5.紗綾
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ペタペタと、足音が鳴る。
背後から聞こえたその音に、美沙緒はつと顔を上げた。
「…永夜?」
「うん?」
美沙緒の手を引く永夜は気付いていないらしく、声をかけると不思議そうにこちらを振り返った。ペタペタ、ペタペタ。
美沙緒と永夜が足を止めても、続く足音。それに永夜も気付き、息を飲む。
「お姉ちゃん、急ごう」
ややあって、永夜が腕を引く。
「ついてきてる」
強張る声音に、ぎく、と顔を上げる。
「…あの化け物が?」
山の方に消えていった化け物。出来る事なら二度とお目にかかりたくない、あの異形の怪物。
「さっきのとは、別のやつ」
なんてことだ。一匹いるだけでも十分な化け物は、あろうことか他にもいるらしい。恐る恐る後方に目をやれば、木々の隙間から蠢く何かが見えた。それを認識すると同時に感じる、プンと鼻につく腐臭。紛れもない、駅のそばで見た、花喰いだ。
けれど永夜が言うように、先ほどの個体よりも一回りは小さく、醜くはあるがその造形も駅前で見たものとは異なっている。先ほどの花喰いは腐った蛇のようだと思ったが、今後方にいるのは腐ったサルに近い。どうやら花喰いは個々でその姿かたちは大きく違うものらしい。どちらも腐った生物の成れの果て、といった風体で醜悪なことに変わりはないが。
ペタペタペタ。
近づく足音に、怖気が走る。
早く、逃げなくては。駅前で聞いた花たちの悲鳴が、断末魔が耳の奥で繰り返される。
美沙緒の手を引く永夜の掌も、緊張からかじんわりと汗ばんでいるように感じた。
ろくに整備のされていない、人ひとりがかろうじて通れるというくらいの道とも言えない獣道はことあるごとに美沙緒たちの行く手を遮るが、それ以上に歩みの遅い花喰いの歩みを阻んでくれていた。ノロノロと、歩みの遅い花喰い。その姿が茂みの向こう側に消えた頃―――、美沙緒は誰かに名前を呼ばれた気がした。
え、と思わず立ち止まる。
「お姉ちゃん?」
振り向いたのは、先程の花喰いが姿を消した茂みの方。
グズグズしていればまた鼻先に腐臭が漂ってきそうで、早くこの場を離れなければと思うのに…なんだか気になってしまって足が動かない。
(…気のせい?)
きっとそうだろう。
こんなところで、美沙緒の名前を呼ぶ人なんていない。
もしいるとすれば…それはきっと、知希だ。
その考えに行き当たり、ザっと全身の血の気が引く。まさか、ここまで来る中で、途中、彼の花があったのだろうか。美沙緒たちが逃げてきた、あのサルの姿をした花喰いが向かってきている道中で、彼の彼岸花が咲いていたのだろうか。
「お姉ちゃん!」
強く、永夜が手を引く。
花喰いが追いかけてきている以上、戻るなんて危険極まりない。けれど、そうするともし知希の花があった場合、みすみす見捨てることになってしまう。どうしていいのかわからず立ちすくむ美沙緒の目の前で、その時光がふわりと舞った。
(…蛍?)
