回想:始まりの日(3)
「それで……後は何だ」
書類を机へ落とし、執務室へ訪ねて来た二人を見やる。
彼等はより顔を青くして俯いた。女の方は手が震えている。
なかなか核心に触れないから促しただけなのだが、必要以上に怖がらせたようだ。
渡された検査結果に目を通したが、特に大きな問題は見当たらなかった。
強いて言うなら、エレノアの結果に思わしくない点がある。しかし、これだけでは報告に来た医師等の表情を説明できない。
まだ何かあるはずだ。
初老の男性医師が、若い女性医師の手から書類を取り、代わりに前へ出た。
「参考として、彼女の研究データも併せて提出いたします」
受け取り、内容を確認する。
研究の概略を記したものと、その根拠データをまとめたもの。
「本来なら、まだ殿下にお見せできる段階ではありません。しかし、今回の検査と極めて関連性が高かったため、報告させていただきました」
確かに必要なデータが足りていない。しかし、大部分の実証は済んでるようだ。
かなり信憑性がある。
これを信用するならば……エレノアは生涯、子を成せないと見て良いだろう。
いま気まぐれにペンを投げ、それがたまたま部屋の隅にある小さな花瓶へ入る…………彼女が子を産む確率は、それくらい低い。
「他の者には、まだ報告してないな」
念のため尋ねれば、肯定される。
この件について、一番に報告を受けるのは今後も俺のはずだ。
「エレノアとフォレステン侯爵にはデータを渡さず、検査に問題点が無かった事だけ伝えろ」
「かしこまりました」
「研究は近々発表予定か?」
「はい。1年後を目処に、準備を進めております」
……急ぐ必要があるな。
医師等を帰し、研究資料を傍らのシモンへ渡す。
彼は忠実な男だから、独断で姉や父親に情報を漏らす事などない。
「この研究について、外部へ漏れないよう手を回せ」
「はい」
「それと……キャロラインとバン侯爵令息との婚約を早める。侯爵邸への訪問予定を1週間以内に入れろ」
「……はい」
エレノアが自身の事について知れば、即刻、離縁を申し出るに違いない。断ろうとも、強引に手続きを進めるだろう。
研究発表後、彼女に情報が行かないよう手を回すことは可能だが……子がいつまでも出来なければ、いずれ誤魔化すのにも限界が来る。
確か教会では、曾祖父の不妊による離婚を認めた事について、反発が大きくなっていた。権力に負け、教義を蔑ろにしたと。
勝手に離婚成立を撤回され、当時から今へ続く帝位継承に疑念が生まれては困る。いずれ介入するつもりだったが……それを早めよう。
フォレステン侯爵にも直接話をつける必要がある。彼へ流れる情報は簡単に止められない。
教会の懐柔にかかる時間を考えれば――
はたと思考が止まる。シモンの様子がおかしい。
指示を受ければ即座に動く彼が、物言いたげな目でこちらを見ていた。
「なんだ」
「……いえ」
悩んでるのか、言葉が続かない。
ペンを置き、手を組む。目で先を促せば、彼は決心した様子で口を開いた。
「キャロライン皇女殿下とバン侯爵令息とのご婚約は、教会との繋がりを深めるものと理解しています」
「違いないな」
「それを今、早めるご決断をされたという事は、離縁を……なさらないおつもりですか」
なぜ、そんな当たり前のことを聞くのかと、一瞬でも思ってしまった。
全く当たり前ではない。
「姉との結婚における最大のメリットは、いつでも切り捨てられる事だったはずです」
抜け落ちを他人に指摘されるなど、もしかすると生まれて初めてかも知れない。
シモンの言う通りだ。
そもそも、子を成す為だけに結婚したのだから、それが叶わなければ婚姻を続ける理由などない。
自己犠牲心の強いフォレステン侯爵家の娘なら、いつでも離婚に応じる。
離縁する方が当たり前だ。
ただし、そうすれば……エレノアはすぐに再婚するだろう。
ゾワリと悪寒が走り、総毛立つような感覚に襲われた。
彼女に他の男が触れると想像しただけで、相手を斬り刻みたくなる。もし現実となれば、事実そうするだろう。
論理性も合理性も無い、倫理的にも問題のある衝動だ。
「っ……申し訳ありません!!出過ぎた事を申し上げました!」
シモンが血の気の引いた顔で謝罪し、頭を下げた。
知らず、感情が表に出ていたらしい。
「……謝る必要は無い」
にわかには信じられず、口元へ手を当てる。
いつも周囲へ与える印象や影響を計算して、表情を作っていた。特に負の感情を伴うものであれば、尚更だ。
それを怠るとは…………怒りで我を忘れた?
「殿下?」
わずかに血色の戻った顔で、シモンが困惑の表情を浮かべる。
当然だろう。先ほどから、俺自身も説明できないような、不可解な言動をしている。
なるほど。
これが、愛だの恋だのというものか。
今さら気づくとは……存外、俺は鈍い男だったようだ。
思い返せば、これは求婚した当初から芽生えていた。おかしな話だ。それと知らぬまま、恋愛結婚したらしい。
「シモン」
「はい」
「俺がエレノアを手放すという選択肢は、未来永劫、無いものと思え」
「……かしこまりました」
状況を正確に捉え、やっと平素と同じ態度を取れた。
シモンもまた同様で、通常通り手際よく書類を整え、一時退室するため扉へ向かう。
中断した仕事に戻ろうとペンを取り、ふと試したくなった。
気まぐれに、それを放り投げる。
明確な意図なく飛ばされたペンは、回転しながら高く上がり、シャンデリアに引っかかって方向を変えた。落ちてきた所でシモンの開けた扉へぶつかり、装飾の角度ゆえか再び跳ね上がる。
部屋の壁に当たった後、流線型のランプシェードに沿って落ち……
―― カランッ
隅にある、小さな花瓶へと吸い込まれた。




