1.迷子の美沙緒と見知らぬ駅
いつも一緒だった。ずっと側にいると思っていた。
なのに気が付けば、私は一人ぼっち。
最後に捨てた物がなんだったのか、もはや記憶にない。
市指定のゴミ袋の口を縛り、美沙緒はその全てに封をした。
「…よいしょ、と」
一体いくつのゴミ袋の塊が美沙緒の部屋から出て行ったのかわからない。唐突に要らなくなって、衝動的に捨てたくなって、その衝動のままにこの3日間で処分した。なんだか無性にどうでも良くなったのだ。大事にしていた物、必要だと思っていた物、要らないとわかっていて捨てる勇気が持てなかった物。それら全てがどうでも良くなって、手放したくなって、結果安くて狭いアパートに溢れかえっていた物の数々はたった三日で姿を消した。
そうしてがらんどうになった箱の中で、何かが無性に足りていないと焦ってくるのだ。けれどなにが足りないのかわからない。先程捨てた物達の中に何かあったかと思い返してみるも、一度手放したそれらはもはや記憶に上ることもないほどに綺麗さっぱり姿を消していた。
そうして気付く。
ーーーああ、彼がいない。
正確に言うなら知っていた。いなくなったことに気付いていた。けれどどうせそのうち戻ってくるだろうと放置していた、大事な大事な“彼”。
部屋が広くなって、スペースがあちこちに現れて、残った“個”というものが浮き彫りになって。そうして初めて、彼がいなくなったことへの不安を覚えた。
そうしていてもたってもいられなくなってーーー…。
**********
「それでこんなとこにいるの、お姉ちゃん」
呆れたような声音と双眸。
まだ十にも満たないような子供に向けられるには些か決まりの悪い眼差しに、鹿野美沙緒は僅かに怯んだ。自分でも無計画で短絡的な行動を起こしたという自覚が大いにある。あるからこそ、それがこんな子供にも呆れられるような稚拙な行動だったと思い知らされて、急激な羞恥に穴があったら入りたくなった。
ほとんど衝動的に家を飛び出して、“彼”を探すためにあちこち巡った。
思い出の場所、記憶に残る場所、よく行った場所ーーー…思いつく限りに歩き回って、電車を乗り継いで、そうしてふと気が付けば、お金がなかった。
千円札が一枚と小銭だけの財布。
家に帰るには些か足りないその金額を目の当たりにして、そうしてようやく美沙緒は理性を取り戻したのだ。
足りないとはいえ、行けるとこまで電車に乗り、後は歩けば家にたどり着けないわけではない。
財布に現金が無いとは言っても、銀行のカードはあるのでどこかATMのある場所に駆け込めば、お金が出来ないわけでも無い。
だから、差し迫ってのピンチというわけでもない。
でも、“普段の美沙緒”からすれば、異常事態以外の何者でもないのだ。
型から外れず、周囲に迷惑をかけないように細心の注意を払って自分を押し殺して繕って、そうして保っている社会人としての美沙緒では、絶対に起こすことのない事態。
そんな自分の行動に愕然としたと同時に、どこか安堵した。
理性で押さえつけて見えなくなっていた突拍子もないことをしでかす自分が、昔は当たり前にいたはずの自分が、まだ消えもせずに確かに自分の中に存在しているのだとその瞬間に気付き、知り、理解した。
見失いかけていたものの存在を、彼の存在と共に再確認した。
そうしたら、再びいてもたってもいられなくなり…取り戻したはずの理性を何故か遙か彼方にかなぐり捨てた。
今なら何でも出来る。
自分に正直に行動出来ると、無駄に気持ちが大きくなったのだ。
そうしたらお腹が減ったので、あろうことかなけなしの現金を使ってとりあえずの腹ごしらえまでしてしまった。古民家カフェの本日のオススメは、自家栽培の野菜たっぷりスープとこだわりソースの手ごねハンバーグプレート千八百五十円。スリルと高揚感をもってしての食事の味は、もはや美味しかったかどうかさえ記憶にない。
ぶっちゃけ、もうこれで後戻りは出来ないという一種の緊張感に酔っていたのだろう。
思い返せば思い返すほどに自分の馬鹿さ加減を呪いたくなる…が、自分は逃げたかったのだ。現実から、日常から、人生から。それら重しのように美沙緒に乗っかり押しつぶそうとする全てから。
美沙緒の人生に全く接点の無い場所なら、ようやく、例え一時的にでも肩の荷を下ろせる。そんな気がして。
しかし、そうして辿り着いた駅の周囲の何も無さに、わりと本気で愕然とした。
例えお金が尽きても、近くのコンビニでおろせば良いと高をくくってここまで来たのだ。それがどうだ。
いざ駅を出てみると、周囲には何もなかった。誇張でも見落としでもなく、本当になにもないのだ。正面には延々と続きそうな草っ原に、所々赤い彼岸花と駅の周辺にはこれまた赤いケイトウが咲いている。
駅から離れれば離れるほど、原っぱはススキにエノコログサにセイタカアワダチソウ等々、秋を代表する雑草の集大成で秋色に彩られ、背の高いそれら雑草で視界が遮られているものの、どこをどう見てもどこにも道らしいものは見当たらなかった。
