40.永夜
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待っていた。
ずっとずっと、待っていた。
待ち続けていれば、いつか、一緒に帰ってくれるかもしれないから。
美沙緒と秋人が乗った電車を見送り、永夜は踵を返した。
サーヤが一緒に帰ってくれない世界など、永夜にとって戻っても仕方のない世界だった。
ーーー永夜。
自分の名前を呼ぶ声がする。
母から発せられるそれはいつだって、苛立ちを含む冷たいものだった。
どうすれば、笑ってくれるのだろう。
どうすれば、愛してもらえるのだろう。
物心ついた頃から、そんなことばかりを考えていた。
「うるさくしないで」
「騒がないで」
「泣かないで」
少しでもぐずれば、忌々し気に飛ぶ叱責。
そのひとつひとつを、永夜は必死に守ってきたつもりだった。
けれど、永夜がどれだけ大人しくしていても、言う事を聞いても、母親は一向に永夜に向かって笑いかけてはくれない。
「あっちへ行って」
「そばに寄らないで」
「触らないで」
それどころか、また新たな禁止事項が増えていく。
永夜がそれらを守れば守るほど、母親との距離は遠く離れていく。顔を合わせることすら日ごとに機会が少なくなり、ついには数日帰ってこないことも珍しくなくなってしまった。
側にいたい。一緒にいたい。一人にしないで欲しい。
どうすれば母が笑ってくれるのか、そうして永夜と一緒にいてもいいと思ってくれるのか、どんなに考えても分からない。
狭くて暗い部屋の隅に座って、毎日ただ母親の帰りを待ち続ける日々。
うるさくしないように。騒がないように。泣かないように。必死に声を殺して、体を縮めて、恐怖と孤独をやり過ごす。母親の言うことを守っていれば、大人しくしていれば、お利口にしていれば。
そうすればいつかきっと、自分のことを愛してくれるはずだから。
目を閉じれば、優しい母を想像できた。
ーーー永夜。
そう、優しく名前を呼んで、抱きしめてくれる。
良い子にしていれば、言う事をちゃんと聞いていれば。
いつか、変わってくれる。
そう希望を持つことは、辛い現実を生きるために必要なことだった。
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「あんたさえいなければ、私はこんな目にあってなかったのに…!」
そう叩きつけるように怒りをぶつけていった母親が出て行って、もう、何日になるかわからない。
机の上に置かれていた一袋の食パンは、少しずつ食べていたはずなのに、とっくになくなってしまっていた。冷蔵庫にも、テーブルの上にも、何も食べるものがない。
お腹が空いた。ひもじい。力が入らない。
それよりも何よりも、目を閉じてもいつものように優しい母が現れてくれない。
いくら想像しようとしてみても、ぼんやりとした残像だけで、纏まった形になってくれない。それが何より寂しくて、辛くて、悲しかった。暗い部屋に、自分は本当に独りぼっちなのだと、思い知らされた。
「お母さん…」
冷たい床の上に力なく横たわったまま、静かに呟いたのが最後の記憶だった。
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気が付いたら外にいた。
目の前に広がる原っぱ。足元には線路が伸びている。
「ここ、どこ…?」
もう、長いこと外には出ていなかったのに。そう思えば、急に焦りが出てくる。
―――早く帰らないと。お母さんに、怒られる。
外に出てはいけないと、言われていたのに。約束を破ってしまった。怒られてーーー、そうして、本当に嫌われてしまう。
(嫌わないで、嫌わないで、嫌わないでーーー…!)
