツの理由がある。まず彼らの目的は惑星の保護、好き勝手に生きてるシンとは訳が違ってボクらと一時的な協力にあるのが理由だ。こんなコトになる前はオーフェリアが異質体の面倒を見てたくらいで、危険でも手綱を握れているとボクたちは本気で思っていたんだぜ。」


 勘違いだったケド!と悔し気に話す道楽教官から微かな苛立ちが見える。

 手綱を握り損ねたとか、なんとか。確かそんなことをオーフェリアさんも言っていた記憶があるが、例の獣の猪突猛進な姿を思い出すとどうも手綱を握り損ねて当然な気がする。あんな生き物をキッチリ管理するなんて誰にだって不可能だ。


「それからフタツめ、これが大きい理由だね。異質体には彼らがシンに恐れられる由縁となる共通して持つ特殊な能力があるんだ。彼らはシンの完全消滅を可能とする力を持っていて、ボクたち人間では辿り着けない領域にいる。そしてボクたちは有用な力を持つ彼らを殺しちゃいけないっていう制約が敷かれている、使えるものなら手段を問えないボクらには無理なんだ。」


 そう語る道楽教官の表情は硬かったが、僕の視線に気付くとすぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「ここまではついてこれてるね?」


 こめかみを搔く。穏やかなドライブ中に急ブレーキを踏まれたような気分だ。つまるところ混乱(カオス)。こういうのをなんていうんだっけ。四面楚歌?いやそれはなんか違うか。


「えーと。シンっていう、異常存在があって……僕を食い散らかしたのがシンと似てるけど敵対している、殺すわけにはいかない異質体……ですよね?」

「ウンウン、よろしい!そしてここからがヒッジョーに大事なコトなんだけど、キミの肉体はいまちょっと普通とは呼べない状態にいる。」


 その自覚はこれといってないが、目の前の人間たちを信じるのであれば普通と異なるらしい自分の体を見下ろす。やはり見下ろしたところで何らかの変化が見えるわけではない、年季のはいった凡庸さが断固としてある。とはいえ、どうもいつもと違う、その予感は少なからず僕にもあった。明確にこれだ、と指摘することはできないのがもどかしかった。

 ……彼らを信じるしか僕には残されていないんだな。そもそも蠢くタトゥーを目の前に信じない選択がないようにも思うけど、悪足掻きしないのが懸命だと分かるようになった気がする。


「受け入れやすいようはじめから説明しておくけど、人間一人が保有できる魂の重さは21グラムってコトを頭に入れてほしい。もちろん魂の重さを計る方法がボクらにあるコトも理解していてね!」


 まあ、確かに。ネットの海に流れていたちょっとした雑学で見たことある。なんだったか、死体にはどれだけ計算しても余分に21グラムという数字が体重から消えていて、それが魂の重さなんじゃないかって話だったっけ。道楽教官の言葉からしてロマン話に留まらないらしい。


「21キロ。キミのことを殺した存在、改め異質体と分類される高位異常存在が元来保有する魂の重さだ。」


 数秒の時が流れる。道楽教官の言葉を、うまく処理できなかった。


「……グラムじゃなくて?」

「ウン、キログラム。そして今のキミの肉体が保有している魂の物質量は、マ、おおよそ10キロちょっとってところかな!」


 じゅ――、じゅう。十。10。英語でテン。ティー、イー、エヌ。


「それってなんか……おかしくね?」

「そう!オカシイだろ?要点はそこなんだよキミ!」


 なるほど。確かにおかしい。ただでさえおかしい状況だろうに、そのおかしい状況の中でさらにおかしいとなれば、それはもうおかしいのだ。

 ――う。ゲシュタルト崩壊しそう。


「オーフェリアの証言から異質体が幼体化していると聞いて、きみの肉体が保有している魂の重量に納得がいったんだ。如何せん異常値だったからね。異質体ほどではないにせよ、人間一人が保有できる許容量ではない……鹿目君、きみはもう何が起きているのか理解してきたんじゃないかね?」


 アダムスルトさんの声はこちらを気遣ってくれているようにどこか憂わし気だった。それなのに、まっとうに応えるべきだとわかっているのに、どうしても心が目の当たりの現実を拒む。

 ああ。ばかだな。

 事実がおかしいのであれば、どれだけ嫌でも理由というものはしっかりと絡んでいる。受け入れるべきだ、きっと、ぜったい。目を逸らすなんてしたくないし、何よりするべきじゃない。目を逸らしたところで現実は変わらない。


 獣の魂の量の半分を、僕が受け継いでいる意味。

 それは、つまり――。


 僕を慰めるように道楽教官はポンっと僕の肩に手を置いた。


「今のキミの肉体はキミの血肉からなる彼女のちょっとした神殿状態なんだけど、その手袋はまさに彼女を封じ込めるコトのできる装置だよ」


 それは、つまり。


「えっ、なに、なんて言いました?」

「キミの体はキミを殺したヤツに作り直された神殿状態!アダムがはめた手袋は獣の封印装置!ドゥーユーアンダースタン?」


 ――アンビリーバボー。あまりにも遠い夢の話を聞いている気分だ。僕の体のなかに獣がいると言う僕の予想を軽く超えて来たその音の羅列が何なのか、さっぱり理解したくない。だが悔しいかな、自分がいま生きている理由も道楽教官の言葉もしっかりばっちり理解できてしまったのが事実だ。道楽教官の投げやりの説明は完璧に要点を捉えていた。教官と言うのは嘘じゃないらしい。