ふわふわと漂う光を思わず目で追う。
次の瞬間、ぐぃ、と子供のものとは明らかに違う力で腕を引かれた。
「さっさと来なさい、莫迦!」
鋭い叱責に驚きながら振り返れば、見知らぬ女性が美沙緒の手を引いていた。
痛いほどに掴まれた腕は、ぐずぐずと戸惑う美沙緒などお構いないしに引っ張り上げ、森の中を駆けてゆく。それまで頭の中を占めていたはずの知希への不安がすっかりどこかに行くほどには唐突な出来事に、美沙緒はわけも分からず大人しく腕を引かれるままに走っていた。
「サーヤ!」
どこかほっとした調子の永夜の呼びかけに、ああ、と気付く。
美沙緒の手を引く、同年代か、美沙緒よりも少し年上であろう女性。さらりとした長い髪に、小柄ながらも、すらりとした長い手足。白いワンピースが、駆ける風を受けてはためいていた。
(この人が探していた、“サーヤ”…)
半ば、人がいることに半信半疑だったので本当に存在したことに驚いた。
彼女は美沙緒の足取りなどお構いなしにぐいぐいと引いていくから、何度も足が縺れて転びそうになる。そうしてそのたびに、サーヤは美沙緒を振り返り、十分に美人といえる整った顔立ちを盛大に歪めて舌打ちをした。…美人だが非常にガラが悪いことこの上ない。
「ちょっと待って…!」
日頃のデスクワークが祟り、体力も筋力も最底辺の美沙緒にこの山道を全速力はキツい。いい加減限界だと音を上げかけたところで、ようやく彼女が足を止めた。
その視線の先に、今にも崩れそうな、廃神社。
ひゅっ、と思わず息を呑む。
蔦に覆われた石造りの鳥居すら傾き、あちこち廃れた社殿は木々に飲まれそうだった。
色々言いたい事を、声に出すのも憚られるほど、底なしに不穏な空気を振りまくその姿。
鬱蒼と茂る木々のおかげで、日中でもこの辺り一帯は薄暗いのだろう。日が落ちかけている時分なら、尚更だ。日が射さず、木々が育たず、そうして少しだけ開けた場所に、御神木らしい楠木に半分ほど飲み込まれた、あちこち崩れてボロボロの境内が佇んでいた。
おどろおどろしい雰囲気もあいまり、今にも中から何か出てきそうで非常に雰囲気がある。怖い。そうしてこんな場所でもぽつりぽつりと周囲に咲く彼岸花の姿が、より一層廃神社の廃退感と荒廃感を際立たせている。
状況に吞まれ慄く美沙緒の心中などつゆとも知らず、女性は美沙緒の手をあっさり放すと、さっさとその廃神社の中へと入っていった。
巨大な闇にばくりと一飲みされそうな錯覚さえ覚える、周囲が放つ異様なプレッシャー。
追いかけることも出来ずに立ち尽くしていると、ふわふわと、再び目の前に光が舞う。
未だ息の整わない美沙緒の目の前で、蛍にも似た儚い光が一つ、二つと日が落ち薄暗くなり始めた森の中に漂っていた。
「え…?」
驚きに目を見張る間に、小さな光はぽつぽつと数を増す。気が付けば、辺りには小さな淡い光が溢れていた。ふわふわと不規則に空中を飛ぶその姿は、蛍のそれ。
「蛍…?」
季節外れの光景に、思わず見惚れる。
そんな美沙緒の手をようやく追いついてきたらしい永夜がそっと取り、そうしてあたりを見渡した。
「ヒダネムシだよ」
「ヒダネ…?」
聞き覚えのない名に、首を傾げる。
よくよく見れば、そのふわふわとした夜に舞う雪のような光は辺りに咲く彼岸花に多く集まっていた。
「綺麗ね」
先程までの臆病風もどこへやら、幻想的な光景に呟くと、永夜は不思議そうに首を傾げる。
「お姉ちゃんは、よく“綺麗”って言うね」
そうだったろうか。
けれど、見慣れぬこの世界の色んなものが、心を震わせ、忘れかけていた感情を引き出しているのは確かだった。
「僕には当たり前だからよくわからないけど…でも、お姉ちゃんが言うなら、きっと“綺麗”なんだね」
知希は、美沙緒が感じる事には同じように返してくれた。同じように感じ、同じように喜んで、嬉しくなって。
それはとても満たされて、安心感に包まれるものだったけど。
永夜は同じようには感じない。
感じないけれど、否定せずに美沙緒の感情ごと受け入れてくれる。
人とのこうした気持ちの繋げ方も、とても温かくて嬉しいものだったと、美沙緒は久しぶりに思い出し…そうしてやっぱり嬉しくなった。
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「呑気ね」
呆れたような声音に、呆れた視線。神社の出入り口で腕を組み、気だるげに扉に背中を預けた女。美沙緒を先導して同じく森の中を全速力で走ってきたはずの白いワンピース姿の彼女は、息一つ乱さずに、ただジトリとした視線をこちらに向けて立っていた。
「永夜、お迎えは来たの?」
女の言葉に、永夜はちらと美沙緒を見上げた。
「まだ」
「そう、残念ね。それで、そこの呑気な阿保はなんなの?」
(…ん?)
