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場所

作者: 水戸けい

 見知った町が、知らない場所になっている。空は暗くて……ううん、深い藍色で、テレビで観た海の底にいるみたい。なんて恐ろしい色なんだろう。光が当たるか当たらないかギリギリの境界があそこで、私がいるのは光の粉がほんのちょっぴりこぼれてくるくらい。


 家は深夜の森みたいに静かにたたずんでいて、生き物のいる気配は少しもない。だけど、赤い色がチラチラと揺れている。


 あれは、炎――?


 燃えているのだろうか。わからない。熱くはない。それどころじゃない。


 逃げなくちゃ。


 何から?


 わからない。


 あれが何なのか、わからない。


 黒くて長い手が伸びて、人を掴んで大きな鎌の中に入れていく。鎌に入った人間は、一瞬で骨になってしまう。骨になったことに気がつかないで、骨のまま助けを求めている。


 絵本で見た、地獄の釜だ。釜茹でをされる悪人――あの人たちは、悪人なの? そして私も、そうなのかな。


 必死に逃げているのだから、きっとそうなんだろう。知らないうちに悪いことをしていたんだ。


 家と家の隙間に潜り込んで、息を殺す。聞こえないはずの骸骨になった人の悲鳴が、頭蓋に直接響いてくる。


 うわんうわん、ぐわんぐわん。


 耳鳴りと鼓動が混ざったような、ぼわんとした音。大きなトンネルの中で異様に響く足音みたいな、不気味で薄暗くて何かが潜んでいそうな音。


 息が上ずる。肺がヒクヒクと痙攣している。息を吸うたびに肋骨が痛くて、太腿は感覚がなくなりそうになっていた。かけっこの途中で足が浮いたようになる、あの現象によく似ている。


 なんなんだろう。


 自分を抱きしめても、ちっとも落ち着けない。


 私以外の人は、どこにいったの。誰の声も聞こえない。誰の姿も見えない。――ううん、違う。見えているけど、見えていない。だって真っ黒い腕が伸びて、誰かを釜に放り込んでいるのだから。


 どうして見えないのだろう。


 わからない。


 それよりも、なんとかしなくちゃ。


 なんとかって?


 逃げなくちゃ。


 どこへ?


 わからない。


 わからないけど、とにかく捕まらないように逃げなくちゃ。


 誰も助けてくれない。


 誰もが自分に必死だから。


 助けを求めることなんてできやしない。


 助けを求められる相手なんて、ひとりもいないから。


 私、どうして――なんで、ひとりぼっちなんだろう。


 黒い腕の迫る気配がして、地面を思い切り蹴って、だけど追いつかれて、私の体は宙に浮いて、目の前が泡立つ朱色でいっぱいになって、強い力で引きはがされて、気がついたら骨になって助けを求めている私が見えて――。




 ゆっくりとまぶたを開けると、黒混じりの淡い水色に染まった天井が見えた。


 また、いつもの夢か。


 ため息をついて体を起こした。白い壁紙に移った色が時刻を教えてくれる。朝の六時頃だろうか。七時にはなっていないはずと思いつつベッドから出て、念のために時計を確認した。


 午前六時二十三分。


 やっぱり、あたり。


 あたったからって何があるわけじゃないけれど安心する。私の感覚は、普通なんだって。まだ壊れていないんだって。


 寝間着のままキッチンヘ行って、トースターに食パンを入れる。電気ケトルに水を注いでスイッチを押したら洗面台へ。


 学生用マンションだから、ほんの数歩ですべてが終わる。顔を洗って化粧水をつけていたら、トースターが高い声で私を呼んだ。電気ケトルがカチッと鳴って、役目は果たしたと告げてくる。


 いつもの行動。いつもの風景。だけどカレンダーの日付は違っている。ビジネスカジュアルな服に着替えて、もそもそと朝食を取って化粧をした。部屋を出て、駅に到着して無気力な人たちの中に紛れる。