 食い殺された僕の肉体は……何をどうやったかは不明だし、なるだけ知りたくもないが……あの獣に神殿として作り直され、21グラムを超える魂のストレージを許容している。そしてこの手袋が獣の封印装置として稼働していると認めるのであれば、確かにそれは僕が今も生きている理由になり得る。あれだけ食い散らかされたのだ、なんであれ今僕が生きていることに理由は必要だった。

 だけど。ああ、なんていうべきかな、うん。不快だった。


「僕の体に、獣がいる……。」


 今もなお、この体に巣喰う膨大な魂。

 アダムスルトさんは頷いた。


「ああ。今もきみの体の中で、息をしているだろう。」


 今も生きている。今も居る。この体に。

 獣が僕の肉体を選んだ理由は、曖昧ながらも推測できる。アレはなぜか僕を「先生」と呼んで特別視していた。僕が彼女にとっての先生だから、僕が神殿の材料として選ばれたのだろう、けど……。


「……あの獣が先生って呼ぶ相手が誰なのか、わかりますか?」


 獣は〝先生〟を己の神殿として選んだ。しかし、僕は先生ではない。そんな成績もよくないし、誰かに何かを教えられるほど頭が回る方でもないので、僕は先生なんて職と程遠い存在であるとさえ言える。

 そのため、獣が引き起こした矛盾は致命的でしかないが、幸い矛盾というものには必ず矛盾を引き起こした理由と、それに対する解決方法がある。


 矛盾に答えを突き出す――これ以上の解決方法はない。この件に関しての答えとは、じつに単純明快。本物の先生を獣に突き出すことだ。

 ちらりと道楽教官の蛇の目がアダムスルトさんを流し見た。アダムスルトさんは気怠げに「ふー……」とモクモクとした息を吐き出した。


「う、げほっごほっ……」


 け……煙たい。なんか熱いし……湯気か?溜め息ってこんな湯気っぽくなるか?いや、なるわけない。この煙たい溜め息とかもひとつのオカルト的現象と言えるだろう。アダムスルトさんは一見ふつうの人間だが、彼も何かしらオカルティズムの面を持ち合わせているのかもしれない……いけない、冷静に受け入れられるようになってきた。かなり疲れてきたな。


「先生、私の嫌いな男だ。」

「しっ、知り合いなんですか!?だったら話は早いです、ちょっと責任を取ってほしいんですけど」


 僕の血肉を神殿にしたあの獣は僕を「先生」と間違えて僕を食い散らかし、勝手に肉体を作り替えたわけなので何とかして先生には責任を取ってもらいたいところだ。主に僕の体を元に戻してもらって、あの獣と僕を永遠に引き離してもらいたい。

 本物の先生を突き出せば、きっと獣だって「あれ?先生がふたり……あ、こっちが本物だ!」とかなんか言って僕から離れてくれるだろう。きっと本物の先生に獣が襲い掛かるかもしれないが、そもそもこんなことになったのは先生が原因だ。責任は大事だ、今みたいな、人の人生がかかっている場合だと特に。

 獣を引き離してくれたら、それだけでスラッシャー映画顔負けのグロと恐怖体験にも目を瞑ることができると言える……!


「彼はもう死んでいるよ。」


 アダムスルトさんは無情にもさっぱり僕の願望を切り捨てた。

 死んでる。もういない。その意味をしっかり咀嚼すると、思わずため息が漏れた。


「すみません、無粋なことを言いました……」

「いや死んで当然な獣のような男だ。きみが気に病む必要はない。」

「……誰なんですか?先生って。」

「それについては、ボクたちの仕事について深堀する必要があるね。」


 道楽教官はどこからともなくいくつかのパンフレットを僕の目の前に出した。オリーブの枝を嘴に加える鳩と、その鳩の下に太文字でASXと書かれているひとつのマーク……その上に「ウェルカム・トゥー・ASX!」とデカデカと陽気なポップフォントが絶望的なまでにダサイ配置をされている。


「す、すげぇ」


 感心の声が洩れる。マークはまだしも、ポップフォントは普通にダサかった。誰だこれ作ったの。なんとなく脳裏に永久保存の四文字が浮かんでくる。これはずっと手持ちにしておきたいところだ。


「人類の存続と人類の脅威となる存在の打破を目的とする対シン・世界最高機密特殊機関ゼノ……アゲインスト・シン、ゼノのみっつの頭文字をとって通称ASX。ボクたちはそこに務め、日夜命を懸けている。」


 致命的にデザイン力のないパンフレットを彼女から受け取る。……アゲインスト・シン・ワールズ・ハイエスト・コンフィデンシャル・スペシャル・エージェンシー・ゼノ、と小さく端っこに書かれている。いや長くないか?

