6.ヒダネムシ
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決して手に入らない希望を抱き続けることはどれほど残酷なことだろう。
生きるための原動力にもならず、未来にも続かない。ただ、抱き続けるだけの、渇望するだけの希望。あっても苦しいだけなのに。さっさと捨ててしまえば楽なのに。
そんなものを抱いたことのない紗綾には到底理解の出来ない感情。
「…サーヤ」
おずおずと、こちらを窺うように永夜が口を開いた。
「美沙緒を、ここに泊めてもいい?」
もう、暗くなっちゃうから。言い訳のようにボソボソと呟く、そんな姿も気に食わない。別にこの廃屋は紗綾のものではないし、許可を取る必要などそもそもないのに、永夜はいつだってこうしてこちらを“保護者”のように伺ってくる。冗談ではない。
紗綾は永夜の保護者などではない。たまたまこの場所で、たまたま鉢合わせただけの他人に過ぎない。
「…好きになさいよ。まぁでも、一宿一飯の恩義を感じるなら、何かそれなりのものを寄越しなさいよね」
頬杖を突いたまま投げやりに永夜の隣に立つ女に言い放てば、女はあからさまに頬をピクリと引き攣らせた。久しぶりにこの場所へ迷い込んできたらしい人間だが、どうにも表面を取り繕おうと努力はしているものの、目に見えて不快をその表情の端々に隠せていない。なんとも中途半な態度はかえってこちらを苛立たせることに気付いていないらしい。
美沙緒への当りが強いのはそのせいだと、こっそり胸中で責任転嫁をしておく。
「うぅ…、お金は…お昼ご飯に使って…所持金、数百円しか…」
絶望したようにカバンから財布を取り出し、中身を確認すると美沙緒はがっくりと肩を落とした。その掌からひらりと一枚のレシートが落ちてくる。ハンバーグランチプレートと自家製野菜スープ¥1850と記載されたそれと美沙緒の様子から察するに、まぁ、所持金はその程度のものなのだろう。まぁ、あったところで貨幣価値など存在しないこの場所で、お金など一番の無用の長物だ。
「あのねぇ、こんな場所でお金なんか役に立つとでも思うの?もっと何かないわけ、使えるもの」
「えぇ…」
言われて、美沙緒は困ったように眉根を下げてバックの中を見分しだした。
「ええと…ハンカチタオルと喉飴と…あと、水くらい?」
絶望的な表情のまま、小さなショルダーバッグに入っているものを取り出していく様は、どうにもトロくさい。内心イライラしながらその様子を眺めていたが、美沙緒が最後に取り出したものが目を引いた。
「それ」
「え?ペットボトル?」
紗綾が指さした容器を、不思議そうに美沙緒が持ち上げた。
その手の中、容器の半分ほどが透明の液体に満たされたボトルは、非常に使い勝手がよさそうだった。
「それが良いわ」
「水だけど…しかも飲みかけ…」
美沙緒の方は色々と言いたいことはありそうだったが、野宿するわけにはいかないのだろう。渋々ながらも紗綾へとペットボトルを差し出した。そうしてそれを受け取るなり、紗綾は容器の栓を開け、手近な彼岸花を一つ二つと手折るとそのまま容器の口に差し込んだ。
じわり、と透明な水に彼岸花の切り口から溢れる白い液体が広がる。
その様子を満足げに見つめ、ふと顔を上げると美沙緒がなんとも言いたげな表情でこちらを見ていた。癪に障る視線だが、貰えるものは貰ったのでまぁいい。花を生けたままの容器を手に持ち、紗綾はくるりと踵を返した。
「好きに入って適当に過ごしてちょうだい。言っとくけど、私は何も構わないわよ」
居丈高に宣言すれば、美沙緒は相変わらず心の声の隠せていない表情で「…はぁい」と気のない返事を寄越した。
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(…なんとか野宿は回避できたけど)
そう一人ごちる美沙緒の足元で、ギシリ、と大きく床板が鳴った。
永夜の後に続き、境内の中へと入る。
薄暗くてもわかるほど、あちこち穴が開き、一歩踏み出す度に大げさなほどに床が軋む。
それでも、屋根があって壁があるだけで外での野宿とは比べ物にならない楽園である。
境内の中は歩けば簡単に踏み抜きそうなほどにあちこち傷んで入るが、それでも生活できる程度には綺麗に手入れをされていた。祭壇の方は楠木が侵食してほぼ崩れており、元の飾られていた御神体は一体何なのかわからなかった。
そもそも、こんな場所に神社だけが存在する理由はなんなのだろう。
外では、完全に日が落ちたようだった。
辛うじての室内とはいえ、やはり光がなくなり視界が塞がれるとそれだけで想像力が増し、恐怖が増す。首を竦めた美沙緒の背後で、ふわっと青白い柔らかな光が揺れた。
見れば、境内の中にも彼岸花が飾られていたため、ふわふわと外から光が一つ二つと入ってきていた。やがては花を覆うほどに虫が集まり、それだけで室内が見渡せるほどに明るくなった。
(おぉ…、電灯いらず…)
思わず感心していると、視界の利くようになった室内の中心に紗綾の姿が浮かび上がる。火鉢とみられる器に枯れ枝や…こちらにも彼岸花を入れていた。こちらの花にもつられるように、ぽつりぽつりとヒダネムシが集まりだす。
この彼岸花には、強力な誘引作用があるらしい。
何をするのか気になって眺めていたら、紗綾は火鉢の中へと先程美沙緒が渡したペットボトルの水を入れーーー次の瞬間、火鉢の中で勢いよく火が燃えあがった。
「え、何したの」
火を起こす動作どころか、反対に水を入れてはいなかったか。
「ヒダネムシは、火水で燃えるの」
ヒダネ…火種…なるほど、それが名前の由来なのか。
それにしても不思議すぎる。
「火水って、さっき彼岸花を生けた水?」
正直、飲みかけのペットボトルの水が欲しいと言われたのにも驚いたが、それに花を生けだしたのには(そういう使い方なの!?)と度肝を抜かれた。
飲水に花を生ける人なんて初めて見た。すでに人に渡したものがどう扱われようととやかく言う気はない。…が、驚くもんは驚く。そうしてそれに、こんな意味があったとは。
マジマジと火鉢の中を覗いてみれば、花に群がっていた虫がよく燃えていた。火の中で踊るように蠢く姿は可哀想な気がしないでもない。
「便利だけど…もっと穏便な火付け方法は無いの?」
「こんな場所で、あると思う?」
「…思わない」
ふん、と不機嫌に紗綾はそう言い、火鉢の火が落ち着いたのを確認すると、祭壇の前に生けてある彼岸花を摘まんでバクバクと食べだした。ヒダネムシで光っていようがお構い無しである。
「…それ、食べても大丈夫なの?」
ヒダネムシ抜きにしても、彼岸花には毒がある。それを全く気にしない様子に、些か心配になる。
「ここでは食べない方が気が狂うわよ。まぁ、身体に悪いのは事実だから、勧めないけど」
「え?」
戸惑う美沙緒に、花を差し出し、にぃ、と笑う。
「あまりここに長く居座るようなら、身体を壊すか精神を壊すか、選択なさい」
押しつけられるようにして受け取った花。彼岸花。とても食べてみようとは、今は思えない。
「あなたも、…私と同じで、外の人?」
尋ねれば、紗綾は露骨に表情を歪めた。綺麗な顔をしているのに、彼女はよくその表情を崩す。
「関係ないでしょ」
切り捨てるようにそう言って、紗綾は部屋から出て行った。