 紛れると思っているのは私だけで、他の人たちも「自分が紛れた」と考えている。私が景色だと思っている人は、私を景色の一部としか認識していないだろうから。


 それが普通。それがいい。人間という種類の景色。だけどそれが「他人」になった瞬間、いろいろなことが起こってしまう。


 私は、それがとてつもなく怖くて、気持ちが悪い。


「おはよ! 昨日さぁ」


 弾けた明るい声に、眼球が反応する。視界の端に女子高生の姿。ドラマの話を声高に話す彼女たちを、うらやましいとは思わない。学生は気楽だなんて考えを持ってはいないし、女は若くなければならないなんて価値観もないから。そういうものは、当事者だったことのない他人が勝手に作ったものだ。世間に広く、深く浸透してしまっているけれど、私には染みていない。


 だからといってその価値観をバカにするつもりはないし、否定をする気もない。――どうでもいい。ただ、それだけ。


 私には関係のないことだから。


 無気力に包まれた大人たちと溌溂とした学生が、駅に滑り込んできた鉄の箱に吸い込まれる。自主的に積み込まれて、目的の場所まで運ばれる。


 ベルトコンベヤーで運ばれる荷物に感情があったなら、私のように静かに凪いで停滞している心地になるのだろうか。それとも、到着場所に対する期待でわくわくしている?


 荷物に感情があったらなんて、考えるのもバカバカしい。だけど勝手に浮かんでしまうのだから、無視もできない。私の相手は、私がするしかないのだから。


 私をあやせるのも、かまってあげられるのも、私だけ。孤独なわけじゃない。友人はいる。だけど、絶対に、どんなことがあっても私から離れないのは私しかいないと気がついてからは、仕方がないなと好き嫌いは別として受け入れる努力をしている。


 本当にめんどうくさくて、つまらなくて、魅力の欠片もない〝私〟という人間からは逃れられない。走っても、怒鳴っても、けなしても、ぴったりと寄り添って離れてくれない。一ミリも、離れられない。


 電車が静かに決められた位置に停止して、ドアが開いた。降りる人の流れに乗って、外へ出る。人波に動じることなく川の中にたたずむ岩みたいに、じっとしている人をよけたら舌打ちが聞こえた。心臓がギュッと痛んで、見たくもないのに視線が動いた。発生源はスーツの中年サラリーマンだ。イライラした顔つきで足早に遠ざかり、ホーム内の人たちに紛れて見えなくなった。岩みたいに降りる人の流れの中に立っていた人は、乗り込む人の流れに逆らって、ドアの傍に移動していた。次の駅で降りるんだろう。


 降りますと声を上げても通してもらえず、ドアにたどり着く前に電車が発車してしまうことがたまにある。だから、流れに逆らっていた人の考えはわからなくもない。指定された時間までに目的地に到着するためには、必要な行為なのだ。だけど舌打ちという悪意を投げかけられる。


 遅刻をする気まずさと、舌打ちをされる息苦しさと、どちらがマシだろう。


 人が多くいる場所は、さりげない悪意に満ちている。そしてそれは無関心の上に成り立っている。無関心? 少し、違うかもしれない。他人事……そう、他人事だ。


 改札を抜けて、散っていく人たち。ホースの先から飛び出している水みたい。扇形に広がって、目的の場所へ流れていく。その時間、その場所にいなさいと指定された位置へ辿りつくために。


 学生は、あてがわれている学校内の教室へ。社会人は、いてもいいよと許可を受けた職場の中へ。人はみんな、いてもいいと誰かから許可をもらった場所へ行く。その時間に、その場所にいなければならないと定められた〝居場所〟に落ち着く。


 パンプスのかかとを鳴らして、与えられた場所へ行く。勤務先の営業所内にある、私のデスク。そこが私の〝居るべき場所〟だ。定められた時間までに到着して、決められた時間――あるいは、与えられた業務が終わるまで、過ごさなければならない所。


 大人になっても、子どものころと変わらない。許可をされ、あるいは指示をされ、定められた場所にいるのは誰もがおなじだ。自分の意志で選んだとしても許可がいる。


 人は、ひとりでは生きられない。


 なんて大仰な言葉。だけど、誰にでも当てはまる便利な言葉。だから他人との境界を意識しながら、与えられた場所に行くのだ。


「おはようございます」


 笑顔を作って、にこやかに挨拶をして営業所に入った。明るすぎず暗すぎず、当たり障りのない表情。条件反射で浮かべられるようになった無機質な笑みを貼りつけて、先に来ていた先輩事務員と共に掃除をする。終わるころに営業の男性や上司が出勤してきて、業務が始まる。


