43.紗綾と永夜
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…女の、声が聞こえる。
いつもイライラとしていて、鼻に着く、紗綾の嫌いな女の声だ。
「いい?ご飯はテーブルの上に置いておくから、おなかがすいたら自分で食べなさい。
何度も言ってるけど、静かに、いい子にしてるのよ。絶対に家から出ないで、泣くのも駄目よ」
そう言って女の指さす先には、食パンが一斤置いてあった。
「…お母さん。次はいつ帰ってくるの」
子供の声がする。
こちらもまた、紗綾を不快にさせる男の子の声だった。
「明日の夜には帰ってくるわよ。お母さんは仕事で忙しいの、いい子に出来るわね?」
そう言って本当に帰ってきたためしはないことを、紗綾も子供も理解している。
そのうち女を若い男が迎えに来て、そうして暗い室内に子供が一人、残される。
「…ああ、ホントめんどくさい。子供なんて、産まなきゃよかった」
姿が見え無くなれば、どうして自分の声が相手に届かないと思うのだろう。
声は、薄い扉など簡単にすり抜けてしまうのに。
ガチャリと鍵のかけられた室内は、子供にとっては檻の中と同じだった。
玄関の前で膝を抱え、次はいつ開くのかわからない扉をただじっと見つめ続ける。古いアパートだったから、隣近所の声がよく聞こえた。同じように小さい子供がいるのだろう。
子供の笑う声、母親の言い聞かせる声、父親の宥める声。
一般的な家庭のごくごくありふれた何の変哲もない日常が、それを持たない子供の耳に嫌でも届く。
「…僕が、いい子にしていたら。お母さんも、いつか僕を見てくれるよね」
叶うことのない希望。
他人の在り方だけは、決して人には変えられない。
けれどそんなことなど知らない子供は、ひそかに抱いたその希望をずっと信じ続けた。
ーーーああ、嫌いだ。
紗綾は思う。
そんな希望など、自分は何一つ叶えてあげる事なんて出来ないのに。
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薄れる意識の中で、声が聞こえた。
肥大化した花喰いに飲み込まれ、その腹の中で少しずつ、自分が消えていくのを紗綾は感じた。
マシロが花喰いを事実上”生き物”としては殺して、張りぼてのような肉体となっているので消化して取り込まれることは免れているが、どのみち長くはもたないだろう。
(…まぁ、潮時だったものね)
彼岸花を食べても食べても渇きが癒えない。
体を保てない。これ以上は、遅かれ早かれ”紗綾”としてはもたなかった。
紗綾は叶わない希望を持ち続ける子供から離れて、ここに来た。
後は、ここで花喰いに食べられるなり、消えればよかった。
それなのに、子供がーーー永夜が、追いかけてきてしまった。
永夜を残して消えるわけにはいかなかった。
美沙緒が来たのはちょうど良かった。
お人よしそうな彼女のことだ。
なにがなんでも、永夜も一緒に連れて帰ってくれるだろう。
そう、思っていたのに。
声が、聞こえる。自分を呼ぶ声。
はぁ、と知らずため息が漏れた。
「…何度も言うけど、私は保護者ではないのよ」
まだ、終われないらしい。
頭上から、キラキラとした黄色い彼岸花が落ちてくる。秋人の、花。
希望に満ち溢れた、強い生命エネルギーに満ちた花。
紗綾はそれに手を伸ばす。
もう少しだけ紗綾でいたい。もう少しだけあの子供の希望でありたい。
そうして紗綾は、手にした花をひと思いに飲み込んだ。