 ぺらりと紙を捲る。


 ――ASXはこの世に存在し、またこの世ぐるみで隠蔽された異常存在の破壊/封印/無力化を目的としている。

 未だ影響のあるふたつの時空崩壊事件である、1824年に起きた時計塔時空崩壊事件、1999年に起きた太陽のピラミッド時空崩壊事件のようなゲート出現を起こさないために我々異端者(ゼノ)一同力を尽くさなければならない。

 それは人類社会のパニックはもちろん、テロ組織や国家によるアーティファクトやシンの争奪戦争を避けるためだけじゃなく、根底として普遍者(パクス)()()()()()()()()()()()()()()

 過去の選択によって起こり得た奇跡の一端。その弊害によって彼らは異常存在を長時間認知すると、身体に影響が出てしまう。この世界に存在する普遍者(パクス)の病はすべて普遍者(パクス)が長時間異常存在を認知したのが原因としてある――。


「このパクスとゼノってなんですか?」


 いろいろとよく分からない単語だらけではあるが、一番気になったのはそこだった。道楽教官は当たり前を説明する大人のように迷うことなく口を開いた。


「大昔に人間とシンとの間でひどい戦争があってね、その大戦での被害を憐れみた神の御慈悲で人々はフタツに分かれた。」


 さ、さらっと神の存在を肯定してる。やっぱいるんだ、そういうの。


「大戦の記憶――〝異端〟を記憶すると決めた記憶保持者、ゼノ。記憶するコトを選ばなかった記憶非保持者、パクス、といった具合だね。あとボクたちにとって大事なコトなんだけど、ASXで働く記憶保持者も同じようにゼノって呼ばれているの。」

「なるほど。」


 このパンフレットに書かれている、パクスは僕と同じような一般人だということか。……であれば納得できないな。


「ここの、長時間異常存在を認知したのが病気の元だなんていうのは絶対嘘だと思うんですけど。」


 だって、さすがにそんなわけない。病気は科学的に証明されているし、その大半にちゃんとした理由がある。僕みたいなやつなんかには理解できないレベルの、小難しい理由だ。どっかの神経だの、体に悪いもの食べ過ぎだの、運動しなさすぎだの、云々。病気の対処法もすべてではないけど立証されている。なんでもかんでも異常存在が原因であっていいものだろうか。


「ああ、それ。異常存在のほとんどは〝瘴気〟っていう悪いエネルギーを発していてね、長時間当たるとゼノでも支障が出てくるんだ。パクスはゼノより耐性がないから瘴気に当たり続けるコトによって病への耐性が弱くなる……って仕組みサ!だから極稀にいる〝コイツなんか体強過ぎね?風邪引かな過ぎじゃね?〟ってヤツは異常存在に鉢合わせてない幸運なパクスってワケ。」


 そんな馬鹿な。本気でなんでもかんでも異常存在が原因なんてにわかには信じがたいのに、どうも筋が通っていて信じようとしない僕が馬鹿みたいに感じる。

 ――あ。……もしかして。

 ふと頭に浮かんだ可能性がどうもやたらと現実味を帯びて見えてくる。僕、なにか勘違いをしていたかもしれない。でももし仮にほんとうにそうなら、獣が僕を先生と誤認識しているのは今よりも、かなりひどい間違いになる。


「あの。先生、って……教師、とかじゃなくて……」

「医者だ。」


 いよいよ僕と程遠いぞ。アダムスルトさんの言葉に思わず天を仰ぎかける。

 獣との邂逅場所が学校だったせいで獣の言う「先生」は教師かと思ったが、世の中に先生と呼ばれる人間は教師以外にもいる。といっても教師ですらなりえそうにない僕が医者の先生として認知されているのは正直笑えないくらい酷い冗談みたいだ。

 ……どう間違えたら僕を医者に見立てられるんだ?やっぱりあれは獣だな。異質体だなんて理性がありそうな響きすぎて彼女には似合わない。


「――ASXの説明は済んだろうし、きみにわかりやすくあの男の説明をしておくと、150年前にASX日本支部での初代会長を務めた〝先生〟は完全状態の異質体……先生の獣、ヴィーヴィル・シナンの魂を998回殺すことによって彼女の残機を極限まで減らすことに成功した唯一の男だ。」


 アダムスルトさんの説明で、知れば知るほど僕と先生が遠くなる。ついでに気も遠くなる。

 さっき道楽教官は先生を医者だと言っていたような気がしたが、うん、間違いなく医者じゃない。あの獣を998回殺したとか、ちょっと理解が追いつかなかった。

 ……獣は一体僕に先生のなにを見出したのだろう。


「あいつはシンを完全消滅させられる異質体の力を有用だと考え、一方的な契約をASXと異質体の間に結び付けた。契約といっても、異質体にとってはほとんど脅しのようなものだったがね。」


 異質体。僕をいとも簡単に食い散らかした、驚異的な力を持つ化け物。獣。〝先生〟とやらはアレを脅したと言う。

 アダムスルトさんから聞かされる先生という人間の実態はえらく予想外にぶっ飛んでいた。そもそもほんとうに人間なのかどうかも怪しくなってきたぞ。


「聞きたいんですが、先生って人間なんですか?」

「ああ。一応は、ろくに子孫も残さず独身のまま死ぬことを選んだ、ただの人間だよ。」


 ほんとうに一応なんだろうな。アダムスルトさんの表情はじつにうんざりしている様子だった。

 ふと疑問がうまれる。

 150年前に生きていた先生という人間を心底嫌っている彼は、何歳なんだろうか。だって150年なんてあまりにも長い。例えば先生が獣を脅した当時が20歳だとして、長生きで90歳まで生きてアダムスルトさんと出会っていたとする。

 ……80年前、くらい?


