作戦7:不屈と反復(1)
灰色の空から、雪が舞い落ちる。
次から次へと落ちては、全てを覆うように積もって行く。
毎年、雪。
この日を再び皇城で迎えるとは……思いもしなかった。
窓に手を触れる。想像したより、遥かに冷たかった。朝の寒さに震えても、比較すればやはり室内は暖かいらしい。
きっと、私には外の方が似合う。いっそ凍てつく風に晒されたなら、自分を慰められた。
「身体を冷やすぞ」
いつの間にか起きていたサミュエルが、ネグリジェ姿の私にガウンを掛ける。そのまま、包み込むように抱きしめた。
温もりに、瞼を伏せる。
背中へ腕を回し、深く彼の香りを吸い込んだ。
満たされるような、枯渇するような、相反する心地に、胸が締め付けられる。
「…………別れてください」
顔は、上げないまま言った。
サミュエルは少し身を離したかと思えば、ひょいと私を抱き上げる。
「何のために?」
外がよく見えるソファへ座らせ、傍らの暖炉に火を入れた。
「お分かりでしょう」
彼が隣に腰を下ろすのと合わせて、立ち上がる。
ベッドサイドへ行き、引き出しから封筒を取り出した。
何通目か分からない、離婚申立書。
一部空欄ではあるけれど、そこは何とでもなる。……サミュエルがその気になれば。
戻ろうと後ろを向いた所で、トンっとベッドへ押し倒された。
「分からんな」
髪を撫で、その手が頰を伝って顎に添えられる。
唇を重ねられた。
「ん…ぅ……」
考える事を止めさせるような、深い口付け。
漏れる吐息が熱くなり、胸を押す手に力が入らなくなった頃、やっと解放された。
荒くなった息を整えながら、手にしていた封筒をサミュエルへ押し付ける。
「っ……誕生日、おめでとうございます」
身を返し、腕から抜けようとしたけれど……阻まれ、後ろから抱きしめられた。
二人の間で、くしゃりと申立書が潰れる。
眉を寄せた。なぜ、逃してくれないのか。
「もし……私の事を気にかけていらっしゃるなら、それはいらぬ心配です」
笑顔を作る。
顔は見えないだろうけれど、声色で本心を見透かされないように。
「役に立たない私でも、受け入れてくれる家はあります」
どうやら、私はサミュエル以外の男性を生理的に受け入れられないようだ。だから、離婚後は適当な家に嫁ぐのではなく、実家に戻って居座ろうと思う。
けれどそれを正直に言って、彼を引き止める必要はない。
「…………」
ほんの少し、抱きしめる手に力が入った。
反応はそれだけで、サミュエルが何も言わない。
「……サミュエル様?」
振り向き、見上げれば、紳士然とした笑みを向けられた。
その瞳に、全身が凍りつく。
「言ってなかったか? 君がいくら別れたいと願っても、それを叶えるつもりは無い」
雪降る空より、凍てつく湖より、遥かに冷たい瞳。
見つめられると身が竦み、一切の抵抗が出来なくなる。
言い返そうと口を開くも、言葉は紡げなかった。
その姿があまりに憐れだったのか、額にキスを落とされる。
瞳の拘束が外れた隙を逃さず、顔を背けた。
「どうして…………何のために、そこまで拒むのですか」
情けなく、声が震えている。青ざめた顔を隠すように、手の甲を口元へ当てがった。
「……神前で誓った通りだ」
無防備になっている首筋に、唇が寄せられる。
「君を愛し、敬い、一生を添い遂げる。その為に」
吐息のくすぐったさに身をよじり、次いで、今まで彼から怒りを感じた後、何をされたのかを思い出した。頰に熱が集まる。
手を間に挟み、サミュエルの顔を離そうとするも、今度は手首に口付けられた。
「っ……誤魔化さないでください!」
思いのほか大きくなった声に、サミュエルの動きも止まる。
胸を強く押して、ベッドから降りた。
逃げるように窓辺へ駆け寄る。暖炉を付けたからか、ガラスが曇り始めていた。
早く、ここから出なければ。
温もりの中、世界が見えなくなる前に。
「もう、やめにしましょう」
窓を撫でると、変わらず降り続ける雪が見えた。
「私達が別れない理由など、無いはずです」
背を向けたまま言えば、サミュエルがベッドから降りる音が聞こえた。
「別れる理由こそ無いだろう」
靴音が暖炉へ向かう。
きっと、申立書を燃やした。
「あります。サミュエル様が子を儲け、お世継ぎを残す為です」
「それを誰が望んでる?」
ゆっくり近づく音と声に、心音が速まる。
「……我が父を始め、国中の者が望んでおります。もちろん、サミュエル様ご自身も」
「ふむ。確かに、俺も世継ぎが欲しくないと言えば、嘘になる」
私の真後ろで立ち止まった。
触れることもなく、ただ声だけ届けられる。
「しかし、君はいくつか見落としをしている」
ピクリと、肩が跳ねた。
見落とし……それが無いか、何度も考えた。彼がここまで離縁を拒む理由を。
けれど、一切浮かばない。どう考えても、私と別れる事こそが一番合理的だ。
「まず、俺には世継ぎを残すより、優先すべき事がある」
「……何でしょう」
拳を握った。
もし、そんなものがあるなら、私のしてきた事は……いったい何だったのか。
サミュエルが小さく、息をついた。
「先に言った通りだ」
………………?
