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40.永夜

**********


待っていた。

ずっとずっと、待っていた。

待ち続けていれば、いつか、一緒に帰ってくれるかもしれないから。


美沙緒と秋人が乗った電車を見送り、永夜は踵を返した。

サーヤが一緒に帰ってくれない世界など、永夜にとって戻っても仕方のない世界だった。


ーーー永夜。

自分の名前を呼ぶ声がする。

母から発せられるそれはいつだって、苛立ちを含む冷たいものだった。


どうすれば、笑ってくれるのだろう。

どうすれば、愛してもらえるのだろう。

物心ついた頃から、そんなことばかりを考えていた。


「うるさくしないで」

「騒がないで」

「泣かないで」


少しでもぐずれば、忌々し気に飛ぶ叱責。

そのひとつひとつを、永夜は必死に守ってきたつもりだった。

けれど、永夜がどれだけ大人しくしていても、言う事を聞いても、母親は一向に永夜に向かって笑いかけてはくれない。


「あっちへ行って」

「そばに寄らないで」

「触らないで」


それどころか、また新たな禁止事項が増えていく。

永夜がそれらを守れば守るほど、母親との距離は遠く離れていく。顔を合わせることすら日ごとに機会が少なくなり、ついには数日帰ってこないことも珍しくなくなってしまった。

側にいたい。一緒にいたい。一人にしないで欲しい。

どうすれば母が笑ってくれるのか、そうして永夜と一緒にいてもいいと思ってくれるのか、どんなに考えても分からない。

狭くて暗い部屋の隅に座って、毎日ただ母親の帰りを待ち続ける日々。

うるさくしないように。騒がないように。泣かないように。必死に声を殺して、体を縮めて、恐怖と孤独をやり過ごす。母親の言うことを守っていれば、大人しくしていれば、お利口にしていれば。

そうすればいつかきっと、自分のことを愛してくれるはずだから。


目を閉じれば、優しい母を想像できた。


ーーー永夜。

そう、優しく名前を呼んで、抱きしめてくれる。

良い子にしていれば、言う事をちゃんと聞いていれば。

いつか、変わってくれる。

そう希望を持つことは、辛い現実を生きるために必要なことだった。


**********

「あんたさえいなければ、私はこんな目にあってなかったのに…!」


そう叩きつけるように怒りをぶつけていった母親が出て行って、もう、何日になるかわからない。

机の上に置かれていた一袋の食パンは、少しずつ食べていたはずなのに、とっくになくなってしまっていた。冷蔵庫にも、テーブルの上にも、何も食べるものがない。

お腹が空いた。ひもじい。力が入らない。

それよりも何よりも、目を閉じてもいつものように優しい母が現れてくれない。

いくら想像しようとしてみても、ぼんやりとした残像だけで、纏まった形になってくれない。それが何より寂しくて、辛くて、悲しかった。暗い部屋に、自分は本当に独りぼっちなのだと、思い知らされた。


「お母さん…」

冷たい床の上に力なく横たわったまま、静かに呟いたのが最後の記憶だった。


**********

気が付いたら外にいた。

目の前に広がる原っぱ。足元には線路が伸びている。


「ここ、どこ…?」


もう、長いこと外には出ていなかったのに。そう思えば、急に焦りが出てくる。

―――早く帰らないと。お母さんに、怒られる。

外に出てはいけないと、言われていたのに。約束を破ってしまった。怒られてーーー、そうして、本当に嫌われてしまう。


(嫌わないで、嫌わないで、嫌わないでーーー…!)