 目の前のアダムスルトさんを見つめる。彼が落ち着き払っていることもあって、物腰は確かに田舎に住んでる僕のおじいちゃんを彷彿とさせたが、限界まで見積もっても彼の容姿は四十代前半がいいところだ。

 80年前を知っているとしたら彼は最低でも83歳くらいでなければならないわけで。


「な、何歳なんですか?アダムスルトさんって。」

「あー聞いてもムダムダ、アダムが何歳かって話はASXの七不思議なんだよねぇ」


 なんだそれ。

 アダムスルトさんへ視線を向ける。彼は愛想よくにこりと微笑んだ。


「いくつなのか正確に覚えていないんだ。」

「え?でもあなたは先生を知ってるんですよね?」

「好きで知ってるわけじゃないがね。」

「少なくとも90はありますね?」

「少なくともきみのおじいさんよりは年老いているよ。」


 ……これ以上何を聞いても無駄そうだ。なんとなく僕には理解できない物事の話だとわざわざ言われなくたって伝わったし。とりあえず他の、ちゃんと彼が答えてくれるであろう質問を尋ねよう。


「えーと、150年前の契約でASXと獣は結び付けられていて……それってどんな契約だったんですか?」

「ASXに全面協力しろ、さもなくば殺す。ほんとうにそれ以上でもそれ以下でもない契約内容でね。五年に一度は彼との再戦があるだけで、異質体側には大したメリットもなかった。」

「なるほど。それで獣は先生を恨んで執着したんですね。」

「……おや、わからないのかね?」


 アダムスルトさんは至極ふしぎそうに眉を上げて僕に尋ねたが、僕には彼がなにを言おうとしているのかまったくわからなかった。獣は先生を恨んで執着したわけじゃないのか?でも、もしも〝そう〟じゃないのなら、獣が先生に固執する理由は一体なんだ?――そこまで考えたところで獣の熱っぽい紫焔色の瞳が、ゆらりと散る桜の花弁のように僕の脳裏を過った。

 嫌な直感につい押し黙った僕を見て、アダムスルトさんは目を細めて微笑んだ。


「彼女は恋をしたんだよ」


 パンフレットに目を向ける。

 えーと、他に聞くべきことは……。


「この時空崩壊事件ってすごそうですね。」

「おっ気になった?メキシコのときはボクも居合わせていてね、」

「こら道楽君、乗らない。きみも、話を逸らさない。」

「べつにそらしたわけじゃ……」


 ただ、この時空崩壊とやらが気になっただけだ。道楽教官が居合わせたとか言っているし尚更気になったところだ。

 アダムスルトは真剣な目つきで僕を見つめた。


「獣は先生に恋をした。その心は私たちには計り知れないがね、事実は事実だ。盲目的に、曖昧に、狂気的に彼女は彼女の想う愛を先生へと語り出し執着し出した。五年に一度の殺し合いは彼女にとっての愛し合いだった。きっと今回の件できみを食らった時の彼女は呆気なさに驚いたろうし、きみを彼女の神殿にしたのはただきみを生かし、先生(きみ)との殺し合いをもう一度別の機会にやりたがったからだろう。」

「僕は……先生って人に似ているんですか?」

「髪の色と……目の色かな。あとは性別。」

「黒髪黒目の男じゃないですか!どこにでもいますよそんなやつ!」


 ああ、おぞましい。僕は腸が煮えくり返るという言葉の意味をはじめて理解した。むかつく。愛だなんて気軽に言って、その意味も知らない獣が何を僕に求めたのか。愛した人間の顔すら思い出せない獣が、軽々しく愛を語っているという事実が許せなかった。


「第一、恋に落ちた〝先生〟を食い殺すってどういう神経してるんです?キショ過ぎませんか?」

「それは異質体への文句かな。」

「そうです!」

「っ、ふ、あはは!」


 アダムスルトさんは堪えられない、といったように腹を抱えて笑い出した。笑いどころじゃないんですけど。


「礼司君。」

「なんですか、道楽教官。」

「愛と言うのは人によって形を変えるモノだよ、一概には断言できない。不特定で不明慮で不透明、だから人は愛と言うものに拘り、擦れ違い、()し合う。」


 語る、蛇の目。僕を見ているようで、どこか遠くを見ているその赤い瞳は寂し気だった。それは緩やかに伏せられる。


「人と人の間で愛が分かり合えないんだ、人の愛とそうじゃないモノの愛なんて尚更根本が違う。それを今のうちに理解しなさい。キミは獣にもう一度、本気で、〝先生(キミ)〟への愛が理由で食い殺される可能性があるんだから。そしてそのとき、先生じゃないと気付いた彼女にキミはほんとうに殺されるだろうね」


 うんざりした。ほんとうに、心から。それでも、ふと道楽教官の言葉に含みがあることに気付いて、僕はハッと顔を上げた。


「……その……可能性って……言いました?可能性だけで済むんですか?」

「フフフ」


 当たり、らしい。すげぇニヤニヤしてる。この人たち、人の人生が揺るがされているのを楽しんで見ている。うーん、フツーに性格悪いんじゃないかな。

 ――でも道楽教官は間違いなく、愛が理由で食い殺される()()()()()()、と言った。可能性は可能性でしかなく、可能性がある限り未来は常に不確かで定かでない。運が良ければ、僕はこんな状況と永遠に離れられるのかもしれない。その未来を、本気で願ってしまっても構わないのだろうか。