 指定された形式に沿って、書類をパソコンに打ち込んでいく作業が私の仕事。特に頭を使うことはない。指示されたとおりにやるだけだ。まれにイレギュラーなことがあるけれど、質問をすればいい。私が考えてする必要はない。だって、派遣社員だから。中には意欲的に進んで行動をする人もいるけれど、私はしない。だって、めんどうくさいから。そこまでする義理はない。派遣社員は「明日から来なくていい」と言われたら、それでおしまい。会社に対する執着なんて、あるわけがない。派遣先が変わるだけ。


 机に新しい書類が積まれた。営業成果の書類は個人情報がぎっしりだ。形式通りに書き込まれた書類を、指定ソフトの該当欄に入力していく。正式な社員ではない人間に重要な情報を任せるなんて、よほど他人を信頼しているのか、ただの機械だと認識しているのか。


 カタカタカタカタ。


 無表情でひたすらキーボードを打っていく。デジタル化社会と言われているけど、契約書は紙のままで直筆と印鑑が必要だ。なんてアナログ。だけど管理をするために、パソコンに入力してデータにする。はじめから電子契約書を使用すれば人件費も手間も削減できるのに。そうしないのは年配者の契約が多い新聞の定期購読営業だから……というわけでもないらしい。


 宅配やクレジット払いなんかは、デジタルサインが浸透してきているのに、まだまだ頭の固い人が多いのか、新しいものに挑戦をする気が希薄なのか。


 電子契約書が登場したら仕事がなくなってしまうから困るのだけど、便利なものが登場しているのに使わないのは少し不思議だ。


 困る――?


 心の中で首をかしげる。


 派遣先が変わって、仕事を新しく覚えなければならないのは面倒だけど、仕事がなくなって困るというほどでもないかな。きっと別の派遣先を、登録会社が紹介してくれるだろうから。


 カタカタカタカタ。


 どうでもいいことが頭の中に浮かんでは消えていく。ぽかんと生まれて、ぱちんとはじけて。シャボン玉よりもずっと割れやすい、何の役にも立たないものたち。


「小腹が空いたな」


 明るい声が所内に響いて、顔を上げると大学を出たばかりの営業部の青年がいた。オフィスにはコーヒーとスナック菓子が常備されている。まれに旅行のお土産や他のエリアの営業所の方からの差し入れがある場合もある。


「じゃ、ちょっと休憩しよっか」


 ベテラン事務員のひと言で、コーヒーブレイクがはさまれるのは、いつものことだ。なかなかゆるやかで、過ごしやすい職場だと思う。余裕があると言えばいいのか。ガツガツしてキリキリしている雰囲気は苦手だし、ずっとパソコンに向かっておなじ姿勢で打ち込み続けているから、軽い息抜きができるのはありがたい。


 席を立ってコーヒーを淹れに行く。


 さっさとしないとベテラン事務員さんにコーヒーを淹れられてしまう。手をわずらわせるのが申し訳ないということではなくて、気が利かないと言われたくないからだ。かといって、率先して休憩の準備をすると「派遣のくせに」と非難されかねない。如才なく明るく対応できる人ならいいけれど、そうじゃないから細心の注意を払いつつ行動をしなければ。


 コーヒーを淹れるのは私だけれど、砂糖やミルクを添えて配るのはベテラン事務員さんの役目。彼女は全員の好みを把握しているし、私は配るときにいちいち愛想笑いをしたり余計な会話をしたりするのはめんどうで軽いストレスだから助かる。自分のコーヒーカップを持って席に戻り、おしゃべりに興じる人たちの会話に適当な相槌を打ちつつ聞き流す。


 完全に無視をして平気でいられるほど強くもないし、うわべを作れないほど弱くもない。


 適当なところで仕事に戻る。あとは昼休憩までひたすら入力作業をこなしていく。


 ほどほどのところで切り上げないと、派遣なのにサボッているなんて陰口を叩かれかねない。おしゃべりを続けながら仕事をする正社員に話を振られても困らないよう、少しだけ意識を残して入力を続けた。


 朝から営業に出ていた人たちが戻ってきて、机の上に書類が置かれる。画面を入力から検索に切り替えて、契約期間の残りが三か月以内の人を表示させて、一覧を印刷した。これを見て、午後からどう回っていくのかを営業の人たちは考える。