美沙緒がやってきた右手には山、進行方向だった左手には崖があるようで、1km程先で地面は途切れ、橋が架かっているようだった。そうして背後には広大な海原。
道すら見当たらず、あるのは道といっていいのかどうかも怪しい獣道だ。
そんな状態だから、見渡せる限り、コンビニどころか人がいそうな人工物がない。駅から出ればタクシーの一台でも停まっているものだと思っていたが、そもそもの道がないので車はおろか、人っ子一人見当たらない。
いくら適当に乗り継いできた路線といえど、こんなど田舎にまで来たはずはないというのにどうしたことだろう。これが噂の秘境駅というものなのだろうか。
唖然としたままそんなことを考え、一人青くなっていた美沙緒の前に現れたのが、先の少年だった。
「ねぇ」
「ぎゃあ!?」
途方に暮れて立ち尽くしていた美沙緒の背後に、いつの間か立っていた。人の気配など全くなかったというのに、唐突に現れた子供の存在。
思い切り情けない悲鳴をあげて、ドクドクと嫌なテンポで暴れる鼓動を押さえつける。
お化けでも目の当たりにしたような心地で振り向けば、そこにいたのは小学生くらいの男の子だった。十歳くらいだろうか。驚きのあまり警戒心丸出しの美沙緒とは違い、丸い円らな瞳でこちらを見上げ、そうして言った。
「迎えに来たの?」
「…は?」
よくわからない問いかけに、思い切り怪訝な声を上げてしまった。
「ここに外から人が来るの、珍しいから。誰か迎えに来たの?」
成る程、それほどまでに外部からの来訪が珍しい場所なのか。自分は一体どんな過疎地に足を踏み入れたのだろうと更なる不安を覚える。
美沙緒は子供の目線に合わせてかがみ込んだ。
そうしてようやく見つけた、例え子供であろうと自分以外の唯一の人間を逃すまいと、これれこういうわけで…と説明…もとい、会話を続けるうちに子供に呆れの視線を向けられる羽目になったのだった。
**********
「キミはこの辺り住んでるの?」
「ううん、違うよ」
「え、じゃあこんなところでなにしてるの?」
「待ってる」
両親のどちらかが、電車に乗って帰ってくるのだろうか。
美沙緒も小さい頃は、留守番の折にはよく両親を近くまで迎えに行ったものだ。そう思ってなんの違和感も無しに聞いていたのだが、続く子供の言葉がどうにも穏やかで無かった。
「捨てられちゃったから、待ってる。迎えに来るのを、ずっと待ってる」
おおう。訳ありらしい。
美沙緒が返答に困っていると、駅に一両編成の電車がゆっくりと入ってきた。
「電車…!」
これでようやく帰るすべが見つかると、顔を上げた美沙緒は、しかしその電車の様子に動きを止めた。
美沙緒が乗ってきたのは、こんな電車だっただろうか。
そう違和感を感じるほどに、やけに古びた車体。
年代を感じる電車の形も、その表面を彩る装飾も、あちこち剥げかけのくすんだ錆色の塗装も、よく言えばレトロ。端的に言えば古臭い。手入れされて乗り継がれているものではなく、今にも廃車寸前のオンボロ電車だ。
そんな年代違いな電車に、みっちりと人が乗っている。
そんな人々の様子に、思わずたじろぐ。
子供から大人まで、様々な年代の人々が、皆一様に生気の無い同じ顔をして乗っているのだ。
そうして駅で停車した電車から、そのすべての人が吐き出されていく。
先程、この子供は外から人はめったに来ないと言わなかったか。
こんな、人気の無い駅に。こんな、表情の無い人々が。誰もなにも、一言も発さずに降りてくる。
ぞわりと全身が粟だった。
「あ、あの…」
意を決して降りてきた人に声をかけるも、誰もがまるで聞こえないかのようにするりと通り過ぎてゆく。
聞こえない。美沙緒など、見えていない。
まるで自分が透明人間にでもなったような気味の悪さに、言いようのない不安を覚えて身が竦む。
ぞろぞろと降りてきた人達は、立ちすくむ美沙緒の前を通り過ぎ、駅の外へと吐き出されていった。なにもない鬱蒼と雑草の茂るだけの原っぱへ、道の無い藪へ、方々、好き勝手に散っていく。
奇妙だ。すごく、何かが、おかしい。
その時、ごう、と風が唸った。
原っぱの方へと消えた人々から、悲鳴が上がる。
驚いて目を見張る美沙緒の前で、雑草の合間から、何かが蠢くのが見えた。長く、巨大な黒い影。それが明らかに、草原に入っていった人を襲っている。
身を震わせた美沙緒の手を、ぎゅっと留められるように誰かに引かれた。
「行っちゃダメだよ。花喰いに、食べられる」
子供が言うのと同時に、視線の先ではひゅるりと長い影が、その鎌首を持ち上げた。
大きく裂けた口をぱかりと開けると、そこに並ぶ鋭利な牙が美沙緒の場所からでも確認出来た。
その頭が、辺りを彷徨う人に向かい、噛み千切る。耳を塞ぎたくなるような断末魔と共に、鮮血が周囲に散った。