「キミ、今も獣はボクたちの会話を聞いていると思うかい?」

「……あ。」


 そうだった。獣は僕の体に今もいる。今もなお、人を簡単に殺せてしまうあの獣が息をしている。この体の中で……ああ。おぞましい。

 こくり、と喉が唾を吞み込み動く。


「こ、ここまでの会話も聞かれていますか……?」

「フフフ、まっさか!今はアダムが主導権を握ってるから、そこの心配はしないでいいよ」

「今は?今だけなんです?」


 今は、アダムが主導権を握っているから。今じゃなくて、アダムスルトさんが主導権を握らなければ……そのルートがあると道楽教官は言ったのだ。彼女はにこりと笑った。


「その通り!封印装置はアダムがいま着けているネックレス込みで稼働していて、彼がこの世界の誰より上手(うわて)だから異質体なんて高位異常存在を抑え込められているわけだ。ボクじゃあ絶対そうならないんだよね……悪いな、キミ!」


 すげぇあっけらかんとしてる……。道楽教官の勢いに押されてしまいそうだ。しかたないか!と僕もあっけらかんと笑いたいところだが、そういかないのが現実だ。あの獣がどこまで現れてくるのか不明瞭な以上、物事を軽く捉えるのは悪手だと感じる。

 アダムスルトさんの首にかかったネックレスを見る。


「なんとなく察してきたんですが、ずっとアダムスルトさんに封印役をやってもらうのは無理なんですよね?」

「私は普段から英国で仕事を請け負っている。こうして日本にいるのは異質体の暴走という緊急事態に対して私が一番手っ取り早いからでね。基本的に私は英国を離れられないんだ。」

「え?英国って巨大地震が起きて以来人が住めなくなったんじゃ……」


 どの学校のどんな歴史の教科書にも載っているイギリスで起きた大きな、大きな地震。ロンドンの完全崩壊。強制的なディアスポラ。当時イギリスで暮らしていた人々は難民として世界中に渡り歩くこととなり、その大半は現在アメリカに存在するニューロンドンで暮らしている。ほぼ一般常識レベルのことだ。


「あれは嘘だ。」

「えっ」


 ガラガラガラ。そんな、常識の崩れ落ちる幻聴が聞こえた。

 あれほど勉強したのに虚偽だったのか……。軽くショックを受けて俯くと手元のパンフレットが目に映り、僕はあっと声を上げた。


「時計塔……えっと、時計塔、時空崩壊事件ってそのことに関わっているんですね?」

「ビンゴ!その通りで~す。」


 道楽教官が朗らかに笑った。

 パンフレットにはふたつの時空崩壊事件について軽く言及されている。1824年の時計塔時空崩壊事件、それから1999年の太陽のピラミッド時空崩壊事件。


 時計塔はイギリスに、太陽のピラミッドはメキシコにある。イギリスとメキシコは過去に起きた大地震の影響で大規模な移民政策が取られた国で、未だに復旧の目途がたっていない――今になるまでちっとも考えていなかったが、このふたつの国には共通点が多い。


「きみが勉強した歴史通り、普通の人がまともに住める環境じゃなくなったのは確かだよ。しかしながら正確には大地震のせいではなく、化け物の溢れ出るゲートが生じて人が住めなくなった、だね。」


 ゲートの出現と大地震。人が住めなくなるほどの大災害。歴史から隠蔽されなくてはならない、シンという異常存在。

 ……僕には想像もできない話だった。


「180年経ってもうまくいっていないが、私は普段から英国で日々化け物を祓いゲートが閉じるよう試みているんだ。」

「……」


 他人の仕事を止めてしまったという事実と、陰謀論者も真っ青な話に、頭痛がしてきた。しかも明らかに重要そうな仕事じゃないか!多大な迷惑をかけたのだと痛感してきた――いま僕の目前にいるふたりは僕の想像を超えるほど重要な人なんだろう、ふしぎと彼らの空気感だけでそうわかるものがあった。


 今更ながらに、とんでもないことに巻き込まれた実感がふつふつと湧いてくる。目の前に落ちてきた生首、異質体と呼ばれるちいさな(少女)、喰い千切られ血に染まる視界、得も言われぬ激痛。獣の神殿へと塗り替えられた肉体――非日常(絶望)、その言葉で片付けるにはあまりにも無情過ぎる一瞬の積み重ね。

 それでも、道楽教官は僕に可能性と言う希望を見せてくれた。引力に逆らえぬリンゴさながらに有無も言えないまま非日常に落ちていった僕に、違う未来があるのだと。僕は、それに賭けたいと願ってしまっていた。


「――そこでだがね、いま鹿目君には今2つの選択肢がある状態だ。」


 アダムスルトさんの言葉に顔を上げる。


「といっても、ボク的にはヒトツしか選択肢はないと思うんだけどね……えー、ヒトツ!アダムに着いて行って彼に封印役を続行してもらって、安全だけどASXに飼われるだけの生涯を英国で過ごすか。フタツ!ボクがキミの教官としてキミを獣殺しに鍛え上げ、いつか先生を食らいたいと願う獣と距離が近くなるし、五年後にキミが彼女に匹敵するほど強くなってなければ死ぬという危険が伴うにせよ、手に入れられるかもしれない自由を目指すか――その2択サ。」