 顧客も仕事をしている人がほとんどだから、日中は家にいないことが多い。奥さんが家にいても、契約は夫がすると決まっている家庭もあるらしい。


 オンラインで購読や停止を簡単に申し込める時代。新聞はどうしてこんなにアナログなんだろう。オンラインで契約もできるけれど、対面での契約のほうがずっと多いらしい。すべてがオンラインになってしまったら、無料で読めるニュースサイトもあるからと、新聞の契約をタップやクリックのみで簡単に切られてやっていけなくなると考えているからなのか。


 まあ、どうでもいいか。


 カタカタカタカタ。


 カタカタ。


「そろそろお昼にしましょうか」


 ベテラン事務員さんのひと言で、作業を中断して席を立つ。誰にともなく会釈をして「いただいてきます」と声をかけた。昼休憩までずっと営業所で気を張っている必要はない。歩いて十分ほどのチェーンのハンバーガーショップが、私のいつもの昼食場所だ。


 牛丼屋やランチをやっているカフェよりも、ひとりの時間を気兼ねなくゆったり過ごせるところがいい。注文列に並んで、ランチタイムのお得なセットに視線を投げる。食べたいものがあるわけじゃない。なんとなく今日はこれだなというものを見つけるだけだ。


 自分から行動をしているのに、なぜか受動的な感覚になる。与えられるものの中に、選択肢が含まれているだけだと感じているからか。能動的に選んでいるふうに見せかけて、実はそうじゃない。それとも、選択肢が決められている中で選ぶことも、能動的というのだろうか。


 私は、そうは思わないのだけれど。


「次の方、どうぞ」


 呼ばれたレジに近づいて、にこやかな店員から視線を外してカウンターに置かれているメニューに指を伸ばす。


「このセットで、サイドはサラダ。ドレッシングはオニオンで、飲み物はお茶で」


 並んでいる間にメニューを見てはいたけれど、どれでもよすぎて最初に目に入ったものを選んだ。あとはいつも通りにサクサク決める。


「六百四十円です」


 前に誰かが、ここのセットよりも牛丼屋のランチのほうが、腹持ちがいいし得だと言っていた。一理あるかもしれないけれど、どう時間を過ごすのかを考えたら私にとっては、こちらのほうが得……という言い方は変だな。利がある……の方が、いいかもしれない。


 支払いを済ませて、店内奥にある階段へ向かった。二階には外を眺められるカウンター席がある。店内に背中を向けていられる席は、誰にも見られていないと安心して過ごすことができる。空いていればいいのだけれど。


 階段を上がりきって、視線を向けると目当ての席はひとつだけ空いていた。ほっとしてそちらに向かう。ふたり席のソファ側で背もたれに体重を預けてぼんやりする人や、スマホ画面を見つめながらポテトをつまんでいる人たちの間を抜けていると、背後からサッと現れた人に目指す席を取られてしまった。足を止めて、振り向いたその人と目が合う前に体の方向を変える。窓際のカウンターは全滅だ。仕方がないのでぽつんと残っている店内中央のふたり席に落ち着いた。


 右隣には、疲れた顔の若いサラリーマン。左隣には、ニヤニヤしながらスマホ画面をスクロールしている学生風の青年。どちらも私が座ったことなど気にする風もない。


 サラダにドレッシングをかけて混ぜ、フォークを突き刺す。もそもそと食べ終えたら、次はハンバーガー。時々ストローを咥えてのどを潤しながら行う食事は、空腹を抑えるための作業でしかない。味は感じているけれど、感想は特にない。ここの味を好きだという人を否定する気はないけれど、私にとってはいつもの快不快のない味でしかない。いつもと変わらない味。安心できると言い換えられる。まあ、どこの店も基本はそうなのだろうけど、期待も落胆もしない味。空間もいつも通り。


 何も変わらない。代り映えのしない時間。


 ああ、落ち着く。


 食べ終えて、トレーの上に視線を落とす。空になったサラダのカップ。下の方にだけ水滴をつけているドリンクのカップ。折りたたまれたハンバーガーの包み紙。使用済みの紙ナプキンと、従業員募集のチラシ。