会話を思い返す。それらしいものは無い。
そもそも、そんな発言があれば、聞き流すはずもない。サミュエルが邪魔を続ける理由は、ずっと知りたかった事だ。
思わずどういう事かと振り返れば、相変わらずの紳士らしい微笑みがあった。
「次に、フォレステン侯爵だが」
問いただす前に話が移されてしまった。
まさか……こんな訳の分からない回答だらけじゃないだろうな。
「彼は結局、父上の血が途絶えなければ、それで納得する。君に手を貸してるのは、可愛い娘を心配してのことだ」
手を貸されてると、やはり彼にはバレていたらしい。
けれど、これまたよく分からない話だ。
「可愛い娘を……心配?」
「今の立場がつらく、本心、逃げ出したいのではないかとな」
…… 一応、筋は通っている。けれど、にわかには信じられない。
皇帝陛下の為に心血を注ぎ、子供には皇族に仕える心を説く以外、さして何もしてこなかった……父が?
「そして、国中の者と言っていたが……これも誤りだ。知っての通り、俺には弟もいれば妹もいる。キャロラインの下には男児も産まれた。本当の意味で、帝位継承に問題は無い」
つい、目を眇めた。
言ってる事は、その通り。けれど、他国の王太子へ嫁いだ第一皇女が男児を産めば、話はややこしくなる。
第二皇子は未婚で、子供を授かれるかはまだ分からない。
やはり、帝位継承を安定させるため、皇太子自らが子を成す方が良い。
「納得できないか」
「できません」
にこやかに即答する。
「そう答えるのは、君だけだろうな」
サミュエルが自信に満ちた目を向けた。
不妊による離婚を教会が認めないと分かった今、ほとんどの者は、婚姻継続に納得せざるを得ない。
そんな中で強く離縁を勧められるのは……私だけだ。
髪に触れようとした手から逃げ、隣の窓に移り、再び背を向けた。
「他の誰が認めても、私は認められません」
結婚してから、私は恩恵だけを受けて何も返せていない。サミュエルが私と結婚した唯一の目的は、達成できなかった。
彼には諦めてほしくない。私は……諦められるから。
「そんな顔をするな」
眉をしかめる。
窓は曇っていて、顔など見えていないだろう。いったい、どんな顔をしてると言うのか。
近づく気配を感じ、また隣の窓へ移る。
「もう一つ、大きな見落としがある」
サミュエルの言葉に聞く耳など持つものかと、更に隣へ逃げた。
彼は意に介さず、歩きながら続ける。
「俺は、君ならもっと早く、離縁を申し出るかと思っていた」
ギュウッと、強く、胸が締め付けられた。
このタイミングで……それを言うのか。
「…………申し訳ありません」
遅すぎた。その自覚がある。
離縁すべきと気づくのに、10年もいらない。
「咎めてる訳ではない。ただ……」
手が伸びて来たと逃げるも、もう窓はなかった。
「思い切りの良い君が決断するのに、なぜ、これだけ長くかかった?」
サミュエルが壁に手をつき、私を閉じ込める。
「俺の子を最も望んでいたのは、俺でも、フォレステン侯爵でも、ましてや他の関係ない誰かでもない」
耳元に口を寄せられる。
「エレノア、君の本当の願いは……離縁することでは叶えられない」
あぁ、やっぱり人が悪い。
後ろ向きのまま、見えやしない顔を手で覆った。
「っ…出来ないんです!!離縁しなくても、叶わないんです!!」
髪に触れてきた手を、首を振って払う。
「私の我儘な思いに、振り回されないでください。もう、諦めました……諦めたんですっ」
彼との子を持つことも、彼と共に歩むことも。
叶わない。望んではいけない。
それが臣下として、妻として、あるべき姿だ。
「諦めた……か。そうなのかも知れないな」
肩を引かれ、振り向かされる。視界を手で覆っていた事もあり、倒れそうになった。
サミュエルの腕の中に納められる。
「しかし、頭では諦めると決めていても、心がついて行くかは別の話だ」
大きな手が優しく頭を撫で、胸に顔を埋めさせた。
「安心しろ。こうしていれば、涙は見えない」
「…………涙?」
何を言っているのか。
涙なんて、一粒も流れていない。
「泣きたいだけ、泣くと良い」
「……ご冗談を」
私が……泣く?
甘い蜜を吸い、何も返さない私が……なぜ涙など流せるのか。
泣きたいのはサミュエルの方だろう。外れクジを引いて、損ばかりしている。
私が泣くなんて、許されない。しかも、サミュエルの前でなんて。
腕の中でもがき、離れようとするも、上手くいかない。
決して強い力は込められてない優しい手なのに、抜け出ることは許されない。
温もりに押され、ジワジワと視界が滲んできた。
いやだ。ダメ。こんなの。
目元を手で押さえても、何の意味もなさない。
曇り切った窓のように、目の前が全く見えなくなった後…………ぽとりと、指の隙間から雫が落ちた。
一度落ちたら止まらなくなり、窓の外で揺れる雪のように……次から次へと溢れ出てくる。
手で拭っても拭っても追いつかず、サミュエルの胸元を濡らした。
「もっ……申し訳、ありませ……っ」
謝罪の言葉さえ上手く出て来ない。
酷い。本当に酷い有り様だ。
「謝るな。俺がわざと泣かせた」
喉の奥で、変な音が出た。
睨んでやりたい気持ちになったけれど、このみっともない顔は上げられない。
「時には、感情を逃してやることも必要だ」
ゆっくり頭を撫でる手に促されるまま、ただ涙を流した。