 思考がしばしば停止する。

 アダムに封印役を続投してもらうには僕自身が彼に着いて行くのが大前提になる。遠く崩壊している国で生きる、そこにひとつの危険もないのだろう。けれど命があるだけの生涯。

 もうひとつは――。


「……異質体って殺せないんじゃないんですか?」

「ボクたちは立場上殺せないだけ。キミには異質体を殺す権利が確かにあるよ。実際、幸運にも異質体はキミを〝先生〟と認識し、再会を果たそうとASXの管轄外へと逃れようとしたとき魂の半身を削り落したから、今はかなり弱体化している。獣殺しのチャンスは十分にあると言えるよ」

「逆に、私と来るのであれば異質体に匹敵する可能性は潰えると考えてくれて構わない。英国は……レベル1の状態じゃあ、レベル90のステージでレベル上げは困難だろう?」

「困難っていうかムリだよネ。」


 ――離れられる可能性(未来)がある。あのおぞましい獣と、永遠に。

 今までの道楽教官の言葉を正しく理解して、たまらなく、つい頭を抱える。おかしくて、おかしくてどうにかなってしまいそうだった。食い殺した挙句、僕の体を神殿に作り変えて、我が物顔で居座り続ける気の獣を殺せる。自由な、元の生活に戻れる未来が僕にもある。

 その可能性(未来)がいま、何よりも鮮明に感じられた。

 

「はは……、あはは」

「あれま。オカシクなっちゃった?やばいかなアダム。」

「ふむ。メディックは必要かね、鹿目君?」


 顔を上げる。目覚めてから今が一番すっきりした気持ちだ。


「いいえ、僕は至って元気です。道楽教官、有用な力を持つ異質体を殺しちゃいけないんなら、なんで僕に獣を殺せる可能性があると言ったんですか」

「ボク的には、できれば殺してほしいんだよ。いつ爆発するかわからない爆弾を抱える趣味ないし……なにより、異質体が死ぬことによって完全消滅の手をなくしたASXの技術は進み、異質体の力無しでもシンの完全消滅を技術だけで可能にできるようになるはずだ。今のままぬるま湯に浸かっていてほしくない。だから殺してくれて構わないし、そうなるようボクも手助けする。」

「はは、殺し返してやりますよ」

「急に元気になったなぁキミ」


 だって、恨んでいないとは到底言えない。僕は、あらゆるトラウマを植え付けてきて人の命を奪っても何とも思わず、平然と僕の体を作り変えた挙句、一生引っ付くつもりでいる獣の図々しさをなかったことにできるような人間じゃない。そんな温厚な人間がいるとは思えない、というかいたら瘴気を疑う。マトモじゃないのは確実だ。

 殺せる選択があるなら、そっちを選ぶ。当然だ。考えるまでもない。今度は殺し損ねない。今度は手を離さない。だって()()()()()()()()。生きたいと思うように死にたいが、それでも生きなくちゃ僕の今までの人生が無駄になってしまう。それだけは、避けなければならないのだ。

 だから戦うことを選ぶ。殺すために。贖罪のために。もう間違わないために。


「まあ、キミの決断は確定モノかな。そうなると明日からキミの獣の手綱はボクが請け負うコトになって、獣は会話を盗み聞きできるようになるわけだね。」

「何考えているかもバレますかね?」

「ウン、わからん!何もかも未知数だ。だから頭の中であっても極力、獣殺しについての話は……そうさな。獣殺しじゃなく〝禁煙〟と変えるコト、そして彼女の愛の否定は避けるコト。このふたつを守りながら可能な限りはやく特訓を進めよう、礼司君。」


 頷く。殺すにもまずは強くなる必要がある。少なくともあの獣を殺せるくらいには。とてつもない無茶に感じられるが、それ以外の選択肢なんて僕には残されていなかった。

 ……この人たちはどう考えているのかな。


「僕に殺せると思いますか、獣……異質体を。」

「そりゃあいけるっしょ~!」

「そりゃあ無論だがね……心配に思うならシミュレートでも行おうじゃないか、少年。」

「し、シミュレート?」


 彼の言いたいことがわからなくて反射的にオウム返ししてしまった僕の目の前に、ザザッとノイズが走る。


「え……?」


 道楽教官とアダムスルトさんは跡形もなく消えて、ただ楽園に、僕の目前に一振りの刀が現れる。浮いている刀の上に手を翳したりして刀を吊り下げるための紐でもないものかと確認してみるが、ない。

 上を見上げると、やはり美しい()が広がっており、吊り下げられるような場所でもなかったことを思い出す。


 げ、幻覚か?これ。いや、そんなわけないか。今になっても疑ってかかろうとするのは些か往生際が悪すぎるぞ、僕……。


「この場所の紹介が遅れたね、礼司君。ここは高度仮想現実構成、パンドラというシミュレーター内だ。ボクもアダムスルトも最初からシミュレーター外でキミを見ていたって仕組みなんだけど、どうどう?気付いてた?」

「い、いえ。今になるまで気付けなかったです」


 高度仮想現実構成、パンドラ。

 超常現象の方がまだ説明のつく、にわかには信じがたい話だが、この目の前の光景の説明として成立するのは実際それくらいだろう。確かに何度か道楽教官とアダムスルトさんに作り物らしさ的な仕草を感じはしたが、だからってそんなSFじみた話の発想にまでは至らなかった。