 あ……違う。


 昨日までのチラシにはいなかった年配女性の写真が載っていた。店員の制服に身を包んだにこやかな年配女性の横に、働いてよかった理由が漫画のセリフみたいな感じで短く書かれている。その斜め下には、彼女の孫でも通じそうな学生アルバイトの笑顔の写真と、勤務が楽しい理由。


 たしか昨日は、主婦層をメインにしたチラシだったはず。


 隣のトレーにさりげなく視線を向けてみたけれど、くしゃくしゃに丸められた包み紙や紙ナプキンが散らかっていて、チラシの確認はできなかった。前のチラシがなくなったから、このチラシになったのか。それとも今日からこのチラシにしますと決まって、前のチラシは残っていても破棄になったのか。


 どうでもいいこと。だけど、だからこそ意識が向いてしまう。真剣に考えるわけでもなく、ただなんとなく思考をめぐらせられる対象。


 そのくらいの刺激でちょうどいい。そのくらいの刺激がありがたい。


 強く意識をするのは苦手。深く長く考え続けなければならないのは息苦しい。意識の細い糸を張り詰めていなければならないのもつらい。相手の意識の糸と繋がったり絡まったりしないように慎重に、触れすぎず離れすぎずの距離を取るのは難しい。


 今の職場での立ち位置は定まっている。これを崩さないように、気をつけて過ごさなければ。ボロが出ないように、気を張りつめ過ぎて失敗をしないために、昼休憩はひとりで過ごす必要がある。


 いつも笑顔で穏やかに。いるけれど、いない程度の存在感。そのくらいが、ちょうどいい。


 息を細く吐き出して、ぼんやりする。店内のざわめきが耳に入ってくる。この音の中に存在しているのに、別の世界の音を聞いているみたい。時間も空間も重なっているけれど、交わらない私と周囲。右隣のサラリーマンがスマホを操作している。疲れた顔が難しい顔に変わった。画面には何が表示されているのだろう。手の中にある小さな機械。いろいろなことができる不思議な板。世界中と繋がっていて、恐ろしいほど膨大な量の情報を集められるもの。めまいがするほどたくさんのデータを、ぼんやりしていても勝手に集めて知らせてくる。


 息が詰まりそう。


 持ってはいるし便利だけれど、休憩中に触ろうとは思わない。情報の波に押し流されて、人生を手の中の機械に支配されてしまいそうで。


 軽く店内を視線で撫でる。ほとんどの人が手の中の機械に夢中になっている。笑っている人、無表情の人、難しい顔をしている人。


 画面に映っているものはすべて違うのだろうけど、誰もがおなじことをしているみたいでゾッとする。いつか誰もが画面と自分だけの世界に埋没してしまうのじゃないかって。もちろん、画面の先には誰かがいるとわかってはいるのだけれど。


 そよ風に似たささやかな恐怖が流れてきて、気を紛らわせるためにストローに口をつけた。


 氷がたっぷり残った冷たすぎるお茶は、味がずいぶん薄くなっている。ひんやりとした刺激はあるのに、味気ない。まるで私を取り巻く世界みたい。


 いつから、私の世界はこんなふうになってしまったんだろう。昔はもっと、ゆったりとふくよかで、静かだけれど多くのやわらかな何かにあふれていた気がしていたのに。


 ただ、世の中を知らなかっただけなのかな。今よりもずっとちいさな場所にいたから、触れるものが少なかっただけかもしれない。


 戻りたいわけじゃない。だけど、情報が吹き荒れている暴風雨みたいな時間はつらい。


 逃げたいのかな。――少し、違う気がする。嫌いなわけじゃない。ただ、なんとなくしんどいというか、疲れるというか……上手な傘の持ち方がわからなくて、叩きつける雨に打たれて、風になぶられている気分を、どうにか落ち着かせたいだけ。


 だからどこでも、ひっそりとやりすごすために息をひそめて細く神経を張り詰めている。誰かの周囲に渦巻く風に巻き取られたら、逃れられないから。


 どうやったら、他人と自分の時間の流れをうまく合わせられるのか。


 こめかみがズキズキして、顔をしかめて指先で揉んでいると、目の前の椅子が動いた。通ろうとした人の邪魔になったのかと顔を上げると、花モチーフのワッペンがついた黒に近い紺色のジャケットを着た子どもが満面の笑みで椅子に座った。ワッペンの真ん中には〝幼〟の文字。幼稚園の制服だろうか。短く刈られた髪と日に焼けた肌。自分は元気いっぱいの男の子だと、全身で自己紹介をしていた。


 え……何?