なんだかものすごく侮辱された気もするが、聞き間違いかも知れない。助けてもらった恩もあるのでとりあえずスルーしたけれど、露骨に顔を顰めてこちらを見やる女に友好的な雰囲気は欠片もない。美沙緒とさほど年は変わらないように見えるが、整った顔立ちにややつり上がり気味の涼しげな目元の組み合わせは随分と迫力がある。美人なのは間違いないが、近寄りがたいタイプの美人だ。
「…お姉ちゃんが、帰れなくて困ってるみたいだったから」
「勝手に来たのだから、勝手に帰るでしょう。放っておきなさい」
一刀両断に切り捨てられ、思わず頬が引きつる。呆れる理由で勝手に来たのは間違いないが、放っておかれても勝手に帰れない自信がある。
「あの、サーヤさん…」
「紗綾」
おずおずと声をかけると、すかさず訂正が入る。
そのピシリとした響きに、思わずひいっと背筋が伸びる思いだ。
「突然押しかけてごめんなさい。私、間違えてこの駅で降りてしまって…この場所について、教えて貰いたくて」
必死で友好的に友好的にと念じながら微笑みかけた美沙緒の言葉を、紗綾は大して同情もしない様子でふうん、と呟く。
「どこでも良かったんでしょう?」
「え?」
「どこでも良かった。どうでも良かった。…死んでも良かった。だから、ここに来ちゃったのよ」
馬鹿よね、と平然と人を虚仮にしてくる女に絶句する。どうしてこの世には、こうも自分の考えを相手への配慮なしにポンポン言える人種がいるんだろう。美沙緒は人の顔色ばかり伺い、言葉の一つにも常に間違ってはいないか、不快にはしていないかと気を張って疲れてしまう達なので、いっそ尊敬すらする。…が、それは相手の言葉の棘が自分に向いていない場合である。
「それはどういう…」
抑えきれない不快に唇を尖らせた美沙緒の前で、女は屈んでその場に生える花を採る。赤い、彼岸花。
「ここに来れるのは死にかけた人間か、自分の希望を迎えに来た者だけよ。そのまま死ぬなら崖に向かう黄泉行きの列車に乗りなさい。生きたければ、来た方へ戻る事ね」
そうしてそのまま、口元に花を持っていってぐしゃり、と咀嚼する。
「え」
ひゅっと息を飲む。
手折られる度に、花が悲鳴を上げた気がした。呻くような、恐怖におののくような、悲痛な声。
唐突に、電車から降りてきた無数の人を思い出す。いつの間にか、花に変わった人々。花喰いに襲われ、悲鳴を上げる花々。断末魔のような花の声など気にも留めず、女は傾いた境内の軒先に腰掛け、花を食み、それから美沙緒に向かってにっこり笑う。女の美しさが、その行動とこの場所に全く合っていなくて、異様さばかりが引き立てられる。目の前にいるのは花喰いのような化け物ではない。けれど、同種の異様さに、ぞわりと肌が粟立った。
「電車は貴女次第。帰りたければ来るし、そうでなければ来ない。まぁ、たまに貴女みたいなのが乗ってくるかもしれないけど」
「…ここは、一体どこなの?」
「知らないわ。駅の案内板の通りだとしたら、現世と黄泉の境界かしら?生きた人間も、死んだ人間もほとんど来ない。現世で捨てられた、感情ばかりがやってくる場所」
「感情?」
捨てられた。永夜も言っていた事だ。
「そう。希望や夢やーーー貴女にも覚えはない?もう持てなくて捨ててしまった、裏切ってしまった自分自身」
その言葉に、呼吸を止める。
「帰るのは自由よ。そうしてその時は、自分の捨てたものもちゃんと拾って持って行ってちょうだい」
そう言うと、花のような赤い唇をニッと歪めて、女は笑った。
「夜は花喰いに気を付けて」
どこか面白がるように、女が囁いた。