 というか。道楽教官は嬉々として聞いてきたわけだけど、そもそも気付ける人間なんていないんじゃないかな……。


「刀を掴むといい、少年。きみの望みが如何にして叶うのか、そのシミュレートと行こう。」


 どこからともなくと聞こえるアダムスルトさんの声。やっぱり感じられるすべてが悪い夢みたいだ。この場所も、この状況も、彼らも。でもこれが悪い夢にしろ、悪質過ぎる現実にしろ僕がやるべきことというのは明白だ。

 促されるまま刀を掴む。その質量を感じる。


「……とりあえず、やってみます。」


 中学のとき体育で習った通りに両手で刀を握れば、当時とあまりにも乖離している自分の置かされた状況の異質さがさらに浮き彫りになったような気になる。これから何が起こるのか想像もつかない、という点だけは同じかもしれないけど、それもまぁ、ベクトルの違いが激しいわけで。


 すると、突如なにか、白い物体が目の前に飛来する。


「ッ――」


 色こそ抜け落ちているが、いま、僕の目の前にいるのは紛れもなく、獣。


 僕を食い散らかした異質体。少女の眼が、無機質に僕を見つめている。熱に浮かされたかのような、あの獣らしさは欠如していた。


 込み上げる吐き気と頭痛に刀を持つ手が緩む。息の仕方を忘れたみたいに息が荒れる。どうしたら良いのかなんてさっきまでアレほど明白だったのに、今はもう一寸先も分からない。


「ちょ、ちょっと……教官、これってどういうことですか」

「いまキミの目の前にいるのは、半身を落としてキミに近付いて来たヴィーヴィル・シナンを想定して、そこからさらに大幅に弱体化させたシミュレーションAIだ。ウン、まあ、簡単に言えば動くハリボテ!でも攻撃はフツーに痛いから死ぬ気で行きなよ!」


 道楽教官のその言葉が合図であったかのように獣は腰を低くした。

 ああ。獣は僕を殺しに来るんだ。もう一度。

 風圧に揺らぐのを堪える。白い獣の挙動から目を離さぬようにしながら彼女の初動を待つ。少女の腕が伸ばされる。降り翳されるその手の爪はネコ科を彷彿とさせるほど鋭く、けれど太く、恐ろしい肉食獣のようだった。

 彼女の目前において、僕は完全な被食者だ。戦い方はおろか、生き方も知らない。


「ぐッ――」


 ギリギリで爪を避ける。風を切り裂く音が聞こえた。道楽教官はこの白い獣を、大幅に弱体化させたシュミレーションAI、所謂ハリボテだと言っていたが、どうもそうは思えなかった。偽物の獣であってもなお、一撃で僕を切り裂けそうな迫力はある。

 これがもし、本物だったら。


「おいおい礼司君!なに余裕ぶってんの、他のこと考えるヒマなんてないぞ!」


 すげぇ投げやりだ!教官ってもっと色々教えてくれるものだと思っていたが、道楽教官のやり方は谷から突き落として見守るタイプだったらしい。もっと一から丁寧に教えてもらいたいものだが――甘えてなんていられないのは、ひとつの現実だ。くそ、だけどわかっていたってあの鋭い爪が怖い……!


「死にたかないだろ!疾く頭を回せ!」


 そう言われたところで今は白い獣の爪を避けるので精一杯だった。ああ、頭を回せって言ったって、こんな状況だと何のために頭を動かせばいいのかも僕には分からない!


「少年、きみは彼女を殺したいんじゃなかったかな。」

「それはっ、そうです、けど!」


 アダムスルトさんの言葉に辛うじて答える。

 見据える、色の抜け落ちた獣の目は無機質で、僕がどうして目の前にいるのかも理解していないままに鋭い爪を奮っている。あの不気味な熱意の抜け落ちた今の獣はひどく哀れに見えた。何のために力を振るっているのかもわからないまま、ただそうであれと願われたように力を振り翳すその姿はひどく空虚だ。

 彼女がもしも本物であれば、僕は最初の一撃で死んでいる。

 抗う余地すらもこちらに残さず、獣は僕を食い散らかしているだろう。あの気色の悪い熱意を持って、これ以上の幸福はないとばかりの笑みを浮かべながら――そうして、はじめて僕はあいつを殺したいと願ったのだ。


「僕が殺したいと思ってんのは!こいつじゃないんです!」


 途端、風を切り裂く音が、耳元を掠める。

 猛烈な熱に肩を抉られる。血飛沫が見えた。


 抉られた血の流れる肩が熱いのに、ばかみたいに痛いのに、それでもこの瞬間、目の前にいるのはあの獣ではないと確かに感じた。やっぱりこれは違うって、心が叫んでやまない。目の前の白い獣は()()。違った。何もかも。

 僕が殺したいと思ってんのはあの獣だ。殺さないといけない理由がない以上、他はどうだっていい。目の前の獣の面をした少女は殺したくなかった。

 ――でも。


「でも、でも、そうだよな。あの獣を殺すために必要なんだ……!」


 僕が殺したいのはあの獣だ。アレを殺せんなら、アレに一矢報えるんなら、なんだって構わない。いま僕の目の前にいる、ひどく哀れな作り物を壊すことだって厭わない。()()()()()()()()()()()()()()