 困惑する私を気にするふうもなく、幼児は楽しそうにぷくぷくしたほっぺたを持ち上げて、大きな目を細くした。


「きりんさんのとこに、いくんだっ!」


 唐突過ぎて、理解ができない。硬直した私に、幼児はさらに続ける。


「こぉえん!」


 公園、とうまく言えないらしい舌足らずなこの子は、私に何を伝えたいのか。


「ええと……キリンのいる、公園?」


 ふたつの言葉を続けて返すと、通じたと思ったのか幼児はますます笑みを深めた。


「しゅべりらい! きりんさんなの」


「ああ、キリンの形をした滑り台」


 んふふ、と鼻を鳴らす小さな体から、喜びがあふれ出ている。キリンの滑り台の公園は、この子にとって特別な場所なのだと伝わってきた。これからそこに連れて行ってもらうのが、うれしくて楽しみでたまらないと全身で示している。


「たっくん!」


 困惑と叱る気配を織り交ぜた声に、幼児が反応した。


「ままっ!」


 トレーを手にした女性が眉根を下げた笑顔で近づいてくる。


「あのねっ、こぉえ――」


「すみません! ほら、たっくん。こっち」


 たっくんの声にかぶせて謝罪をした母親らしき人は、彼の手をしっかり握って奥の空いている席を目指して離れていった。引きずられるように歩くたっくんが、にこにこと手を振ってくる。つられて私も手を振った。たっくんの視線が外れると、目の奥がじんわりと熱くなった。


 なんだろう、この気持ち。


 ほっこりと温かいのに、わずかにさみしい。雨上がりの空みたいに、澄んだ輝きに満ちた瞳は警戒なんてみじんもなかった。


 あんなに無防備に人なつこくて大丈夫なんだろうかと心配になる反面、するりとパーソナルスペースに入ってきた闖入者のぬくもりに胸がクスクスと笑っている。


 張り詰めていたはずの神経の糸の隙間。こんなに簡単にくぐり抜けられるなんて、油断をしていたのだろうか。


 なんだか楽しい、な。


 世間と私を隔てる壁が、崩れた気がした。どこか遠い別の世界に感じられていた世の中が、肌身に触れる身近なものに変わった瞬間。


 ずっと昔に置いてきてしまったはずの、大切で愛しくて穏やかな感覚がよみがえってくる。


 なんて、心地いいのだろう。


 時計を見ると、休憩時間はあとわずかになっていた。そろそろ営業所に戻らなくては。


 立ち上がって、トレーを返却場所兼ゴミ箱に持っていく。横目でさりげなくたっくんを見ると、うきうきした顔でハンバーガーにかぶりついていた。口の端にはソースがたっぷりついている。私の視線に気がつく様子はなくって、残念なような、これでいいような気持ちを抱えて階段を下りた。


 無表情で行きかう人々の間を通り抜けて営業所へ向かう。笑顔で連れ立っている人もいるけれど、ほとんどの人は自分ひとりの世界を歩いている。


 自分の世界は自分だけのもの。人の数だけ世界はあって、たまにぶつかり重なって、けれど交わることは――たまにある。


 もう二度と、あの子と会うことはないだろう。もしかしたら偶然、通りすがる時があるかもしれない。だけどその時、たぶんあの子は私を忘れてしまっている。大好きなキリンの滑り台がある公園に行けることが、うれしくてうれしくて誰かに伝えたくなって、周りを見たらスマホを触っている人ばかりだった。スマホを触っている人は忙しいのだと認識していて、たまたま私がスマホを見ていなかったから、声をかけられると考えた――というところじゃないか。


 スマホを触っていなければ、きっと誰でもよかった。


 ただの偶然。


 取るに足らない、つむじ風みたいな出来事。


 あの子はもう、私のことなんて覚えていない。心の中は、キリンの滑り台の公園でいっぱいだから。


 なのにどうして、心はこんなにふくふく温まったままなんだろう。不要な情報。不要なやりとり。通りすがりの人と、ちょっとぶつかった程度と変わりのないことなのに。


「戻りました」


 声をかけて、席に着く。机の上には書類が積まれている。


 午前中の続き。やることは変わらない。ここで働く限り、ずっと続く単純作業。だけどすべてが個人情報で、この紙の先には血の通った人間がいる。何かを求めて、新規契約や継続契約をした人たち。


