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2.知希

言葉も出せずに放心している美沙緒の後ろで、全ての人を吐き出した電車がその扉を閉めて再び動き出していく。追いかけ、電車に乗らなくては。車掌にこの事態を伝えなくては。そう思うのに、震えて、身体が動かなかった。


(なんなの、あれは…)


あんな生き物、見たことがない。

最初はその首の長さから巨大な蛇のようだと思ったけれど、雑草の合間合間から見えるその巨体には哺乳類のような異常に長い、手があった。その長い手で近くの人を容赦なく掴み上げ、鋭利な牙の並ぶ口へと次々と放り込んでいる。雑草に隠れた下半身はよく見えないけれど、歩くというより引き摺っているように重たげで、化け物の過ぎた後には無惨に倒れ、枯れた雑草の道ができていた。

ずぶずぶと爛れた様に見える体表は、まるで腐っているかのように醜い。

そう思えば、ツンと鼻に腐臭まで漂ってくるようだった。気色が悪い。この一言に尽きる形様だ。

人を襲い、無残に喰い散らかしている化け物。

あんな化け物が側にいるというのに、その周囲にいる人達はまるで無関心に辺りを彷徨い、そうして襲われている。


「あれは…なに?」

「花喰い」

「花…?」

「うん。花を食べて綺麗にしていくけどーーー食べられたくなかったら、近付かない方が良い」

「花ってーーー…」


人が襲われているじゃないか。

そんな反論をしようとした美沙緒は、しかし再び視線を戻した駅の外の光景に口を噤む。あれだけいたはずの人々の姿が、いつの間にか一つも無かった。

まるで幻でも見ていたように、端からそこには誰もいなかったように、音も無く忽然と人々はその姿を消してーーー代わりに、こんなに咲いていただろうか、と目を見張る程に、草原では彼岸花がその数を増し、静かに風に揺れていた。


(彼岸花…?)

そうしてあの化け物は、その彼岸花を喰い散らかしていた。


「あの花は、人の希望なんだよ」


自分は夢でも見ているのだろうか。

ついて行けない状況に戸惑っていると、側にいた子供がぽつりと言った。


「みんな、捨てられちゃったんだよ。もういらないって、持ち主に捨てられてここに来た」


(捨てられた、希望…?)

「でも、迎えがくるかもしれないから。だから、ここで待ってる」


何もかもが奇妙だ。この、子供でさえも。


「お姉ちゃんも、誰かに捨てられちゃった?」


子供の問いに答えられずに、美沙緒はただ立ち尽くした。


---もう、イラナイ。

---もう、私にあなたは、必要ない。


そう、彼に言ったのは誰だったか。

美沙緒だったかもしれない。

彼の方だったのかもしれない。

子供の捨てられた、という言葉に美沙緒はこの場所に彼の存在を感じた。


**********

彼ーーー知希は美沙緒のイマジナリーフレンドだった。

夢は恋に似ていると思う。常にその存在が頭の片隅にあり、時に高揚し、時に手の届かないもどかしさに辛くなる。いっそ忘れてしまえたら楽なのに、無かった事にしてしまえたら苦しくないのに、どうしても自分の意思じゃままならない。

美沙緒の夢は漫画を描いて、それを多くの人に見て貰うことだった。

幼い頃からどこか生きにくさを抱え、人間関係を上手く築けなかった美沙緒の唯一得意な事が絵を描く事だった。上手く伝えられない思い、感情、気持ち。そう言ったものを、絵で表現して、人に伝える。

言葉に出来ない分、自分の作り出すもので多くの人に伝えたかった。

そうなる事をずっとずっと、恋い焦がれて。そうしていつの間にか生まれていたのが知希だった。

知希はずっと美沙緒の側に在った。いろんな場所に行き、同じものを見て、世界を知って、感情を動かして。

ずっと美沙緒を支えてくれて、絵を描く美沙緒を応援し続けてくれた。知希は、美沙緒の夢そのものだった。


けれど社会人になり、就職した会社は日々長時間労働が当たり前の超ブラック企業で。

学生の頃には勉学の合間にでもなんとかとれていた絵を描く時間も、気力も全く作れなくなった。日々の仕事をこなし、家に帰り、最低限の家事をして眠り、また仕事に行く。生きる事だけで精一杯の日々。

何か他の事をする余裕も、したいと思う思考さえ押しつぶされていく毎日。


そんな毎日の中でも、常に知希は美沙緒を見ていた。

何も言わない。けれど、絵を描かない美沙緒をただじっと見ている。

描かなくちゃ。何かしなくちゃ。作らなくちゃ。そう思うのに、身体が、心がついて行かない。

空いた時間は眠る事に使ってしまう。

そうして、なにも出来ない自分に後悔する日々。そうするうちに、いつも側にあった、支えだったはずの知希の存在が、いつの間にかただただ疎ましくなってしまった。

わかってる。やらなきゃいけない。でも、出来ない。

幾つものアイデアや絵をまとめたノートが机の上に並んでいる。

けれど、仕事を始めてから使い出した真新しいノートには、まだ何も描かれる事無く机の上に開かれたまま。

知希は常に側にある。消えて無くなってくれたりしない。

だって、それだけ美沙緒が好きだったから。本気だったから。叶えたいと願っていた、希望だったから。けれど、そんな夢さえ見れなくなった生活の中で、ただ変わらない知希の存在は辛かった。何も言わない。でも、ずっと側にある。

苦しかった。藻掻いて、足掻いて…そうしてとうとう、抱き続けることが出来なくなった。

知希の物言わぬ目に、声に、美沙緒の方がいつしか耐えられなくなっていた。


ある仕事終わりに、美沙緒は知希を殺した。

机の上にあったノートを、スケッチブックを、夢に関する何もかもをバラバラにして、破って、最初からそんなもの無かったかのように。ゴミ袋に詰めて、捨ててしまった。


そうして彼は、いなくなった。


…やっぱり捨てたのは、美沙緒の方だったのだろうか。


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