38.知希と美沙緒
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正直、甘く見ていた。
乗っている分にはそこまでスピードを感じていなかったから、たとえ怪我をしてもそんなに大怪我にはならないだろうと。
けれど、空中に身を投げた途端に全身にかかった弾き飛ばされるような勢いに、完全にその考えが甘かったことを悟った。ひやりと背筋が冷える感覚。
(え、これ死ぬかも)
後悔しても後の祭り。
地面が目前に迫り、目を閉じ身体をぎゅっと丸める。
けれど地面に激突する瞬間、何かが、美沙緒を受け止めた。
「―――ッ!」
どさり、と激しい音と共に全身を襲う衝撃。
「…っうぅッ…」
今度こそ本当に死んだと思った。
身体のあちこちが擦り傷や打ち身でズキズキと痛む。
けれど、やっぱり無謀だったと後悔した落下の衝撃は、しばらく身体を丸めて耐えていたら、次第に引いていった。死んではいないらしい。もう、あんな無謀は二度としないと誓いながら、ようやく興奮の覚めてきたと同時に、周囲の状況が見えてくる。
そうして気付く。
臭いがする。ツンと鼻につく臭い。何かが腐ったような、不快な臭い。
このところよく感じた---花喰いの、臭い。
恐る恐る身体を起こし、自分が下敷きにしているものに、目を見張る。
ぐったりと横たわる一匹の花喰いが、そこにいた。
慌ててその場から立ち上がる。ずきりと足首が痛んだが、大した痛みではない。
手も、足も無事。あんなに勢いよく投げ出されたのに、どこにも、とりあえず大きな怪我はない。この花喰いが、受け止めてくれたからだ。
「…知希?」
のろりと、花喰いが身を起こす。
そうしてジリジリと、美沙緒から距離をとる。
ジッと闇に身を潜め、美沙緒を見つめたまま、何も言わない。
でも、わかる。これは知希だ。
「助けてくれたの?」
「…」
「…ずっと、心配してついて来てくれてたでしょ」
そこここで感じる知希の存在。
でも、絶対に美沙緒の前には現れてくれなかった。
顔も見たくないのだと、嫌っているのだと思っていたけれど。
「花喰いからも、助けてくれた」
厚くかかる雲の切れ間から、月が顔を出す。
花喰いが一歩、二歩と踏み出す度に、その醜悪な姿が月光の下に晒される。
美沙緒を庇ったせいだろうか、あちこちが傷だらけで、ひどく苦しそうだった。
「…美沙緒」
彼が、名を呼ぶ。それは、聞き慣れた親しみのこもるものではなかった。
「…どうして僕を捨てたの」
責めているのに、知希の方が悲しんでいる。
いらないと、切り捨てた。切り捨てられた。長い年月をかけて知希と確かに築いてきた思い出も、信頼も、希望だったものも。知希と共に描いたすべてを、まるで価値のないゴミのように、美沙緒は一方的に切り捨て、ゴミ袋に入れてしまった。
絵が好きだった。絵で表現することが楽しかった。知希と共にそれを創り上げていくことが、美沙緒の子供の頃からの望みだった。
でも、描きたくても時間がなくて、気力がなくて、焦りや自己嫌悪ばかりが増していく日々。あの日々に、感じていたのは恐怖だった。
「…知希から逃げたかった。怖かった。
知希の中の私が、何でも出来ると信じてた頃の私からどんどん離れて…情けなくて、みっともなくて、何も出来ない私になっていくのが、怖かった。
…知希に失望されることが怖くて、たまらなかった」
だから捨てた。
失望されて、捨てられてしまう前に。
自分が捨ててしまえば、この恐怖から逃げられるような気がして。
隠してしまえば、塞いでしまえば、元から、知希の期待も自分の期待も無かったことにしてしまえば。
そうすれば、傷付くことは無いと思って。
そうして残ったのは、もう、どうしようもないほどだめな自分だった。
「ごめん、知希」
美沙緒が生み出した、美沙緒だけの友達。
知希と向き合うことは、結局は自分自身と向き合う事。それが怖くて、出来なくて、ずっと避け続けていた。
描けない、余裕がないと言いながら、美沙緒は努力をしない自分や、実力の足りない自分、立ち塞がる現実の壁からから、逃げたかった。楽になりたかったのだ。
自分を守るために蓋をして、これでもう大丈夫だと、そう思ったのだ。
「私は、知希とーーー…、自分と向き合うことが、怖かった」
そうして逃げた美沙緒自身の弱さや身勝手さが、知希をこんな姿にした。
どんなに苦しくても、辛くても、逃げずに向き合えば良かった。逃げなければ良かった。少しずつでも、向き合って来れば良かった。
もう、無くした時間も失った信用も、するべきだった努力も取り戻せない。
たとえ少しずつでも向き合ってこれたなら、きっと知希と共に創った何かが生まれていたはずなのに。
「―――…もう…、」
知希が、何かを言いかけるようにして口を噤む。
「知希…?」
月が再び雲に隠れ、知希の姿が闇と同化していく。
そんな中、ボロボロと彼の体が崩れ始めているのが気になった。
知希の息が上がり、時々ひどく苦しそうに息をする。
―――“花喰いは、花がなければその姿を保てない”
紗綾の言葉が脳裏をよぎる。ここには、駅前のように彼岸花は咲いてはいない。
「…もう、いらない…」
ポツリと彼が言ったかと思うと、闇の中から花喰いの手が伸びてくる。
そうして花喰いのーーー知希の長い手が、美沙緒の首を絞めつけた。
「と、もき…っ」
「―――もう、僕を必要としない美沙緒なんていらない」
喉を圧迫する指に、力がこもる。
美沙緒が捨ててしまった。美沙緒が壊してしまった。
保身のためだった。自分を守るためだった。
そうして心のどこかで、それでも知希なら許してくれると、未だに身勝手な傲慢が、そこにはあった。
―――ああ、なんてバカなんだろう。
苦しくて、涙が溢れる。
大切な人に、信じていた相手に切り捨てられることは、こんなに苦しくて辛い。
そのことに自分は、今、ようやく気付いたのだ。
「もういらない。死んで、美沙緒」
息が出来ない。視界がぼやける。
自分の希望に殺されるなんて、なんて滑稽なんだろう。
けれど。
(それで知希の気が済むのなら…)
きっと、仕方がないのだ。
自分が壊したものは、自分で受け止めなくてはならない。