永夜にとって母親に嫌われるという事は、そこで世界が終わる事にも等しい。
嫌われてしまったら、もう、どうすることも出来ない。泣きそうになりながら帰り道を探し、草原に出る。自身が電車に乗ってきたなど微塵も思っていなかったから、とにかく道を探したかったのだ。目の前に、見慣れた後姿が映る。その途端、胸に安堵が広がった。
「―――!お母さん!」
叫ぶと、白いワンピースを着た女性が振り返った。
その顔は、永夜の母親と、やっぱりよく似ていた。けれど。
それよりも、永夜が何度も頭の中に描いた、永夜に笑ってくれる母親によく似ていた。
胸が期待に弾む。
---彼女は、永夜を拒絶しない。
そう、確信さえあった。なのに。
「―――帰りなさい」
冷たい声で言い放つ。
駆け寄りかけた永夜は、つと足を止めた。
伸ばした手が、行き場を失う。
「…お母さん」
言うと、彼女は不快そうに眉根を寄せた。
「私は紗綾よ。あなたの保護者じゃない」
(―――サーヤ)
心の内で、繰り返す。
何度も何度も、永夜が求めた存在なのに、彼女は違うという。
「迷子なら、駅で電車を待っていればそのうち来るから、現世行きの電車に乗りなさい」
また、あの冷たい床の、狭くて暗い部屋に一人で戻る。
想像すれば、涙が滲んだ。
「…一緒に帰ろう」
「馬鹿言わないで」
否定されても、わかるのだ。
彼女はやっぱり、永夜の望んだ存在だった。
突き放されても、イヤな顔をされても、それでも完全に拒絶はされない。
永夜がずっと縋り続けてきた希望だった。
紗綾は永夜と一緒にあの部屋には帰ってはくれない。
永夜も一人ではあの部屋には戻れない。
だから永夜は待ち続ける。
紗綾が自分と一緒に帰ってくれるまで、この駅で、紗綾のことを待ち続けていた。
だって、紗綾が側にいてくれなくては、あの冷たい世界を一人で生きていくのは困難だった。
「サーヤ…」
巨大な化物が駅の前で次々と他の花喰いを襲っている。
その化物に囚われてしまったサーヤを助けるにはどうしたらいいのだろう。
強い風が吹き、火の手の上がる山から、火の粉が雨のように降ってくる。
あっという間に枯れた草原にも火が燃え移り、次々と花が燃えていく。
どんどん悪化する状況の中、遠くから汽笛が聞こえた。一体何度目の電車だろう。
美沙緒達を乗せた電車が去っていった山手の方から、新たな電車がやって来た。
先程秋人を連れ去ろうとした電車とは違い、今度の電車にはぎっしりと人がーーー花が、乗っていた。
目の前で電車が止まり、乗客たちがいつものように降りてくる。けれど、花が燃えて無くなった草原で、花喰いたちの反応はいつもと違った。
電車から降りてくる人々をめがけ、襲いだす。電車から降りたばかりの人々がそれに怯え、慌てて電車へと舞い戻ってきて、構内はあっという間にパニック状態になった。
電車へと逃げ惑う人に押され、永夜も電車の中へと押しやられ、尻もちをつく。
慌てて外に出ようとしたその目の前で、電車のドアが閉じられた。
「出して!」
閉まったドアを叩くも、ゆっくりと電車が動き出す。
このままでは、崖の先のマシロがやって来た先へと運ばれてしまう。流れゆく景色に焦りは募るが、目の前に迫ってきた対岸へと続く橋になす術もない。
けれど橋へと出る手前で、電車が大きくブレーキをかけた。大きな振動が襲い、車体が傾く。
見れば、花喰いが電車の外に群がり、押し倒そうとしていた。
激しいブレーキ音と、悲鳴、悲鳴、悲鳴―――…。
あっと思った時には、衝撃と共に電車が線路から外れ横倒しに押し倒されていた。
窓を割り、花喰いが電車内へと入り込んでくる。呆然とする永夜の目の前で、倒れこんだ人々に花喰いが食らいつき、耳をつんざくような断末魔の悲鳴が上がった。
パッと散った血。赤い。---紗綾と同じ、赤。
その瞬間、化け物に襲われた紗綾の姿が蘇る。
気が付けば、永夜は悲鳴を上げていた。