永夜にとって母親に嫌われるという事は、そこで世界が終わる事にも等しい。

嫌われてしまったら、もう、どうすることも出来ない。泣きそうになりながら帰り道を探し、草原に出る。自身が電車に乗ってきたなど微塵も思っていなかったから、とにかく道を探したかったのだ。目の前に、見慣れた後姿が映る。その途端、胸に安堵が広がった。


「―――!お母さん!」


叫ぶと、白いワンピースを着た女性が振り返った。

その顔は、永夜の母親と、やっぱりよく似ていた。けれど。

それよりも、永夜が何度も頭の中に描いた、永夜に笑ってくれる母親によく似ていた。

胸が期待に弾む。

---彼女は、永夜を拒絶しない。

そう、確信さえあった。なのに。


「―――帰りなさい」


冷たい声で言い放つ。

駆け寄りかけた永夜は、つと足を止めた。

伸ばした手が、行き場を失う。


「…お母さん」


言うと、彼女は不快そうに眉根を寄せた。


「私は紗綾よ。あなたの保護者じゃない」


(―――サーヤ)


心の内で、繰り返す。

何度も何度も、永夜が求めた存在なのに、彼女は違うという。


「迷子なら、駅で電車を待っていればそのうち来るから、現世行きの電車に乗りなさい」


また、あの冷たい床の、狭くて暗い部屋に一人で戻る。

想像すれば、涙が滲んだ。


「…一緒に帰ろう」

「馬鹿言わないで」


否定されても、わかるのだ。

彼女はやっぱり、永夜の望んだ存在だった。

突き放されても、イヤな顔をされても、それでも完全に拒絶はされない。

永夜がずっと縋り続けてきた希望だった。


紗綾は永夜と一緒にあの部屋には帰ってはくれない。

永夜も一人ではあの部屋には戻れない。

だから永夜は待ち続ける。

紗綾が自分と一緒に帰ってくれるまで、この駅で、紗綾のことを待ち続けていた。

だって、紗綾が側にいてくれなくては、あの冷たい世界を一人で生きていくのは困難だった。


「サーヤ…」


巨大な化物が駅の前で次々と他の花喰いを襲っている。

その化物に囚われてしまったサーヤを助けるにはどうしたらいいのだろう。

強い風が吹き、火の手の上がる山から、火の粉が雨のように降ってくる。

あっという間に枯れた草原にも火が燃え移り、次々と花が燃えていく。

どんどん悪化する状況の中、遠くから汽笛が聞こえた。一体何度目の電車だろう。

美沙緒達を乗せた電車が去っていった山手の方から、新たな電車がやって来た。

先程秋人を連れ去ろうとした電車とは違い、今度の電車にはぎっしりと人がーーー花が、乗っていた。

目の前で電車が止まり、乗客たちがいつものように降りてくる。けれど、花が燃えて無くなった草原で、花喰いたちの反応はいつもと違った。

電車から降りてくる人々をめがけ、襲いだす。電車から降りたばかりの人々がそれに怯え、慌てて電車へと舞い戻ってきて、構内はあっという間にパニック状態になった。

電車へと逃げ惑う人に押され、永夜も電車の中へと押しやられ、尻もちをつく。

慌てて外に出ようとしたその目の前で、電車のドアが閉じられた。


「出して!」


閉まったドアを叩くも、ゆっくりと電車が動き出す。

このままでは、崖の先のマシロがやって来た先へと運ばれてしまう。流れゆく景色に焦りは募るが、目の前に迫ってきた対岸へと続く橋になす術もない。

けれど橋へと出る手前で、電車が大きくブレーキをかけた。大きな振動が襲い、車体が傾く。

見れば、花喰いが電車の外に群がり、押し倒そうとしていた。

激しいブレーキ音と、悲鳴、悲鳴、悲鳴―――…。


あっと思った時には、衝撃と共に電車が線路から外れ横倒しに押し倒されていた。

窓を割り、花喰いが電車内へと入り込んでくる。呆然とする永夜の目の前で、倒れこんだ人々に花喰いが食らいつき、耳をつんざくような断末魔の悲鳴が上がった。

パッと散った血。赤い。---紗綾と同じ、赤。

その瞬間、化け物に襲われた紗綾の姿が蘇る。


気が付けば、永夜は悲鳴を上げていた。

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