 息が荒れる。目の前のハリボテを殺したくないと叫ぶ心と、あの獣を殺すためならなんだってしてやるという意識で頭がおかしくなりそうだった。

 ……しどろもどろに、無意味なまでに悩んでいるのは苦手だ。頭を使うのだって僕は得意じゃない。ほとんど本能的に、消耗を避けてはやいうちに勝負へ出るのが一番良い、と結論付ける。なんにせよ、今ここで負けるわけにはいかないという事実だけが、僕の知る唯一の事実なのだから。


 白い獣の鋭い爪を避け、その腕目掛けて刀を振るう。当たるとは思っていなかったが、刀を完全には避けきれなかった白い獣から白い血が噴き出し、僕の腕へ数滴ほど掛かった。白い獣はたじろぎ、すぐに下がった。


「ほう。見事じゃないか。ね、道楽。」

「っ止まるな礼司君!」


 道楽教官の声に背中を押し出されるように走る。警戒が強まった正面からの突破は厳しい――全力で走り、その勢いを乗せたままスライディングしながら白い獣の足を斬りつける。白い獣が膝をついたのを視界から離さぬようすぐに立ち上がり、下から上へと刀に力を入れ、ハリボテでしかないその背中を斬る。


 雪のように白い血が、宙を舞う。


 だが白き獣はまだ息をしていて、彼女は唸り声をあげながら即座に振り向く。その目に映る無機質さと対面する。すると脳がひどく冷静に陥り、心が叫び出す。


 こんなことしたくない。


 こんな、無意味なこと。なんで殺さなくちゃいけないんだよ。いま目の前の少女を憎んでるわけでも、憎まれているわけでもないのに。

 緩んだ決心のなかに、僕を庇ったオーフェリアさんの姿がふと浮かんだ。僕が獣の演技に騙されたあとオーフェリアさんはどうなった?僕が短剣から手を離したせいで。僕の甘さのせいで。僕が、何も、変われないから。


「なんでハリボテをこんな精巧な作りにしたんだよッ……!!」


 目を瞑り声の限り叫びながら下から上へと流した刀を、今度はそのまま上から下へと振るう。白い血飛沫が顔に張り付いたのが分かった。

 瞼を押し上げる。相も変わらず無機質さを顔に浮かべたままの少女と目が合う。彼女の爪は僕へと伸ばされていて、その爪はぐっと僕の腕を引っ搔いた。爪で肉が抉れ、溢れた血は白い獣を汚した。痛みに息を呑むが、白い獣の胴体にある大きな傷を見ると、もうなんだっていいと思えた。

 彼女の白い血と僕の赤い血は青々とした草を塗り替え、白き獣の腕は糸途絶えたように地面へと落ちる。


 ――このハリボテは獣ではない。殺される必要なんてなかった。それでも僕は殺した。もう二度と、()()()()()()と決めたからだ。


 それは単なるエゴでしかなくて、僕のエゴの為に犠牲になったのかと思うと、やっぱりこのハリボテが死ぬ必要なんてなかったとより痛感した。もうちょっとくらい、このハリボテがポリゴン画質だったらこんな気持ちになることはなかったのかもしれないけど、……こういう薄情さと中途半端さが自分の最も嫌いなところだ。それでも、こんな思いはもう二度と御免だ。


「よくやったね、鹿目君。やはりきみに必要なのは私ではないようだね。」

「ウン、オツカレサマ、礼司君!いや~~、キミってば才能あるんじゃない?ボク結構見ていて驚いちゃった!」


 もっと違う道があったのかもしれない。でも今の僕に残された道は、僕が進めると思った道は、この道だけだった。


「……あの」

「うん、どした?」

「僕、もう、こういう……精巧なやつとは関わりたくありません。獣を殺すのは構いませんけど、獣じゃない、ただの女の子の形をしたこれを、いくらハリボテだからって殺しに行くの、サイテイに気分が悪いです。」


 死体となったハリボテの隣に座る。彼女の目は無情に空を見上げ続けていて、僕は息を整えながら白い獣の瞼に手をやって閉じさせる。よし。


「きみは優しいんだな、少年。」

「フツーでしょ。正直、中途半端なくらいです。」


 僕がほんとうに優しかったのであれば、僕の人生はもっとマシなものだっただろう。僕の反論を耳にも入れていないのか、アダムスルトさんは「ますます道楽が請け負うべきだな」とどこか感心したような声色でそう呟いた。


「……ぼ、ボクが請け負うの。」

「ああ。よかったね、道楽。」

「こんないい子、ボクが五年間請け負えるんだああ!!!」


 感極まった声で道楽教官がそう叫んだ。いい子だと思われるのはどうも腑に落ちなかったが、それ以上に今はもう心身共に疲れていて、ただぼんやりとハリボテに目を向ける。


 仮に僕がほんとうに優しかったのなら、エゴに負けないでこの白い獣を殺しはしなかった。何もかも中途半端な僕は、中途半端に優しさに憧れていて、でも所詮は憧れでしかないその感情は〝もう二度と間違いたくない〟と言うエゴに押し負け、結局僕は偽物の獣を殺した。

 僕がほんとうに優しかったら、きっと自分の人生なんか形振り構わずやり返したいなんて考えないだろう。

 僕がほんとうに優しかったら、あの時、あの子の手を――。


 ――……ううん、だいじょうぶ。きみはちゃんと、やさしいよ。


 聞き覚えのない、どこかで聞いた声が脳裏に響いた気がした。



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