「今川町の木島さん、来週から検査入院だから退院日まで配達を止めておいて」


 パソコン画面から視線を外すと、営業の渡部さんにメモを渡された。受け取って、書かれた住所を検索し、配達差し止めのチェックボックスをクリックする。メモに書かれた期間は一週間。


「木島さん、どこか悪いの?」


 眉根を寄せて、ベテラン事務員の佐々さんが渡辺さんに声をかけた。


「市の検診でひっかかったらしい」


「もう、いい歳だもんねぇ。いくつだっけ? 八十は過ぎてるでしょ」


 ふたりの会話に、所長の牧村さんが加わった。


「これから、体調を崩すお年寄りが増える季節だからなぁ。ポストに新聞が溜まっているとか、異変がないか気をつけておくよう配達員に指示をしておいてくれ」


 微妙に話がずれている気がする。だけど誰も注意をしない。あるがままに受け止めて、自分の仕事に取りかかる。


 ああ、ここは人と人とのつながりを強く意識している職場なんだ。


 唐突に、契約書が命の欠片に感じられた。


 住所と名前と契約期間。そして契約形態と支払方法が書かれているだけの紙。誰もがおなじ形式に沿って記入するもの。だけどきちんと見れば文字には癖があるし、めんどうくさいのか町名からしか書かれていないものや、逆に県からしっかり書かれているものもある。


 この中には、人がいる。


 指先が細かく震えた。凝り固まっていた頭の壁が取り払われて、広い場所に飛び出した感覚。張り詰めていた神経の細い糸が、やわらかな布に変わった。


 急激な変化にめまいを覚えて深呼吸をする。脳裏には、たっくんの笑顔があった。


「田崎さん、どうかした? 気分でも悪いの」


 佐々さんに声をかけられて、あわてて首を振った。


「え……あ、いえ」


「そう。しんどかったら、無理はしないで言ってね」


「はい。ありがとうございます」


 誰にでも声をかけて、営業所を仕切るベテラン事務員。機嫌を損ねないように細心の注意を払って接しなければならない相手。彼女の名前は佐々さんで、所長よりも年上で、この営業所の最古参。古い顧客の情報をよく知っていて、誰もが友人のようにふるまう人。


 ああ、そうだ。この人は、そういう人なんだ。


「田崎さん?」


「いえ……その、検査入院とか、ポストを気に掛けるとか、初めて聞いたので」


 ごまかせば、佐々さんは「わかるわ」と言いたげに首を縦に動かした。


「生活の変化に気づきやすいのよね、この仕事って。まあ、たまにあることだから。広範囲で軽い近所づきあいをしているようなものよ」


 頷き返して作業に戻る。


 軽い近所づきあいみたいな仕事――単調で無機質なものではなくて、自分の世界だけではない、誰かの世界と重なり合っている業務。


 ざわざわと産毛がむずがゆくなる。鳥肌とまではいかない、奇妙な感覚。未知の何かに遭遇したような、不快じゃないけれど不安に似た不思議なもの。


 契約書に目を向けて、内容をパソコンに打ち込んでいく。


 カタカタカタカタ。


 カタカタ。


 午前中の作業の続き。だけど感覚は全く違う。自分の変化にとまどいながら、今まで通りの顔をして入力していく。


 心の奥には、たっくんがくれた思いがけない小さな陽だまり。忘れて埋もれさせていた何かが、温められている。いずれ芽が出て、花が咲いたりするのだろうか。わからない。わからないけれど、少し楽しみ。


「お昼休み、何かいいことでもあった?」


 佐々さんに指摘をされて、ちょっぴり笑っている自分に気がついた。


「いいことというか……かわいいことが、あったんです」


 余計なことは言わないで「いえ、何も」と、いつもなら受け流すところなのに、今は会話をする気になっている。


 悪くない。


 何がどう――と、自分でもわからないから説明はできないけれど、悪くない。


 だけどひとつだけ、確信めいた予感があった。


 いつもの不気味な夢は、もう見ないかもしれない。


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