39.約束
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―――もう僕は、君にとって必要ない?
一番聞きたかった言葉が出てこなかった。
「いらない」と言われてしまえば、もう、本当に自分の存在意義がなくなってしまう。
一番必要な答えを、一番聞きたくないと思ってしまう。
今の美沙緒が、自分を必要としてくれていると、そう信じることが出来なくなっているからだ。
自分の体が崩れ始めていることはわかっていた。ずっと彼女の側にいたから、長いこと花を食べていない。体と共に理性もボロボロとこぼれ落ちているように、もう、うまく考えることが出来なくなっていた。
いらないと、言われてしまうなら。
必要ないと、言われてしまったら。
自分がここにいる意味を、見失ってしまう。
そう思えば、恐怖が全てを支配する。
「…約束を、したんだ」
もはや自分が誰の首を絞めているのかもわからぬまま、その約束ばかりが頭に残って離れない。
ーーー知希、知希!私、知希が描きたいの。
ーーー私の中だけにある特別な友達を、絵なら他の人にもうまく伝えられるでしょ?
良いアイデアだと思わない?
きらきらと輝く未来を見据えた瞳で、誰かが、大切な人がそう言ったのだ。
それが自分は、とても嬉しかった。
いつの間にか涙が流れ、自分が手にしている何かを濡らす。
それは、少しだけ喘いだかと思えば、やがて力が抜けていくように動かなくなった。
その細い首を絞めていた腕がボロボロと崩れだす。
手の中にあったものは、その場に静かに崩れ落ちた。
崩壊の始まった体にますます理性が遠のき、ただ花を食べなければと、それだけを思った。
(花を、花を、花をーーー…!)
食べなければ、消えてしまう。消えてしまえば、待てなくなる。
―――誰を?自分はだれを待って、どうしてここにいる?
ただ、消えたくないと思った。何か大事な約束があったはずなのだ。消えてしまっては、その約束が守れなくなる。
巨大だった身体から、欠片となり落ちていく肉体と記憶。
どんどん小さくなり、無くなっていく。
辺りが、白い煙に包まれている。
闇に沈んだ地を這う炎。踊るように、舐めるように、形を変えて草花を飲み込んでいた。
目の前で、希望が、花が燃えていた。
「…美沙緒…」
それでも、消えるわけにはいかなかった。
また、側にいてあげなければならない。
―――彼女が、僕を描きたいと言ったから。だから。
待っている。消えられない。
たとえ今はいらないと言われても。
また、自分を描きたいと思ってくれた時のために、自分は彼女の側にいないといけない。
ーーー…そうしなければ、彼女のあの時の願いは永遠に叶わなくなるから。
燃えゆく花に手を伸ばす。
熱さや痛みは感じないが、炎に炙られ、また身体がボロボロと崩れて無くなる。
その時、目の前に花が映った。
まだ燃えていない、しなやかに揺れる一輪の黒い彼岸花。
手を伸ばす。
花は、知希の手を避けるように揺れたが、それでもその手を伸ばし続けた。
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「…約束」
酸素不足で意識の朦朧とした頭で、ポツリと呟く。
地面の上に横たわったまま、美沙緒は先程の知希の言葉を思い出していた。
約束。知希との、約束。
「うん…。約束、したわ」
美沙緒の話を、とても嬉しそうに聞いてくれるから。
知希を描きたい。知希の存在を、他の人に知ってほしい。それが、美沙緒の願いだった。
美沙緒だけの特別な人。
その存在を、誰かと共有したくて、知ってほしくて広げたかった。
ーーーああ、そうか。
自分の気持ちに、ようやく気付く。
時間がないせい。気力がないせい。疲れてるから。
色々な言い訳をして、遠ざけていた、その本当の理由は。
ーーー覚悟も、無かったのね…。
マイノリティーである自分を表現して、世間一般の、“普通の人”から否定されるのが怖かっただけ。
誰にも理解も共感もされない事を、恐れていただけ。
いつの頃からか。知希の存在を、それを良しとする美沙緒を否定されるのが恐ろしくなった。
いつしか、絵を描く事と共に美沙緒自身が知希の存在を否定していった。
ただ描きたいと、単純だったはずの希望は。
こんなにもいろんな思いが絡まりあい、複雑になり…いつの間にか美紗緒を追い詰める怪物となってしまっていた。
けれど、恐怖を剥ぎ取れば結局そこにいるのは知希なのだ。
自分の頬に落ちてきた知希の涙。
自分の涙と混ざったそれを、ぐい、と力強く拭う。
美沙緒も知希を殺した。知希も、美沙緒を殺した。
そうしてようやく、覚悟も決まった。
そうとなれば。
「…さぁ、やり直しましょう。知希」
また一から作り上げていけばいい。




